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工藤くどうゆうけい

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工藤くどう ゆうけい
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 久安ひさやす3ねん1147ねん[注釈ちゅうしゃく 1]
または久寿きゅうじゅ元年がんねん1154ねん[2]
死没しぼつ たてひさ4ねん5月28にち1193ねん6月28にち
改名かいめい 金石かねいし幼名ようみょう)→ゆうけい
別名べつめい 工藤くどういち
墓所はかしょ 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや上井かみいいずる
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 平重盛たいらのしげもりみなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ工藤くどう
父母ちちはは ちち工藤くどうゆうつぎ
兄弟きょうだい ゆうけい宇佐美うさみゆうしげる
つま 伊東いとう祐親すけちかむすめ万劫まんごう御前ごぜん)、
伊東いとう祐時すけとき安積あさかゆうちょうゆうちょう伊東いとう祐光ゆうこう
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工藤くどう ゆうけい(くどう すけつね、1147ねんもしくは1152ねん - 1193ねん6月28にち)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての武士ぶし御家人ごけにん藤原ふじわらみなみながれを工藤くどう滝口たきぐちゆうつぎ嫡男ちゃくなん

生涯しょうがい

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所領しょりょうあらそ

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幼少ようしょう金石かねいし名乗なのった[3][出典しゅってん無効むこう]幼少ようしょうちちゆうつぎ早世そうせいすると、ちち遺言ゆいごんにより義理ぎり叔父おじである伊東いとう祐親すけちか当時とうじ川津かわづ祐親すけちか)が後見人こうけんにんとなる[3][出典しゅってん無効むこう]。その元服げんぷくし、ゆうけい名乗なのるようになる[3][出典しゅってん無効むこう]ゆうけい祐親すけちかむすめ万劫まんごう御前ごぜんめとり、祐親すけちかともなわれて上洛じょうらく平重盛たいらのしげもりつかえる[3][出典しゅってん無効むこう]歌舞かぶ音曲おんぎょくつうじており、「工藤くどういち」とばれた。

だが、ゆうけい在京ざいきょうしているあいだ祐親すけちかゆうけいいだ伊東いとうそう押領してしまい、つま万劫まんごう御前ごぜんまでうばって土肥どいとおひらたとつがせてしまう[3][出典しゅってん無効むこう]祐親すけちか祖父そふかつ養父ようふ工藤くどうゆうたかし嫡孫ちゃくそん自分じぶんいて、養子ようしゆうつぎ伊東いとうそう相続そうぞくさせたことに不満ふまんいていたためである。押領に気付きづいたゆうけい訴訟そしょうかえすが、祐親すけちか根回ねまわしにより失敗しっぱいわる。

所領しょりょうつまをもうばわれたゆうけい祐親すけちかふかうらみ、祐親すけちか殺害さつがいはかって安元やすもと2ねん1176ねん)10がつ郎党ろうとうめいじ、伊豆いず奥野おくのからかえ道中どうちゅう祐親すけちか父子ふし襲撃しゅうげきさせ、祐親すけちからすもその嫡男ちゃくなん河津かわづゆうやすし射殺しゃさつする[3][出典しゅってん無効むこう]。これがのちの曾我そが兄弟きょうだいかたき原因げんいんとなる[3][出典しゅってん無効むこう]のこされたゆうたいつまは、いちまんまる曾我そが祐成すけなり)・はこおう曾我そが時致ときむね兄弟きょうだいれ、曾我そが祐信すけのぶ再嫁さいかした。

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつみなもと頼朝よりとも挙兵きょへい平家ひらかかたとして頼朝よりとも敵対てきたいした祐親すけちかは、10月の富士川ふじかわたたかのち頼朝よりともかたらえられて自害じがいした。ゆうけいおとうととされる宇佐美うさみゆうしげる頼朝よりとも挙兵きょへい当初とうしょからしたがい、富士川ふじかわたたかいの戦功せんこう本領ほんりょう安堵あんどされており、ゆうけいきょうから鎌倉かまくらくだって頼朝よりとも臣従しんじゅうし、ゆうしげるとおして伊東いとう父子ふしあと伊東いとうそうもどしたとかんがえられる。

なお、ゆうけいによる祐親すけちかゆうたい父子ふし襲撃しゅうげきそのものに頼朝よりともによる教唆きょうさがあった(頼朝よりとも遺恨いこんいだ伊東いとう父子ふし襲撃しゅうげきしたことが、のちゆうけい頼朝よりとも重用じゅうようされた一因いちいんである)とする保立ほたて道久みちひさせつがある[4]

頼朝よりとも寵臣ちょうしん

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工藤くどうゆうけいはか静岡しずおかけん富士宮ふじのみや上井出かみいで

吾妻あづまきょう』におけるゆうけいはつ記事きじは、もとこよみ元年がんねん1184ねん)4がつ一ノ谷いちのやたたか捕虜ほりょとなり、鎌倉かまくら護送ごそうされた平重衡たいらのしげひらなぐさめる宴席えんせきばれ、って今様いまよううたった記録きろくである。ゆうけい重盛しげもり家人かじんであったときに、いつもじゅう衡をていたことからじゅう衡に同情どうじょうせていたという。同年どうねん6がつ一条いちじょう忠頼ただより謀殺ぼうさつくわわるが、顔色かおいろえて役目やくめたせず、戦闘せんとうにもくわわっていない。同年どうねん8がつ源範頼みなもとののりよりひきいるたいら討伐とうばつぐんくわわり、山陽さんようどう遠征えんせい豊後ぶんごこくわたる。文治ぶんじ2ねん1186ねん)4がつ静御前しずかごぜん鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうまいったさいっている。たてひさ元年がんねん1190ねん)に頼朝よりとも上洛じょうらくしたさいみぎ近衛このえ大将たいしょう拝賀はいが布衣ふいさむらい7にんうちえらばれて参院さんいん供奉ぐぶをした[注釈ちゅうしゃく 2]けんひさ3ねん1192ねん)7がつ頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん辞令じれいをもたらした勅使ちょくし出物でものうまわた名誉めいよやくになった。ゆうけい武功ぶこうてた記録きろくはなく、つかえた経験けいけん能力のうりょくによって頼朝よりとも重用じゅうようされた。

たて久元ひさもとねん(1190ねん)7がつ大倉おおくら御所ごしょ双六すごろくかいもよおされ、おくれてやってゆうけいが、すわ場所ばしょがなかったのでさき伺候しこうしていた15さい加地かじ信実しんじつかかげてかたわらにすわらせ、そのあとすわった。信実しんじつ激怒げきどしてつと、いしつぶてってきてゆうけいがくにたたきつけ、ゆうけいがくって流血りゅうけつした。頼朝よりともいかり、信実しんじつちち佐々木ささきもりつな逐電ちくでんした息子むすこ身柄みがらわたしてゆうけい謝罪しゃざいするようもとめたが、もりつなすで信実しんじつ義絶ぎぜつしたとして謝罪しゃざい拒否きょひゆうけい頼朝よりとも仲裁ちゅうさいたいし、信実しんじつ道理どうりがあったとして佐々木ささき親子ちかこうらみをたないとべている。ゆうけい信実しんじつたいするいには、頼朝よりとも寵臣ちょうしんとしておごりがあったことをうかがわせる。

曾我そが兄弟きょうだいかたき

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たてひさ4ねん1193ねん)5がつ頼朝よりとも富士ふじ裾野すそのだい規模きぼ巻狩まきがおこない、ゆうけい参加さんかする[5]巻狩まきがりの最終さいしゅうの5がつ28にち深夜しんや遊女ゆうじょらととも宿舎しゅくしゃやすんでいたところを、曾我そが祐成すけなり時致ときむね兄弟きょうだいり、ゆうけい兄弟きょうだいちち河津かわづゆうたいかたきとしてたれた。ゆうけい仲介ちゅうかいして御家人ごけにんとなっていた備前びぜんこく吉備津きびつ彦神しゃ神官しんかんおうふじない一緒いっしょたれている。騒動そうどうのち詮議せんぎおこなった頼朝よりとも時致ときむね助命じょめいかんがえたが、ゆうけいいぬ房丸ぼうまるいてうったえたため、時致ときむね身柄みがらわたされ、梟首きょうしゅされた。

いぬ房丸ぼうまるのち伊東いとう祐時すけとき名乗なのり、伊東いとう継承けいしょうする。祐時すけとき子孫しそん日向ひなたこく下向げこうして戦国せんごく大名だいみょう日向ひなた伊東いとう飫肥おびはん藩主はんしゅとなった。

画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 日向ひなた郷土きょうど年表ねんぴょう
  2. ^ 坂井さかい孝一こういち「『曽我そが物語ものがたり人物じんぶつこう生年せいねん推定すいてい-」(『創価大学そうかだいがく人文じんぶん論集ろんしゅう』23、2011ねん
  3. ^ a b c d e f g 川村かわむら 2019, pp. 65–66.
  4. ^ 保立ほたて道久みちひさ院政いんせい東国とうごく流人るにんみなもと頼朝よりとも位置いち」『中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねん ISBN 978-4-7517-4640-0
  5. ^ 大迫おおさこ 2021, p. 16.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 坂井さかい孝一こういち曾我そが物語ものがたり史実しじつ虚構きょこう吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2000ねん 
  • 川村かわむら一彦かずひこ歴史れきし回想かいそう九州きゅうしゅう平定へいてい歴史れきし研究けんきゅうかい、2019ねん [出典しゅってん無効むこう]
  • 大迫おおさこ秀樹ひでき『「鎌倉かまくら殿どの登場とうじょうみなもと頼朝よりとも北条ほうじょうよしたち13にん日本にっぽん能率のうりつ協会きょうかいマネジメントセンター、2021ねんISBN 978-4820729785 

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • ふじのみやNAVI とびらひらいた状態じょうたい画像がぞう曽我そが兄弟きょうだいはか画像がぞう、MAPあり