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じょう道平どうたいら

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じょう 道平どうたいら
天子てんし摂関せっかん御影みかげじょう道平どうたいら
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき南北なんぼくあさ時代じだい初期しょき
生誕せいたん 弘安ひろやす10ねん1287ねん
死没しぼつ たてたけし2ねん2がつ4にち1335ねん2がつ27にち
別名べつめい こう光明こうみょうあきらいん関白かんぱくごう
官位かんい したがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん
主君しゅくん 伏見天皇ふしみてんのうこう伏見天皇ふしみてんのうこう二条天皇にじょうてんのう花園天皇はなぞのてんのう後醍醐天皇ごだいごてんのうひかりげん天皇てんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう
氏族しぞく じょう
父母ちちはは ちちじょう兼基かねもとはは京極きょうごく宣子のぶこ
兄弟きょうだい 道平どうたいらもともときょうりょうふゆりょう治子はるこちゅうぼう親王しんのうしつ
つま 正室せいしつ西園寺さいおんじ婉子西園寺さいおんじこうあきらむすめ
側室そくしつじょうただしむすめ
良基よしもと良忠よしただ栄子えいこ九条くじょうけいきょう富小路とみこうじどうただし
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じょう 道平どうたいら(にじょう みちひら)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから南北なんぼくあさ時代じだい初期しょき公家くげ摂政せっしょう関白かんぱくじょう兼基かねもとはは京極きょうごくためあらわむすめ宣子のぶこ[1]官位かんいしたがえいち関白かんぱく左大臣さだいじんじょう4だい当主とうしゅごうこう光明こうみょうあきらいん関白かんぱく

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1295ねんえいひとし3ねんしたがえさんじょせられ公卿くぎょうれっする。1305ねんよしみもと3ねん一条いちじょう実家じっか大臣だいじん就任しゅうにんさきされたことを不満ふまんとして籠居ろうきょするが、1316ねん正和しょうわ5ねん)から2年間ねんかん花園天皇はなぞのてんのう関白かんぱくつとめる。後醍醐天皇ごだいごてんのう即位そくい1323ねんげんとおる3ねん)に内覧ないらん宣下せんげけ、1327ねんよしみれき2ねん)から3年間ねんかん後醍醐天皇ごだいごてんのう関白かんぱくをつとめた。後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく関与かんよしたらしく、1332ねん元弘もとひろ2ねん鎌倉かまくら幕府ばくふによりちち兼基かねもとあづけられた。幕府ばくふいかりは相当そうとうなものがあり、息子むすこ良基よしもとけん中納言ちゅうなごんめんぜられ、『花園はなぞのいん宸記』にはじょう廃絶はいぜつ通告つうこくされたことがしるされている[2]よく1333ねん元弘もとひろ3ねん隠岐島おきのしまから反撃はんげきてんじた天皇てんのうにより左大臣さだいじんおよふじ長者ちょうじゃにんじられ、1334ねんたてたけし元年がんねんふたた内覧ないらんとなっている。

学芸がくげいのみならず、当時とうじ公家くげにはめずらしく馬術ばじゅつにもひいでていたという[3]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

伝承でんしょう[編集へんしゅう]

軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では、二条にじょう道平どうたいらいもうと天皇てんのう後宮こうきゅうはい予定よていだったが、室町むろまち幕府ばくふ執事しつじ高師直こうのもろなおぬすられて、男子だんし武蔵むさし五郎ごろうなつんだとえがかれる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 御子みこひだり出身しゅっしん
  2. ^ 中院なかのいんぜんごう兼基かねもととう子孫しそん不可ふかため家督かとく」(『花園はなぞのいん宸記』せいけい元年がんねん4がつ10日とおかじょう
  3. ^ 嵯峨野さがの物語ものがたり
  4. ^ すめらぎだいれき
  5. ^ a b しょ家伝かでん
  6. ^ じょうもとちちについてはじょうもと#生涯しょうがい参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小川おがわ剛生たけお二条にじょう良基よしもと研究けんきゅう』(笠間かさま書院しょいん、2005ねんISBN 978-4-305-10362-8 P21-24