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千葉ちばたねただし

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千葉ちばたねただし
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 永治えいじ元年がんねん4がつ1にち1141ねん5月8にち)?
死没しぼつ たてひとし3ねん7がつ20日はつか1203ねん8がつ28にち)?
別名べつめい たねせい千葉ちばしんかい通称つうしょう
官位かんい したがえした下総しもうさけんかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん みなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちば常胤つねたねはは秩父ちちぶ重弘しげひろむすめ
兄弟きょうだい たねただし相馬そうまつね武石たけいしたねもり大須賀おおすがたねしん
国分こくぶ胤通たねみちひがしたねよりゆきにちたね
なりたねつねしゅう
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千葉ちば たねただし(ちば たねまさ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての武将ぶしょう千葉ちばだい4だい当主とうしゅだい3だい当主とうしゅ千葉ちば常胤つねたね長男ちょうなんはは秩父ちちぶ重弘しげひろむすめ

略歴りゃくれき

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通称つうしょう千葉ちばしんかいうけたまわ4ねん1180ねん)、みなもと頼朝よりとも挙兵きょへいさいしてちちとも頼朝よりともしたがって参戦さんせんする。養和ようわ元年がんねん1181ねん)4がつたねせい頼朝よりとも寝所ねどこ警護けいごする11めいうちえらばれた(『吾妻あづまきょう養和ようわ元年がんねん4がつ7にちじょう[1]

文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせんにも参戦さんせんして武功ぶこうげた。翌年よくねん奥州おうしゅう藤原ふじわら残党ざんとう大河おおかわ兼任けんにん反乱はんらんしたときには、この鎮圧ちんあつたってこうげた。たてひさ元年がんねん1190ねん)に頼朝よりとも上洛じょうらくしたさいみぎ近衛このえ大将たいしょう拝賀はいが布衣ふいさむらい7にんうちえらばれて参院さんいん供奉ぐぶをした[2]

なま没年ぼつねんくわしくかっておらず、通説つうせつたてひとし3ねん7がつ20日はつかに63さいぼっしたとされている(『せんがくしゅうしょう』『千葉大ちばだい系図けいず』)。だが、たてひとし2ねん7がつ7にちに67さいぼっしたとするせつもある(『本土ほんどてら過去かこちょう』)。いずれにしても、たてひとし元年がんねんぼっしたちちのちうように死去しきょしたものとおもわれる(なお、『吾妻あづまきょう』によればすぐしたおとうと相馬そうまつね元久もとひさ元年がんねんたてひとし4ねんから改元かいげん11月15にちに67さいぼっしている)。家督かとくなりたねいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ の10めいは、北条ほうじょうよしとき下河辺しもこうべ行平こうへい結城ゆうき朝光ともみつ和田わだ義茂よしもち梶原かじはらけい宇佐美うさみみのるせいはしばみたに重朝しげとも葛西かさい清重きよしげ三浦みうらよしれん八田はった知重ちえおも有力ゆうりょく御家人ごけにんせい世代せだいであり、将来しょうらいにな人材じんざい育成いくせいというめんもあったとられる。文治ぶんじ5ねん(1189ねん)2がつ28にち頼朝よりとも彗星すいせいるために寝所ねどこからにわさいは、御前ごぜん結城ゆうき朝光ともみつ三浦みうらよしれん梶原かじはらけい八田はった知重ちえ警護けいごしている。
  2. ^ の6めいは、三浦みうら義澄よしずみ工藤くどうゆうけい足立あだちとおもと後藤ごとうはじめきよし葛西かさい清重きよしげ八田はった知重ちえ

外部がいぶリンク

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