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平教盛たいらののりもり

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ひら きょうもり
平教盛たいらののりもり赤間あかま神宮じんぐう所蔵しょぞう
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 大治おおはる3ねん1128ねん
死没しぼつ 文治ぶんじ元年がんねん3月24にち1185ねん4がつ25にち
享年きょうねん58
別名べつめい 門脇かどわき殿どの門脇かどわき宰相さいしょう門脇かどわき中納言ちゅうなごん
墓所はかしょ 赤間あかま神宮じんぐうななもりづか
官位かんい したがえけん中納言ちゅうなごん
主君しゅくん 近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのうろくじょう天皇てんのう高倉天皇たかくらてんのう安徳天皇あんとくてんのう
氏族しぞく 桓武かんむたいら維衡ながれ坂東ばんどうたいらけい伊勢いせたいら
父母ちちはは 平忠盛たいらのただもり藤原家隆ふじわらのいえたかむすめ
兄弟きょうだい 清盛きよもりいえもりけいもりきょうもりよりゆきもりちゅう
つま 藤原ふじわらけんむすめ
つうもりきょうけいごうもりなかこころよみなもととおるおやしつ
藤原ふじわらしげるけいしつ教子きょうこ藤原ふじわらはんしつ)、平宗盛たいらのむねもりしつ
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平教盛たいらののりもり菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』)

ひら きょうもり(たいら の のりもり)は、平安へいあん時代じだい末期まっき平家ひらか一門いちもん武将ぶしょう平忠盛たいらのただもりよんなん平清盛たいらのきよもり異母弟いぼていはは藤原家隆ふじわらのいえたかむすめまちけんもんいんつかえた女房にょうぼう)。平通ひらどおりもり平教経たいらののりつねちち

もとらん平治へいじらんあに清盛きよもりしたがってたたかう。邸宅ていたくろく総門そうもんにあったことから門脇かどわき殿どの通称つうしょうされ、さらにたいら政権せいけんでの栄達えいたつしたがって門脇かどわき宰相さいしょう門脇かどわき中納言ちゅうなごんばれた。鹿しかだに陰謀いんぼう事件じけんではむすめ婿むこ藤原ふじわらしげるけいつみわれたため、その赦免しゃめん奔走ほんそうした。うけたまわ寿ことぶきひさしらんではおも後方こうほうまもりについた。一ノ谷いちのやたたか嫡男ちゃくなんつうもりはじ子息しそくうしなう。壇ノ浦だんのうらたたか敗戦はいせんなかあにけいもりとともに入水じゅすいした。

生涯しょうがい

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もと元年がんねん1156ねん)のもとらんではあに清盛きよもりしたがってたたかっている。こうによりいん昇殿しょうでんゆるされた。

平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらんでは清盛きよもりこう白河しらかわ法皇ほうおう二条天皇にじょうてんのう内裏だいりから奪回だっかいして、内裏だいりこも源義朝みなもとのよしとも藤原ふじわら信頼しんらい攻撃こうげきするさいに、清盛きよもり嫡男ちゃくなん重盛しげもりおとうとよりゆきもりとともに大将たいしょうとしてろく出撃しゅつげき重盛しげもりさむらいけんもんよりゆきもりいくかたもん攻撃こうげきし、敗走はいそうしたとみせかけて源氏げんじ内裏だいりからおびきし、そのあいだ内応ないおうしゃ陽明ようめいもんけさせて内裏だいり占領せんりょうするはたらきをした。退路たいろうしなったあさろくそう攻撃こうげきをしかけるが、力尽ちからつきて敗走はいそうらん清盛きよもり勝利しょうりわった。

清盛きよもりこう白河しらかわいん距離きょりいたのと対照たいしょうてきに、ははつかえたまちけんもんいん所生しょせいというえんからこう白河しらかわいん接近せっきんいん近臣きんしんとして活動かつどうした。ただし正室せいしつはら異母弟いぼていよりゆきもりいけ殿どの)にくらべると、清盛きよもり従順じゅうじゅんであったという[注釈ちゅうしゃく 1]らんせいよん常陸ひたちかい叙任じょにんされていたが、おう元年がんねん1161ねん9月15にち二条天皇にじょうてんのうはいして憲仁のりひと親王しんのう高倉天皇たかくらてんのう擁立ようりつはかったとの容疑ようぎのためかいかんされる。これはこう白河しらかわ上皇じょうこう二条天皇にじょうてんのうとの対立たいりつえをけたもので、いんちか平時忠たいらのときただ清盛きよもり義弟ぎてい)や藤原ふじわらしげるおや同時どうじかいかんされている。なお、翌年よくねんには能登のともり復職ふくしょくしている。

じんやす3ねん1168ねん)にせいさん参議さんぎすすみ、門脇かどわき宰相さいしょうばれた。

安元やすもと3ねん1177ねん)4がつ延暦寺えんりゃくじ大衆たいしゅういん御所ごしょ強訴ごうそせたさい警固けいごのために出動しゅつどう同年どうねん6がつ鹿しかだに陰謀いんぼう事件じけん発覚はっかく首謀しゅぼうしゃいん近臣きんしん藤原ふじわらしげるおや西光さいこう俊寛しゅんかんらで、このうちのなりおや嫡男ちゃくなんなりけいきょうもりむすめ婿むこだった。むすめ身重みおもでもあり、こまてたきょうもりなりけいとともに清盛きよもりもとまいり、寛大かんだい処置しょちねがったが、清盛きよもり対面たいめんすらゆるさずなりけい断罪だんざいめいじた。これにたいして、きょうもり出家しゅっけして隠遁いんとんするとまでいだし、それならばとようやくなりけい身柄みがらきょうもりあづけることをゆるした。

関係かんけいしゃ処罰しょばつまり、なりけい備中びっちゅうこくいでとお薩摩さつまこくおにかいとうながされることになった。むすめ婿むこのことあわれにおもきょうもり懐妊かいにんした中宮なかみや徳子とくこ安産あんざん祈願きがんとして大赦たいしゃねがて、清盛きよもりもこれをゆるし、よくうけたまわ2ねん1178ねん)になりけい赦免しゃめんされてきょうかえった。

うけたまわ4ねん1180ねん)5がつ以仁王もちひとおう挙兵きょへい計画けいかく露顕ろけん園城寺おんじょうじんだ以仁王もちひとおう追討ついとう大将たいしょう一人ひとりにんじられる。

うけたまわ5ねん1181ねんうるう2がつ清盛きよもり死去しきょ平家へいけ衰運すいうんかうことになる。

養和ようわ元年がんねん1181ねん)10がつ北陸ほくりくどう情勢じょうせい不穏ふおんになると、きょうもり兄弟きょうだいよりゆきもりけいもりとともに洛中らくちゅうまもりを担当たんとうした。嫡男ちゃくなんつうもり越前えちぜんまもる北国きたぐにまもりを担当たんとうしており、源義仲みなもとのよしなかぐん合戦かっせんかえしていた。

養和ようわ2ねん1182ねん)、したがえけん中納言ちゅうなごんすすみ、門脇かどわき中納言ちゅうなごんばれるようになった。

一門いちもん都落みやこお

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寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)4がつから5がつにかけて、平維盛たいらのこれもりそう大将たいしょうとする北陸ほくりく遠征えんせいぐんみなもと義仲よしなかやぶれて壊滅かいめつ嫡男ちゃくなんつうもり敗走はいそうしてきょうかえった。同年どうねん7がつ平家ひらかきょうささえきれなくなり、ついに都落みやこおちする。

平家ひらか讃岐さぬきこく屋島やしま本営ほんえいき、きょうもりつうもりきょうけい父子ふし同年どうねんうるう10がつ水島みずしまたたか参戦さんせん勝利しょうりする。さらに、同年どうねん11がつ室山むろやまたたかでは平重衡たいらのしげひらとともに大将軍だいしょうぐんとして出陣しゅつじんみなもとこうやぶっている。よく寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ義仲よしなか鎌倉かまくらから派遣はけんされた源範頼みなもとののりより義経よしつねほろぼされた。

平家ひらか摂津せっつこく福原ふくはらまで進出しんしゅつし、きょうもり父子ふし西国さいごく反乱はんらん勢力せいりょく鎮圧ちんあつにあたり、とく次男じなんきょうけい華々はなばなしくたたかった。寿ことぶきひさし3ねん1184ねん)2がつ4にち福原ふくはら清盛きよもり法要ほうよういとなまれ、除目じもくおこなわれ(平家へいけ安徳天皇あんとくてんのう三種さんしゅ神器じんぎようしているので除目じもくおこな権利けんりがある)、きょうもりせい大納言だいなごんじょされるが、これを辞退じたいした。その源範頼みなもとののりより義経よしつね鎌倉かまくらぐんきょう進発しんぱつしていた。

7にちおこなわれた福原ふくはらめぐ一ノ谷いちのやたたか平家へいけ惨敗ざんぱいし、嫡男ちゃくなんつうもりをはじめ、きょうけいごうもりらがにした(きょうけいについては生存せいぞんせつあり[2])。さらに、身重みおもだったつうもりつましょう宰相さいしょうおっとのちって入水じゅすい自殺じさつしてしまう。たちをうしなったきょうもり身辺しんぺん心細こころぼそいものになった。

その平家ひらか屋島やしまたたかやぶれ、長門ながとこく彦島ひこしまのがれた。そして寿ことぶきひさし4ねん1185ねん)3がつ壇ノ浦だんのうらたたかおこなわれ、平家ひらか力尽ちからつきて敗北はいぼくあま清盛きよもりつま)と安徳天皇あんとくてんのうをはじめ、平家へいけ一門いちもん次々つぎつぎ入水じゅすいした。きょうもりあにけいもりとともによろいうえいかりをつなげて兄弟きょうだいしゅりあってうみしずんだ。享年きょうねん58。

むすめ教子きょうこである重子しげこ後鳥羽ごとば天皇てんのうちょうとなり、守成しゅせい親王しんのう(のちの順徳天皇じゅんとくてんのう)をんでいる。

かんれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

系譜けいふ

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画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「(清盛きよもりは)兄弟きょうだいクオハシケルちゅうニ、コトニ此人ヲバいと惜(いとほしく)オボシテ、いちにちネバこいクオボツカナケレバトテ、ろく惣門そうもんわきみやつこ据置すえおききゅうヒタレバ、異名いみょう門脇かどわき宰相さいしょうさるケル也」[1]

出典しゅってん

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  1. ^ 源平げんぺい盛衰せいすいまきろく丹波たんば少将しょうしょう召捕めしと
  2. ^ 佐谷さや眞木まきじん 2008, p. 206.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐谷さや眞木まきじん義経よしつね千本せんぼんさくら』と『平家ひらか物語ものがたり評判ひょうばん秘伝ひでんしょう」『藝文げいぶん研究けんきゅうだい95かん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく藝文げいぶん学会がっかい、2008ねん12月、199-212ぺーじCRID 1050282813924528640ISSN 0435-1630 

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テレビドラマ

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外部がいぶリンク

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