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しょう宰相さいしょう

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しょう宰相さいしょう江戸えど時代じだい前賢ぜんけん故実こじつ』より。菊池きくち容斎ようさい

しょう宰相さいしょう(こざいしょう、よしみおう元年がんねん1164ねん)? [1]- 寿ことぶきひさし3ねん2がつ14にち1184ねん3月27にち))は平安へいあん時代じだい末期まっき女性じょせいちち刑部おさかべきょう藤原ふじわら憲方のりかたははは按察使藤原ふじわらあらわたかしむすめ平通ひらどおりもりつま

一ノ谷いちのやたたかでのつうもりしょう宰相さいしょうこうって入水じゅすいしたエピソードは、『平家ひらか物語ものがたり』で一章いっしょうかれ、一ノ谷いちのやたたかいでの象徴しょうちょうてき悲話ひわになっている。

生涯しょうがい

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しょう宰相さいしょう上西かみにしもんいん鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ後白河天皇ごしらかわてんのう同母どうぼあね)の女房にょうぼうで、宮中きゅうちゅういち美女びじょとうたわれた。平家ひらか物語ものがたりからのエピソードのみになるが彼女かのじょが16さいのとき(うけたまわ3ねん1179ねんごろ?)に法勝寺ほっしょうじ花見はなみにおきょうしたさいに、これを中宮なかみやあきら平通ひらどおりもり彼女かのじょ一目いちもくぼれした。その和歌わか恋文こいぶみをしきりにおくるが3ねんたってもしょう宰相さいしょう返事へんじをしなかった。

これが最後さいごおもい、ぶん使つかいにわたしたが、おりしく取次とりつぎ女房にょうぼうがおらず、使つかいがもどろうとすると、ちょうどさとからかえってくるしょう宰相さいしょうくるまった。使つかいはぶんくるまれてった。しょう宰相さいしょうはとりあえずかえったが、御所ごしょ宮仕みやづかえしていたとき上西かみにしもんいんまえでこのぶんとし、女院にょいんはこれをひろって「あまりつよいのもよくありませんよ」と、みじめな最期さいごげたという小野小町おののこまちれいして、みずかすずりせて返事へんじいてやるようにうながした。

こうして女院にょいん仲立なかだちでつうもりしょう宰相さいしょうむすばれた。つうもりしょう宰相さいしょうほか従兄弟いとこ平宗盛たいらのむねもりむすめつまにしていたが、こちらはまだ12さい程度ていどおさな少女しょうじょだった。やがてうけたまわ寿ことぶきひさしらんがはじまり、つうもり各地かくち転戦てんせんするが、平家ひらか源義仲みなもとのよしなか大敗たいはいきっし、寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)ついに都落みやこおちを余儀よぎなくされた。しょう宰相さいしょうつうもりとともに海上かいじょう流浪るろうした。平家へいけ讃岐さぬきこく屋島やしま本営ほんえいき、やがて摂津せっつこく福原ふくはらにまで進出しんしゅつたした。

寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ義仲よしなか鎌倉かまくらみなもと頼朝よりともおとうとはんよりゆき義経よしつねほろぼされ、同年どうねん2がつにははんよりゆき義経よしつね大軍たいぐんひきいて福原ふくはらせまった。

合戦かっせんまえに、つうもり沖合おきあい船団せんだんからつませ「明日あしたせんにするようがする。わたしがそうなったら、きみはどうする」とった。しょう宰相さいしょうたたかはいつものことだから、この言葉ことば本当ほんとうだとはおもわず、自分じぶん身籠みごもっていることをげた。つうもりは「わたしは30さいになるが、どうせなら男子だんしであってしい。いくがつになるのか?船上せんじょうのことだから、心配しんぱいだなあ」とたいそうよろこんだ。

そこへ平家へいけ随一ずいいち剛勇ごうゆうられたおとうときょうけいがやってて、いかりながら「ここはこのきょうけいかれるほどの危険きけん戦場せんじょうですぞ。そのようなこころがけではもののやくちますまいに」とあにをたしなめた。つうもりももっともなこととおもつまふねかえした。

合戦かっせん平家へいけ大敗たいはいわり、一門いちもんおおくのものにし、つうもり佐々木ささきしゅんつなられまたふねかえってこなかった。屋島やしまかう平家へいけ船団せんだんなかしょう宰相さいしょうは、おっとたれたとはいてはいたが、なにかの間違まちがいであろうと、きてかえることもあるかもしれないと心細こころぼそおっとかえりをつづけていた。

しょう宰相さいしょう乗船じょうせんしているふねつうもり従者じゅうしゃ滝口たきぐちいんがやってきて、つうもり湊川みなとがわ討死うちじにしたむね最後さいご奮戦ふんせん様子ようす報告ほうこくした。これをいてしょう宰相さいしょう返事へんじもできずにし、よるけるまでがることもできなかった。

2がつ14にち船団せんだん屋島やしま到着とうちゃくするよるしょう宰相さいしょう乳母うばに「湊川みなとがわのちだれおっとったひとはいませんでした。もう、おっときものと覚悟かくごしました」とうと福原ふくはらでのおっととの最後さいご対面たいめんのことをかたり、「んで形見かたみとしてそだてねばならないとおもうが、かなしみはすばかりで、ひとこいしさにくるしむよりはうみそこはいろうとおもさだめました。どうかおっとわたし菩提ぼだいとむらっておくれ」とたのんだ。

乳母うばなみだおさえて「んでそだて、あまになってきるべきです」と必死ひっしめた。しょう宰相さいしょうもそのは「げるといって、本当ほんとうげるひとはいませんよ」とおもいとどまったようにこたえた。やがて乳母うばがうたたするとしょう宰相さいしょうがり、「南無なむ西方せいほう極楽ごくらく世界せかい…どうか、わかれた夫婦ふうふ極楽ごくらくわせてください」と念仏ねんぶつとなえるとうみげた。

かじりがこれをかけて、乳母うばこして、みなでうみさがし、ようやくしょう宰相さいしょうからだげたが、すでにんでいた。乳母うばつうもりよろい亡骸なきがらせて、しょう宰相さいしょううみしずめてほうむった。その乳母うばつうもりおとうと僧侶そうりょになっていた中納言ちゅうなごん律師りっしなかこころよのもとで剃髪ていはつ出家しゅっけして、つうもりしょう宰相さいしょう菩提ぼだいとむらった。人々ひとびとは、おっと先立さきだたれたつまあまになるのが普通ふつうなのに、うとはめずらしいことだと感心かんしんし「忠臣ちゅうしんくんつかえず、貞女ていじょおっとにまみえず」と(『史記しき』の故事こじをひいて)いいあった。

建礼門院けんれいもんいん右京大夫うきょうのだいぶしゅう』にも美人びじん有名ゆうめいだった女房にょうぼうらしくつうもりつまとなったこと右京大夫うきょうのだいぶにとっても意外いがいだったようだが、おっとのちったことが「これまでにないちぎりふかさよ」と京都きょうとでも評判ひょうばんになったとしるされている。また右京大夫うきょうのだいぶ知人ちじんしょう宰相さいしょうおもいをかけていたことかれている。

また徳島とくしまけん鳴門なると大毛島おおげしまにあるしん神社じんじゃちかくにしょう宰相さいしょうはかつたわる墓碑ぼひがある[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しかしちち憲方のりかた1160ねん卒去そっきょしているのでじつ年齢ねんれいは19さいよりうえだったとおもわれる
  2. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 36 徳島とくしまけん』(1986ねん ISBN 4040013603

関連かんれん項目こうもく

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