きゅうじょうりゅう

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きゅうじょうりゅう(くじょうりゅう)とは、藤原ふじわらきた

  1. 藤原ふじわらけんどおりふくむ)の子孫しそんあらわ用語ようごおよどう一族いちぞくつたえられた有職故実ゆうそくこじつ流派りゅうは
  2. 藤原ふじわらただしどおりろくなん九条くじょうけんとする家系かけい

藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅうきゅうじょうりゅう故実こじつ[編集へんしゅう]

藤原ふじわら関白かんぱく藤原ふじわら忠平ちゅうへい次男じなんまれ、右大臣うだいじんにまで昇進しょうしんしたもののあにじつよりゆき存在そんざいのために摂政せっしょう関白かんぱくになることなくわった。だが、有力ゆうりょく政治せいじ一人ひとりとして子孫しそんのために『きゅうじょう年中ねんじゅう行事ぎょうじ』という朝廷ちょうていうち礼儀れいぎやしきたりをまとめた書物しょもつのこした。

輔の子孫しそん女子じょしめぐまれて冷泉れいせん天皇てんのうから後冷泉天皇ごれいぜいてんのうまでのじつに8だいにわたる天皇てんのう外戚がいせきとなって摂政せっしょう関白かんぱく地位ちい独占どくせんした。とく藤原ふじわら道長みちなが頼通よりみち父子ふし前後ぜんご70ねんにわたって宮廷きゅうてい政治せいじ支配しはいして摂関せっかん政治せいじ全盛期ぜんせいききずき、その子孫しそん御堂みどうりゅうばれて代々だいだい摂政せっしょう関白かんぱくふじ長者ちょうじゃ地位ちい継承けいしょうした。そのさいに『きゅうじょう年中ねんじゅう行事ぎょうじ』にもとづいて宮廷きゅうてい儀式ぎしき遂行すいこうして、しきたりを重視じゅうしする宮廷きゅうてい社会しゃかいにおいて他家たけたいして優位ゆうい立場たちばことはかったとう。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

     
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     いん  けんどおり  けん  とおりょう  忠君ちゅうくん  とおたび  こうひかり  ためこう  ひろぜん  おおやけ  安子やすこ  登子たかこ  あいみや  怤子  繁子しげこ
     ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     道隆みちたか  みちつな  みちけん  道義どうぎ  道長みちなが  けんしゅん  ちょう  かい  綏子
                     |
                   (4だいりゃく)
                     |
                     ちゅうどおり
                     |
                     けん

きゅうじょうりゅう摂家せっけ近衛このえりゅう摂家せっけ[編集へんしゅう]

藤原ふじわらただしどおり道長みちながらいまご)のろくなん九条くじょうけんとする公家くげ家系かけいきゅうじょうりゅうという。そのまご道家みちやの3きょうりょうじつけいはそれぞれふじ長者ちょうじゃとなり、きゅうじょうじょう一条いちじょうとなったため、以後いごはこの3摂家せっけのことを総称そうしょうしてきゅうじょうりゅう摂家せっけという。

同様どうように、藤原ふじわらただしどおりよんなん近衛このえはじめとする家系かけい近衛このえりゅうといい、そのまごいえの2けんけい兼平かねひらもそれぞれふじ長者ちょうじゃとなり、近衛このえ鷹司たかつかさとなったため、以後いごはこの2摂家せっけのことを総称そうしょうして近衛このえりゅう摂家せっけという。

なお、九条くじょうけんとするきゅうじょうりゅうきゅうじょうと、それがきゅうじょうじょう一条いちじょうの3いえ分裂ぶんれつした以後いごきゅうじょう区別くべつするために、史家しか後者こうしゃのことをあえて「後九条うしろくじょう」とぶこともあるが、これはあくまで用途ようとかぎられた便宜べんぎじょう用語ようごであって、歴史れきしじょうそうした名称めいしょうきゅうじょう使つかったことも使つかわれたこともない。近衛このえはじめとする近衛このえりゅう近衛このえと、それが近衛このえ鷹司たかつかさの2いえ分裂ぶんれつした以後いご近衛このえ区別くべつするために、史家しか後者こうしゃのことをあえて「こう近衛このえ」とぶこともあるのも同様どうようである。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]