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藤原ふじわらいとぐち

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藤原ふじわら いとぐち
藤原ふじわらいとぐち嗣『前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん たからひさし5ねん774ねん
死没しぼつ うけたまわ10ねん7がつ23にち843ねん8がつ22にち
別名べつめい 山本やまもと大臣だいじん
官位かんい せい左大臣さだいじんおくしたがえいち
主君しゅくん 桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらしき合流ごうりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら百川ももかわはは伊勢いせ大津おおつむすめ
兄弟きょうだい いとぐちいとぐちぎょう[1](またはつぎぎょう[2])、たびおび
つま 蔵垣くらがき人山ひとやま(またはくわだて)のむすめ
いえはるほんいとぐちちゅうむね正子まさこ藤原ふじわらつねしつ
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藤原ふじわら いとぐち(ふじわら の おつぐ)は、平安へいあん時代じだい政治せいじ藤原ふじわらしき参議さんぎ藤原ふじわら百川ももかわ長男ちょうなん官位かんいせい左大臣さだいじんおくしたがえいち山本やまもと大臣だいじんごうす。

生涯しょうがい

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ちち百川ももかわひかりひとし桓武かんむの2だい天皇てんのう擁立ようりつ活躍かつやくしたが、いとぐちが5さいとき参議さんぎ在任ざいにんちゅう病死びょうしちち逝は本来ほんらいであればいとぐち嗣の出世しゅっせにとっては致命ちめいてき影響えいきょうおよぼすところであった。しかしながら、百川ももかわ生前せいぜんはたらきに感謝かんしゃする桓武かんむ天皇てんのうによってつねけられており、のべれき7ねん788ねん桓武かんむ天皇てんのうみずからの主催しゅさいによって宮中きゅうちゅういとぐち嗣の元服げんぷくおこなわれ、天皇てんのうによる加冠かかんけんたまものあずかせいろくじょううち舎人とねりへの叙任じょにんふう150たまものあずかという厚遇こうぐうけた。

のべれき10ねん791ねん)にはしたがえじょせられていち人前にんまえ貴族きぞくとしてあつかわれることになった。そののべれき16ねん797ねん)24さいせい昇進しょうしんすると、わずか2にちにはしたがえよん昇叙しょうじょ事実じじつじょう4かいきゅう昇進しょうしんし、衛門えもんとくにんぜられるなど、これまでの昇進しょうしん記録きろく次々つぎつぎやぶ結果けっかのこす(くわしくは別記べっき)。

のべれき21ねん802ねん)には、29さいちち百川ももかわおな参議さんぎ昇進しょうしん公卿くぎょうれつした。これは生前せいぜん百川ももがわじゅうふんむくいること出来できなかった桓武かんむ天皇てんのうからの恩返おんがえしであると同時どうじに、いとぐち嗣の才能さいのう期待きたいをかけた人事じんじである。いとぐち嗣はその3ねん天皇てんのうおもいもよらなかったかたちでその期待きたいこたえることになる。

徳政とくせいしょうろん

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のべれき24ねん805ねん)12月7にち旧暦きゅうれき)、いとぐち嗣と同僚どうりょう参議さんぎ菅野かんの真道まみち桓武かんむ天皇てんのうより現在げんざい政治せいじ問題もんだいてんについて質問しつもんけた。いとぐち嗣は開口一番かいこういちばん方今ほうこん天下てんかくるしむところは、軍事ぐんじ造作ぞうさなり。此のりょうこととまむれば百姓ひゃくしょうやすんぜん(いま天下てんか人々ひとびとくるしんでいるのは、蝦夷えぞ平定へいてい平安京へいあんきょう建設けんせつです。このふたつをめればみんな安心あんしんします)」とべた。長年ながねん天皇てんのうつかえ、身分みぶんひく学者がくしゃから抜擢ばってきけた老齢ろうれい真道まみち天皇てんのう意向いこうんで必死ひっし反論はんろんをしたものの、ついに天皇てんのういとぐち嗣の主張しゅちょうれてライフワークともぶべき事業じぎょうである、蝦夷えぞ平定へいてい平安京へいあんきょう建設けんせつ中止ちゅうし宣言せんげんした(「徳政とくせいしょうろん」)。なお、桓武かんむ天皇てんのう翌年よくねん崩御ほうぎょした。

平城ひらじろあさ

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平城ひらじろ天皇てんのう時代じだいはいると、新帝しんていのもとで荒廃こうはいする地方ちほう政治せいじ再建さいけん目的もくてきとして、参議さんぎ藤原ふじわらえんじん中心ちゅうしんとなって観察かんさつ使制度せいどもうけて、地方ちほう政治せいじ運営うんえい中央ちゅうおう政府せいふ高官こうかん直接ちょくせつ監視かんしするしん制度せいど導入どうにゅうした。天皇てんのういとぐち嗣らの意気込いきごみは相当そうとうなもので、大同だいどう2ねん807ねん)には参議さんぎ官職かんしょく自体じたい廃止はいしして、参議さんぎクラスの高官こうかんたち観察かんさつ使専任せんにんにするほどであった。

ところが、大同だいどう3ねん808ねんいとぐち嗣は中納言ちゅうなごん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ後任こうにんとして、陸奥むつ出羽でわ按察使兼務けんむして東北とうほく地方ちほうへの赴任ふにんめいじられる。いとぐち嗣の力量りきりょうわれた人選じんせんではあったが、同職どうしょく最大さいだい責務せきむである蝦夷えぞ平定へいてい反対はんたいした前歴ぜんれきがあること、地方ちほうかん経験けいけんとぼしく兵法ひょうほうにもうとからだ丈夫じょうぶではないこと[3]理由りゆうに3わたって辞表じひょう提出ていしゅつした。だが、辞意じいみとめられることはなく、よく大同だいどう4ねん809ねん)には現地げんちおもむいた。だが、あくまで自分じぶん所信しょしんつらぬいたいとぐち嗣は在任ざいにんちゅういち軍隊ぐんたいうごかすことはなく、現地げんち役人やくにん兵士へいし民衆みんしゅう保護ほご政策せいさく専念せんねんした。

嵯峨さがちょう

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1ねんはん参議さんぎ文室ふむろ綿めん麻呂まろ陸奥みちのく出羽いずは按察使しょくゆずってもどると、平城ひらじろ天皇てんのう譲位じょういつづいて発生はっせいしたくすりへんにより情勢じょうせい一変いっぺんしていた。いとぐち嗣とはなん関係かんけいのない事件じけんであり自身じしん鎮圧ちんあつがわまわったが、いとぐち嗣の従兄弟いとこ藤原ふじわらたねつぎである尚侍しょうじくすり参議さんぎなかしげる兄弟きょうだい事件じけん首謀しゅぼうしゃとして死亡しぼうしたことで、いとぐちぞくする藤原ふじわらしき政治せいじてき地位ちい低下ていかまねいた。そのうえ、この混乱こんらんなか観察かんさつ使制度せいど廃止はいしされ参議さんぎ復活ふっかつしたこと(いとぐち嗣は参議さんぎ復帰ふっき)でいとぐち主導しゅどう改革かいかく政策せいさく事実じじつじょう挫折ざせつした。さらに、1さい年下とししたである藤原ふじわらきた藤原ふじわらふゆ新設しんせつされた蔵人くろうどあたま任命にんめいされて政治せいじ中枢ちゅうすうち、ひろしひとし5ねん814ねん)にはしたがえさん昇進しょうしんして官位かんいでもいとぐち嗣をき、きた台頭たいとうしていくこととなる。

そのいとぐち嗣は失意しつい病気びょうきのために度々どど引退いんたいもうたもののゆるされなかった。昇進しょうしんめんでもふゆ嗣の後塵こうじんはいつづけるものの、ひろじん8ねん817ねん中納言ちゅうなごんひろじん12ねん821ねん大納言だいなごん順調じゅんちょう昇進しょうしん、このあいだひろじん9ねん818ねん)には右大臣うだいじん藤原ふじわらえんじん中納言ちゅうなごん藤原ふじわら葛野くずの麻呂まろ死去しきょにより、以降いこう太政官だじょうかんにおいて首班しゅはんであるふゆ嗣に地位ちいめた。また、『新撰しんせん姓氏せいしろく』や『日本にっぽん』の編纂へんさん事業じぎょう参画さんかくとく後者こうしゃについては、編纂へんさんぜん過程かていいとぐちかかわったとわれており、かれもとすぐれた文才ぶんさい批判ひはん精神せいしんひとたちがあつめられて制作せいさくされた。また、外交がいこうてき意味いみうすれてなか商用しょうようし、通過つうかさき住民じゅうみんわずらわせるだけとなった渤海からの使者ししゃ制限せいげん提案ていあんしている。

晩年ばんねん

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ひろじん14ねん823ねんおいあねたび)の大伴おおとも親王しんのう即位そくい淳和天皇じゅんなてんのう)すると、てんちょう2ねん825ねん)には右大臣うだいじんにんぜられる。てんちょう3ねん826ねん)、ふゆぼっすると右大臣うだいじんだったいとぐち嗣は淳和天皇じゅんなてんのうたすけてふたた政治せいじ中枢ちゅうすうつものの病気びょうきがちで満足まんぞく政務せいむれない日々ひびつづいた。さら将来しょうらい期待きたいしていた長男ちょうなんいえゆうにも先立さきだたれる。すでふゆ嗣の息子むすこ長良ながらりょうぼう兄弟きょうだい政界せいかい中心ちゅうしん台頭たいとうしつつあり、ふゆ嗣にはその死後しごさらけられることとなる。

嵯峨さがちょうから仁明にんみょうちょうにかけてはたかしぶんとなえられるほどの安定あんていした治世ちせいではあったが、嵯峨天皇さがてんのうがすぐにみずからの皇子おうじである正良まさよし親王しんのう仁明天皇にんみょうてんのう)に譲位じょういせず、おとうと大伴おおとも親王しんのう淳和天皇じゅんなてんのう)に譲位じょういしたことりょう親王しんのう派閥はばつこととなった。かくして、嵯峨さが上皇じょうこう崩御ほうぎょうけたまわ9ねん842ねん)にこったうけたまわへんによって、中納言ちゅうなごん藤原ふじわら吉野よしのいとぐち嗣の従兄弟いとこ)が流刑りゅうけいになったのはしきにはおおきな痛手いたでとなった。うけたまわ10ねん(843ねんせい左大臣さだいじんかんいたまま病死びょうし享年きょうねん70。即日そくじつしたがえいち位階いかいおくられた。

晩年ばんねん空海くうかいゆかりの観音寺かんおんじこん熊野くまの整備せいびとその隣接りんせつにおける法輪寺ほうりんじ泉涌寺せんにゅうじ創建そうけんたずさわり、次男じなんはるだい完成かんせいしている。墓所はかしょ観音寺かんおんじないにあるともわれているがしょうである。

人物じんぶつ

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政務せいむ通暁つうぎょうしており、「くに利害りがいりてかなでせざることなし(つねくにみんおもい、政治せいじてき問題もんだいかなら議題ぎだいとした)」 といわれた賢明けんめい良心りょうしんてき政治せいじであった。一方いっぽうで、あるもののいい加減かげん言葉ことばでも一旦いったんしんじてしまうと、べつものがいくら真実しんじつべてもがんとしてれなかったとわれるほど、頑固がんこ偏執へんしゅうてき性格せいかくであったとされる。そのために政治せいじてきにも孤立こりつしてしまうめんがあり、ふゆ嗣・りょうぼう親子おやこ苦汁くじゅうをなめさせられることおおかったとう。

このちち姿すがたそだった次男じなんはるは、ちち死後しご早々そうそう引退いんたいをしてしまい、いとぐち嗣の死後しごしき政治せいじ中枢ちゅうすうこと二度にどとなかった。

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  2. ^ ぞく日本にっぽん』『公卿くぎょう補任ほにん
  3. ^ 上表じょうひょうぶんには、「生来せいらい視力しりょくよわく、長年ながねん脚気かっけにもなやまされている」というくだりがある。とら達哉たつや古代こだい日本にっぽん官僚かんりょう 天皇てんのうつかえた怠惰たいだ面々めんめん』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2021ねん)p.92.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん

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