(Translated by https://www.hiragana.jp/)
二条良実 - Wikipedia コンテンツにスキップ

二条にじょうりょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二条にじょうりょう
二条にじょうりょう実像じつぞう
(『天子てんし摂関せっかん御影みかげ』より)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん たてたもつ4ねん1216ねん
死没しぼつ ぶんひさし7ねん11月29にち1271ねん1がつ11にち
別名べつめい 福光ふくみつえん関白かんぱく
官位かんい したがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん
主君しゅくん こう堀河ほりかわ天皇てんのう四条しじょう天皇てんのうこう嵯峨天皇さがてんのう後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅうじょう
父母ちちはは ちち九条くじょう道家どうか
はは西園寺さいおんじ掄子西園寺さいおんじこうけいおんな
兄弟きょうだい きょう二条にじょうりょうよりゆきけい一条いちじょうみのるけいまどかみのる慈源ほうすけ竴子仁子さとこ佺子 ほか
つま 四条しじょう灑子(けん大納言だいなごん四条しじょうたかしおんな
坊門ぼうもんおやなかおんな
藤原ふじわらたかしおんな
道良みちよしきょうりょうただしけいどおり兼基かねもとけいちゅうみちげんみち瑜、ひろげんみちじゅんりょうたからみちじょう徳大寺とくだいじ公孝きみたかしつ
特記とっき
事項じこう
五摂家ごせっけひとじょう
テンプレートを表示ひょうじ

二条にじょう りょう(にじょう よしざね)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき公卿くぎょう通称つうしょう福光ふくみつえん関白かんぱく(ふっこうえん かんぱく)。きょく極官きょっかんしたがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん

摂政せっしょう関白かんぱく左大臣さだいじん九条くじょう道家どうか次男じなんはは太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじこうけいおんなあに摂政せっしょう関白かんぱく左大臣さだいじん九条くじょうきょうおとうとよんだい鎌倉かまくら将軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけい摂政せっしょう関白かんぱく左大臣さだいじん一条いちじょうみのるけい左大臣さだいじん二条にじょう道良みちよしけん大納言だいなごんじょうきょうりょう関白かんぱく左大臣さだいじんじょうただし参議さんぎじょうけいどおり摂政せっしょう左大臣さだいじんじょう兼基かねもとがいる。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

ちち母方ははかた祖父そふ朝廷ちょうてい実力じつりょくしゃであったことから、かぞ15のわかさでしたがえさんとなり、20のとき内大臣ないだいじんとなる。ところがちち道家どうかりょうをあまりあいさず、むしろそのおとうとにあたる一条いちじょうみのるけい偏愛へんあいするようになる。それでもこのころ朝廷ちょうていでは祖父そふ関東かんとうさる西園寺さいおんじこうけい道家どうか上回うわまわ実力じつりょくっていたこともあって、こう嵯峨天皇さがてんのう践祚せんそしたじん3ねん(1242ねん)にはおおやけけい推薦すいせん関白かんぱくにんじられるまでにいたった。

りょうめぐってはきゅうじょう西園寺さいおんじ関係かんけいにも影響えいきょうおよんだ。こう嵯峨天皇さがてんのう即位そくい西園寺さいおんじこうけい道家どうか無視むししてまご姞子天皇てんのう入内じゅだいさせて中宮ちゅうぐうてることに成功せいこうすることで、むすめ婿むこである道家どうかとの協調きょうちょう関係かんけい対立たいりつへとてんじたが、それを可能かのうとしたのはまごりょう自分じぶんがわいたことで摂関せっかんとの全面ぜんめん対決たいけつという構図こうずけられたことによる。さらに姞子の叔母おばにあたる四条しじょう灑子じつとつがせることで、おおやけけい嫡男ちゃくなんみのるじつ義兄弟ぎきょうだいということになった[1]

ところがおおやけけい死去しきょすると朝廷ちょうてい道家どうかによって掌握しょうあくされ、このためひろしもと4ねん(1246ねん)1がつ後深草天皇ごふかくさてんのうへの譲位じょういまると、ちちいのちによりやむなく関白かんぱくじつけいゆずることを余儀よぎなくされた。

このとし鎌倉かまくらでは、北条ほうじょう一門いちもん名越なごやひかりときぜん将軍しょうぐんよりゆきけいようして執権しっけん北条ほうじょうよりゆき謀反むほんこす計画けいかく事前じぜん発覚はっかくして関係かんけいしゃ処分しょぶんされるという事件じけんこった(みや騒動そうどう)。よりゆきけい京都きょうと送還そうかんされることとなり、このいちけんちち道家どうか朝廷ちょうていからることがけられなくなり、またこれにともなってじつけいまでもが関白かんぱく辞任じにん余儀よぎなくされるにいたった。じつちち疎遠そえん関係かんけいにあったことからこのとき処分しょぶんにはふくまれなかったが、これを道家どうかりょうときよりゆき内通ないつうして自分じぶんたちをおとしめたと猜疑さいぎし、りょう義絶ぎぜつしてしまった。

やがて、道家どうかぬとふたた勢力せいりょくかえし、ひろちょう元年がんねん(1261ねん)にはふたた関白かんぱくとなる。ぶんひさし2ねん(1265ねん)に関白かんぱくしょくおとうとじつけいゆずったが、なおも内覧ないらんとして朝廷ちょうてい実権じっけん掌握しょうあくした。ぶんなが7ねん(1270ねん)11月11にち病気びょうきのために出家しゅっけしてくだりそらごうし、同月どうげつ29にちに55さい薨去こうきょした。法号ほうごうひろしひかりえんいん

じつ居所きょしょじょう京極きょうごくだいいたことから、りょうとする五摂家ごせっけ系統けいとうじょうごうした。ただし『平戸ひらど』などの当時とうじ記録きろくによって確認かくにんできるりょうやしき二条にじょうとみ小路こうじである。

官職かんしょくおよび位階いかいとう履歴りれき

[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれきによる。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 近藤こんどうさとしたかし へん宮廷きゅうてい公家くげ系図けいずしゅうらん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1994ねんISBN 4-490-20243-1 
  • 石井いしい清文きよふみ鎌倉かまくら幕府ばくふ連署れんしょせい研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん、2020ねんISBN 978-4-86602-090-7