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平滋子たいらのしげこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
たいら 滋子しげこ
だい80だい天皇てんのうはは
皇太后こうたいごう じんやす3ねん(1168ねん)3がつ20日はつか
建春門院けんしゅんもん
院号いんごう宣下せんげ よしみおう元年がんねん(1169ねん)4がつ12にち

誕生たんじょう 康治こうじ元年がんねん1142ねん
崩御ほうぎょ 安元やすもと2ねん7がつ8にち1176ねん8がつ14にち
平安京へいあんきょう
いみな 滋子しげこ(じし、しげこ)
別称べっしょう しょうべんきょくしょうべん
氏族しぞく たいらこうとうりゅう
父親ちちおや 平時へいじしん
母親ははおや 藤原ふじわら祐子ゆうこ
配偶はいぐうしゃ 後白河天皇ごしらかわてんのう
入内じゅだい おう元年がんねん(1161ねん)4がつ以前いぜん
子女しじょ 高倉天皇たかくらてんのう
上皇じょうこう女房にょうぼう)→女御にょうご皇太后こうたいごう
立后りっこうぜん位階いかい したがえさん
宮廷きゅうてい女房にょうぼう 建春門院中納言けんしゅんもんいんのちゅうなごん
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たいら 滋子しげこ(たいら の じし/しげこ、1142ねん康治こうじ元年がんねん〉- 1176ねん8がつ14にち安元やすもと2ねん7がつ8にち〉)は、日本にっぽんだい77だい天皇てんのう後白河天皇ごしらかわてんのう女御にょうご皇太后こうたいごう女院にょいん高倉天皇たかくらてんのうはは国母こくぼ)。院号いんごう建春門院けんしゅんもん(けんしゅんもんいん)。

後白河天皇ごしらかわてんのう譲位じょうい桓武かんむたいらこうとうながれ、いわゆるどう上平かみひらまれ。ちち兵部ひょうぶけん大輔だいすけ平時へいじしんおく左大臣さだいじん)、はは中納言ちゅうなごん藤原ふじわらあらわよりゆきむすめ祐子ゆうこ(すけこ)。兄弟きょうだいどきただししんむね姉妹しまいあま時子ときこ平清盛たいらのきよもり継室けいしつ)・冷泉れいせんきょく建春門院けんしゅんもん女房にょうぼう)・清子きよこそうもりしつ)・坊門ぼうもん殿でん重盛しげもりしつ維盛はは可能かのうせいあり)・藤原ふじわらちかしたかししつけんしょう僧都そうずぜんしんはは)・そちきょく建礼門院けんれいもんいん女房にょうぼう)がいる。

生涯しょうがい

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康治こうじ元年がんねん1142ねん)にまれ、幼少ようしょう若狭わかさきょく養育よういくされる[注釈ちゅうしゃく 1]ちち鳥羽とば法皇ほうおう近臣きんしんであり、滋子しげこ法皇ほうおうむすめ上西かみにしもんいん白河しらかわ上皇じょうこう同母どうぼあね)に女房にょうぼうとしてつかえた。あにちゅう官職かんしょくみぎしょうべんであったことから、こうめいしょうべん(こべん)としょうした。その美貌びぼう聡明そうめいさがこう白河しらかわいんまり、寵愛ちょうあいけるようになる。おう元年がんねん(1161ねん)4がついん御所ごしょほうじゅうてら殿どの完成かんせいすると滋子しげこは、こう白河しらかわいん皇后こうごう忻子ともにゅうして「ひがし御方おかた」とばれるようになる[2]身分みぶんひくさのために女御にょうごにはなれなかったが、こう白河しらかわいん寵愛ちょうあいふかさは比較ひかくにならなかった。

9月3にち滋子しげここう白河しらかわいんだいなな皇子おうじ憲仁のりひと)を出産しゅっさんする[3]こう白河しらかわいんは35さい滋子しげこは20さいだった。このころ政治せいじ主導しゅどうけんめぐってこう白河しらかわいん二条天皇にじょうてんのうはげしく対立たいりつしていたため、その出生しゅっしょうには「世上せじょう嗷々のせつ」、つまり不満ふまん批判ひはんがあったという[4]同月どうげつには平時忠たいらのときただらによる憲仁のりひと立太子りったいし陰謀いんぼう発覚はっかくしたため、二条にじょうみかどはただちに平時忠たいらのときただ平教盛たいらののりもり藤原ふじわらしげるおや坊門ぼうもん信隆のぶたからをかいかんして、こう白河しらかわいん政治せいじ介入かいにゅう停止ていしする措置そちをとった。翌年よくねん平時忠たいらのときただみなもとけんじょうみかど呪詛じゅそしたつみ配流はいるされる。この事件じけんにより、憲仁のりひと立太子りったいしのみならず親王しんのう宣下せんげさえも絶望ぜつぼうてきなものとなった。しかしじょうみかど乳母うば滋子しげこあね時子ときこであったことがさいわいして、滋子しげこ自身じしん直接ちょくせつ圧迫あっぱくくわえられることはなかった。

えいよろず元年がんねん1165ねん)7がつじょうみかど崩御ほうぎょしたことでこう白河しらかわいん政治せいじ活動かつどう再開さいかいし、12月には念願ねんがんだった憲仁のりひとへの親王しんのう宣下せんげおこなった。よくじんやす元年がんねん(1166ねん)、ろくじょう天皇てんのう後見こうけんしていた摂政せっしょう近衛このえはじめ死去しきょすると平清盛たいらのきよもりれて、10がつ10日とおか憲仁のりひと親王しんのう立太子りったいし実現じつげんさせた。儀式ぎしき東三条ひがしさんじょういんにて挙行きょこうされ、滋子しげこ生母せいぼとしてしたがえさんじょせられた。翌年よくねん正月しょうがつには女御にょうごとなり、いえしょくごとにはきょうもりそうもりもりしんはんたいら一門いちもんにんじられた。

こう白河しらかわいんは9月に、滋子しげこともなって熊野くまの参詣さんけいおこなった。これは、こう白河しらかわいんははまちけんもんいん白河しらかわ法皇ほうおう鳥羽とば上皇じょうこうしたがって参詣さんけいした先例せんれいにならったものだった。滋子しげこ熊野くまの参詣さんけいはこのときふくめて、記録きろくじょう4かい確認かくにんできる。『平家ひらか物語ものがたり』(長門ながとほん)には、熊野くまの本宮ほんぐう滋子しげこが「えびす飲酒いんしゅ」をっていたところに突然とつぜん大雨おおあめったが、いささかもたじろがずまいつづけたという逸話いつわがみえる。滋子しげこ信念しんねんつよさ、気丈きじょう性格せいかくあらわしたものといえる。実際じっさい滋子しげこ神仏しんぶつたいする信仰しんこうあつく、とく日吉ひよし神社じんじゃ平野ひらの神社じんじゃには頻繁ひんぱん参詣さんけいした。平野ひらの神社じんじゃたいら桓武かんむ天皇てんのうゆかりの神社じんじゃである。

じんやす3ねん1168ねん)2がつこう白河しらかわいん当初とうしょ予定よていどおりにろくじょう天皇てんのう譲位じょういさせ、憲仁のりひと親王しんのう践祚せんそした(高倉天皇たかくらてんのう)。3月14にちこう白河しらかわいん皇太后こうたいごう藤原ふじわらていきゅうじょういん女院にょいんごうあたえ、20日はつかにはこれでいた皇太后こうたいごう滋子しげこてた。皇太后こうたいごうみや大夫たいふには、大納言だいなごん久我くが雅通まさみちけん大夫たいふにはみぎ近衛このえ中将ちゅうじょう平宗盛たいらのむねもりあきらには藤原ふじわらじょうたかしされた。6月、高倉たかくらみかど外祖父がいそふ平時へいじしんせいいち左大臣さだいじんを、外祖母がいそぼ藤原ふじわら祐子ゆうこせいいち追贈ついぞうした。8月、高倉たかくらみかどほうじゅうてら殿どの行幸ぎょうこうし、寝殿しんでんにおいて滋子しげこ拝礼はいれいした。以前いぜん上西かみにしもんいんつかえて同僚どうりょうだった女房にょうぼうに「このめでたさをはいかがおぼしめす(このめでたさをどうおもわれますか)」とたずねられると、滋子しげこは「さきのことなればなんともおぼえず(前世ぜんせいおこないによるものなのでなんともおもっていない)」とこたえたという[5]

よしみおう元年がんねん(1169ねん)4がつ12にち滋子しげこ女院にょいんてられ建春門院けんしゅんもん院号いんごう宣下せんげされる[注釈ちゅうしゃく 2]

いん花山院かさんのいんただしみやび平時忠たいらのときただ平宗盛たいらのむねもりひらおやむね平時へいじなどたいら一門いちもんとその縁戚えんせきおおにんじられた。とく太政大臣だじょうだいじんちゅうみやび女院にょいん別当べっとうされたのはきわめて異例いれいのことだった。一方いっぽうで、滋子しげこつかえる女房にょうぼう上西かみにしもんいんからの異動いどうられ、いえこう白河しらかわいん近臣きんしん兼任けんにんするなど、さんしゃ家政かせい機関きかん職員しょくいんはかなり重複じゅうふくしていた[注釈ちゅうしゃく 3]滋子しげここう白河しらかわいん不在ふざいおりには、除目じもく政事せいじについて奏聞そうもんけるなど家長かちょう代行だいこう機能きのう役目やくめたすことになる。「大方おおかた政事せいじはじめ、はかなきほどことまでしんにまかせぬことなし(政治せいじうえでのどんな些細ささいなことでも女院にょいんおもいのままにならないことはなかった)」[6]とまでひょうされた政治せいじてき発言はつげんりょくにより、自身じしんちか人々ひとびとであるしんはん叔父おじ)、そうもり猶子ゆうし)、ときただしおやむね兄弟きょうだい)の昇進しょうしん後押あとおしした(ただし、よしみおう強訴ごうそではときただししんはんかいかん配流はいるされていることから、その発言はつげんりょくこう白河しらかわいんさえるほどのものではなかったとかんがえられる)。また、ここで注意ちゅういしなければならないのは、滋子しげこ立場たちばどう上平かみひら出身しゅっしんしゃ后妃こうひとしてのち白河しらかわいんささえる立場たちば一貫いっかんしてつらぬとおすものであり、武門ぶもんたいら――なかでも義理ぎりあにである平清盛たいらのきよもり政権せいけん運営うんえい滋子しげこかかわることはほとんどなく、滋子しげこあねである時子ときこかない清盛きよもり嫡男ちゃくなん平重盛たいらのしげもりとはほとんどつながりをつことはかった[7]

うけたまわやす元年がんねん1171ねん正月しょうがつ前年ぜんねん殿下でんか乗合のりあい事件じけんにより延期えんきされていた高倉天皇たかくらてんのう元服げんぷく儀式ぎしきが、滋子しげこまえおこなわれた。装束しょうぞく奉仕ほうしは、藤原ふじわらくにつな平宗盛たいらのむねもりひらおやむねなど滋子しげこちか人々ひとびとつとめた。10月、滋子しげここう白河しらかわいんとも福原ふくはらおとずれて、清盛きよもり歓待かんたいける。このとき清盛きよもりむすめ徳子とくこ高倉たかくらみかどへの入内じゅだい合意ごういたっしたと推測すいそくされる。12月14にち徳子とくこほうじゅうてら殿どの参上さんじょうげ、滋子しげこ徳子とくこ腰紐こしひもむすんだ。徳子とくこはそのばん入内じゅだいして女御にょうごとなり、翌年よくねん2がつ中宮ちゅうぐうとなった。うけたまわやす3ねん(1173ねん)4がつ12にち滋子しげこ就寝しゅうしんしていたほうじゅうてらかや御所ごしょ火災かさいい、滋子しげこ女房にょうぼうけん寿ことぶきおんな[注釈ちゅうしゃく 4]しんむね先導せんどうにより避難ひなんした。こん熊野くまのしゃ参籠さんろうちゅうだったのち白河しらかわいんは、滋子しげこあんじてただちに御所ごしょもどっている。

10月、ときちゅう責任せきにんしゃとなってほうじゅうてら殿どのない造営ぞうえいしていた、滋子しげこ御願ごがん御堂みどうさい勝光かつみついん完成かんせいした。それは「土木どぼく壮麗そうれい荘厳しょうごん華美かび天下てんかだい一之かずゆきふつかく也」[8]、「今度こんどこと華麗かれいやめちょう先例せんれい[9]といわれるほどだい規模きぼなものだった。さい勝光かつみついんには莫大ばくだい荘園しょうえん寄進きしんされて威信いしんしめされる一方いっぽう諸国しょこくには造営ぞうえいのためおも賦課ふかせられたといううったえが相次あいついだという。うけたまわやす4ねん(1174ねん)3がつ16にち滋子しげここう白河しらかわいんとも厳島いつくしま御幸みゆきした。たいら一門いちもんからはそうもりもりじゅう衡らが、いん近臣きんしんからはみなもとけん藤原ふじわらひかりのう平康頼たいらのやすより西光さいこうなどが供奉ぐぶした。天皇てんのうもしくはいん后妃こうひれて海路かいろ遠方えんぽう旅行りょこうすることは前代未聞ぜんだいみもんであり、吉田よしだけいぼうは「やめさきぶんまわし希代きたいごと歟、かぜ波路なみじ其難、上下じょうげ雖奇おどろき是非ぜひ[10]あきてた。

安元やすもと2ねん1176ねん)3がつ4にちから6にちにかけて、こう白河しらかわいんの50さいのためにほうじゅうてら殿どのにおいて盛大せいだい式典しきてんもよおされた。こう白河しらかわいん滋子しげこ高倉たかくらみかど徳子とくこ上西かみにしもんいんたいら一門いちもん公卿くぎょう勢揃せいぞろいしたこの式典しきてんは、たいら繁栄はんえい絶頂ぜっちょうしめすものとなった。儀式ぎしきわった3がつ9にちこう白河しらかわいん滋子しげこ摂津せっつこく有馬ありま温泉おんせん御幸みゆきする[4]かえってまもない6がつ8にち滋子しげこ突然とつぜんやまいたおれる。病名びょうめいきん(にきみ、もの)だった。こう白河しらかわいん病床びょうしょう看護かんご加持かじちからくすが、病状びょうじょう悪化あっかする一方いっぽうだった。23にち高倉たかくらみかどはは見舞みまいを熱望ねつぼうするが、ぜんだい相国しょうこく天皇てんのう自身じしんきんがひどくなるとつよ反対はんたいしてめたという[11]。7月8にち滋子しげこ看護かんご甲斐かいもなく35さい崩御ほうぎょした。

滋子しげこ崩御ほうぎょ政情せいじょうおおきな波紋はもんこした。元々もともと白河しらかわいん清盛きよもり高倉天皇たかくらてんのう擁立ようりつというてん利害りがい一致いっちしていただけで、たいら一門いちもんいん近臣きんしんあいだには官位かんい昇進しょうしん知行ちぎょうこく荘園しょうえん獲得かくとくなどをめぐり、するど対立たいりつ関係かんけい存在そんざいした。その衝突しょうとつ抑止よくしして調整ちょうせいやくたしていたのが、滋子しげこどう上平かみひらだった。高倉天皇たかくらてんのう即位そくいによって成立せいりつしたのち白河しらかわ院政いんせいは、武門ぶもんたいらどう上平かみひらいん近臣きんしんというたがいに利害りがいことにするかく勢力せいりょく連合れんごう政権せいけんといえる形態けいたいをとっていたため、滋子しげこにより、いままでかくされていた対立たいりつ一気いっき表面ひょうめんすることになった。滋子しげこからわずか1ねん鹿しかだに陰謀いんぼうこり、こう白河しらかわいん清盛きよもり提携ていけい崩壊ほうかいする。滋子しげこひとつの時代じだいわりであると同時どうじに、たいら滅亡めつぼうへの序曲じょきょくともなった。

こうして武門ぶもんたいら滅亡めつぼうするが、皇統こうとう滋子しげこんだ高倉天皇たかくらてんのう系統けいとうがれ、またどう上平かみひらも「日記にっきいえ」として朝廷ちょうていないとどまったのである。

人柄ひとがら

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滋子しげこ素顔すがおは、藤原ふじわら定家さだいえ同母どうぼあねけん寿ことぶきおんな日記にっき『たまきはる(建春門院中納言けんしゅんもんいんのちゅうなごん日記にっき)』にきしている。けん寿ことぶきおんな滋子しげこ女房にょうぼうとしてつかえるようになったのは12さいころで、滋子しげこ皇太后こうたいごうになったばかりだった。『たまきはる』には「あなうつくし、にはさはかかるひとのおはしましけるか(なんとうつくしい、このにはこのようなひともいらしたのか)」としるされている。滋子しげこ美貌びぼうは『建礼門院けんれいもんいん右京大夫うきょうのだいぶしゅう』でも、「げんかたなくめでたく、わかくもおはします(言葉ことばにできぬほどうつくしく、若々わかわかしい)」と絶賛ぜっさんしている。

滋子しげこはその美貌びぼうたのむだけでなく、「大方おおかたしんおきてなど、まことにたぐひすくなくやおはしましけん(心構こころがまえがじつ比類ひるいなくていらした)」[6]とあるように、万事ばんじにつけてしっかりとして几帳面きちょうめん性格せいかくで、女房にょうぼう退屈たいくつしないよう気配きくばりをおこたらず、いつ白河しらかわ高倉たかくらてもいようにえず威儀いぎただし、こう白河しらかわ御所ごしょにいるときはいつもどう殿しんがりして食事しょくじともにとった。その様子ようすは「御所ごしょぎょしつらひ、人々ひとびと姿すがたまで、ことにかがやくばかりえし(御所ごしょ調度ちょうどから女房にょうぼう姿すがたまで、かがやくようだった)」[12]しるされている。

滋子しげこ自戒じかいめて「おんなはただしんから、ともかくもなるべきものなり。おやおもおきてて、ひとのもてなすにもよらじ。わがしんをつつしみて、おもひくたさねば、おのづからぐるこうひもあるものぞ(おんなこころがけしだいでどうにでもなるもの。おや周囲しゅういのせいではない。自分じぶんしんをしっかりもって粗末そまつにしなければ、自然しぜんあま幸運こううんもある)」とおりれてかたっていたという[6]

なお『平家ひらか物語ものがたり』では彼女かのじょ嫉妬しっとしたために以仁王もちひとおう親王しんのう宣下せんげけられず、たいらへの憎悪ぞうおしたということになっているが、これは「因果応報いんがおうほう」を主題しゅだいとする『平家ひらか物語ものがたり』の方便ほうべんであって、かならずしも史実しじつそくした解釈かいしゃくとはいえない[注釈ちゅうしゃく 6]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 若狭わかさきょく建春門院けんしゅんもん乳母うば[1]
  2. ^ へいはんよしみおう元年がんねん4がつ12にちじょうには、院号いんごうじょう経過けいかしるされている。大内裏だいだいり東南とうなんもんすべ使つかわれていたため(禁忌きんきとされる朱雀すざくもんのぞく)、けんはるもん内裏だいり東門ひがしもん)・あん嘉門かもん大内裏だいだいり北門きたもん)・いんとみもん大内裏だいだいり西門にしもん)のもんごう候補こうほとなり、一度いちど使つかわれた陽明ようめいもん大内裏だいだいり東門ひがしもん)に「しん」のけた「しん陽明ようめいもんいん」、御所ごしょであるほうじゅうてら殿どのにちなんだ「ななじょういん」という意見いけんされた。あにときちゅう東三条ひがしさんじょういん上東門院じょうとうもんいん吉例きちれいであることから御所ごしょごうに「ひがし」のけて「東七条ひがしななじょういん」、藤原ふじわらたかしおなじく東三条ひがしさんじょういんれいい、いん御領ごりょう三条さんじょう室町むろまち殿どの滋子しげこりょうじゅんじて「しん三条さんじょういん」を提案ていあんした。議論ぎろん結果けっかおおくの賛同さんどうあつめた建春門院けんしゅんもん宣下せんげされた。これが内裏だいりもん名称めいしょう女院にょいんごう採用さいようしたはつれいとなった。
  3. ^ たいら一門いちもん以外いがいいえなかには滋子しげこ没後ぼつごこう白河しらかわいん近臣きんしん専念せんねんするものもおり、中原なかはら宗家そうけのようにうけたまわさんねん政変せいへんはんたいらがわ人物じんぶつとして処罰しょばつされた事例じれいもある。
  4. ^ 『たまきはる』の作者さくしゃ
  5. ^ このぜんだい相国しょうこくが、清盛きよもりちゅうみやびのどちらであるかは判然はんぜんとしない。清盛きよもりおもに「入道にゅうどう相国しょうこく」「禅門ぜんもん」としるされているので「ぜんだい相国しょうこく」はちゅうみやびとするのが自然しぜん解釈かいしゃくであるが、発言はつげん内容ないようから清盛きよもり可能かのうせいもある。
  6. ^ 院政いんせい時代じだい親王しんのう宣下せんげけるのは、余程よほどのことがないかぎり原則げんそくとして正妃せいひ女御にょうご中宮ちゅうぐう皇后こうごう所生しょせい皇子おうじ、または仏門ぶつもんはいった皇子おうじ法親王ほうしんのう)のみとまっていた。以仁王もちひとおうはは成子しげここう白河しらかわ寵愛ちょうあいふかだったがその身分みぶんはあくまでも典侍てんじ女官にょかん)である。しかも以仁王もちひとおう幼少ようしょうころには仏門ぶつもんにあったものの12さいのとき還俗げんぞくしたという過去かこつ。そんな以仁王もちひとおうには親王しんのう宣下せんげおこな根拠こんきょがそもそもなかったのであり、本人ほんにんがそれを承服しょうふくしかねる理由りゆうもなかったのである。

出典しゅってん

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  1. ^ やまえんじゅうけたまわ3ねん正月しょうがつ3にちじょう
  2. ^ たま
  3. ^ やまえんじゅ』・『帝王ていおうへんねん
  4. ^ a b 百錬ひゃくれんしょう
  5. ^ 古今ここん著聞ちょぶんしゅうまきはち
  6. ^ a b c たまきはる
  7. ^ 栗山くりやま圭子けいこ院政いんせいにおける国母こくぼ政治せいじてき位置いち」『中世ちゅうせい王家おうけ成立せいりつ院政いんせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん ISBN 978-4-642-02910-0はら論文ろんぶん:2002ねん
  8. ^ 明月めいげつよしみろく2ねん6がつ5にちじょう
  9. ^ たまうけたまわやす3ねん11月21にちじょう
  10. ^ きち同日どうじつじょう
  11. ^ たま[注釈ちゅうしゃく 5]
  12. ^ 建礼門院けんれいもんいん右京大夫うきょうのだいぶしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ