曾我 兄弟 の仇 討 ち
概要 [編集 ]
吾妻 鏡 の記述 [編集 ]
30
曽我 物語 の記述 [編集 ]
富士野 に到着 するまで[編集 ]
東国 には狩 庭 多 しといへども、富士野 に過 ぎたる名所 はなし。その野 を狩 らむ(巻 六 )
富士野 の御 狩 と承 る(中略 )敵 を我 らが手 に懸 けずは、我 らが身 をも我 らが命 をも敵 のため捨 ててこそ、悪霊 ・死霊 とも成 て御霊 の宮 とも崇 められめ(巻 六 )
富士野 (伊 出 の屋形 )到着 後 [編集 ]
次 の日 は伊 出 の屋形 に着 かせ給 ふ。(巻 七 )既 に御 狩 庭 始 まりければ、各々 互ひに目 を懸 けて、敵 の助 経 に告 げ知 らす(中略 )次 の日 よりは三 日 の巻狩 とぞ聞 こえる(巻 第 八 )
巻狩 の第 三箇日 に当 りける日 は、終日 に躵へども少 しの隙 こそなかりけれ。(中略 )上 の峯 より大鹿 の大王 二 頭 曽我 の人々 の前 に出 で来 れり。(中略 )かかる処 に、上 の峯 より猪 の大王 下 りけり。いづくにて何人 にや射 られけん、矢 二 つ負 ひながら、瞋り瞋て鎌倉 殿 の御前 に懸 りける。(中略 )是 をその日 の見物 として、鎌倉 殿 は御 屋形 へ入 り給 へば、曾我 の人々 も同 じく屋形 へ入 りにけり(巻 八 )
建 久 4年 癸 丑 5月 28日 の夜半 には、駿河 の国 富士山 の麓 伊 出 の屋形 において、慈父 報恩 のため命 を失 ひ畢るなり(巻 九 )
とあった[33][
仇 討 ちの決行 [編集 ]
や、殿 、宮藤 左衛門尉 (註:工藤 祐 経 )、これ程 の大事 の敵 を持 ちながら、汚 くも寝入 りるものかな。起 きよや、や、殿 (巻 九 )
と
そして、
まず
新田 四郎 が小鬢 を刎て次 の刀 に右 の小 臂 を切 てけり(中略 )屍 をば駿河 の国 富士野 の裾 、伊 出 の屋形 に曝 しつつ、名 をば後代 に留 むべしと、面 も替 らず打 合 けり(中略 )その後 は程 もなく気 も留 りぬ(巻 九 )
御 屋形 の御前 なる大 幕 を打 挙 げて樋 と入 る。五郎 も連 いて入 らむとする処 に、五郎丸 と云 ふ童 のありけるが、大力 なり(中略 )五郎丸 叶 はじやと思 ひけむ、「敵 をばかくこそ懐 け、得々 」と呼 りければ、五郎 これを聞 て腰 の刀 を捜 れども運 の尽 きぬる上 はいづれの戦 にや落 としたりけむ、腰 にはなかりけり。力 及 ばずして組 み合 ふ処 に…(巻 九 )
捕縛 後 [編集 ]
鎌倉 殿 この由 を聞 き食 されて、「これ聞 き候 へや、各々 。哀 れ(あっぱれ)男子 の手本 や。これ程 の男子 は末代 にもあるべしとも覚 えず。(中略 )助 けばや」と仰 せらるれば…(巻 九 )
その
梶原 これを承 て(中略 )「彼 ら成人 仕 り候 ひなば、自今 以後 も狼藉 出来 し候 ひなん(中略 )」と申 されければ、さてこそ五郎 時宗 は切 られべきに定 まりけれ(巻 九 )
その後 、十郎 が首 を実見 せられける。(中略 )新田 四郎 忠綱 は、十郎 が最後 に着 たりける村 千鳥 の直垂 に赤銅 作 の太刀 をば童 に持 たせて参 りたりければ、鎌倉 殿 これを御覧 じて、「あれはいかに。一定 助成 が衣装 か」と問 はせ給 へば(中略 )「さ候 」とばかり申 しける。(中略 )鎌倉 殿 、御 目 に御 涙 を浮 べさせ給 ふをさらぬ体 にて押 し揮せ給 ひて…(巻 九 )
その
葬送 ・供養 [編集 ]
人々 傍 より奪 ひ取 る様 に賞 して、子 共 が殖 え置 て常 に愛 しける千種 華 苑 の山 に送 りつつ、諸行無常 の暮 の煙 に類 へてんげり。(中略 )ここに宇佐美 禅師 とて、駿河 の国 平沢 の山寺 にぞありける、本 は久能 法師 なり。(中略 )急 ぎ富士野 に尋 ね入 り、二人 の死屍 を葬送 しつつ、骨 をば頸に懸 けて、6月3日 には曽我 の里 へ入 る(巻 十 )
鎌倉 殿 は富士野 を出 で御 在 して…(中略 )鎌倉 殿 打 低 樋 かせ給 ひつつ、「母 の悲 しみこそあるらめ。自今 以後 曾我 の荘 の年貢 弁済 においては、二人 の者共 が供養 のために母 に取 らするなり(中略 )公役 御免 の御教書 を賜 りて、曾我 の里 とぞ返 りける(巻 十 )
吾妻 鏡 と曽我 物語 の差異 [編集 ]
源 頼朝 と曽我 兄弟 [編集 ]
また
仇 討 ちを試 みる場面 [編集 ]
十 番 切 [編集 ]
「
仇 討 ち後 [編集 ]
事件 後 [編集 ]
事件 に関 する解釈 [編集 ]
北条 時政 黒幕 説 [編集 ]
またそれ
クーデター説 [編集 ]
伊東 父子 襲撃 における源 頼朝 関与 説 [編集 ]
曽我 物 [編集 ]
能 [編集 ]
虎 送 元服 曽我 調伏 曽我 伏木 曽我 夜討 曽我 禅師 曽我 小袖 曽我
があり、
幸 若 舞曲 [編集 ]
( |
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近世 以後 [編集 ]
絵画 ・版画 化 [編集 ]
15
また17
墓 ・社 ・霊地 [編集 ]
また、
また
関連 用語 [編集 ]
また「
関連 作品 [編集 ]
映画
- 『
曾我 兄弟 狩場 の曙 』(1908年 ) - 『
曾我 十 番 斬 』(1916年 ) - 『
永 禄 曾我 譚 』(1917年 、小林 ) - 『
小袖 曽我 』(1920年 ) - 『
夜討 曽我 』(1923年 、帝 キネ) - 『
曽我 』(1927年 ) - 『
日活 行進曲 曽我 兄弟 』(1929年 ) - 『
夜討 曽我 』(1929年 、マキノ) - 『
仇討 日本晴 孝 の巻 曾我 兄弟 』(1931年 、帝 キネ) - 『
富士 の曙 少年 曾我 』(1940年 ) - 『
曽我 兄弟 富士 の夜襲 』(1956年 、東映 、監督 :佐々木 康 )
- テレビドラマ
小説
高橋 直樹 『天皇 の刺客 』(2006年 、文庫 題 :『曾我 兄弟 の密命 ―天皇 の刺客 』)文藝春秋 坂口 螢火 『曽我 兄弟 より熱 を込 めて』(2023年 )幻冬舎 ルネッサンス
漫画
歌謡 曲
長編 歌謡 浪曲 曽我 の討入 り (三波 春夫 )
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
暗殺 に関 わった郎 従 の大見 小 藤太 ・八幡 三郎 を伊東 祐親 はすぐさま討 ち果 たしている - ^ 『
吾妻 鏡 』によると、祐親 は石橋 山 の合戦 後 、平 氏 軍 に加 わる準備 をしていたところを捕縛 される[10]。 - ^
事件 後 の動向 は以下 の通 りである(吾妻 鏡 )。6月1日 に曾我 祐成 の弟 にあたる僧 (律師 )が尋問 され、また曾我 祐信 は宥免 された。6月3日 には仇 討 ち時 に逐電 した常陸 国 の者 たちの所領 が没収 された。7月2日 には律師 が自害 している。 - ^ その
後 虎 は6月 18日 に箱根 で祐成 の供養 を営 み、祐成 が最後 に与 えた葦毛 の馬 を捧 げて出家 を遂 げ信濃 善光寺 に赴 いた。その時 19歳 であったと記 されている(『吾妻 鏡 』) - ^
中世 の曽我 荘 の中心 は、現在 の曽我谷津 地区 (下曽我 )とされる[21]。 - ^
静岡 県 富士宮 市 に所在 - ^ 20
回 に及 ぶ武士 による狩 りの披露 。合 手 組 (左右 で二 人 ずつ)の20番 であるため、計 40人 となる[30]。 - ^
十郎 の言葉 。五郎 も同様 の文言 を記 している - ^
五郎 は勝手 に下山 し元服 したことで勘当 されていた[34]。 - ^ 2
度目 の訪問 では伊 出 の屋形 に至 らず曾我 の里 へ戻 っている[59] - ^
兄弟 が狩 庭 に潜 み祐 経 を狙 う箇所 のこと - ^
範 頼 は8月 2日 に突如 頼朝 の元 に謀反 を否定 する起請文 を提出 しているが、10日 には頼朝 の寝床 に潜 んでいた範 頼 の間 者 が捕縛 され、範 頼 は17日 に伊豆 国 に配流 されている。配流 の際 に範 頼 は狩野 宗茂 と祐 経 の弟 宇佐美 祐 茂 によって連行 されており、20日 には曾我 兄弟 の異父 兄弟 である原 小次郎 (北条 本 『吾妻 鏡 』や『曽我 物語 』では「京 の小次郎 」)が範 頼 の縁坐 として誅殺 されている。『保 暦 間 記 』によると、事件 の直後 、鎌倉 ではしばらくの間 頼朝 の消息 を確認 できず、頼朝 の安否 を心配 する妻 政子 に対 して、巻狩 に参加 せず鎌倉 に残 っていた範 頼 が「私 が控 えておりますので(ご安心 ください)」と見舞 いの言葉 を送 った。この言質 が謀反 の疑 いと取 られたとする説 もある。 - ^ 『
吾妻 鏡 』建 久 四 年 (1193年 )5月 2日 条 「北条 殿 駿河 国 に下向 したまふ。これ狩 倉 を覧 んがために、かの国 に赴 かしめたまふべし」 - ^ 『
吾妻 鏡 』建 久 四 年 (1193年 )5月 15日 条 「北条 殿 はあらかじめその所 に参 候 せられ、駄 餉を獻 ぜしめたまふ」 - ^
保立 は頼朝 が祐 経 と共謀 した証拠 はないものの、工藤 祐 経 の弟 である宇佐美 祐 茂 や同族 の工藤 茂光 が早 くから頼朝 と結 んでその挙兵 に参加 していること、工藤 の本拠 である伊豆 国 狩野 (鹿野 )に祐 経 の従者 が隠 れ住 んで襲撃 の機会 を狙 っていたことを挙 げ、頼朝 と祐 経 の間 に何 らかの関 わりがあったことを否定 できないとしている。 - ^
曽我 物語 において、兄弟 が狩場 にて工藤 祐 経 を狙 うも伏木 (または躑躅 根 )に足 をかけ落馬 する場面 のこと - ^
現存 する舞曲 の本文 は「越前 幸 若 系 」と「大頭 系 」に大別 され[102][103]、幸 若 舞曲 の台本 を読 み物 化 した版本 は大頭 系 に含 まれる[104]。版本 はまず古 活字 版 が成立 し[105]、江戸 時代 初期 には挿絵 を含 む揃 物 として刊行 された(「舞 の本 」)[106]。 - ^ 「
切 兼 曽我 」と「一 満 箱 王 」は同一 である[112][113]。 - ^
富士野 の各 御家人 の屋形 に張 られた幕 紋 群 のこと - ^
建 久 4年 (1193年 )5月 28日 に曽我 五郎 ・十郎 の兄弟 が富士 の裾野 で工藤 祐 経 を討 った際 に傘 を燃 やして松明 とした故事 から、毎年 5月 28日 に、小田原 市 に所在 する城前 寺 付近 の家々 から古 い傘 を集 めて本堂 の裏側 にある曽我 兄弟 の墓前 に積 み上 げて火 を放 ち、衆 僧 が列 を作 って読経 をしながらその火 を巡 って行道 ・供養 する「傘 焼 き祭 り」が行 なわれていたが[148]、2011年 に寺 側 からの申 し出 により祭 りでの開催 は中止 となり、同年 より城前 寺 檀 信徒 を中心 に、城前 寺 保育園 年長 組 が十郎 、五郎 、虎 御前 、稚児 として衆 僧 と共 に参列 し傘 焼 き供養 会 を継続 している[149]。尚 、保存 会 では下曽我 駅前 や公園 など市内 各所 で関連 行事 を続行 している[150]。 - ^
鹿児島 市 では毎年 7月 に郷中 教育 の一環 として、曾我 兄弟 の仇 討 ちの故事 に倣 い、和 傘 を燃 やす「曽我 どんの傘 焼 き」を開催 している[151]。
出典 [編集 ]
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坂井 (2014) pp.72-73
参考 文献 [編集 ]
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