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藤原ふじわらみのるよりゆき

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藤原ふじわら みのるよりゆき
時代じだい 平安へいあん時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん あきらやすし3ねん900ねん
死没しぼつ てんろく元年がんねん5月18にち970ねん6月24にち
改名かいめい ぎゅうよう幼名ようみょう)→じつよりゆき
別名べつめい 小野おのみや殿どの
諡号しごう きよしまきこうかんふう諡号しごう)、尾張おわりこうくにこう
官位かんい したがえいち摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじんおくせいいち
主君しゅくん 醍醐天皇だいごてんのう朱雀すざく天皇てんのう村上むらかみ天皇てんのう冷泉れいせん天皇てんのう円融天皇えんゆうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた小野おのみやりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら忠平ちゅうへい
ははみなもと順子じゅんこ宇多天皇うだてんのう皇女おうじょ
兄弟きょうだい じつよりゆき貴子たかこ寛子ひろこいん藤原ふじわらしょぼうしつ
やしなえ兄弟きょうだい忠君ちゅうくん
つま 藤原ふじわらひらたむすめ藤原ふじわら定方さだかたむすめ能子ただこみなもとむすめ
あつしさとしよりゆきただしひとしさとし慶子けいこみなもと高明こうめいしつじゅつ
養子ようしじつ
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藤原ふじわら みのるよりゆき(ふじわら の さねより)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての公卿くぎょう歌人かじん

概要がいよう[編集へんしゅう]

関白かんぱく藤原ふじわら忠平ちゅうへい長男ちょうなん藤原ふじわらきた嫡流ちゃくりゅうとして、ふじ長者ちょうじゃとなり、村上むらかみ天皇てんのうてんれきささえたが、外戚がいせきとなることができず、嫡流ちゃくりゅうおとうと子孫しそんきゅうじょうりゅう)へとつたえられた。ただし、わかくしてぼっした輔の代理だいりかたちではあるが、関白かんぱくいで摂政せっしょう就任しゅうにんしている。

また、有職故実ゆうそくこじつつうじ、小野おのみやりゅう創始そうしした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

延喜えんぎ15ねん915ねん正月しょうがつ20にち、16さいのときに元服げんぷくし、よく21にち叙爵じょしゃくしたがえ)。この叙位じょいは、宇多うた法皇ほうおう口添くちぞえによって実行じっこうされたと『醍醐天皇だいごてんのう』にある。そのみぎ衛門えもんみぎ近衛このえけん少将しょうしょうみぎ近衛このえけん中将ちゅうじょうひとし歴任れきにんし、延長えんちょう8ねん930ねん)に蔵人くろうどあたまとなる。朱雀すざく天皇てんのう延長えんちょう9ねん931ねん)に参議さんぎにんじた。てんけい2ねん939ねん)に大納言だいなごんにんじられ、てんけい7ねん944ねん)に右大臣うだいじんはいする。じつよりゆき大納言だいなごんであったてんけい年間ねんかんいちじょう宣旨せんじこうむっていることが、『たい』や柳原やぎわら記録きろくちゅうの『すないわおとうによってかる。

村上むらかみ天皇てんのう即位そくいしたてんれき元年がんねん947ねん)に左大臣さだいじん就任しゅうにん同時どうじおとうと輔は右大臣うだいじんにんぜられた。じつよりゆき輔の兄弟きょうだいとも村上むらかみ天皇てんのう輔佐ほさし、てんれきひょうされた。

兄弟きょうだいあいだでは、あにであるじつよりゆきさきんじ、てんれき3ねん949ねん)、ちち忠平ちゅうへい薨去こうきょのあとをけてふじ長者ちょうじゃとなる。しかし、後宮こうきゅうあらそいでは、じつよりゆきじゅつを、輔は安子やすこをそれぞれ村上むらかみ天皇てんのう女御にょうごとしたが、じゅつ皇子おうじことなく死去しきょし、一方いっぽう安子やすこ東宮とうぐうけんひら親王しんのうはじめ、為平親王ためひらしんのうもりひら親王しんのうんでおり、これにより、のちに輔の子孫しそん藤原ふじわら嫡流ちゃくりゅうることになる。てんれき4ねん950ねん)にはけんひら親王しんのう立太子りったいし決定けっていされたが、『きゅうれき逸文いつぶんによれば、これは村上むらかみ天皇てんのう藤原ふじわら穏子天皇てんのう生母せいぼ)・朱雀すざく法皇ほうおう輔の密談みつだんによって決定けっていされたものであり、じつよりゆき関与かんよできなかった。

かんたもつ4ねん967ねん)、村上むらかみ天皇てんのう崩御ほうぎょしてけんひら親王しんのう即位そくいした(冷泉れいせん天皇てんのう)。冷泉れいせん天皇てんのうには狂気きょうきやまいがあり、天皇てんのう輔弼ほひつするもの必要ひつようであったことから、村上むらかみ天皇てんのう時代じだいにはながかれなかった関白かんぱく復活ふっかつ天皇てんのう外祖父がいそふにあたる輔はすでぼっしており、そのらはいずれも若年じゃくねんであったことから、じつよりゆき外戚がいせき長老ちょうろうとして関白かんぱく就任しゅうにん同時どうじ太政大臣だじょうだいじん補任ほにんされた。名目めいもくじょうつづ臣下しんか筆頭ひっとうであったものの、外戚がいせきにあたる輔のたち栄達えいたつする見込みこみであったことからなにかとかるんじられることをなげき、自身じしん日記にっきでは「あげめい関白かんぱくばかりの関白かんぱく)」としょうしている。おなねん天皇てんのう病気びょうき理由りゆうとしてじつよりゆきじゅん摂政せっしょうとしたが、その宣旨せんじ輔のであるけん中納言ちゅうなごんいん蔵人くろうどあたまけん主導しゅどう準備じゅんびされ、じつよりゆき息子むすこであるよりゆきちゅうは、公式こうしき宣旨せんじ発給はっきゅうするにんであるひだりだいべんであるにもかかわらず、事前じぜんらされていなかった。

冷泉れいせん天皇てんのうはそのやまいから、なが在位ざいいのぞめないことにより、おとうと皇子おうじから早急そうきゅう東宮とうぐうさだめることになった。同母どうぼおとうと年長ねんちょう為平親王ためひらしんのう有力ゆうりょくだったが、東宮とうぐうにはまもりひら親王しんのうけっした。これは為平親王ためひらしんのう左大臣さだいじんみなもと高明こうめいむすめであり、じつよりゆき右大臣うだいじんいんじつよりゆき輔のおとうと)が、みなもと高明こうめい将来しょうらい外戚がいせきとなることおそれたためであった。安和やすかず2ねん969ねん失意しつい高明こうめい突如とつじょ謀反むほん嫌疑けんぎがかけられ失脚しっきゃくし、大宰府だざいふながされる(安和あわへん)。じつよりゆきはこの陰謀いんぼう首謀しゅぼうしゃとされているが、いんいんけんなずらえじょうするせつもある。

同年どうねん冷泉れいせん天皇てんのう譲位じょういし、もりひら親王しんのう即位そくい円融天皇えんゆうてんのう)。じつよりゆき関白かんぱくから摂政せっしょうてんずる。

よくてんろく元年がんねん(970ねん)にやまいたお[注釈ちゅうしゃく 1]、5月薨去こうきょ享年きょうねん71。せいいち追贈ついぞうされ、尾張おわりこくふうじ、きよしまきこう諡号しごうされた。

りゃく系図けいず
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原ふじわら忠平ちゅうへい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
じつよりゆき
 
 
 
 
 
 
いん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よりゆきただし
 
村上むらかみ天皇てんのう女御にょうごじゅつ
 
いん
 
村上むらかみ天皇てんのう女御にょうご安子やすこ
 
けん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野おのみやりゅう
 
冷泉れいせん天皇てんのうけんひら親王しんのう
 
為平親王ためひらしんのう
 
円融天皇えんゆうてんのうもりひら親王しんのう
 
きゅうじょうりゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
げん皇室こうしつ

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

政治せいじとして

じつよりゆきは、最終さいしゅうてきおとうと輔の家系かけい嫡流ちゃくりゅうゆずることになったことから、『栄花物語えいがものがたり』が輔を、「いちじつよりゆきくるしきひと輔)」とじつよりゆきとを比較ひかくしてひょうするなど、政治せいじてき実権じっけんとぼしく、直接ちょくせつ外戚がいせき獲得かくとくした輔、いんけん親子おやこ実権じっけんたれていたとかんがえられている。

しかし、村上むらかみちょうにおいては、太政官だじょうかん宣旨せんじ発給はっきゅう責任せきにんしゃであるうえきょう回数かいすう輔とくらべておおい。また、冷泉れいせん天皇てんのう即位そくいしきさい通常つうじょう大極殿たいきょくでんおこなうべきところを、天皇てんのう御悩ごのうのために、異常いじょうごとそなえるべく内裏だいりうち紫宸殿ししんでん挙行きょこうするように変更へんこう、これがじつよりゆき功績こうせきであると称賛しょうさんされ、以降いこう、これが通例つうれいとなったことなどから、じつよりゆき政治せいじてき才覚さいかくがうかがえる事例じれいもあり、さらなる議論ぎろん必要ひつようおもわれる。

文化ぶんかじんとして

有職故実ゆうそくこじつくわしく、ちち忠平ちゅうへいきょういのちけて『小野おのみや故実こじつ旧例きゅうれい』を執筆しっぴつ朝廷ちょうてい儀礼ぎれいひとつである小野おのみやりゅう形成けいせいした。なお、じつよりゆき流派りゅうは小野おのみやりゅうばれる所以ゆえんかれ邸宅ていたくめいによる。

また、日記にっききよしまきこう[注釈ちゅうしゃく 2]あらわしていたことが『しょう右記うきとう逸文いつぶんによってられる。なお、藤原公任ふじわらのきんとうが『きよしまきこう』の部類ぶるい作成さくせいするさい書写しょしゃせず原本げんぽん直接ちょくせつりしたため、部類ぶるい収録しゅうろく以外いがいのものは反故ほごになってしまい、元来がんらい所持しょじしゃであったとかんがえられるおおやけにん従兄弟いとこ藤原ふじわらみのるおおやけにんじつともにじつよりゆきまご)の憤激ふんげきっている[2]。その部類ぶるい長和ながわ4ねん1015ねん)の藤原ふじわらきょうどおりやしき焼亡しょうぼうおり焼失しょうしつしたため現存げんそんしていない。また、おなじくおおやけにんの『北山きたやましょう』に度々どど引用いんようされている「私記しき」も『きよしまきこう』のことかんがえられている。なお、じつよりゆき忠平ちゅうへいの『さだしんおおやけ』に注釈ちゅうしゃくくわえたさい自己じこ記述きじゅつも「私記しき」としるしているが、『北山きたやましょう引用いんようの「私記しき」には忠平ちゅうへい第三者だいさんしゃとして登場とうじょうすることから、じつよりゆき自身じしんは『きよしまきこう』のことも「私記しき」としょうしていたとかんがえられている。

和歌わかひいで、歌集かしゅうきよしまきこうしゅう』があるほか、『こうせん和歌集わかしゅう』(9しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに34しゅ採録さいろくされている[3]。ほかにしょうそう名手めいしゅとしてられ、とくそう醍醐天皇だいごてんのうよりまなんでいる。

じつよりゆき多才たさい趣味しゅみ豊富ほうふであるうえに、きちんとした性格せいかくひと模範もはんとしてかれるほどであった[4]一方いっぽうで、しん奥底おくそこふか気難きむずかしい性格せいかくであったという評価ひょうかもある[5]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • じつよりゆき私邸してい南庭なんていときつねかんむりこうむっていた。ひとがこれをあやしんでくと、稲荷山いなりやま南庭なんていからのぞまれ、けいして威儀いぎただしているのだとこたえた。もしも、これをわすれればそであたまかくしてやしきないはいっていた。かれ謹直きんちょくなることかくのごと[6]
  • じつよりゆき幼名ようみょうが「ぎゅうよう(うしかい)」であったため、じつよりゆき一族いちぞく牛車うしぐるまうしあつかう「牛飼うしかいわらわ(うしかいわらわ)」のことを、「うしつき」とんだ[6]
  • 異母弟いぼてい輔が長身ちょうしんであったのにたいし、じつよりゆきひくかった。そのため、のりのきいたつよ装束しょうぞくもちいていた[7]
  • 平将門たいらのまさかど追討ついとう将軍しょうぐんであった藤原ふじわら忠文ただふみは、東国とうごく到着とうちゃく以前いぜんらん決着けっちゃくしたためそのまま帰京ききょうした。その論功行賞ろんこうこうしょうについて、「しょううたぐはしきはゆるせ」と主張しゅちょうする輔にたいし、じつよりゆきは「うたぐはしきことをばくだりはざれ」と主張しゅちょうどおして恩賞おんしょうさなかったので、忠文ただふみうらみをかった。そのため忠文ただふみ怨霊おんりょうによってじつよりゆき子孫しそん繁栄はんえいしなかったといわれている[8]
  • じつよりゆき邸宅ていたく小野おのみやだいは、もとは文徳ふみのり天皇てんのう皇子おうじおもんみたかし親王しんのう邸宅ていたくであり、そうろく賭博とばく質種しちぐさとしてたものであるといわれている[9]
  • じつよりゆき小野おのみやだい大炊おおい門前もんぜん菓子かしき、それをべるきょう民衆みんしゅう雑談ざつだんいて世情せじょうった[8]
  • 小野おのみやだい四足しそくもん菅原すがわら道真みちざねれいて、じつよりゆき終夜しゅうや対談たいだんしたといわれている[10]
  • 輔の亡霊ぼうれい生前せいぜんじつよりゆき子孫しそん断絶だんぜつ祈願きがんをしたことかたったというはなしを、じつよりゆきまご藤原ふじわらみのる観修かんしゅう僧都そうずからき、「骨肉こつにくうんふと雖も、用心ようじんあるべきか」とべた[11]
  • 村上むらかみ天皇てんのう御前ごぜんで、じつよりゆきが、輔と醍醐天皇だいごてんのう皇女おうじょ康子やすこ内親王ないしんのう密通みっつう暴露ばくろした[12]。『栄花物語えいがものがたり』に「いとたはしき(いんしき)」と評価ひょうかされるほど輔が好色こうしょくであったのにたいし、じつよりゆき当時とうじ貴族きぞくとしてはめずらしく堅物かたぶつであったという。また、『中外ちゅうがいしょう』(藤原ふじわら忠実ちゅうじつ語録ごろく)は、摂関せっかんのいいつたえとして「九条くじょう殿どの輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述きじゅつがある。
  • じつよりゆき薨去こうきょおり諸人もろびと小野おのみやだい門前もんぜんあつまってきょあいした[7]

かんれき[編集へんしゅう]

月日つきひ旧暦きゅうれきとく指示しじのないかぎり『公卿くぎょう補任ほにん』の記載きさいによる。

年紀としのり ことれき
延喜えんぎ15ねん915ねん 正月しょうがつ21にち叙爵じょしゃくしたがえ)。9月23にち昇殿しょうでん
延喜えんぎ16ねん916ねん 3月28にち阿波あわ権守ごんもり
延喜えんぎ17ねん917ねん 5月24にちみぎ衛門えもん
延喜えんぎ18ねん918ねん 9月9にち侍従じじゅう[13]
延喜えんぎ19ねん919ねん 正月しょうがつ28にちみぎ近衛このえけん少将しょうしょう
延喜えんぎ20ねん920ねん 9月21にち備中びっちゅうけんかい
延喜えんぎ21ねん921ねん 正月しょうがつ7にちしたがえじょう正月しょうがつ30にち兼備けんびぜんかい
延喜えんぎ22ねん922ねん 正月しょうがつ30にちけん近江おうみかい
延長えんちょう4ねん926ねん 正月しょうがつ7にちせい。2月25にち蔵人くろうど
延長えんちょう5ねん927ねん 正月しょうがつ12にちけん紀伊きい権守ごんもり
延長えんちょう6ねん928ねん 正月しょうがつ7にちしたがえよん正月しょうがつ29にち昇殿しょうでん。6月9にちみぎ近衛このえけん中将ちゅうじょう
延長えんちょう7ねん929ねん 正月しょうがつ29にちけん播磨はりま権守ごんもり
延長えんちょう8ねん930ねん 8がつ25にち蔵人くろうどあたま醍醐天皇だいごてんのう近侍きんじ[14]。9月25にち蔵人くろうどあたま朱雀すざく天皇てんのう近侍きんじ)。
延長えんちょう9ねん931ねん 3月13にち参議さんぎ
うけたまわひらた元年がんねん931ねん 12月17にちけん讃岐さぬき権守ごんもり
うけたまわひら2ねん932ねん 11月16にちしたがえよんじょう
うけたまわひら3ねん933ねん 5月27にちけんみぎ衛門えもんとく検非違使けびいし別当べっとう
うけたまわひら4ねん934ねん 12月21にちしたがえさん中納言ちゅうなごん
うけたまわひら5ねん935ねん 2がつ23にちけん左衛門さえもんとく[13]。6がつ10日とおかはじめてせいを聴す[15]
てんけい元年がんねん938ねん 6月23にちけんみぎ近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん。9月5にちみぎりょうかん[15]。12月14にちけん按察使
てんけい2ねん939ねん 8がつ27にち大納言だいなごん
てんけい3ねん940ねん 11月19にちだいうたしょ別当べっとう[16]。12月7にち東大寺とうだいじぞく別当べっとう[17]
てんけい4ねん941ねん 12月27にちかんかいよし検校けんぎょう[15]
てんけい6ねん943ねん 正月しょうがつ7にちせいさん
てんけい年間ねんかん じつよりゆき大納言だいなごんときいちじょう宣旨せんじこうむ[18]
てんけい7ねん944ねん 4がつ7にち右大臣うだいじん。8月19にち東大寺とうだいじ検校けんぎょう[17]
てんけい8ねん945ねん 11月25にちひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん。12月16にちすうしょ別当べっとう補任ほにん[19]
てんけい9ねん946ねん 正月しょうがつ7にちしたがえ。5月4にち蔵人所くろうどどころ別当べっとう
てんれき元年がんねん947ねん 4がつ26にち左大臣さだいじん
てんれき3ねん949ねん 8がつ14にち長者ちょうじゃ[15][20]
てんれき4ねん950ねん 7がつ23にちけん皇太子こうたいしでん
てんれき8ねん954ねん 5月15にちせい
天徳てんとく元年がんねん957ねん 3がつ20日はつかひだり近衛このえ大将たいしょうやまい
かんたもつ元年がんねん964ねん 正月しょうがつ7にちしたがえいち
かん4ねん967ねん 6月22にち関白かんぱく。8月19にちじゅん摂政せっしょう冷泉れいせん天皇てんのう御悩ごのうあいだ[21][19]。12月13にち太政大臣だじょうだいじん
安和やすかず2ねん969ねん 8がつ13にち摂政せっしょう
てんろく元年がんねん970ねん 5月18にち薨去こうきょ。5月20にちおくせいいちふう尾張おわりこく諡号しごうきよしまきこう

系譜けいふ[編集へんしゅう]

みなもとのうゆうおんな昭子あきこははとする藤原ふじわらいんらは異母弟いぼていにあたる。

和歌わか[編集へんしゅう]

  • 勅撰ちょくせんしゅう
    • こうせん和歌集わかしゅう
      • 山里やまざとものさびしさは おぎの なびくごとにぞ おもひやらるる
      • まだしらぬ ひともありける 東路あずまじきてぞ すむべかりける
      • まつもひき わかなもつます なりぬるを いつしかさくら はやもさかなむ
      • 鈴虫すずむしの おとらぬねこそ なかれけれ むかしあきおもえやりつゝ
    • 拾遺しゅうい和歌集わかしゅう
      • 桜花おうか のどけかりけり なきひとを こふるなみだぞ まづはおちける
      • おくれゐて なくなるよりは あしづるの などてよわいを ゆづらざりけむ
      • あなこいし はつかにひとを みづのあわの きえかへるとも しらせてしがな
    • しん古今ここん和歌集わかしゅう
      • をみなへし るにしんは なぐさまで いとどむかしあきぞこひしき
    • ぞく古今ここん和歌集わかしゅう
      • 池水いけみずくにさかえける まきもくの たまきのふうは いまものこれり
    • しん千載せんざい和歌集わかしゅう
      • うぐいすの やどのはなだに いろこくは ふうにしらせで しばしまたなむ
  • 私家集しかしゅう
    • きよしまきこうしゅう
      • 逢ひみても こいにもものの かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「あやしうふうおこりがちにて」[1]
  2. ^ 水心みずごころ』ともいう。
  3. ^ 実父じっぷ光孝みつたか天皇てんのうとするせつあり。みなもと順子じゅんここう参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 栄花物語えいがものがたりまきだいいち,つきうたげ
  2. ^ しょう右記うき寛仁かんじん4ねん8がつ18にちじょう
  3. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  4. ^ だいかがみ太政大臣だじょうだいじんじつよりゆき きよしまきこう
  5. ^ 栄花物語えいがものがたりまきだいいち,つきうたげ
  6. ^ a b だいかがみ
  7. ^ a b 富家ふうかだん
  8. ^ a b 古事ふるごとだん
  9. ^ 古今ここん著聞ちょぶんしゅう
  10. ^ 富家ふうかだん
  11. ^ しょう右記うき
  12. ^ だいかがみ』『中外ちゅうがいしょう
  13. ^ a b 異本いほん公卿くぎょう補任ほにん
  14. ^ 蔵人くろうど補任ほにん
  15. ^ a b c d 本朝ほんちょう世紀せいき
  16. ^ 吏部おう
  17. ^ a b 東南とうなんいん文書ぶんしょ』『東大寺とうだいじ別当べっとう次第しだい
  18. ^ たい』『すないわお
  19. ^ a b しょう右記うき
  20. ^ ちゅうれき
  21. ^ 類聚るいじゅうせんしょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 川上かわかみ多助たすけ平安朝へいあんちょう うえ』(昭和しょうわ5ねん
  • 竹内たけうちさん口伝くでんきょういのち」(「歴史れきし地理ちり」75-3・4 昭和しょうわ15ねん
  • 太田おおた静六せいろく右大臣うだいじん藤原ふじわらみのる邸宅ていたく小野おのみやいて」(「早稲田わせだ建築けんちくがくほう」18 昭和しょうわ17ねん
  • 山口やまぐちひろしみなもと高明こうめい藤原ふじわら-西宮にしのみや左大臣さだいじんしゅう成立せいりついち問題もんだい-」(「国語こくご国文学こくぶんがく昭和しょうわ35ねん11がつごう
  • 山中やまなかひろし栄花物語えいがものがたりだいかがみあらわれた安和やすかずへん」(「日本にっぽん歴史れきし」168 昭和しょうわ37ねん
  • 赤木あかぎ志津子しづこ摂関せっかん小野おの宮家みやけ」(『平安へいあん貴族きぞく生活せいかつ文化ぶんか所収しょしゅう 昭和しょうわ39ねん
  • 山本やまもと信吉のぶよし冷泉れいせんあさにおける小野おの宮家みやけ九条くじょうをめぐって-安和あわへん周辺しゅうへん-」(古代こだいがく協会きょうかいへん摂関せっかん時代じだい研究けんきゅう』 昭和しょうわ40ねん
  • いね敬二けいじじつよりゆき輔・いん道長みちながとうとその歌集かしゅう」(「国文学こくぶんがく 解釈かいしゃく教材きょうざい研究けんきゅう」10-12 昭和しょうわ40ねん
  • 山口やまぐちひろし安和あわへんこう」(「日本にっぽん歴史れきし」211 昭和しょうわ40ねん
  • 赤木あかぎ志津子しづこ小野おの宮家みやけ四条しじょう大納言だいなごんこうにん」(「歴史れきし教育きょういく」14-6 昭和しょうわ41ねん
  • 村井むらい康彦やすひこ藤原ふじわらたいら忠平ちゅうへい」(「歴史れきし教育きょういく」14-6 昭和しょうわ41ねん
  • 山口やまぐちひろし藤原ふじわら輔論」(『王朝おうちょう歌壇かだん研究けんきゅう 村上むらかみ冷泉れいせん円融えんゆうちょうへん所収しょしゅう 昭和しょうわ42ねん
  • ところいさお延喜えんぎさい検討けんとう」(「皇學館大学こうがくかんだいがく紀要きよう」6 昭和しょうわ43ねん
  • もも裕行ひろゆき「『北山きたやましょう』と『きよしまきこう』」(もり克己かつみ博士はかせ古稀こき記念きねん対外たいがい関係かんけい政治せいじ文化ぶんか所収しょしゅう 昭和しょうわ49ねん
  • 河北かわきたあが「『きゅうれき』から藤原ふじわら輔論」(「古代こだい文化ぶんか」31-7 昭和しょうわ52ねん
  • 山中やまなかひろし藤原ふじわら輔論」(井上いのうえ光貞みつさだ博士はかせ還暦かんれき記念きねんかいへん古代こだい論叢ろんそうしも所収しょしゅう 昭和しょうわ53ねん
  • おぼろたに寿ひさし藤原ふじわらみのるろん」(「古代こだい文化ぶんか」30-4・5 昭和しょうわ53ねん
  • 木本きもと好信よしのぶ藤原ふじわらみのるよりゆきの『きよしまきこう逸文いつぶん」(『平安朝へいあんちょう日記にっき記録きろく研究けんきゅう所収しょしゅう 昭和しょうわ55ねん
  • 角田つのだ文衛ふみえ輔なる人物じんぶつ」(季刊きかん「むすび」 昭和しょうわ57ねん
  • 山中やまなかひろし安和あわ偽計ぎけい-藤原ふじわらみのるよりゆき」(「歴史れきし読本とくほん昭和しょうわ57ねん9がつごう
  • 森田もりたじゅう世紀せいき中期ちゅうき政治せいじについて」(「金沢かなざわ大学だいがく教育きょういく学部がくぶ紀要きよう」31 昭和しょうわ57ねん
  • たけひかりまこと摂関せっかん太政官だじょうかん政治せいじ特質とくしつ」(「ヒストリア」106 昭和しょうわ60ねん
  • 島田しまだとよ藤原ふじわらみのるよりゆきむすめたち」(「大谷女子大おおたにじょしだい国文こくぶん」16 昭和しょうわ61ねん
  • 真壁まかべ俊信としのぶじつよりゆきと『新国にいくにふみ』」(『天神てんじん信仰しんこう研究けんきゅう所収しょしゅう 平成へいせい6ねん
  • 能登のと好美よしみ「『きよしまきこうしゅう研究けんきゅう-その原形げんけいをめぐって」(「東洋大学とうようだいがく大学院だいがくいん紀要きよう」37 平成へいせい12ねん
  • 中斎なかさい洋平ようへい藤原ふじわらみのるよりゆきろん」(「すめらぎがくかん史學しがく」16 平成へいせい14ねん
  • 坂本さかもとしょうさん「『かんしょう』の関白かんぱく」(「日本にっぽん歴史れきし」693 平成へいせい18ねん
  • 立花たちばな真直まっすぐ藤原ふじわらみのるよりゆきよりゆきちゅうにみる関白かんぱく政治せいじてき意味いみ」(「国史こくしがく」197 平成へいせい21ねん
  • 渡辺わたなべしげる冷泉れいせんあさにおける藤原ふじわらみのるよりゆき立場たちば-『きよしまきこう逸文いつぶん中心ちゅうしんに」(「日本にっぽん歴史れきし」787 平成へいせい25ねん
官職かんしょく
先代せんだい
藤原ふじわら仲平なかひら
左大臣さだいじん
947 - 968
次代じだい
みなもと高明こうめい
先代せんだい
藤原ふじわらひさし
右大臣うだいじん
944 - 947
次代じだい
藤原ふじわら
先代せんだい
藤原ふじわら扶幹
陸奥むつ出羽でわ按察使
938 - 944
次代じだい
藤原ふじわら
先代せんだい
藤原ふじわら仲平なかひら
ひだり近衛このえ大将たいしょう
946 - 957
次代じだい
藤原ふじわらあらわちゅう
先代せんだい
藤原ふじわらひさし
みぎ近衛このえ大将たいしょう
938 - 946
次代じだい
藤原ふじわら
先代せんだい
藤原ふじわらけん
左衛門さえもんとく
933 - 934
次代じだい
みなもときよしかげ