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梶原かじはら景時かげとき

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梶原かじはら 景時かげとき
馬込まごめ万福寺まんぷくじぞう梶原かじはら景時かげときぞう
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん のべ6ねん1140ねん[1]
死没しぼつ 正治しょうじ2ねん1がつ20日はつか1200ねん2がつ6にち
別名べつめい 平三へいぞう(へいざ、へいぞう)
戒名かいみょう 龍泉院りゅうせんいんかじまさるみなもとこう
墓所はかしょ 梶原かじはらさん公園こうえん静岡しずおか清水しみず)の梶原かじはらどう
鎌倉かまくら深沢ふかさわ小学校しょうがっこう敷地しきちない五輪ごりんとう
東京とうきょう大田おおた万福寺まんぷくじ
兵庫ひょうごけんみなみあわじ神宮寺じんぐうじ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふさむらいしょ所司しょしうまや別当べっとう
じゅうさんにん合議ごうぎせい
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆき
氏族しぞく 桓武かんむたいら良文よしふみながれ鎌倉かまくら梶原かじはら酒匂さこ
父母ちちはは ちち梶原かじはらけいきよしはは横山よこやまたかしけんむすめ
兄弟きょうだい けい[注釈ちゅうしゃく 1]景時かげときあさけい
つま 鹿野かの
けいけいだかけいしげる景義かげよしけいむねけいそくけいれん
特記とっき
事項じこう
所領しょりょうである相模さがみこく一宮いちのみやげん神奈川かながわけん寒川さむかわまち)にかんかまえる。
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梶原かじはら 景時かげとき(かじわら かげとき)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにん

石橋いしばしさんたたかみなもと頼朝よりともすくったことから重用じゅうようされさむらいしょ所司しょしうまや別当べっとうとなる。当時とうじ東国とうごく武士ぶしにはめずらしく教養きょうようがあり、和歌わかこのみ、「武家ぶけひゃくにんいちしゅ」にも選出せんしゅつされている。源義経みなもとのよしつね対立たいりつした人物じんぶつとしてられるが、頼朝よりとも信任しんにんあつく、貴族きぞくからは「いち郎党ろうとう」「鎌倉かまくら本体ほんたい武士ぶし」としょうされていた。鎌倉かまくら幕府ばくふでは頼朝よりとも寵臣ちょうしんとして権勢けんせいるったが、頼朝よりとも死後しご追放ついほうされ一族いちぞくとともにほろぼされた(梶原かじはら景時かげときへん)。

生涯しょうがい

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頼朝よりともへの臣従しんじゅう

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梶原かじはら坂東ばんどう八平はちへいながれをくむ鎌倉かまくら一族いちぞくであり、大庭おおばとは同族どうぞくである。曾祖父そうそふ、またはしたがえ曾祖父そうそふこうさんねんやく源義家みなもとのよしいえのもとでたたか武勇ぶゆううたわれた鎌倉かまくら景正かげまさがいる(梶原かじはらけいひさ従兄弟いとこ)。梶原かじはら大庭おおばらとともにみなもと家人かじんであったが、平治へいじらん源義朝みなもとのよしともはいしたのち平家ひらかしたがっていた。

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつみなもと頼朝よりとも挙兵きょへいして伊豆いずこく目代もくだい山木やまきけんたかしころした。景時かげとき大庭景親おおばのかげちかとともに頼朝よりとも討伐とうばつかい、石橋いしばしさんたたか寡兵かへい頼朝よりともぐんやぶった。敗走はいそうした頼朝よりとも山中さんちゅうのがれたが、大庭景親おおばのかげちか追跡ついせきつづけ、山中さんちゅうをくまなく捜索そうさくした。『吾妻あづまきょう』によると、このとき景時かげとき飯田いいだよしともども頼朝よりとも山中さんちゅう在所ざいしょるもじょうをもってこのやまには人跡じんせきなしとほうじて、景親かげちからをべつやまみちびいたという。

土肥どい椙山すぎやまのしとどのくつ

源平げんぺい盛衰せいすい』ではよりくわしくこの場面ばめんべられている。敗軍はいぐん頼朝よりとも土肥どい実平さねひら岡崎おかざき義実よしざね安達あだち盛長もりながら6しとどのくつ洞窟どうくつ現在げんざい湯河原ゆがわらまち)へかくれた。大庭景親おおばのかげちか捜索そうさくてこのあやしいとうと、けいがこれにおうじて洞窟どうくつなかはいり、頼朝よりともかおわせた。頼朝よりともいまはこれまでと自害じがいしようとするが、景時かげときはこれをおしめ「おたすけしましょう。せんったときは、おおやけ(きみ)おわすたまわぬよう」とうと、洞窟どうくつ蝙蝠かわほりばかりでだれもいない、こうのやまあやしいとさけんだ。大庭景親おおばのかげちかはなおもあやしみみずか洞窟どうくつにゅうろうとするが、景時かげときちふさがり「わたしをうたがうか。おとこ意地いじたぬ。はいればただではおかぬ」とった。大庭景親おおばのかげちかあきらめてり、頼朝よりとも九死きゅうし一生いっしょうた。

一方いっぽうで『かんしょう』には「サテうけたまわよんねんヨリごとおこりシテ打出うちいでケルニハ。梶原かじはら平三へいぞう景時かげとき土肥どい次郎じろう実平さねひらしゅうと伊豆いず北條ほうじょう四郎しろう時政ときまさ。」とあり、挙兵きょへい当初とうしょから頼朝よりともしたがっていた可能かのうせい指摘してきされている。

その頼朝よりとも安房あわこくのがれて再挙さいきょし、千葉ちば常胤つねたね上総かずさ広常ひろつね東国とうごく武士ぶし続々ぞくぞくとこれにさんじて大軍たいぐんふくがり、10月に鎌倉かまくらはいった。頼朝よりとも平維盛たいらのこれもりひきいるたいらぐん撃破げきはし、大庭景親おおばのかげちかとらえられられた。12月に景時かげとき土肥どい実平さねひらつうじて頼朝よりとも降伏ごうぶくよく養和ようわ元年がんねん1181ねん正月しょうがつ頼朝よりとも対面たいめん御家人ごけにんれつした。弁舌べんぜつち、教養きょうようのある景時かげとき頼朝よりとも信任しんにんされ鶴岡つるおか若宮わかみや造営ぞうえい囚人しゅうじん監視かんし台所だいどころ北条ほうじょう政子まさこ出産しゅっさん奉行ぶぎょうなど諸事しょじもちいられた。時期じき不明ふめいだが景時かげときさむらいしょ所司しょし次官じかん)ににんじられている。

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)12月、上総かずさ広常ひろつね双六すごろくっていた景時かげときは、にわかにばんをのりこえて広常ひろつねの頸をかきった。広常ひろつね謀反むほんくわだてがあるとのうわさがあり、頼朝よりともけいめいじてころさせたものだった。のち謀反むほんうたがいはれて頼朝よりとも後悔こうかいしているが、広常ひろつね鎌倉かまくら政権せいけんぐんなかでもびぬけておおきな兵力へいりょくようしており、そのために不遜ふそんいがおおく、また上洛じょうらくしてたいらたおすよりも関東かんとうでの割拠かっきょ指向しこうしており、武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつ目指めざ頼朝よりともにとって危険きけん存在そんざいであった。

義経よしつねとの対立たいりつ

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寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ景時かげとき父子ふし源義仲みなもとのよしなかとの宇治川うじがわたたかさんじん源義経みなもとのよしつね配下はいか嫡男ちゃくなんけい佐々木ささき高綱たかつな先陣せんじんあらそ武名ぶめいげた。戦後せんご源範頼みなもとののりより義経よしつね安田やすだよしじょうらは戦勝せんしょう鎌倉かまくら報告ほうこくしたが、いずれも「ちました」程度ていど簡単かんたんなものであったところ、景時かげとき報告ほうこくしょだけが義仲よしなかられた場所ばしょ様子ようす、おもだったてきかた武将ぶしょう死者ししゃったもの名前なまえなど詳細しょうさい戦果せんかしるしており、頼朝よりともはその事務じむ能力のうりょく実務じつむ能力のうりょくたかさをよろこんだ。

同年どうねん2がつ7にち一ノ谷いちのやたたかでは最初さいしょけい義経よしつね侍大将さむらいだいしょう土肥どい実平さねひらはんよりゆき侍大将さむらいだいしょうになっていたが各々おのおのわず所属しょぞく交替こうたいしている。はんよりゆき大手おおてぐんぞくした景時かげときけいけいだか父子ふし生田いくたこうまも平知盛たいらのとももりたたかい、おおいに奮戦ふんせんして「梶原かじはら」とばれるはたらきをした。合戦かっせんみなもと大勝たいしょうわり、このたたかいでけい平重衡たいらのしげひらとらえている(『平家ひらか物語ものがたり』、『源平げんぺい盛衰せいすい』)。

2がつ18にち景時かげとき土肥どい実平さねひらとともに播磨はりま備前びぜん美作みさく備中びっちゅう備後びんご5かこく守護しゅごにんじられた。

景時かげとき平重衡たいらのしげひら護送ごそうして一旦いったん鎌倉かまくらもどり、4がつ土肥どい実平さねひらとともに上洛じょうらくして各地かくちたいら所領しょりょう没収ぼっしゅうにあたった。8月にはんよりゆきたいら討伐とうばつのため鎌倉かまくら発向はっこうし、中国ちゅうごく地方ちほうから九州きゅうしゅうわた遠征えんせいた。義経よしつね頼朝よりとも勘気かんきけてたいら討伐とうばつからはずされていた。『吾妻あづまきょう』にけい淡路島あわじしまなどでの活動かつどうがみられ、また、頼朝よりともからはんよりゆきたいして実平さねひら景時かげときとよく相談そうだんして遠征えんせい遂行すいこうするようにとの命令めいれいがあり、はんよりゆきしたがって西国さいこく占領せんりょうにあたっていた。

ぎゃくまつ趾碑

兵糧ひょうろう兵船へいせん調達ちょうたつ難渋なんじゅうしたはんよりゆき苦戦くせんしたことから、もとこよみ元年がんねん1185ねん正月しょうがつ頼朝よりとも義経よしつね起用きようめて摂津せっつこくぐん編成へんせいさせ、讃岐さぬきこく屋島やしまたいら本営ほんえいかせることにした。『平家ひらか物語ものがたり』によれば、義経よしつねぐんぞくした景時かげとき兵船へいせんぎゃくをつけて進退しんたい自由じゆうにすることを提案ていあん義経よしつねはそんなものをつければへい臆病おくびょうふうにふかれて退しりぞいてしまうと反対はんたい景時かげときは「すすむのみをって、退しりぞくをらぬは猪武者いのししむしゃである」といいはな義経よしつね対立たいりつした。いわゆる、ぎゃく論争ろんそうである。2月、義経よしつね暴風ぼうふうなかをわずか5そう150出港しゅっこうして電撃でんげきてき屋島やしまとして、景時かげとき本隊ほんたい140そう到着とうちゃくしたときにはたいらげてしまっていた。景時かげときは「ろくにち菖蒲しょうぶ[注釈ちゅうしゃく 2]嘲笑ちょうしょうされた(屋島やしまたたか)。

3月、義経よしつね長門ながとこく彦島ひこしま孤立こりつしたたいらほろぼすべく水軍すいぐん編成へんせいして壇ノ浦だんのうらたたかいどんだ。『平家ひらか物語ものがたり』によれば、ぐん景時かげとき先陣せんじん希望きぼうしたところ、義経よしつねはこれを退しりぞけてみずからが先陣せんじんつとった。心外しんがいおもった景時かげときは「そう大将たいしょう先陣せんじんなぞいたことがない。しょううつわではない」と愚弄ぐろうし、義経よしつね郎党ろうとう景時かげとき父子ふしりあう寸前すんぜんになった。合戦かっせんみなもと勝利しょうりわり、たいら滅亡めつぼうした。

平家ひらか物語ものがたり』にあるぎゃく論争ろんそう先陣せんじんあらそいの史実しじつせいについては疑問ぎもんとする見方みかたもあるが、『吾妻あづまきょう』にある合戦かっせん報告ほうこく景時かげときは「判官ほうがん殿どの義経よしつね)はこうほこって傲慢ごうまんであり、武士ぶしたちは薄氷はくひょうおもいであります。そばちかつかえるわたし判官ほうがん殿どのをおいさめしてもいかりをけるばかりで、刑罰けいばつけかねません。合戦かっせんわったいまはただ関東かんとうかえりたいとねがいます」(大意たいい)とべており、義経よしつね景時かげとき対立たいりつがあったことはたしかである。

この報告ほうこくがいわゆる「梶原かじはら景時かげとき讒言ざんげん」とばれるが、『吾妻あづまきょう』は「義経よしつね独断どくだんとわがまま勝手かってうらみにおもっていたのはけいだけではない」とこれに付記ふきしている。のち義経よしつねこう白河しらかわ法皇ほうおうから頼朝よりとも討伐とうばつ院宣いんぜん挙兵きょへいしたときも、たいら討伐とうばつせん義経よしつね華々はなばなしい戦勝せんしょうをしていたにもかかわらずこれにおうじる武士ぶしはわずかしかいなかった。また、「梶原かじはら景時かげとき讒言ざんげん」にたいし、景時かげとき以外いがい義経よしつね同行どうこうしていたしょうたちが、頼朝よりともたいして義経よしつね弁護べんごしていない(すくなくとも、弁護べんごしていると信用しんようできる史料しりょうはない)ことも事実じじつである。

義経よしつね頼朝よりともいかりをけて鎌倉かまくら帰還きかんすることをゆるされず、きょうかえされた。9月にけい上洛じょうらくして頼朝よりともからのみなもとこう追討ついとういのちつたえるべく義経よしつねやしきおとずれるとやまいとして面会めんかいできなかった。一両日いちりょうじつって面会めんかいくととおされ、義経よしつね脇息きょうそくにもたれてやいと衰弱すいじゃくした様子ようすやまいえるまでくだり追討ついとうってくれるようった。鎌倉かまくらもどったけいがこれを頼朝よりとも報告ほうこくすると、景時かげとき面会めんかい一両日いちりょうじつたせたのは不審ふしんであるとし、そのあいだしょくって衰弱すいじゃくしてせたのだ、くだり同心どうしんしているのは間違まちがいないと言上ごんじょうした。

土佐とさぼう昌俊まさとし義経よしつね暗殺あんさつ派遣はけんされるがかえちにあい、義経よしつね院宣いんぜんくだりとともに挙兵きょへいするがへいあつまらず失敗しっぱいし、きょうちて奥州おうしゅう平泉ひらいずみ藤原秀衡ふじわらのひでひらのもとへのがれるが、文治ぶんじ5ねん1189ねん)にしゅう衡の死後しごそのあといだ藤原ふじわらやすしころされた。義経よしつねくび鎌倉かまくらおくられ景時かげとき和田わだ義盛よしもりがこれを検分けんぶんしている。

幕府ばくふ宿老しゅくろう

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景時かげとき讒言ざんげんばれるものには夜須やすこうむね畠山はたけやま重忠しげただ事例じれいがある。夜須やすこうむね壇ノ浦だんのうらたたかいでの恩賞おんしょうねがってきたとき、景時かげとき夜須やすというものなぞいたことがないともう訴訟そしょうになり、証人しょうにん夜須やす戦功せんこうあきらかになり景時かげとき敗訴はいそした。ばちとして景時かげときには鎌倉かまくら道路どうろ普請ふしんせられた。

畠山はたけやま重忠しげただつみけて謹慎きんしんさせられ千葉ちばたねただしあづけられた。重忠しげただつみじて絶食ぜっしょくしてしまい、頼朝よりとも重忠しげただ武勇ぶゆうしみこれを赦免しゃめん重忠しげただ武蔵むさしこくかんもどったが、景時かげときはこれを不審ふしんとして、重忠しげただうらみにおも謀反むほんくわだてていると言上ごんじょうした。頼朝よりとも重忠しげただ使者ししゃつかわせると、恥辱ちじょくかんじた重忠しげただ自害じがいしようとし、使者ししゃはこれをしとどめてもうひらきをするため鎌倉かまくらくよう説得せっとくけい尋問じんもんやくとなったが重忠しげただ潔白けっぱく断固だんことして反駁はんばくし、頼朝よりとももようやくうたがいをいた。人望じんぼうのある重忠しげただおとしいれようとしたとして景時かげとき御家人ごけにんたちからひどくうらまれた。一方いっぽう景時かげとき都築つづきけい金刺かなざしもりきよししろちょうしげる曾我そが兄弟きょうだい赦免しゃめんねがることもしている。

文治ぶんじ5ねん(1189ねん)7がつ奥州おうしゅう合戦かっせん景時かげとき父子ふしもこれに従軍じゅうぐん藤原ふじわらやすし衡は敗走はいそうしてころされ奥州おうしゅう藤原ふじわらほろびた。捕虜ほりょになったやすし衡の郎党ろうとう由利ゆり八郎はちろうけい尋問じんもんしたが、その傲慢ごうまん態度たいど由利ゆり八郎はちろういか尋問じんもんおうじようとしなかった。わって尋問じんもんにあたった畠山はたけやま重忠しげただ礼法れいほうのっとってぐうしたため由利ゆり八郎はちろうかん尋問じんもんおうじ「(景時かげときとは)雲泥うんでいちがいである」とった。

たてひさ元年がんねん1190ねん)、頼朝よりともはじめて上洛じょうらくすると景時かげときはこれに供奉ぐぶし、途中とちゅう遠江とおとうみこく橋本はしもと宿やどでの遊女ゆうじょあつめてのうたげ頼朝よりとも景時かげとき和歌わかわしている。また、『すなせきしゅう』に奥州おうしゅう合戦かっせんさい頼朝よりともわした和歌わかのこされている。12月1にちみぎ近衛このえ大将たいしょう拝賀はいがずいへい7にんうちえらばれて参院さんいん供奉ぐぶをした[注釈ちゅうしゃく 3]。さらに、これまでの勲功くんこうとして頼朝よりとも御家人ごけにん10にん成功せいこう推挙すいきょあたえられたとき、その1人ひとりはいったがけいしげるしょうゆずっている。けんひさ2ねん1191ねん)の徳大寺とくだいじ実定さねさだ死去しきょ記事きじ景時かげときおとうとあさけい実定じっていからまなんだとの記述きじゅつがあり、梶原かじはらすぐれた歌人かじん輩出はいしゅつした徳大寺とくだいじ交流こうりゅう和歌わかまなんでいた。

たてひさ2ねん1191ねん)に鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう神体しんたいたまわ梶原かじはら八幡やはた神社じんじゃ(八王子はちおうじ)に奉祀ほうしした。

たてひさ3ねん1192ねん)、景時かげとき和田わだ義盛よしもりわってさむらいしょ別当べっとう就任しゅうにんした。『吾妻あづまきょう』はこの交代こうたいについて、けいいちにちだけでもかり別当べっとうになりたいと懇願こんがんし、義盛よしもりがそれならばとひまのついでにこれをゆるしたが、けい奸計かんけいをもって別当べっとうしょくうばってしまったとしている。

正治しょうじ元年がんねん1199ねん正月しょうがつ頼朝よりとも死去しきょすると、景時かげときつづ宿老しゅくろうとしてだい将軍しょうぐんみなもとよりゆき重用じゅうようされた。4月にわかよりゆき補佐ほさするじゅうさんにん合議ごうぎせいかれると景時かげときもこれにれつした。

没落ぼつらく

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よりゆき有力ゆうりょく御家人ごけにんとの対立たいりつもと不祥事ふしょうじつづき、これをなげいた結城ゆうき朝光ともみつが「忠臣ちゅうしんくんつかえずという。将軍しょうぐんくなったとき出家しゅっけ遁世とんせいしようとおもったが、ご遺言ゆいごんによりかなわなかったことがいまとなっては残念ざんねんである」とったことがけいつたわってしまう。朝光ともみつ言葉ことば激怒げきどした景時かげときは、これをよりゆきへの誹謗ひぼうであると讒言ざんげん断罪だんざいもとめた。

このことをった御家人ごけにんたちはいかり、三浦みうらよしむら和田わだ義盛よしもりしょしょう66めいによる景時かげとき排斥はいせきもとめる連判れんばんじょうよりゆき提出ていしゅつされた。頼朝よりとも死後しごよりゆきもとでも継続けいぞくして権力けんりょくるうけいたいする御家人ごけにん不満ふまんとして噴出ふんしゅつしたのである。11月、よりゆきけい連判れんばんじょうわたすと、景時かげとき弁明べんめいせずに一族いちぞくとともに所領しょりょう相模さがみこく一ノ宮いちのみやかん退しりぞいた。

正治しょうじ2ねん1200ねん正月しょうがつ景時かげとき一族いちぞくひきいて上洛じょうらくすべく相模さがみこく一ノ宮いちのみやより出立しゅったつした。途中とちゅう駿河するがこく清見きよみせきにて偶然ぐうぜん居合いあわせた吉川よしかわともけん在地ざいち武士ぶしたちと戦闘せんとうになり、同国どうこく狐崎きつねざきにて嫡子ちゃくしけい次男じなんけいだか三男さんなんけいしげるたれ、景時かげとき付近ふきん西奈にしな山上さんじょうにて自害じがい享年きょうねん61さい一族いちぞく33にんにした。『吾妻あづまきょう』は、けい上洛じょうらくして九州きゅうしゅう軍兵ぐんびょうあつめ、武田たけだゆうよし将軍しょうぐんてて反乱はんらんくわだてたとしている。しかし土御門つちみかどとおるおや徳大寺とくだいじといった京都きょうと政界せいかい縁故えんこ景時かげときは、武士ぶしとして朝廷ちょうていつかえようとしていたとのせつもある[2]梶原かじはら一族いちぞく滅亡めつぼう梶原かじはらさんばれている。なお、吉川よしかわともけんけいしげるったさい友兼ともかね所持しょじしていた青江あおえ太刀たちは、友兼ともかね子孫しそんである安芸あき国人くにびと吉川よしかわ家宝かほうとして伝授でんじゅされ、国宝こくほうきつねさき」として現在げんざいつたわる。

鎌倉かまくら幕府ばくふ北条ほうじょうによる後年こうねん編纂へんさんしょである『吾妻あづまきょう』では、そのぎわする記事きじで「だいにわたる将軍しょうぐん寵愛ちょうあいほこって傍若無人ぼうじゃくぶじんい、多年たねん積悪せきあくついかえした」としるされている。だが『たま』によると景時かげとき追放ついほう原因げんいんとされた讒言ざんげんは、将軍しょうぐんよりゆきにそのおとうとじつあさ将軍しょうぐんかつごうとする陰謀いんぼうがあることを報告ほうこくしたものであり、景時かげとき追放ついほうの3ねんには北条ほうじょう陰謀いんぼうによってよりゆき追放ついほう暗殺あんさつされ、じつあさ将軍しょうぐんとなり北条ほうじょう時政ときまさ実権じっけんにぎっていることから、北条ほうじょう不都合ふつごう景時かげとき追放ついほう真相しんそう歪曲わいきょくされ、景時かげとき悪人あくにんとしてだんじていることが推測すいそくされる。元々もともとその職務しょくむからうらみをいやすい立場たちばであった景時かげときへの、御家人ごけにんたちの不満ふまんけてあおったのは時政ときまさむすめじつあさ乳母うばである阿波あわきょくであった。

墓所はかしょ神社じんじゃ

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梶原かじはら景時かげとき墓所はかしょ深沢ふかさわ小学校しょうがっこううらのやぐら五輪ごりんとう梶原かじはら景時かげときかん墓石はかいしぐん梶原かじはらさん墓石はかいしぐんがある[3][4]。「深沢ふかさわ小学校しょうがっこううらのやぐら」ないにある4五輪ごりんとうは、景時かげとき一族いちぞくはかつたえられ、景時かげときとそのけいけいだからの五輪ごりんとうが4ならんでいる。梶原かじはら一族郎党いちぞくろうとうなな)のはかとしてつたえられる「梶原かじはら景時かげときかん墓石はかいしぐん」は、一族郎党いちぞくろうとう一宮いちのみやかん留守るすをしていた家族かぞく家臣かしんとむらったものとつたえられている。景時かげとき父子ふし終焉しゅうえん梶原かじはらさん墓石はかいしぐんたから篋印とう景時かげときけいけいだかはか一番いちばんみぎ不明ふめいであり、五輪ごりんとう供養くようとうである。

けい祭神さいじんとしてまつられる梶原かじはら神社じんじゃ宮城みやぎけん気仙沼けせんぬま唐桑からくわまちにあり、江戸えど時代じだい仙台せんだいはん編纂へんさん地誌ちし奥羽おううかんあと聞老こころざし』『ふうない風土記ふどき』『ふうない名跡みょうせきこころざし』『風土記ふどき御用ごようしょ』において景時かげときあにとされるけいせんこうぼうりょう)が梶原かじはら一族いちぞく没落ぼつらく鎌倉かまくらはなれ、藤原ふじわらだか本吉もとよしよんろうだか衡)ゆかりのである石浜いしはま唐桑からくわまち)にたどりき、みなもと頼朝よりとも梶原かじはら景時かげとき梶原かじはらけいかげ安置あんちし、一族いちぞく冥福めいふくいのって建立こんりゅうしたとされている。けいせんこうぼうりょう暹)はその早馬はやうま神社じんじゃ創建そうけんしたとされ、以来いらい連綿れんめん梶原かじはら氏直うじなおけい子孫しそん宮司ぐうじつとめている。

後世こうせい評価ひょうか

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かつては伝統でんとうてき判官贔屓はんがんびいき影響えいきょうで、源義経みなもとのよしつね対立たいりつした敵役かたきやくとして、讒言ざんげんによってひとおとしいれる人物じんぶつというイメージをたれていた。しかし近年きんねんは、教養きょうようがあり、主君しゅくん忠実ちゅうじつ事務じむ能力のうりょくすぐれた官僚かんりょうてき人物じんぶつとの評価ひょうか定着ていちゃくしつつある。 歌舞伎かぶき有名ゆうめい演目えんもくである『梶原かじはら平三へいぞうほまれ石切いしきり』のように、実際じっさい清廉せいれん潔白けっぱく質実しつじつ剛健ごうけん人物じんぶつであり、わるいイメージは後世こうせい創作そうさくであるとの見方みかたつよい。

平家ひらか物語ものがたり』『源平げんぺい盛衰せいすい』では、ぎゃく論争ろんそうなど義経よしつね景時かげとき対立たいりつはなしがより具体ぐたいてき記述きじゅつされている。そして、義経よしつね主人公しゅじんこうとする『義経よしつね』では景時かげとき敵役かたきやくとして描写びょうしゃされている。景時かげときたいするこうした印象いんしょう本格ほんかくてき定着ていちゃくしたのは、庶民しょみん文化ぶんか隆盛りゅうせいした江戸えど時代じだいであった。かりやすい勧善懲悪かんぜんちょうあくこのまれた歌舞伎かぶき講談こうだん義経よしつね悲劇ひげき英雄えいゆうとする判官贔屓はんがんびいきとあいまって、敵役かたきやく景時かげときはこれをおとしいれた悪人あくにんとされた[注釈ちゅうしゃく 4]事実じじつ逆艪さかろ論争ろんそうさいには義経よしつねでなくはんよりゆきともぐんひきいていたとのせつ有力ゆうりょくで、創作そうさく可能かのうせいたかい。

明治めいじになって近代きんだい歴史れきしがく文学ぶんがく時代じだいになると、幸田こうだ露伴ろはん山路やまじ愛山あいざんなどが単純たんじゅん判官贔屓はんがんびいきをよしとせず、「頼朝よりとものためにすすんでにくまれやくっていた」という景時かげとき擁護ようごろんあらわしている。一方いっぽう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ黒板こくばん勝美かつみは、『よし経伝けいでん』で義経よしつね賛美さんび立場たちばあきらかにするとともに、景時かげときを「奸佞かんねいなる人物じんぶつ」とだんじた。歴史れきしがく権威けんいであった黒板こくばん見解けんかい影響えいきょうりょくち、以後いごなが辞典じてんるいなどで景時かげときは「讒言ざんげんをもってひとおとしいれる人物じんぶつ」と記述きじゅつされるようになった。

戦後せんごになると、研究けんきゅうしゃあいだでは判官贔屓はんがんびいき記述きじゅつすることはり、作家さっか読者どくしゃ旧来きゅうらいいちめんてき勧善懲悪かんぜんちょうあくてき観点かんてんではらなくなる。義経よしつね政治せいじめんでの無能むのうさが指摘してきされるようになり、その一方いっぽう景時かげとき頼朝よりとも武家ぶけ政権せいけん確立かくりつのためにすすんでにくまれやくった、すぐれた官僚かんりょうてき人物じんぶつであると評価ひょうかされるようになった。このような見方みかた海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう史伝しでん司馬しばりょう太郎たろう小説しょうせつ義経よしつね』、永井ながい路子みちこ短編たんぺん小説しょうせつくろゆき』(直木賞なおきしょう受賞じゅしょうさくほのおたまき収録しゅうろく)が代表だいひょうてきである。このような評価ひょうか転換てんかん石田いしだ三成みつなりのケースとよくている。うえ横手よこてまさたかしは、「如才じょさいはないが人間にんげんせいいやしい」「とらきつね」「さむらい大将たいしょうにはふさわしくないがあるじえらべばもっとすぐれたしたがえしん」とひょうしている[5]

一般いっぱん影響えいきょうりょくのある近年きんねんテレビドラマにおいて、けいたんなる悪人あくにんとされることはすくない。上記じょうきの『くろゆき』をふく永井ながい路子みちこ作品さくひん原作げんさくとした大河たいがドラマくさえる』や、おな大河たいがドラマの『義経よしつね』、『鎌倉かまくら殿どのの13にん』では、景時かげとき義経よしつね対立たいりつするものの、頼朝よりともへの忠誠ちゅうせいしんあつすぐれた官僚かんりょうてき武士ぶしとしてあつかわれている。一方いっぽうで、景時かげとき悪人あくにんとしてえがくドラマも存在そんざいしており、れいとしてTBS大型おおがた時代じだいげきスペシャル源義経みなもとのよしつね』がある。作中さくちゅう義経よしつね美化びかされ、最後さいごにはなずに蝦夷えぞのがれたことになっており、景時かげとき悪意あくいをもって義経よしつねおとしい平泉ひらいずみまでってきて最期さいごられるなど大幅おおはば脚色きゃくしょくされている。

関連かんれん作品さくひん

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歌舞伎かぶき文楽ぶんらくすくなからぬ演目えんもくみなもと平家へいけあらそいを題材だいざいにし、とりわけ曾我そが兄弟きょうだいものをおお舞台ぶたいしている。そのため、複数ふくすう演目えんもくけい登場とうじょうする。いずれも創作そうさくであり、史実しじつとのえんうすい。

景時かげときは「みなもとでありながら、心情しんじょうでは平家へいけ加担かたんする人物じんぶつ」としてえがかれる(石切いしきり梶原かじはら、すし)。景時かげときはほぼすべての演目えんもく敵役かたきやくだが、石切いしきり梶原かじはらにおいては善玉ぜんだまとしてえがかれる。

  • 最明寺さいみょうじ殿どのひゃくにん上臈じょうろう
小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ

画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 梶原かじはら神社じんじゃ早馬はやうま神社じんじゃ縁起えんぎ江戸えど時代じだい編纂へんさんの『奥羽おううかんあと聞老こころざし』『ふうない風土記ふどき』『ふうない名跡みょうせきこころざし』『風土記ふどき御用ごようしょ』による。
  2. ^ 端午たんご節句せっく(5がつ5にち)にわない菖蒲しょうぶという意味いみ
  3. ^ の6めいは、北条ほうじょうよしとき小山こやま朝政ともまさ和田わだ義盛よしもり土肥どい実平さねひら比企ひきのういん畠山はたけやま重忠しげただ
  4. ^ ただし、歌舞伎かぶき梶原かじはら平三へいぞうほまれ石切いしきり」のように、善人ぜんにんとしてえがかれる作品さくひんもある。

出典しゅってん

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  1. ^ 本郷ほんごう和人かずと日本にっぽん中世ちゅうせい最大さいだいなぞ! 鎌倉かまくら13にんしゅ真実しんじつ宝島社たからじましゃ、2021ねん、p10
  2. ^ 本郷ほんごう和人かずとしん中世ちゅうせい王権おうけんろん武門ぶもん覇者はしゃ系譜けいふ―』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2004ねん)P92
  3. ^ 森岡もりおかひろし (2022ねん3がつ7にち). “梶原かじはら景時かげときのルーツ”. 日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ. 2022ねん11月13にち閲覧えつらん
  4. ^ 梶原かじはら景時かげときはか” (PDF). 湘南しょうなんモノレール. 2022ねん11月13にち閲覧えつらん
  5. ^ 上横うえよこしゅ・112ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梶原かじはらひとし梶原かじはら景時かげときられざる鎌倉かまくら本体ほんたい武士ぶし新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2004ねんISBN 4404031874
  • 海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう悪人あくにん列伝れつでん 2』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1975ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:75086857NCID BA79269783
  • うえ横手よこてまさたかし鎌倉かまくら時代じだい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかんISBN 4-642-06304-8
  • 田辺たなべのぞみぶん ちょ本吉もとよしぐん」、鈴木すずき省三しょうぞう (郷土きょうど史家しか) へんふうない風土記ふどき まきじゅうよん仙台せんだい叢書そうしょ出版しゅっぱん協会きょうかい仙台せんだい叢書そうしょ ふうない風土記ふどき さん〉、1893ねん原著げんちょ1772ねん)。 NCID BN11172717NDLJP:763473 
  • 保田やすだ光則みつのり新撰しんせん陸奥みちのく風土記ふどき歴史れきし図書としょしゃ、1980ねん原著げんちょ1860ねん)。 NCID BN01896845NDLJP:9570404 
  • 伊勢いせひとしすけ奥羽おううかんあと聞老こころざし 補修ほしゅうへん まききゅう 本吉もとよしぐん仙台せんだい叢書そうしょ刊行かんこうかい仙台せんだい叢書そうしょ だいじゅうろくかん〉、1929ねんNCID BN06896627 

関連かんれん項目こうもく

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