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一ノ谷いちのやたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
一ノ谷いちのやたたか

源平げんぺい史蹟しせきせんはま須磨浦公園すまうらこうえん
戦争せんそううけたまわ寿ことぶきひさしらん
年月日ねんがっぴ寿ことぶきひさし3ねん/うけたまわ8ねん2がつ7にち1184ねん3がつ20日はつか
場所ばしょ摂津せっつこく 福原ふくはら須磨すまげん神戸こうべ兵庫ひょうご中央ちゅうおう須磨すま
結果けっかみなもとぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
みなもと 平家ひらか
指導しどうしゃ指揮しきかん
源範頼みなもとののりより
源義経みなもとのよしつね
多田ただこうつな
平知盛たいらのとももり
平忠度たいらのただのり
平宗盛たいらのむねもり
平重衡たいらのしげひら
平教経たいらののりつね
戦力せんりょく
 すうまん 5〜7まん
損害そんがい
武将ぶしょう多数たすう戦死せんし 有力ゆうりょく武将ぶしょう死者ししゃ多数たすうだい損害そんがい
うけたまわ寿ことぶきひさしらん

一ノ谷いちのやたたか(いちのたにのたたかい)は、平安へいあん時代じだい末期まっき寿ことぶきひさし3ねん/うけたまわ8ねん2がつ7にち1184ねん3がつ20日はつか)に摂津せっつこく福原ふくはらおよび須磨すまおこなわれたたたかい。うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)におけるたたかいのひとつ。

背景はいけい[編集へんしゅう]

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)の倶利伽羅峠くりからとうげたたかおよび篠原しのはらたたか源義仲みなもとのよしなかやぶれた平家ひらか兵力へいりょく大半たいはんうしない、同年どうねん7がつ安徳天皇あんとくてんのう三種さんしゅ神器じんぎほうじてち、九州きゅうしゅう大宰府だざいふまでのがれた。きょう制圧せいあつした義仲よしなかだが、統治とうち失敗しっぱいしてこう白河しらかわ法皇ほうおうとも対立たいりつするようになった。義仲よしなかこう白河しらかわ法皇ほうおういのち平家ひらか追討ついとうのために出兵しゅっぺいするが備中びっちゅうこく大敗たいはいきっしてしまう(水島みずしまたたか)。こう白河しらかわ法皇ほうおう義仲よしなか見限みかぎり、鎌倉かまくらみなもと頼朝よりともたよろうとするが、これが義仲よしなか激怒げきどさせ、こう白河しらかわ法皇ほうおう幽閉ゆうへいされてしまう(ほうじゅうてら合戦かっせん)。

情勢じょうせい不利ふりになり脱落だつらくしゃ続出ぞくしゅつして義仲よしなか兵力へいりょく激減げきげんしてしまい、讃岐さぬきこく屋島やしまにまで復帰ふっきしていた平家へいけ和平わへいもうるが、平家ひらかはこれを拒絶きょぜつした。寿ことぶきひさし3ねん(1184ねん)1がつ20日はつか頼朝よりとも派遣はけんしたはんよりゆき義経よしつねひきいる鎌倉かまくらぐんめられて義仲よしなかほろんだ(宇治川うじがわたたか)。

このみなもと同士どうしこうそうあいだ勢力せいりょくなおした平家へいけは、同年どうねん1がつには大輪田おおわだはく上陸じょうりくして、かつて平清盛たいらのきよもり計画けいかくした福原ふくはらまで進出しんしゅつしていた。平家へいけ瀬戸内海せとないかい制圧せいあつし、中国ちゅうごく四国しこく九州きゅうしゅう支配しはいし、すうまん兵力へいりょくようするまでに回復かいふくしていた。平家へいけ同年どうねん2がつにはきょう奪回だっかいぐんこすことを予定よていしていた。

1がつ26にちこう白河しらかわ法皇ほうおうは、頼朝よりとも平家へいけ追討ついとう平家ひらか都落みやこおちのさいった三種さんしゅ神器じんぎ奪還だっかんめいじる平家へいけ追討ついとう宣旨せんじした。平家へいけ所領しょりょう500ヵ所かしょ頼朝よりともあたえられた。      


合戦かっせん経過けいか[編集へんしゅう]

一ノ谷いちのやたたかい、狩野かの

以下いかは『吾妻あづまきょう』『平家ひらか物語ものがたり』などをもとにした巷間こうかんられる合戦かっせん経過けいかである。

前哨ぜんしょうせん[編集へんしゅう]

一ノ谷いちのやたたか関係かんけい拡大かくだい

寿ことぶきひさし3ねん(1184ねん2がつ4にち鎌倉かまくらぐんあわを7にちさだめ、はんよりゆき大手おおてぐん5まん6せんを、義経よしつね搦手からめてぐん1まんひきいてきょう出発しゅっぱつして摂津せっつくだった。平家へいけ福原ふくはら陣営じんえいいて、その外周がいしゅうひがし生田いくたこう西にし一ノ谷いちのやこうやま夢野ゆめのこう)に強固きょうこ防御ぼうぎょじんきずいてかまえていた。

同日どうじつ搦手からめてひきたん波路なみじすす義経よしつねぐん播磨はりまこく三草山みくさやまもりゆうもりらのじん夜襲やしゅう仕掛しかけて撃破げきはする(三草山みくさやまたたか)。前哨ぜんしょうせん勝利しょうりした義経よしつね敗走はいそうしたもりゆうもりらを土肥どい実平さねひら追撃ついげきさせて山道さんどう進撃しんげきした。

2がつ6にち福原ふくはら清盛きよもり法要ほうよういとなんでいた平家ひらか一門いちもんこう白河しらかわ法皇ほうおうからの使者ししゃおとずれ、和平わへい勧告かんこくし、源平げんぺい交戦こうせんしないようめいじた。平家ひらか一門いちもんがこれを信用しんようしてしまい、警戒けいかいゆるめたことが一ノ谷いちのたにたたかいの勝敗しょうはいけっしたとのせつがある(後述こうじゅつ)。

迂回うかい進撃しんげきつづける搦手からめてぐん義経よしつね鵯越ひよどりごえ(ひよどりごえ)でぐん二分にぶんして、安田やすだよしじょう多田ただこうつならに大半たいはんへいあたえてつうもりきょうけいの1まんまもゆめ野口のぐちやま)へかわせる(後述こうじゅつ)。義経よしつねわずか70ひきいて山中さんちゅう難路なんろ西にし転進てんしんした。

平家ひらか物語ものがたり』によれば、義経よしつね郎党ろうとう武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい年老としおいた猟師りょうし道案内みちあんないとしてつけてきた。猟師りょうし鵯越ひよどりごえ到底とうていひとうまえることのできぬ難路なんろであると説明せつめいすると、義経よしつね鹿しかはこのみちえるかとい、ふゆはさんでえさじょうもと鹿しか往復おうふくするとこたえた。義経よしつねは「鹿しかかよえるならば、うまかよえよう」と案内あんないするようもとめたがろう猟師りょうし自分じぶんとしをとりすぎているとして息子むすこ紹介しょうかいした。義経よしつねはこの若者わかものり、郎党ろうとうくわえて鷲尾わしお三郎さぶろう義久よしひさ名乗なのらせた。

難路なんろをようやくえて義経よしつねら70たいら一ノ谷いちのや陣営じんえい裏手うらてた。断崖絶壁だんがいぜっぺきうえであり、平家ひらか山側やまがわまった警戒けいかいしていなかった。

開戦かいせん生田いくたたたか[編集へんしゅう]

2がつ7にち払暁ふつぎょう先駆さきがけせんとほっして義経よしつね部隊ぶたいからした熊谷くまがい直実なおみ直家なおいえ父子ふし平山ひらやまおもらの5ちゅうまも塩屋しおやこう西城戸にしじょうどあらわれて名乗なのげて合戦かっせんはじまった。平家へいけ最初さいしょ少数しょうすうあなどって相手あいてにしなかったが、やがてらんとへいして直実なおみらをかこむ。直実なおみらは奮戦ふんせんするが、多勢たぜい無勢ぶぜいられかけたとき土肥どい実平さねひらひきいる7000けつけて激戦げきせんとなった。

午前ごぜん6もりじゅう平家へいけぐん主力しゅりょくまも東側ひがしがわ生田いくたこうじんまえにははんよりゆきひきいる梶原かじはら景時かげとき畠山はたけやま重忠しげただ以下いか大手おおてぐん5まん布陣ふじんはんよりゆきぐんはげしくかけるが、平家ひらかごうをめぐらし、逆茂木さかもぎかさねてじんかためてちかまえていた。平家へいけぐんあめのようにかけておう鎌倉かまくらぐんをひるませる。平家へいけぐんは2000して、白兵戦はくへいせん展開てんかいはんよりゆきぐん河原かわはら高直たかなお藤田ふじたこうやすらがたれて、死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつしてめあぐねた。そこへ梶原かじはら景時かげときけい父子ふし逆茂木さかもぎのぞき、ふりそそぐなか突進とっしんして「梶原かじはらけ」とばれる奮戦ふんせんせた。

義経よしつねかれた安田やすだよしじょう多田ただこうつならも夢野ゆめのこうやま)を攻撃こうげきする。

生田いくたこう塩屋しおやくち夢野ゆめのこう激戦げきせんひろげられるが、平家ひらかはげしく抵抗ていこうして、鎌倉かまくらぐん容易よういには突破とっぱできなかった。

ぎゃくとし[編集へんしゅう]

鵯越ひよどりごえぎゃくとし『源平げんぺい合戦かっせん屏風びょうぶ』「一ノ谷いちのたに
うま背負せお畠山はたけやま重忠しげただ銅像どうぞう埼玉さいたまけん深谷ふかや

精兵せいびょう70ひきいて、一ノ谷いちのや裏手うらて断崖だんがい絶壁ぜっぺきうえった義経よしつね戦機せんきさかくだ決断けつだんをする。

平家ひらか物語ものがたり』によれば、義経よしつねうま2とうとして、1とうあしくじいてたおれるが、もう1とう無事ぶじくだった。義経よしつねは「こころしてくだればうまそこなうことはない。みなものくだりよ」とうや先陣せんじんとなってくだった。坂東ばんどう武者むしゃたちもこれにつづいてくだる。まち(218メートル)ほどくだると、屏風びょうぶったようなけわしい岩場いわばとなっており、さすがの坂東ばんどう武者むしゃ怖気おじけづくが、三浦みうら一族いちぞく佐原さはらよしれんが「三浦みうらではつね日頃ひごろ、ここよりもけわしいところちているわ」とうや、さきくだった。義経よしつねらもこれにつづく。大力だいりき畠山はたけやま重忠しげただうまそこねてはならじとうま背負せおって岩場いわばくだった[1]。なお『吾妻あづまきょう』によれば、畠山はたけやま重忠しげただはんよりゆき大手おおてぐんぞくしており、義経よしつね軍勢ぐんぜいにはいない。

がけくだった義経よしつねらは平家へいけじん突入とつにゅうする。予想よそうもしなかった方向ほうこうから攻撃こうげきけた一ノ谷いちのたに陣営じんえいだい混乱こんらんとなり、義経よしつねはそれにじょうじて方々かたがたをかけた。平家へいけへいたちは我先われさきにとうみした。

鎌倉かまくら幕府ばくふ編纂へんさんの『吾妻あづまきょう』では、このたたかいについて「みなもと九郎くろう義経よしつね)は勇士ゆうしななじゅうひきいて、一ノ谷いちのや後山あとやま鵯越ひよどりごえごうす)に到着とうちゃく」「九郎くろう三浦みうら十郎じゅうろうれん佐原さはらよしれん)ら勇士ゆうしひきいて、鵯越ひよどりごえ(このやまいのしし鹿しかうさぎきつねそととおれぬ険阻けんそである)において攻防こうぼうあいだに、(平家へいけは)商量しょうりょううしな敗走はいそうあるいは一ノ谷いちのやたてうまようとさくし、あるいはふね四国しこくかおうとした」とあり、義経よしつねが70ひきい、険阻けんそいちたに背後はいご鵯越ひよどりごえ)から攻撃こうげき仕掛しかけたことがわかる。これが逆落さかおとしを意味いみすると解釈かいしゃくされている。

九条くじょうけん日記にっきたま』では搦手からめて義経よしつね丹波たんばじょう三草山みくさやま)をとし、いで一ノ谷いちのたにとした。大手おおてはんよりゆきはまより福原ふくはらせた。多田ただこうつな山側やまがわからめてやま夢野ゆめのくち)をとした。と戦況せんきょうのこしている。ここでは義経よしつね一ノ谷いちのたにとしたことはしるしているが、逆落さかおとしの奇襲きしゅうをかけたとはいていない。

なおほん項目こうもく経過けいか解説かいせつ画像がぞうでは、逆落さかおとしの場所ばしょ現在げんざいこの合戦かっせん説明せつめいさい主流しゅりゅうになっている一ノ谷いちのや裏手うらててつ拐山とするせつ一ノ谷いちのやせつ)をっているが、『平家ひらか物語ものがたり』や上記じょうき吾妻あづまきょう』では義経よしつねたたかった場所ばしょ鵯越ひよどりごえ一ノ谷いちのやから東方とうほう8キロメートル)となっており鵯越ひよどりごえせつ根強ねづよく、またそもそも逆落さかおと自体じたいが『平家ひらか物語ものがたり』が創作そうさくした虚構きょこうであるという見方みかた有力ゆうりょくである(後述こうじゅつ)。

平家ひらか敗走はいそう[編集へんしゅう]

いちたに合戦かっせん屏風びょうぶふねもどろうとする平敦盛たいらのあつもりめる熊谷くまがい直実なおみ

混乱こんらん波及はきゅうして平忠度たいらのただのりまも塩屋しおやこう西城戸にしじょうど突破とっぱされる。まど平家へいけへいたちがふね殺到さっとうして、溺死できししゃ続出ぞくしゅつした。

生田いくたこう東城戸ひがしじょうどでは副将ふくしょうじゅう衡が8000ひきいて安田やすだよしじょう多田ただこうつならにめられ危機ききおちいっているゆめ野口のぐちやま)の救援きゅうえんかった。午前ごぜん11ごろ一ノ谷いちのやからけむりがるのをはんよりゆき大手おおてぐんそう攻撃こうげきめいじた。もり必死ひっし防戦ぼうせんするがへい足立あしだち、つい敗走はいそうはじめた。

安徳天皇あんとくてんのう建礼門院けんれいもんいんらと沖合おきあいのふねにいたそう大将たいしょうそうもり敗北はいぼくさとって屋島やしまかった。

西城戸にしじょうどしょうちゅうのがれようとしていたところを岡部おかべただしきよしまれて負傷ふしょうし、覚悟かくごして端座たんざして念仏ねんぶつをとなえくびを刎ねられた。歌人かじんだったちゅうえびら和歌わかのこしていた逸話いつわのこっている。

合戦かっせん一番乗いちばんのりの功名こうみょうたした熊谷くまがい直実なおみてきさがしていると、うまってうみはいり、おきふねのがれようとするたいら武者むしゃつけて「てきけるのは卑怯ひきょうであろう。もどりなされ」とびかけた。武者むしゃはこれにおうじて、りくきかえして直実なおみむが、勇士ゆうし直実なおみにはとてもてきわず、せられた。直実なおみくびろうとするが、武者むしゃかおると薄化粧うすげしょうをしたうつくしい顔立かおだちの少年しょうねんだった。武者むしゃ清盛きよもりおとうとけいもり敦盛あつもり16さい名乗なのった(『源平げんぺい盛衰せいすい』による。『平家ひらか物語ものがたり』では名乗なのらない)。直実なおみ息子むすこ直家なおいえおなじ16さいで、あわれにおもにがそうとするが、源氏げんじ武者むしゃせまっており、とうていのがれることはできまいと敦盛あつもりった。ちょくじつ武家ぶけ無情むじょうさとり、のち出家しゅっけして高野山こうのやまのぼった。『平家ひらか物語ものがたり』のめい場面ばめんである。史実しじつでも直実なおみ敦盛あつもり高野たかのさん供養くようし、その出家しゅっけして法然ほうねんつかえている。『吾妻あづまきょう』によると出家しゅっけ直接ちょくせつ理由りゆう所領しょりょうめぐ訴訟そしょうやぶれたさい梶原かじはら景時かげとき言動げんどうおこったためである。

敗走はいそうした平重衡たいらのしげひらは、梶原かじはらけいしょうによってらえられた。『吾妻あづまきょう』では児玉こだまとう武将ぶしょうである庄太郎しょうたろう家長かちょうに、『平家ひらか物語ものがたり』では庄四郎しょうしろうだからえられたとある(研究けんきゅうしゃあいだでは、武功ぶこう見合みあうだけの恩賞おんしょうあたえられているてんから家長かちょうせつ有力ゆうりょくされている[よう出典しゅってん])。

この敗走はいそうたいら一門いちもんおおくがたれ、たいら屋島やしまのがれて、たたかいは鎌倉かまくらかた勝利しょうりわった。

戦後せんご[編集へんしゅう]

神戸こうべ須磨すま須磨寺すまでら境内けいだいにある平敦盛たいらのあつもりくびづか

はんよりゆきぐん平通ひらどおりもり平忠度たいらのただのりひらけいしゅんたいらきよしぼうたいらきよしさだを、義経よしつねぐんは、平敦盛たいらのあつもりたいら知章ともあきたいらぎょうもりひらもりしゅん安田やすだよしじょうぐんは、平経正たいらのつねまさたいらもり平教経たいらののりつねをそれぞれったとわれている。ただし、『平家ひらか物語ものがたり』や『吾妻あづまきょう』など文献ぶんけんによって戦死せんししゃ多少たしょうことなっている。このたたかいで一門いちもんおおくをうしなった平家へいけ致命ちめいてきだい打撃だげきをうける。

こう白河しらかわ法皇ほうおう捕虜ほりょになったじゅう衡と三種さんしゅ神器じんぎ交換こうかんするよう平家へいけ交渉こうしょうするが、そうもりはこれを拒絶きょぜつし、合戦かっせん直前ちょくぜん休戦きゅうせん命令めいれいしたがっていたにもかかわらず、突然とつぜんみなもとおそわれたということにたいする抗議こうぎと「休戦きゅうせん命令めいれい平家へいけおとしいれるはかりごとではなかったか」とののち白河しらかわ法皇ほうおうへの不審ふしんてている。

合戦かっせん大勝たいしょうした鎌倉かまくらぐん戦略せんりゃく目標もくひょうである三種さんしゅ神器じんぎ奪還だっかんには失敗しっぱいしており、屋島やしまたたか壇ノ浦だんのうらたたかへとたたかいはまだつづくことになる。

平家ひらか敗北はいぼく要因よういん[編集へんしゅう]

平家ひらか敗北はいぼく要因よういんについて、こう白河しらかわ法皇ほうおうたいら講和こうわ提案ていあんおこな油断ゆだんさせる一方いっぽうで、鎌倉かまくらぐん連携れんけいしてたいたいら攻撃こうげき着々ちゃくちゃく準備じゅんびした計略けいりゃくであるというせつがある[よう出典しゅってん]

このせつでは、合戦かっせん直前ちょくぜんの2がつ6にちのち白河しらかわ法皇ほうおう休戦きゅうせん命令めいれいと、合戦かっせんむねもりの「休戦きゅうせん命令めいれいしんじていたら、みなもとおそわれて一門いちもんおおくがころされた、(平家へいけおとしいれる)はかりごとではないのか」という法皇ほうおうへの抗議こうぎ書状しょじょう重視じゅうしして、法皇ほうおう信頼しんらいして和解わかい展望てんぼうひらいていた平家へいけにとって、鎌倉かまくらぐん突然とつぜん攻撃こうげき想定そうていできるものではなく、鎌倉かまくらぐん勝利しょうりかならずしも源義経みなもとのよしつねしょうとしての能力のうりょくなどだけに起因きいんしているのではないとしている。

もっとも、このせつ裏付うらづける史料しりょうやぶれた平家へいけかた書状しょじょうのみである。当時とうじ地理ちり熟知じゅくちしていた平家へいけがわ東門ひがしもん北門きたもん夢野ゆめのこう明泉寺みょうせんじ明泉寺あいずみじ)の2箇所かしょ)・西門にしもん戦術せんじゅつじょう要所ようしょ布陣ふじんしており、やはりせん想定そうていしていたとする反論はんろんもある[よう出典しゅってん]

たま』のつたえる源平げんぺい兵力へいりょく[編集へんしゅう]

吾妻あづまきょう』ではみなもと兵力へいりょくはんよりゆきぐんは5まん4せん義経よしつねぐんは2まんとある。『平家ひらか物語ものがたり』もどう程度ていど兵力へいりょくであり、ほとんどの合戦かっせん関係かんけいほんで、この合戦かっせん解説かいせつするさいにはおもにこの数字すうじ使つかわれており、ほん項目こうもく経過けいか説明せつめいもこれにしたがっている。しかし、べつ見方みかたもある。

九条くじょうけん日記にっきたま』の2がつ4にち記事きじでは「みなもと納言なごんみなもと定房さだふさ)のはなしでは、平家ひらか主上しゅじょう安徳天皇あんとくてんのう)をほうじて福原ふくはら到着とうちゃく九州きゅうしゅう軍勢ぐんぜいいまだに到着とうちゃくしないが、四国しこく紀伊きい軍勢ぐんぜいすうまんという。じゅうさんにち入洛にゅうらくしようとしている。一方いっぽう官軍かんぐん源氏げんじ)はわずかにいちせんぎない。」とある。

また、2がつ6にち記事きじでは「あるにんはなしによると、平家ひらか一ノ谷いちのたに退しりぞき、南野みなみのかった。しかし、その軍勢ぐんぜいまんである。官軍かんぐん源氏げんじ)はわずかにいちせんである。(中略ちゅうりゃく)またべつひとはなしでは、平家ひらかげたのは謬説であり、その軍勢ぐんぜいすうせんすうまんらずある。」とある。

たま』にしたがえば、平家ひらかすうまんであるのにたいしてみなもとは1~2せん程度ていどわずかな軍勢ぐんぜいしかいない圧倒的あっとうてき不利ふり状況じょうきょうにあったことになる。源平げんぺい互角ごかく兵力へいりょく衝突しょうとつしたよう(とくはんよりゆき生田いくたもりたたかい)に記述きじゅつがされている従来じゅうらいの『吾妻あづまきょう』『平家ひらか物語ものがたり』をもとにした合戦かっせんかんまったくずされてしまう。これでは10ばい以上いじょう兵力へいりょくがあり、常識じょうしきてき合戦かっせんにならない。はんよりゆき義経よしつねは10ばい以上いじょうたいら本営ほんえい福原ふくはら攻撃こうげき仕掛しかけたことになる。にもかかわらず、みなもと勝利しょうりしている。

吾妻あづまきょう』の一ノ谷いちのやたたかいの合戦かっせん記述きじゅつには軍記物語ぐんきものがたりの『平家ひらか物語ものがたり』の影響えいきょうがあるという指摘してきもある。そのために『吾妻あづまきょう』にも義経よしつね勇士ゆうし70一ノ谷いちのや裏山うらやま鵯越ひよどりごえ)にち、鵯越ひよどりごえから攻撃こうげき仕掛しかけて一ノ谷いちのたにとした(逆落さかおとし)という『平家ひらか物語ものがたり』を肯定こうていする記述きじゅつになっている。しかし、逆落さかおとしは荒唐無稽こうとうむけいであり、しんじるべきではないという見方みかた歴史れきしがく専門せんもんでは一般いっぱんてきで、そうなると、うえふしのような「白河しらかわ法皇ほうおうはかりごと」という大胆だいたんなトリックが必要ひつようになるのである。つまり、この合戦かっせん全体ぜんたい政略せいりゃくてき奇襲きしゅうであり、圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいたいらは(見方みかたによっては)ほとんど武装ぶそう解除かいじょちか状態じょうたいにあったところをみなもとおそわれて(まともな合戦かっせんにもならず)大敗たいはいきっしたということになる。

このせつしたがえば、はんよりゆき生田いくたもり激戦げきせんはもちろん、義経よしつね逆落さかおとしもなく、ほん項目こうもく経過けいか説明せつめいのような一般いっぱんかたられる『吾妻あづまきょう』『平家ひらか物語ものがたり』をもとにした合戦かっせん解説かいせつすべ虚構きょこうということになる。激戦げきせんだったという従来じゅうらいのこの合戦かっせん理解りかい根本こんぽんてきくずれる。

吾妻あづまきょう』と『平家ひらか物語ものがたり』を創作そうさくであるとてて、厳密げんみつに『たま』のみをれば、「義経よしつね三草山みくさやまいちたにとして、はんよりゆきはまから福原ふくはらせた。多田ただこうつなやま攻略こうりゃくし、合戦かっせんは2あいだらずでわり、たいら敗走はいそうした。」以外いがい具体ぐたいてき戦闘せんとう推移すいいなにわからなくなるのである。

しかしながら、それでは、合戦かっせん経過けいかがほとんどなにけなくなり、ぶたもないので一般いっぱんてき合戦かっせん解説かいせつでは、こう白河しらかわ法皇ほうおう政略せいりゃく加味かみしつつ、具体ぐたいてき合戦かっせん経過けいかは『たま』をまじえつつもおもに『吾妻あづまきょう』と『平家ひらか物語ものがたり』をり、兵力へいりょくについてはまったことなるために『吾妻あづまきょう』をり、『たま』は1~2せんというみなもと兵力へいりょく無視むしして、すうまんというたいら兵力へいりょくのみをることになる。合戦かっせん具体ぐたいてき経過けいかについては、最新さいしん研究けんきゅうがまだ研究けんきゅうしゃによってまちまちで一致いっちせず、一般いっぱんにも十分じゅうぶん普及ふきゅうしていないので、ほん項目こうもく合戦かっせん経過けいか一般いっぱん書籍しょせき観光かんこう案内あんない使つかわれるそれにしたがっている。

逆落さかおとしの場所ばしょ論争ろんそう[編集へんしゅう]

てつ拐山より須磨すまうらのぞ

名高なだか義経よしつねぎゃくとしだが、一般いっぱんてきには「鵯越ひよどりごえ[2]」からおこなわれたというせつひろまっている[3]。『平家ひらか物語ものがたり』では義経よしつねらがくだった場所ばしょ鵯越ひよどりごえとしえがいており、『吾妻あづまきょう』でも義経よしつねたたかった場所ばしょ鵯越ひよどりごえしるされているからである。しかし、鵯越ひよどりごえ神戸こうべ兵庫ひょうご鵯越筋ひよどりごえすじ)は一ノ谷いちのたに神戸こうべ須磨すまいちたにまち)の東方とうほう8キロにあり、『吾妻あづまきょう』『たま』『平家ひらか物語ものがたり』の義経よしつね一ノ谷いちのたにじん攻略こうりゃくしたという記述きじゅつ矛盾むじゅんする。

このため、一ノ谷いちのやという攻略こうりゃく地点ちてん重視じゅうしして桑田くわたただしおやなどは戦況せんきょう史料しりょう断片だんぺんてき記録きろくから判断はんだんしてぎゃくとしは一ノ谷いちのたに裏手うらててつ拐山東南とうなん急峻きゅうしゅんがけからおこなわれたとべている。一ノ谷いちのやからはるかにはなれた鵯越ひよどりごえより、一ノ谷いちのや背後はいごてつ拐山のがけであるほう戦況せんきょう説明せつめい合理ごうりてきになるため、近年きんねん合戦かっせんあつかった関係かんけい書籍しょせき観光かんこう史跡しせき案内あんない[4]などでもおもにこの一ノ谷いちのやせつられており、ほんこうおよび戦況せんきょう地図ちず画像がぞうもこのせつしたがって記述きじゅつしている。

一方いっぽうで、『吾妻あづまきょう』や『平家ひらか物語ものがたり』の記述きじゅつどおりにぎゃくとしの場所ばしょ鵯越ひよどりごえであるとのせつ根強ねづよい。このため、ぎゃくとしがおこなわれた場所ばしょてつ拐山の東南とうなんか、鵯越ひよどりごえかで長年ながねん論争ろんそうになっている。神戸こうべ歴史れきし落合おちあい重信しげのぶ鵯越ひよどりごえせつり、義経よしつねやま夢野ゆめのくち)のつうもりきょうけいもりしゅんじん攻略こうりゃくしたとしている[5]。『平家ひらか物語ものがたり』にも義経よしつね北方ほっぽうやま鵯越ひよどりごえ方面ほうめんもりしゅんじん攻撃こうげき仕掛しかけたとある[6]。 また、鵯越ひよどりごえせつ立場たちばからは、たいらしろかれた場所ばしょ現在げんざい須磨すまいちたにまちとはことなるとして(現在げんざい須磨すまいちたに江戸えど時代じだいあらわれた地名ちめいであるとしている)、従来じゅうらい合戦かっせん解説かいせつでの一ノ谷いちのや位置いち比定ひてい根本こんぽんてきあやまっているとするせつもある(兵庫ひょうごけん郷土きょうど史家しか梅村うめむら伸雄のぶお[7])。

しかしながら、義経よしつねがけないしさかくだってたいら一ノ谷いちのや陣営じんえい奇襲きしゅうしたという「逆落さかおとし」自体じたい当時とうじいちきゅう史料しりょうである『たま』にはしるされておらず、また『吾妻あづまきょう』の合戦かっせん記述きじゅつには『平家ひらか物語ものがたり』の影響えいきょう指摘してきされている[8]

やま攻撃こうげきしょう[編集へんしゅう]

ほん項目こうもく合戦かっせん経過けいかには3,000ひきいる義経よしつね三草山みくさやまたたかに7,000土肥どい実平さねひらあたえてべつ行動こうどうらせている)がへいけて70ひきいて一ノ谷いちのたに裏山うらやまかい逆落さかおとしの奇襲きしゅうおこなったとしている。ところが逆落さかおとしを詳細しょうさい記述きじゅつしている『平家ひらか物語ものがたり』では義経よしつねへいけず3,000鵯越ひよどりごえからいちたに逆落さかおとしをかけている。一方いっぽう、『吾妻あづまきょう』ではいちたに裏山うらやままわったのは「勇士ゆうしななじゅうあまり」となっている。逆落さかおとしが本当ほんとうにあったとすれば、このほう多少たしょう現実げんじつてきかんがえられ、合戦かっせん関係かんけいほんおおくがこの後者こうしゃ数字すうじっている。するとのこだい部分ぶぶんへいだれかがひきいたことになる。そしてきょうけいもりしゅんまもやま夢野ゆめのくち)を攻撃こうげきした。おおくの合戦かっせん関係かんけいほんでそのような経過けいかになっており[よう出典しゅってん]ほん項目こうもくでもそれにしたがっている。

吾妻あづまきょう』の戦果せんか報告ほうこくはんよりゆき義経よしつねならんで安田やすだよしじょうえる。このさんにん合戦かっせんかく方面ほうめん大将たいしょうつとめたとかんがえられる。じょう義経よしつね搦手からめてぐんぞくし、戦果せんか報告ほうこく平経正たいらのつねまさたいらもり平教経たいらののりつねっており、きょうけいやま夢野ゆめのくち)のしょうかんがえられることから、一般いっぱんじょうやまめた大将たいしょう推定すいていされることがおおい。たとえば、2005ねん大河たいがドラマ義経よしつね』でも、そのようにえがかれている(もちろん、ドラマなので考証こうしょうせい問題もんだいにならないが、このせつ一般いっぱん流布るふしているという傍証ぼうしょうである)。

安田やすだよしじょう甲斐かいはじめ平家へいけ打倒だとう挙兵きょへいし、富士川ふじかわたたか大功たいこうてている。その源義仲みなもとのよしなかぞくして入京にゅうきょうし、さらに義仲よしなか見限みかぎって宇治川うじがわたたかいではふたた鎌倉かまくらかたぞくすなど独自どくじ行動こうどうっている。甲斐かいはじめ源義家みなもとのよしいえおとうと源義光みなもとのよしみつ系統けいとうで、挙兵きょへい以来いらい鎌倉かまくらかたでは非常ひじょうおおきな戦力せんりょくゆうしていたとかんがえられ、血統けっとうてきにも頼朝よりとも対抗たいこうしうる一族いちぞくである。

一方いっぽうで、『たま』では義経よしつねいちたにとし、はんよりゆきはまから福原ふくはらせ(生田いくたこう)、多田ただこうつなやま夢野ゆめのくち)をとしたとある。三方さんぽうからめたことになり、そのいち安田やすだよしじょうではなく多田ただこうつなだった。ところが『吾妻あづまきょう』の編成へんせいでも戦果せんか報告ほうこくでも多田ただこうつな見当みあたらない。

多田ただこうつな鹿しかだに陰謀いんぼう清盛きよもり密告みっこくした人物じんぶつとして有名ゆうめいだが、摂津せっつこく多田ただはじめ棟梁とうりょうである。多田ただはじめきょう武士たけしとして活動かつどう朝廷ちょうていとのかかわりがつよく、畿内きないではおおきなちからっていた。多田ただこうつなはん平家へいけ挙兵きょへいして、義仲よしなかこう白河しらかわ法皇ほうおう攻撃こうげきしたほうじゅうてら合戦かっせんではいんかた主力しゅりょくとしてたたかっている。

多田ただこうつな合戦かっせんのあった摂津せっつこく地盤じばんゆうして兵力へいりょくおおく、地理ちり熟知じゅくちしていたはずであることから、やまめたのは『たま』で明記めいきされているとおり、多田ただこうつなであろうとするせつもある。一ノ谷いちのたにたたかいでもっと活躍かつやくしたのは地元じもと多田ただこうつなであるというせつまである(神戸こうべ郷土きょうど史家しか梅村うめむら伸雄のぶお[9])。

元木もとき泰雄やすおは、多田ただこうつな戦功せんこうが『吾妻あづまきょう』にない理由りゆうは、平家ひらか滅亡めつぼう文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)にくだりつな頼朝よりともいかりをけて所領しょりょう没収ぼっしゅうされたためであろうとべている[10]。 なお、安田やすだよしじょうのち頼朝よりともによって所領しょりょう没収ぼっしゅうされいやられている。

やま攻撃こうげきしたしょう安田やすだよしさだ多田ただこうつなかはほんによって、まちまちであり、ほんによっては折衷せっちゅうあんなのか安田やすだよしじょう多田ただこうつな両人りょうにん併記へいきしていることもある。ほん項目こうもくでも便宜上べんぎじょうやま攻撃こうげきしょうとして安田やすだよしじょう多田ただこうつな二人ふたり併記へいきするが、二人ふたり共同きょうどうしてやまめたという史料しりょうてき根拠こんきょがあるわけではない。安田やすだよしじょうが『吾妻あづまきょう』のさんにん大将たいしょう一人ひとりげられ、やままもきょうけいっており、一方いっぽう多田ただこうつなは『たま』でやまとしたと明記めいきされており、二人ふたりがこの方面ほうめんしょうとしてたたかっていたであろうからである。

近年きんねん研究けんきゅう[編集へんしゅう]

菱沼ひしぬま一憲かずのり国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんけん協力きょうりょくいん)は、この合戦かっせんについて以下いかせつべている[11]

2がつ4にち搦手からめて義経よしつねぐんは、播州ばんしゅう三草山みくさやま平資盛たいらのすけもりたいらゆうもりらのじん夜襲やしゅう仕掛しかけて敗走はいそうさせ、ひがし播磨はりま制圧せいあつしつつ、一ノ谷いちのやこう西にしとなり塩屋しおや集結しゅうけつした。ひがし播磨はりま一帯いったい平家へいけ地盤じばんであり、へい兵糧ひょうろう徴発ちょうはつ徴収ちょうしゅうおこなっていた。また、大軍たいぐん通行つうこうできる幹線かんせん道路どうろもあり、重要じゅうよう上洛じょうらくルートでもあった。三草山みくさやまやぶられたとった平宗盛たいらのむねもりは、義経よしつねぐんそなえてもうしょう平教経たいらののりつね鵯越ひよどりごえ防衛ぼうえいくわえた。

たま』によると、2がつ7にち早朝そうちょうあわせの時刻じこくどおり、はんよりゆき生田いくたこうを、義経よしつね一ノ谷いちのやこうを、多田ただこうつな鵯越ひよどりごえこうはじめた。まず、くだりつな鵯越ひよどりごえこうとした。鵯越ひよどりごえ平家ひらか本陣ほんじんである福原ふくはら大輪田おおわだはくもっとちかかったため、そうもり安徳天皇あんとくてんのうほうじて海上かいじょうのがれ、一ノ谷いちのたに生田いくた相次あいついで陥落かんらくした。

おおくの武将ぶしょうられたことについては、大輪田おおわだはくもっとちか鵯越ひよどりごえこう最初さいしょ陥落かんらくしたために生田いくた一ノ谷いちのやにいた将兵しょうへいおくれたことが原因げんいんではないかと推測すいそくしている。

また同様どうよう川合かわいやすしも、多田ただこうつな軍功ぐんこう一ノ谷いちのたにがわそう大将たいしょうである源義経みなもとのよしつね軍功ぐんこうえられ、一ノ谷いちのや鵯越ひよどりごえというふたつの戦場せんじょうが『平家ひらか物語ものがたり』で同一どういつ空間くうかんとしてさい構成こうせいされたという見解けんかいべている[12]

これにたいし『たま』には、多田ただこうつなやまとしたという記述きじゅつがみられるだけで、鵯越ひよどりごえから攻撃こうげきしたとは明記めいきされていないというてん注目ちゅうもくした田畑たばたつよしいちは、やまという語句ごくが、はましゅたいして相対そうたいてき山側やまがわ地形ちけい一般いっぱん名詞めいしであるとしたうえで、くだりつなはんよりゆき配下はいか生田いくたがわ攻撃こうげきくわわっていた可能かのうせい指摘してきしている。そして、『醍醐だいご雑事ざつじ』『かんしょう』などの記述きじゅつ比較ひかく分析ぶんせきした結果けっか一ノ谷いちのやから鎌倉かまくらおくられた合戦かっせん報告ほうこく段階だんかいしょうじた地理ちりてき矛盾むじゅんが、『吾妻あづまきょう』・『平家ひらか物語ものがたり』へがれたとも推論すいろんしている[13][14]

一ノ谷いちのたにたたかい」という名称めいしょうについて[編集へんしゅう]

実際じっさい合戦かっせんは、福原ふくはら中心ちゅうしん生田いくたこう一ノ谷いちのやこうおこなわれており、一ノ谷いちのたにだけが戦場せんじょうだったわけではない。菱沼ひしぬま一憲かずのりによると、義経よしつねがわからおおくの情報じょうほう外部がいぶながれたため、この名称めいしょうばれるようになったのだという。義経よしつね合戦かっせん1年間ねんかん頼朝よりとも在京ざいきょう代官だいかんとして政務せいむ従事じゅうじしており人脈じんみゃくおおかったが、はんよりゆき鎌倉かまくら帰還きかんしたため、生田いくたこうでの合戦かっせん情報じょうほう不足ふそくしたというのである[11]

鈴木すずきあきらによると、その結果けっか平家ひらか物語ものがたり』は、平家へいけ本陣ほんじん福原ふくはらであるはずが一ノ谷いちのたにであるかのように記述きじゅつし、鵯越ひよどりごえ一ノ谷いちのたにはる東方とうほう位置いちするのに平家ひらか本陣ほんじん見下みおろせる場所ばしょ描写びょうしゃするなどの工夫くふうほどこしているという[15]

田畑たばたつよしいちは、『吾妻あづまきょう』が『平家ひらか物語ものがたり』に依拠いきょしたというせつ五味ごみ文彦ふみひこ所論しょろん[16]もとづき批判ひはんし、一ノ谷いちのやめに参加さんかした中原なかはらちかしのう報告ほうこく土台どだいに『吾妻あづまきょう』が編纂へんさんされたゆえに、合戦かっせん叙述じょじゅつ一ノ谷いちのたにがわかたよったとする[14]

しかしながら、「一ノ谷いちのたに」については、おおくの歴史れきしてき文献ぶんけんかんがみて元々もともと湊川みなとがわ会下山えげやま南部なんぶにあったみずうみ呼称こしょうしていたのが須磨すま地名ちめい呼称こしょうするようにわったとするせつがある。『平家ひらか物語ものがたり まききゅう』『源平げんぺい盛衰せいすい まきさんじゅうなな』での平忠度たいらのただのりられるまでの記述きじゅつにおいてもそのことがうかがれる。生田いくた一ノ谷いちのやでのたたかいのかた文献ぶんけんでは「東城戸ひがしじょうどたたか」「西城戸にしじょうどたたか」とそれぞれ呼称こしょうされている。[よう出典しゅってん]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 青木あおき康洋やすひろ (2015ねん8がつ31にち). “なんだこれは!うま背負せおった武士ぶし銅像どうぞうかくされた真実しんじつ”. だれかにはなしたくなる、歴史れきし裏側うらがわ. Business Journal. 2023ねん11月26にち閲覧えつらん
  2. ^ ひよどり展望てんぼう公園こうえんあたり。
  3. ^ Re:おこたえします【ひょうごのなぞスペシャル】 よん 源義経みなもとのよしつねの「ぎゃくとし」場所ばしょは? - 兵庫ひょうご - 地域ちいき”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (2016ねん1がつ6にち). 2021ねん12月1にち閲覧えつらん
  4. ^ 義経よしつね神戸こうべ源平げんぺい物語ものがたり”. 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん[リンク]
  5. ^ 落合おちあい一ノ谷いちのたに合戦かっせん義経よしつねさかとしは、一ノ谷いちのたに鵯越ひよどりごえふもとかー」『歴史れきし神戸こうべだい134かん、1986ねんISSN 02887789 
  6. ^ 神戸こうべ文書ぶんしょかん 源平げんぺい特集とくしゅう一ノ谷いちのや合戦かっせん”. 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん
  7. ^ 義経よしつね実像じつぞう いちたに合戦かっせんにおける鵯越ひよどりごえ逆落さかおと”. 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん
  8. ^ 神戸こうべ文書ぶんしょかん 源平げんぺい特集とくしゅう一ノ谷いちのや合戦かっせん”. 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん
  9. ^ 家系かけい研究けんきゅう協議きょうぎかい 平成へいせい17年度ねんどはる例会れいかい報告ほうこく”. 2020ねん1がつ3にち閲覧えつらん
  10. ^ 元木もとき源義経みなもとのよしつね吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 9784642056236 
  11. ^ a b 菱沼ひしぬま源義経みなもとのよしつね合戦かっせん戦略せんりゃく その伝説でんせつ実像じつぞう角川かどかわ選書せんしょ、2005ねんISBN 404703374X 
  12. ^ 院政いんせい武士ぶし社会しゃかい鎌倉かまくら幕府ばくふ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん、157-191ぺーじISBN 9784642029544 
  13. ^ 田畑たばた多田ただこうつな福原ふくはら陥落かんらく」『歴史れきし神戸こうべ』333ごう、2019ねんISSN 02887789 
  14. ^ a b 田畑たばた「『吾妻あづまきょう生田いくたもりいちたに合戦かっせん記事きじさい検討けんとう」『歴史れきし神戸こうべ』340ごう、2020ねんISSN 02887789 
  15. ^ 鈴木すずき平家ひらか物語ものがたり展開てんかい中世ちゅうせい社会しゃかい』汲古書院しょいん、2006ねん 
  16. ^ 五味ごみ増補ぞうほ 吾妻あづまきょう方法ほうほう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねんISBN 4642077715 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 落合おちあい重信しげのぶ一ノ谷いちのたに合戦かっせん義経よしつねさかとしは、一ノ谷いちのたに鵯越ひよどりごえふもとかー」(『歴史れきし神戸こうべ』134ごう、1986ねん)。
  • 菱沼ひしぬま一憲かずのり源義経みなもとのよしつね合戦かっせん戦略せんりゃく その伝説でんせつ実像じつぞう角川かどかわ選書せんしょ、2005ねん
  • 鈴木すずきあきら平家ひらか物語ものがたり展開てんかい中世ちゅうせい社会しゃかい汲古書院しょいん、2006ねん
  • 元木もとき泰雄やすお源義経みなもとのよしつね吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん
  • 川合かわいやすし院政いんせい武士ぶし社会しゃかい鎌倉かまくら幕府ばくふ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん
  • 田畑たばたつよしいち多田ただこうつな福原ふくはら陥落かんらく」(『歴史れきし神戸こうべ』333ごう 2019ねん)。 どう「『吾妻あづまきょう生田いくたもりいちたに合戦かっせん記事きじさい検討けんとう」(『歴史れきし神戸こうべ』340ごう、2020ねん)。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]