藤原ふじわらかい

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藤原ふじわら かい
東三条ひがしさんじょういんぞう真正極楽寺しんせいごくらくじぞう江戸えど時代じだい
だい66だい天皇てんのうはは
皇太后こうたいごう 寛和ひろかず2ねん7がつ5にち986ねん8がつ12にち
東三条ひがしさんじょういん
院号いんごう宣下せんげ せいこよみ2ねん9月16にち991ねん10月26にち

誕生たんじょう おう2ねん962ねん
崩御ほうぎょ 長保ながほ3ねんうるう12がつ22にち1002ねん2がつ7にち
藤原ふじわらこうなりやしき東三条ひがしさんじょう殿どのか)
大喪たいそう 長保ながほ3ねんうるう12がつ24にち(1002ねん2がつ9にち
りょうしょ 宇治うじりょう
いみな かい
別称べっしょう うめつぼ女御にょうごうららけい殿どの女御にょうご
氏族しぞく 藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅう
父親ちちおや 藤原ふじわらけん
母親ははおや 藤原ふじわらひめ
配偶はいぐうしゃ 円融天皇えんゆうてんのう
入内じゅだい 天元てんげん元年がんねん8がつ17にち978ねん9月21にち
子女しじょ 一条天皇いちじょうてんのう
女御にょうご皇太后こうたいごう
立后りっこうぜん位階いかい せいさん寛和ひろかず2ねん986ねん))
テンプレートを表示ひょうじ
ひがし三条殿さんじょうでんあと藤原ふじわらかい居住きょじゅう京都きょうと中京ちゅうきょう押小路おしこうじどおり釜座かまんざ西北せいほくかく

藤原ふじわら かい(ふじわら の せんし/あきこ、おう2ねん962ねん) - 長保ながほ3ねんうるう12がつ22にち1002ねん2がつ7にち))は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきだい64だい天皇てんのう円融天皇えんゆうてんのう女御にょうご一条天皇いちじょうてんのうはは国母こくぼ)。院号いんごう東三条ひがしさんじょういん(ひがしさんじょういん)。

摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらけん次女じじょで、はは摂津せっつもり藤原ふじわら中正ちゅうせいむすめどきひめ先後せんごして摂関せっかん在職ざいしょくした道隆みちたかみちけん道長みちなが、また冷泉れいせん天皇てんのう女御にょうごちょう同母どうぼ兄弟きょうだい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天元てんげん元年がんねん978ねん)8がつ入内じゅだいし、同年どうねん11月4にち女御にょうご宣旨せんじこうむる。どう3ねん980ねんしたがえよんしたじょせられる。このとし6月1にちけん東三条ひがしさんじょうていにおいてだいいち皇子おうじふところじん親王しんのう(のちの一条天皇いちじょうてんのう)をむ。ところが円融天皇えんゆうてんのう一粒種ひとつぶだねみながら、関白かんぱく藤原ふじわらよりゆきただしおんな遵子きさきうばわれたことで、ちちけんともさとてい東三条ひがしさんじょうていにこもり、たびたびの召還しょうかんにもおうじなかった。また遵子立后りっこうさい、遵子の兄弟きょうだい藤原公任ふじわらのきんとう東三条ひがしさんじょうていまえ自慢じまんげに「この女御にょうごは、いつかきさきにはたちたまふらむ(こちらの女御にょうごはいつ立后りっこうなさるのか)」とったため、けんかい親子おやこうらみをったという[1]円融天皇えんゆうてんのうとうまくいかないかいんだうたに「なきにおとりてけるき」(んだひとよりひどい状態じょうたいきるはつらい)というものがある[2]

しかし、所生しょせい一条天皇いちじょうてんのう即位そくいすると形勢けいせい一変いっぺんし、寛和ひろかず2ねん986ねん7がつ5にち皇太后こうたいごう冊立さくりつされる。せいこよみ2ねん991ねん)2がつ円融えんゆう法皇ほうおう崩御ほうぎょしたが、かい同年どうねん9月16にち出家しゅっけして、皇太后こうたいごうみやしょくめて院号いんごう宣下せんげけ、居宅きょたく東三条ひがしさんじょうていちなんで東三条ひがしさんじょういんしょうした。これが女院にょいんごう嚆矢こうしである。

いちじょうあさにあって国母こくぼとしてつよ発言はつげんけんをもち、しばしば政治せいじ介入かいにゅうしたため、藤原ふじわらみのる日記にっきしょう右記うき』には「国母こくぼせんあさこと」と非難ひなんされた。また、4さい年下とししたおとうと道長みちなが可愛かわいがって[注釈ちゅうしゃく 1]あに道隆みちたか同道どうどうけん没後ぼつご執政しっせいしゃかれして、おいしゅう圧迫あっぱくし、ついにあに一家いっか没落ぼつらくんだ。一条天皇いちじょうてんのうすで定子さだこきさきにいたにもかかわらず、道長みちながむすめ彰子あきこ入内じゅだいさせようとはか[5]、その入内じゅだいわせるために事前じぜん母親ははおやであるみなもと倫子ともこ道長みちなが正妻せいさい)をしたがえじょうからしたがえさん昇格しょうかくさせている[6][注釈ちゅうしゃく 2]

政治せいじてき活動かつどう以外いがいとしては、真如堂しんにょどう・慈徳てら建立こんりゅうした。また失脚しっきゃくしたみなもと高明こうめいすえむすめ明子あきこって道長みちながめとわせたといわれ、一条いちじょう皇后こうごう定子さだこ難産なんざん崩御ほうぎょしたさいも、のこされただい皇女おうじょ媄子内親王ないしんのう養育よういくした。

長保ながほ3ねんうるう12がついん別当べっとう藤原ふじわらこうなり屋敷やしきにて崩御ほうぎょし、宇治うじ木幡きばた藤原ふじわら一族いちぞく墓所はかしょのうち、宇治うじりょうほうむられた。

なお、『だいかがみおよび『栄花物語えいがものがたり』には葬儀そうぎさい道長みちなが遺骨いこつかかえする場面ばめんえがかれているがこれは創作そうさくであり、史実しじつにおいてほねかかえしたのはかいおいけんたかしみちけん)である。その一方いっぽうで、道長みちなが日記にっき御堂みどう関白かんぱく』によって道長みちなが父祖ふそ忌日きじつとして供養くようおこなったこと確認かくにんできるのは、7がつ2にちちちけん1がつ21にちははひめ法要ほうよう以外いがいには12月22にちかい法要ほうようのみであり、また盂蘭盆会うらぼんえ前日ぜんじつおくぼんきょうおくさきとして、ほうきょういんけん菩提寺ぼだいじ)・きよし閑寺(ときひめ菩提寺ぼだいじ)・慈徳てらかい菩提寺ぼだいじ)が指示しじされている[8]ことから、道長みちながかい供養くよう両親りょうしんおなじようにっていたことられる[9]

系譜けいふ [編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ かい道長みちながを「わが御子みこきこきゅうひて」と、あたかも道長みちなが自分じぶんとしてあつかったような記述きじゅつもある[3]道長みちなが実際じっさいかい養子ようし猶子ゆうしだった事実じじつはないが、道長みちながかい没後ぼつご両親りょうしん同様どうよう彼女かのじょ手厚てあつ供養くようつづけたことが確認かくにんできる[4]
  2. ^ 表向おもてむきの理由りゆうかい道長みちなが土御門つちみかど殿どの同居どうきょさせてもらっていることにたいする謝意しゃいによる推挙すいきょである[7]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ だいかがみ
  2. ^ 藤原ふじわらかい円融えんゆういんしゅう』47ばん
  3. ^ 栄花物語えいがものがたりまき3
  4. ^ 御堂みどう関白かんぱく
  5. ^ ふくふじ 2017, pp. 159–160, 「国母こくぼ政治せいじ文化ぶんか-東三条ひがしさんじょういんかい上東門院じょうとうもんいん彰子あきこ-」.
  6. ^ ふくふじ 2017, p. 75, 東海林しょうじ亜矢子あやこ摂関せっかんきさきはは-みなもと倫子ともこ中心ちゅうしんに-」.
  7. ^ 野口のぐち孝子たかこ摂関せっかんつま位階いかい-したがえいちみなもと倫子ともこ中心ちゅうしんに-」『女性じょせい史学しがく』5ごう、1995ねん /所収しょしゅう:倉本くらもと一宏かずひろ へん王朝おうちょう時代じだい実像じつぞう1 王朝おうちょう再読さいどく臨川りんせん書店しょてん、2021ねん、309ぺーじISBN 978-4-653-04701-8 
  8. ^ 御堂みどう関白かんぱく長和ながわ4ねん7がつ14にちじょう
  9. ^ もも裕行ひろゆき ちょ忌日きじつこう」、伊東いとう多三郎たさぶろう へん国民こくみん生活せいかつ研究けんきゅう』 5かん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1962ねん /所収しょしゅう:もも裕行ひろゆき著作ちょさくしゅう』 4かん思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1988ねん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 倉本くらもと一宏かずひろ一条天皇いちじょうてんのう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねん 
  • ふくふじ早苗さなえ へん平安朝へいあんちょう女性じょせい政治せいじ文化ぶんか 宮廷きゅうてい生活せいかつ・ジェンダー』明石書店あかししょてん、2017ねんISBN 978-4-7503-4481-2