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近衛このえはじめたいら

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近衛このえ はじめたいら
天子てんし摂関せっかん御影みかげ近衛このえはじめひらめ (ふかこころいん関白かんぱく)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん ひろしもと4ねん1246ねん
死没しぼつ ぶんひさし5ねん11月19にち1268ねん12月24にち
別名べつめい ふかこころいん関白かんぱくごうふかこころいん西谷にしたに
官位かんい したがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん
主君しゅくん 後深草天皇ごふかくさてんのう亀山天皇かめやまてんのう
氏族しぞく 近衛このえ
父母ちちはは ちち近衛このえけんけい
はは九条くじょう仁子さとこ九条くじょう道家どうかむすめ
兄弟きょうだい おさむもとひらた信昭のぶあき慈静衣笠きぬがさけいひらたしつ近衛このえけんきょうはは
つま 西園寺さいおんじこうしょうむすめ久我くがとおるのうむすめ
一条いちじょうみのるゆうむすめほらいんじつゆうむすめ近衛このえけんけいむすめ
いえもとさとしあきらけんきょう鷹司たかつかさけんただししつひろもと
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近衛このえ はじめたいら(このえ もとひら、きゅう字体じたいきん󠄁まもる もとたいら󠄁)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき公卿くぎょう摂政せっしょう近衛このえけんけい長男ちょうなん官位かんいしたがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん近衛このえ5だい当主とうしゅ通称つうしょうふかこころいん関白かんぱく(しんしんいん かんぱく)。ごうふかこころいん西谷にしたにがある。日記にっきに「ふかこころいん関白かんぱく」がある。

経歴けいれき

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けんちょう3ねん1251ねん)8がつみかど本紀ほんぎ上達じょうたつにおいて[1]けんちょう7ねん1255ねん)10さいしたがえさんけん中納言ちゅうなごん叙任じょにんされる。12月にはひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん

けんちょう8ねん1256ねんせいさんじょされる。せいよしみ元年がんねん1257ねんしたがえけん大納言だいなごん叙任じょにんせいよしみ2ねん1258ねん)にはせい内大臣ないだいじんひろちょう元年がんねん1261ねん)には右大臣うだいじんのぼる。ひろちょう3ねん1263ねん)にしたがえいち陞叙しょうじょされ、同年どうねんちゅういちじょうとなる。ぶんひさし2ねん1265ねん左大臣さだいじんとなり、ぶんなが4ねん1267ねん関白かんぱくつとめる。

ぶんなが4ねん1267ねん)に家臣かしんともに「殿しんがりれき」を写本しゃほん(22さつ)。

ぶんなが5ねん1268ねん)11月15にちごろに痢病をわずら[2]、19にち薨去こうきょ享年きょうねん23。

官途かんと

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以下いか、『公卿くぎょう補任ほにん』の記載きさいしたがう。日付ひづけはいずれも旧暦きゅうれき

  • けんちょう7ねん(1255ねん)- 1がつ13にち みぎ近衛このえ中将ちゅうじょうしたがえさん。6月2にち けん中納言ちゅうなごん。12月13にち ひだり近衛このえ大将たいしょう
  • けんちょう8ねん(1256ねん)- 1がつ21にち せいさん
  • せいよしみ元年がんねん(1257ねん)- 11月10にち けん大納言だいなごんひだり大将たいしょう如元)。11月19にち したがえ
  • せいよしみ2ねん(1258ねん)- 1がつ13にち せい。11月1にち 内大臣ないだいじん
  • ぶんおう2ねん(1261ねん)- 1がつ 大将たいしょうたまもの兵仗ひょうじょうあらためひろちょう元年がんねん3がつ27にち 右大臣うだいじん
  • ひろちょう3ねん(1263ねん)- 1がつ6にち したがえいち。4月2にち いちじょう
  • ぶんひさし2ねん(1265ねん)- 10月5にち 左大臣さだいじん
  • ぶんなが4ねん(1267ねん)- 12月9にち 関白かんぱく長者ちょうじゃ
  • ぶんなが5ねん(1268ねん)- 3月21にち 牛車うしぐるま宣旨せんじ

系譜けいふ

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出典しゅってん

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  1. ^ 岡屋おかや関白かんぱくけんちょう3ねん8がつ11にちじょう
  2. ^ みんけいぶんひさし5ねん11月15にちじょう