(Translated by https://www.hiragana.jp/)
五辻忠子 - Wikipedia コンテンツにスキップ

つじ忠子ただこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
つじ 忠子ただこ
続柄つづきがら こう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう後醍醐天皇ごだいごてんのう生母せいぼ

称号しょうごう だんてんもんいん
したがえさんじゅんさんみや女院にょいん
出生しゅっしょう ぶんひさし5ねん1268ねん
死去しきょ もとおう元年がんねん11月15にち1319ねん12月27にち)(享年きょうねん52)
配偶はいぐうしゃ こう宇多天皇うだてんのう
子女しじょ すすむ内親王ないしんのう後醍醐天皇ごだいごてんのうせいえん法親王ほうしんのううけたまわさとし法親王ほうしんのう
父親ちちおや 五辻いつつじちゅうまましよう花山院かさんのいんままし
母親ははおや 平高ひらたかおんな
テンプレートを表示ひょうじ

つじ 忠子ただこ(いつつじ ちゅうし/ただこ、ぶんひさし5ねん1268ねん) - もとおう元年がんねん11月15にち1319ねん12月27にち))は、鎌倉かまくら時代ときよ貴族きぞくこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう女院にょいん後醍醐天皇ごだいごてんのうはは参議さんぎ五辻いつつじちゅうまましむすめで、はは皇后こうごうみやあきら平高ひらたかむすめ花山院かさんのいんままし養女ようじょ院号いんごうだんてんもんいん

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

ちちつじただしつぎ忠子ただこまれたぶんなが5ねん(1268ねん)に出家しゅっけしている。内大臣ないだいじん花山院かさんのいんままし養女ようじょとしてこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅうはいり、弘安ひろやす9ねん1286ねんすすむ内親王ないしんのういたるさとしもんいん)をみ、さらにみこと親王しんのう(のちの後醍醐天皇ごだいごてんのう)、せいえん法親王ほうしんのううけたまわさとし法親王ほうしんのうをもうける。そのしゅうとである亀山かめやまいん寵愛ちょうあいけ、えいひとし6ねん1298ねん)7がつ21にち亀山かめやまいん沙汰さたによりしたがえさんとなる。正安まさやす3ねん1301ねん)7がつ20日はつか じゅんさんみやよしみもと3ねん1305ねん)9がつ亀山かめやまいん崩御ほうぎょにより出家しゅっけし、法名ほうみょう蓮花れんげさとしとした。当時とうじ大覚寺だいかくじみつるの嫡系は西にしはなもんいん所生しょせいこう二条天皇にじょうてんのうおよびその皇子おうじくにりょう親王しんのうとされていたが、のべけい元年がんねん1308ねん二条天皇にじょうてんのう崩御ほうぎょし、若年じゃくねんくにりょう親王しんのうわり中継なかつぎとして忠子ただこ所生しょせいみこと親王しんのう皇太子こうたいしとなった。みこと親王しんのうぶん2ねん1318ねん)に即位そくいし(後醍醐天皇ごだいごてんのう)、忠子ただこ同年どうねん4がつ12にち院号いんごう宣下せんげけ、だんてんもんいんごうした。よくもとおう元年がんねん1319ねん11月15にち、52さい薨去こうきょ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]