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曾我そが兄弟きょうだいかたき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
富士野ふじのにおけるかたきちの場面ばめん曽我そが物語ものがたり図会ずえ

曾我そが兄弟きょうだいかたき(そがきょうだいのあだうち)は、たてひさ4ねん5月28にち1193ねん6月28にち)、みなもと頼朝よりともおこなった富士ふじ巻狩まきがさい曾我そが祐成すけなり曾我そが時致ときむね兄弟きょうだい父親ちちおやかたきである工藤くどうゆうけい富士野ふじのにてった事件じけん赤穂あこう浪士ろうし伊賀いがえのかたきならぶ、日本にっぽんさんだいかたきの1つである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

曾我そが兄弟きょうだい 歌川うたがわ国芳くによし
曾我そが五郎ごろう時致ときむね 歌川うたがわ国芳くによし

曽我そが兄弟きょうだいかたきちは、駿河するがこく富士野ふじの現在げんざい静岡しずおかけん富士宮ふじのみや [1][2][3]、『吾妻あづまきょう』はさら子細しさい富士野ふじの神野かみのしるす)で発生はっせいした。あに曽我そが十郎じゅうろう祐成すけなりいちまん)が22さいおとうと曽我そが五郎ごろう時致ときむねはこ(筥)おう)が20さいときのことであった(かぞどし[4]

真名まなほん曽我そが物語ものがたり』によると、かたきちの発端ほったん安元やすもと2ねん1176ねん)10がつ兄弟きょうだいちちである河津かわづゆうやすし伊豆いずこく奥野おくのかりにわ工藤くどうゆうけいろうしたがえ暗殺あんさつされたことによる[5]ゆうたいが31さいいちまんが5さいはこおうが3さいときのことであった[4]ゆうけいは「しんけて一矢いっしてむや(真名まなほんまきだいいち』)」と伊東いとうそう[6]中心ちゅうしんとする所領しょりょうしょうろん[7]相手あいてでありつま万劫まんごう)を離縁りえんさせた人物じんぶつでもある伊東いとう祐親すけちか暗殺あんさつろうしたがえめいじていたが[8]実際じっさい祐親すけちかではなくゆうたい命中めいちゅう非業ひごうげた[9][注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]。そのてきにあたるゆうけい曽我そが兄弟きょうだいった事件じけんである(兄弟きょうだいはは曽我そが祐信すけのぶ再婚さいこんしたため兄弟きょうだい曽我そがせい名乗なのる)。

どう事件じけん様々さまざま分野ぶんや影響えいきょうあたえた。「いち富士ふじたかちがい、さん伊賀いが仇討あだうち」といった言葉ことばにあるように[11]現在げんざい日本にっぽんさんだいかたきちにかぞえられ、武士ぶし社会しゃかいにおいてはかたきちの模範もはんとされた[12]。また『曽我そが物語ものがたり』や江戸えど時代じだい教科書きょうかしょ富士野ふじの往来おうらい』といった史料しりょう芸能げいのうでは「曽我そがぶつ」を成立せいりつさせた。

近代きんだいには教科書きょうかしょにも採用さいようされ、尋常じんじょう小学校しょうがっこう教科書きょうかしょ曽我そが物語ものがたり要約ようやく高等こうとう小学校しょうがっこう教科書きょうかしょ高等こうとう女学校じょがっこう国語こくご読本とくほんのう小袖こそで曽我そが」(後述こうじゅつ)が掲載けいさいされるなどしている[13]一方いっぽうGHQによる検閲けんえつかたきぶつ忌避きひされたため[14]一般いっぱんへの認知にんち影響えいきょうあたえたと指摘してきされる[15][16]

吾妻あづまきょう記述きじゅつ[編集へんしゅう]

曾我そが兄弟きょうだいかたきちは、富士ふじ巻狩まきがりさい富士野ふじの神野かみのにて発生はっせいした。『吾妻あづまきょう』によると、みなもと頼朝よりともけんひさ4ねん(1193ねん)5がつ15にち富士野ふじの旅館りょかんはいり、どう16にちには富士野ふじのりをもよおしている。

事件じけんどう28にちきた。『吾妻あづまあきら』28にちじょうには「曽我そが十郎じゅうろう祐成すけなりどう五郎ごろう時致ときむね富士野ふじの神野かみの旅館りょかん推參すいさんいた工藤くどう左衛門尉さえもんのじょうゆうけい殺戮さつりく」とあり、曽我そが兄弟きょうだい富士野ふじの神野かみの旅館りょかんにおしかけて工藤くどうゆうけいった。このときさけ相手あいてをしていたおうふじないたれた[17]

はた手越てごし宿やど黄瀬川おうせがわ宿やど遊女ゆうじょ悲鳴ひめいげ、この一大事いちだいじ現場げんばだい混乱こんらんとなり、宿やどさむらいはしす。曾我そが兄弟きょうだい頼朝よりとも御家人ごけにんあいだ戦闘せんとうはじまり、平子ひらこゆうちょう愛甲あいこうたかし吉川よしかわともけん加藤かとうひかりいん海野うみのみゆきおかあたり弥三郎やさぶろう岡部おかべきよしえきほり藤太とうた臼杵うすき八郎はちろうといった武将ぶしょうらはきずった。また宇田うだ五郎ごろう兄弟きょうだいたれ、十郎じゅうろうあに祐成すけなり)は仁田にった四郎しろう忠常ただつね対峙たいじしたさいたれた[18]

五郎ごろうおとうと時致ときむね)は将軍しょうぐん頼朝よりとも目掛めがけてはしり、頼朝よりともはこれをむかとうとかたなったが、大友おおとものうじきがこれをめた。このあいだ時致ときむね御所ごしょ五郎丸ごろうまるさえられ、大見おおみ小平しょうへいあずかることで事態じたいくこととなった。その和田わだ義盛よしもり梶原かじはら景時かげとき検死けんしおこなった[18]

かたきちの翌日よくじつである29にち頼朝よりとも五郎ごろうおとうと)の尋問じんもんおこない、有力ゆうりょく御家人ごけにんらがそれに同席どうせきし、そのおおくのものぐんさんした。尋問じんもんえた頼朝よりとも五郎ごろう勇姿ゆうしから宥免ゆうめん提案ていあんするが、ゆうけいであるいぬ房丸ぼうまるうったえにより同日どうじつ梟首きょうしゅされた[19]

30にちにはどう事件じけん北条ほうじょう政子まさこ飛脚ひきゃくらされ、また兄弟きょうだいははおくった手紙てがみされ、頼朝よりともとおしている。頼朝よりとも手紙てがみ内容ないよう感涙かんるいし、手紙てがみるい保存ほぞんめいじた[20]。6月1にちには祐成すけなりわらわとらはじめとするおおくの人物じんぶつたいして聴取ちょうしゅおこなわれ、とら放免ほうめんされている[注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]。6月7にち頼朝よりとも鎌倉かまくらけて出発しゅっぱつし、富士野ふじののちにした。このとき頼朝よりとも曽我そがそう現在げんざい神奈川かながわけん小田原おだわら[注釈ちゅうしゃく 5]年貢ねんぐ免除めんじょすることを決定けっていし、また曽我そが兄弟きょうだい菩提ぼだいとむらうようめいじた。

曽我そが物語ものがたり記述きじゅつ[編集へんしゅう]

以下いか真名まなほん曽我そが物語ものがたり』のうち曽我そが兄弟きょうだいかたき舞台ぶたいである富士野ふじのかい、同地どうち本懐ほんかいげたのち葬送そうそうされる箇所かしょしるす。

梶原かじはら景時かげとき

富士野ふじの到着とうちゃくするまで[編集へんしゅう]

みなもと頼朝よりとも信濃しなのこくさん原野げんや下野げやこく那須野なすのでのりをおこなったのち梶原かじはら景時かげとき以下いかのように言及げんきゅうした[25][26]

東国とうごくにはかりにわおおしといへども、富士野ふじのぎたる名所めいしょはなし。そのらむ(まきろく

頼朝よりとも駿河するがこく富士野ふじの巻狩まきがりおこなうことを宣言せんげん景時かげときつたえた。景時かげときはこれをひろ通達つうたつした。富士野ふじのでの巻狩まきがりをききおよんだ五郎ごろうは、以下いかのようにべた。

富士野ふじのかりうけたまわる(中略ちゅうりゃくてきわれらがけずは、われらがをもわれらがいのちをもてきのためててこそ、悪霊あくりょう死霊しりょうともなり御霊みたまみやともあがめられめ(まきろく

五郎ごろうはこれを好機こうきとらよろこび、これまでかたきちを達成たっせいできなかったのはすきうかがっていたためであり[27]今度こんど頼朝よりともまえであってもおそれず陣内じんないさむらいにもひるむこと断行だんこうするべきであるとべる[28]。そしてみずからの霊化れいか宣言せんげんした。このように富士野ふじのいたまえより兄弟きょうだい覚悟かくごしていた[29]。ここから兄弟きょうだい富士野ふじのゆうけいつために行動こうどうしていくこととなる。

富士野ふじの屋形やかた到着とうちゃく[編集へんしゅう]

仁田にった忠常ただつね
つぎ屋形やかたかせきゅうふ。(まきなな
すでかりにわはじまりければ、各々おのおの互ひにけて、てきじょけいらす(中略ちゅうりゃくつぎよりはさんにち巻狩まきがりとぞこえる(まきだいはち

頼朝よりともいちぎょう曽我そが兄弟きょうだい屋形やかた到着とうちゃくした。このあいだ兄弟きょうだいゆうけい動向どうこうひからせつづけていた。3にち連続れんぞく巻狩まきがりはじまると、じゅうばん[注釈ちゅうしゃく 7]おこなわれた。一番いちばん相模さがみこく愛敬あいきょう三郎さぶろう本間ほんま次郎じろうであった[31]

巻狩まきがりだい三箇日さんがにちあたりけるは、終日しゅうじつに躵へどもすこしのすきこそなかりけれ。(中略ちゅうりゃくじょうみねより大鹿おおしか大王だいおうとう曽我そが人々ひとびとまえれり。(中略ちゅうりゃく)かかるしょに、うえみねよりいのしし大王だいおうくだりけり。いづくにて何人なんにんにやられけん、ふたまけひながら、瞋り瞋て鎌倉かまくら殿どの御前ごぜんかかりける。(中略ちゅうりゃくをその見物けんぶつとして、鎌倉かまくら殿どの屋形やかたはいきゅうへば、曾我そが人々ひとびとおなじく屋形やかたりにけり(まきはち

兄弟きょうだいゆうけいねらつづけるがそのすきい。するととう大鹿おおしか兄弟きょうだいまえてきたが、兄弟きょうだい故意こいにこれをはずした。今度こんどみなもと頼朝よりともまえいのししはしけてたが、新田にった四郎しろうちゅうけい仕留しとめた[32]。これをその見物けんぶつとして頼朝よりとも屋形やかたはいり、兄弟きょうだい屋形やかたはいっていった。かたきちの直前ちょくぜん兄弟きょうだい屋形やかたはは手紙てがみく。その末尾まつびには

たてひさ4ねんみずのとうし5がつ28にち夜半やはんには、駿河するがくに富士山ふじさんふもと屋形やかたにおいて、慈父じふ報恩ほうおんのためいのちうしなひ畢るなり(まききゅう

とあった[33][注釈ちゅうしゃく 8]五郎ごろうははからの勘当かんどう[注釈ちゅうしゃく 9]ゆるされたことに感謝かんしゃし、また兄弟きょうだいどもはは後代こうだいいのった[35]十郎じゅうろうあや小袖こそでむら千鳥ちどり直垂ひたたれ赤銅しゃくどうづくりの太刀たちくろ鞘巻さやまきかたなとうたずさえ、五郎ごろうちょうえがかれた直垂ひたたれ兵庫ひょうごくさり太刀たち赤木あかぎ短刀たんとうとうたずさえる。そして5がつ28にち夜半やはんかたきちは決行けっこうされた[36]

かたきちの決行けっこう[編集へんしゅう]

五郎ごろう五郎丸ごろうまる
とら御前ごぜん江戸えど風俗ふうぞくひがし錦絵にしきえ』のうち「祐成すけなり出立しゅったつ」)

さむらいしょはいった兄弟きょうだいは、ていた工藤くどうゆうけいと往藤ない[37]姿すがた確認かくにんする。十郎じゅうろう太刀たちゆうけいかたしたうえ

や、殿しんがり宮藤くどう左衛門尉さえもんのじょう(註:工藤くどうゆうけい)、これほど大事だいじてきちながら、きたなくも寝入ねいりるものかな。きよや、や、殿どのまききゅう

こす。きたところじゅうろうかさねてり、五郎ごろうもそれにくわわりたす。往藤ない太刀たちおとおどろいてがり兄弟きょうだいさとすも、十郎じゅうろうは「沙汰さたおよばず」とおなじくたした。

そして、屋形やかたではさわぎをききつけたつぎの10にん人物じんぶついとなった(じゅうばんきり[38]。その人物じんぶつだいらく弥平やへいうままこと愛敬あいきょう三郎さぶろう岡部おかべ五郎ごろうはら三郎さぶろう御所ごせくろ海野うみの小太郎こたろうこう加藤かとう太郎たろうたちばなかわ小次郎こじろう宇田うだ五郎ごろう臼杵うすき八郎はちろうである。

まずだいらく弥平やへいうままことじゅうろうられたためげ、愛敬あいきょう三郎さぶろうろう右肩みぎかたられ退いた。岡部おかべ五郎ごろう一打いちだ出来できないままじゅうろうゆびられたため退しりぞく。つぎはら三郎さぶろうろう肋骨あばらぼねほんりつけられ退しりぞく。やがて御所ごしょくろはしかってったがじゅうろういかけてたためげたところ、こう頸をられ足早あしばやげた。

海野うみの小太郎こたろうこうじゅうろういとなり、ここに加藤かとう太郎たろうくわわった。十郎じゅうろう二人ふたり相手あいてする展開てんかいなかろう加勢かせいし、五郎ごろうむねられた加藤かとう退しりぞいた。直後ちょくご海野うみのろう背中せなかられ退き、たちばなかわ小次郎こじろうろうひじられ退いた。宇田うだ五郎ごろうじゅうろういとなり、みぎひじられ退しりぞく。臼杵うすき八郎はちろうろういとなったすえくびを刎ねられた[39]

しばらときをおいてようじゅさんろうせてきたが、五郎ごろう右肩みぎかたられ退しりぞく。つぎいちかわ別当べっとう次郎じろうそうひかりせたがろうももられ退いた(ようじゅさんろうや一河別当次郎宗光らはじゅうばんせつふくまれず[40]番外ばんがいというあつかいがなされる[41])。そして新田にった四郎しろうとのいとなる。

新田にった四郎しろう小鬢こびんを刎てつぎかたなみぎしょうひじきってけり(中略ちゅうりゃくかばねをば駿河するがくに富士野ふじのすそ屋形やかたさらしつつ、をば後代こうだいとめむべしと、めんかわらずごうけり(中略ちゅうりゃく)そのほどもなくとまりぬ(まききゅう

十郎じゅうろう新田にった四郎しろう壮絶そうぜついとなり、その様子ようすは「互ひに打物うちもの上手じょうずども」とひょうされる。新田しんでんじゅうろうかみひじられるがひるむことがなく「をば後代こうだいとめむべし」と意気込いきごがおえずいをつづけた[29][42]。しかしすでおおくのてき対峙たいじしていた十郎じゅうろう疲労ひろうはなはだしく、やがてつんいになったところでかたはらみぎひじはら三郎さぶろうられた。そこで新田しんでん致命傷ちめいしょうわされいきえる[43]十郎じゅうろう最後さいご言葉ことばとしてろうに「きみ御前ごぜんちかくうちうえつて見参けんざんはいまいらせよ」とべ、頼朝よりとも御前ごぜんかうようつたえた[44]

屋形やかた御前ごぜんなるだいまくげてといはいる。五郎ごろうれんいてはいらむとするしょに、五郎丸ごろうまるうんわらわのありけるが、大力だいりきなり(中略ちゅうりゃく五郎丸ごろうまるかのうはじやとおもひけむ、「てきをばかくこそなつけ、得々とくとく」とよびりければ、五郎ごろうこれをききこしかたなさがせれどもうんきぬるうえはいづれのせんにやとしたりけむ、こしにはなかりけり。ちからおよばずしてあいしょに…(まききゅう

ほりふじろうとうとするが、五郎ごろうびかかると頼朝よりとも屋形やかたげた。五郎ごろう頼朝よりとも屋形やかたへの侵入しんにゅうたしたが、くち頼朝よりとものおりの大力だいりき五郎丸ごろうまるつかまってしまう。頼朝よりともろう御厩みまや小平こだいらあづけ、五郎ごろうはしらしばけられた[45]

捕縛ほばく[編集へんしゅう]

曽我そが兄弟きょうだい遺骨いこつ埋葬まいそうされたとつたわる「お花畑はなばたけ[46]真名まなほん登場とうじょうする「千種ちくさはなえんまきじゅう)」に比定ひていされ、昭和しょうわ3ねん(1928ねん)には同地どうちより骨壷こつつぼ発見はっけんされ、のち城前しろまえてらうつされた [47]

よく29にち五郎ごろう頼朝よりともによる尋問じんもんける。

鎌倉かまくら殿どのこのよししょくされて、「これこうへや、各々おのおのあわれ(あっぱれ)男子だんし手本てほんや。これほど男子だんし末代まつだいにもあるべしともおぼえず。(中略ちゅうりゃくじょけばや」とおおせらるれば…(まききゅう

その堂々どうどうとしたいを頼朝よりともは「あわれ(あっぱれ)男子だんし手本てほんや。これほど男子だんし末代まつだいにもあるべしともおぼえず」と称賛しょうさんする[48][49]。そのうえ頼朝よりともは「じょけばや」と助命じょめい提案ていあんする。

梶原かじはらこれをうけたまわて(中略ちゅうりゃく)「かれ成人せいじんつかまつこうひなば、自今じこん以後いご狼藉ろうぜき出来できこうひなん(中略ちゅうりゃく)」ともうされければ、さてこそ五郎ごろう時宗じしゅうられべきにさだまりけれ(まききゅう

助命じょめい提案ていあんした頼朝よりともたいし、梶原かじはら景時かげとき今後こんご狼藉ろうぜきあん処刑しょけいするよう諫言したため、処刑しょけいさだめられる[50][51]

その十郎じゅうろうくび実見じっけんせられける。(中略ちゅうりゃく新田にった四郎しろう忠綱ただつなは、十郎じゅうろう最後さいごたりけるむら千鳥ちどり直垂ひたたれ赤銅しゃくどうさく太刀たちをばわらわたせてまいりたりければ、鎌倉かまくら殿どのこれを御覧ごらんじて、「あれはいかに。一定いってい助成じょせい衣装いしょうか」ととえはせきゅうへば(中略ちゅうりゃく)「さこう」とばかりさるしける。(中略ちゅうりゃく鎌倉かまくら殿どのなみだうかべさせきゅうふをさらぬからだにてし揮せきゅうひて…(まききゅう

その十郎じゅうろう首実検くびじっけんおこなわれた。仁田にった忠常ただつねじゅうろうにつけていたむら千鳥ちどり直垂ひたたれ赤銅しゃくどうづくりの太刀たちわらわたせて参上さんじょう[52]頼朝よりともはこれを御覧ごらんになった。頼朝よりともはこれがたしかに助成じょせい衣装いしょうであるのかをうと、五郎ごろうは「さこう」とかろうじてこたえた。その様子ようす頼朝よりともついには感涙かんるいする。その五郎ごろう処刑しょけい筑紫つくしなかふとしがその執行しっこうした。

葬送そうそう供養くよう[編集へんしゅう]

城前しろまえてら神奈川かながわけん小田原おだわら)。宇佐美うさみ禅師ぜんじ兄弟きょうだい菩提ぼだいとむらったてらつたえられる[47]
人々ひとびとはたよりだつようしょうして、どもおけつねあいしける千種ちくさはなえんやまおくりつつ、諸行無常しょぎょうむじょうくれけむりるいへてんげり。(中略ちゅうりゃく)ここに宇佐美うさみ禅師ぜんじとて、駿河するがくに平沢ひらさわ山寺やまでらにぞありける、ほん久能くのう法師ほうしなり。(中略ちゅうりゃくいそ富士野ふじのたずはいり、二人ふたり死屍しし葬送そうそうしつつ、ほねをば頸にけて、6月3にちには曽我そがさとはいまきじゅう

兄弟きょうだいくび頼朝よりともいのちにより尾河おがわ三郎さぶろうによって曽我そがさとおくられ、さと千種ちくさはなえんやま火葬かそうされた[53]。またくび以外いがい部分ぶぶんについては、駿河するがこく宇佐美うさみ禅師ぜんじ富士野ふじのにて葬送そうそうおこなった。葬送そうそう宇佐美うさみ禅師ぜんじ曽我そがさとおもむき、兄弟きょうだいほね曽我そがさとへととどけられた。

鎌倉かまくら殿どの富士野ふじのましまして…(中略ちゅうりゃく鎌倉かまくら殿どのていといかせきゅうひつつ、「ははかなしみこそあるらめ。自今じこん以後いご曾我そがそう年貢ねんぐ弁済べんさいにおいては、二人ふたり者共ものども供養くようのためにははらするなり(中略ちゅうりゃく公役こうえき御免ごめん御教書みぎょうしょたまわりて、曾我そがさととぞかえりける(まきじゅう

頼朝よりとも富士野ふじのると曽我そが太郎たろう助信すけのぶび、曾我そがそう年貢ねんぐ今後こんご免除めんじょすることをつたえたうえでそれを曽我そが兄弟きょうだい供養くようのためもちいるようめいじた[54][55][56]事件じけんとらかたきちの現場げんばでありじゅうろう最期さいごである富士野ふじの屋形やかた弔問ちょうもんし、その再度さいど屋形やかた訪問ほうもんするため出立しゅったつしている(まきじゅう[57][29][58][注釈ちゅうしゃく 10]

吾妻あづまきょう曽我そが物語ものがたり差異さい[編集へんしゅう]

みなもと頼朝よりとも曽我そが兄弟きょうだい[編集へんしゅう]

みなもと頼朝よりとも兄弟きょうだいたいするあつかいの差異さいおおくで指摘してきされる。『吾妻あづまきょう』の場合ばあい頼朝よりとも兄弟きょうだい敵意てきいしめ記述きじゅつすくなく、捕縛ほばくされた五郎ごろうたいする宥免ゆうめん提案ていあん兄弟きょうだい死後しご菩提ぼだいとむらうようめいじるなど、寛大かんだい処置しょち全面ぜんめんされている[60]一方いっぽう曽我そが物語ものがたり』の場合ばあい頼朝よりとも兄弟きょうだいたい敵意てきい描写びょうしゃつづき、かたきまえ段階だんかいすできびしい処置しょちめいじている[61]。しかしかたきろう尋問じんもんするなか頼朝よりともおおきな心境しんきょう変化へんかしょうじ、一転いってんしてろう称賛しょうさんしている[49][48]梶原かじはら景時かげとき忠告ちゅうこくもありきびしい処置しょち変更へんこうかったものの、最後さいごには五郎ごろう言葉ことばいて頼朝よりとも感涙かんるいしている[52][51]

また真名まなほん頼朝よりとも登場とうじょう流人るにんとしてえがかれるが、仮名かめいほん登場とうじょうより権力けんりょくしゃとしてえがかれている[62]

かたきちをこころみる場面ばめん[編集へんしゅう]

かたき場面ばめん記述きじゅつは、両者りょうしゃ共通きょうつうてんもあればあきらかな差異さいおおい。『吾妻あづまきょう』も『曽我そが物語ものがたり』も曽我そが兄弟きょうだいかたきちの舞台ぶたい富士野ふじのとしているてん共通きょうつうしているが、『吾妻あづまきょう』では井出いで屋形やかた出現しゅつげんしない[63]。また梶原かじはら景時かげとき海野うみのみゆき宇都宮うつのみやちょうつな名誉めいよたんやいわゆる「伏木ふしき曽我そが」の場面ばめん[注釈ちゅうしゃく 11]は『曽我そが物語ものがたり独自どくじのものである[64][65]。またろう尋問じんもんする描写びょうしゃで『吾妻あづまきょう』は御家人ごけにん列挙れっきょするが真名まなほんにはられず[66]現場げんば遊女ゆうじょたいする尋問じんもんも『吾妻あづまきょう独自どくじである[67]

じゅうばんきり[編集へんしゅう]

じゅうばんきり」は工藤くどうゆうけいったのち兄弟きょうだいじゅうにん人物じんぶつ実際じっさい番外ばんがいがある)といをしたことが由来ゆらいである言葉ことばであり[39]、『吾妻あづまきょう』と『曽我そが物語ものがたりしょほんとでは共通きょうつうする人物じんぶつことにする人物じんぶつはいじっている[68](『吾妻あづまきょう』のじゅうばんきり人物じんぶつは「富士ふじ巻狩まきがり#参加さんかしゃ」を参照さんしょう)。そのなか宇田うだ五郎ごろう臼杵うすき八郎はちろう共通きょうつうしているが、『吾妻あづまきょう』では宇田うだ五郎ごろう死亡しぼうしており、『曽我そが物語ものがたり』では臼杵うすき八郎はちろう死亡しぼうしている[69]。『曽我そが物語ものがたり』で場合ばあい真名まなほん仮名かめいほんことなりじゅうばんきり順番じゅんばんかぞえないという特徴とくちょうがある[70]

かたきのち[編集へんしゅう]

十郎じゅうろう恋人こいびとであったとら御前ごぜんは、真名まなほんにおいては曽我そがさと神奈川かながわけん小田原おだわら曽我そがそう)にもり往生おうじょうしたとする一方いっぽう仮名かめいほん自身じしん古里ふるさとにあたる大磯おおいそにある高麗こうらいてら山奥やまおくらしたとする[53]

事件じけん[編集へんしゅう]

富士ふじ巻狩まきがりののち粛清しゅくせい相次あいついでおり[71]巻狩まきがりが契機けいきとなった可能かのうせい指摘してきされている[72]たとえば巻狩まきがりにはみなもと頼朝よりとも異母弟いぼていである源範頼みなもとののりより参加さんかしておらず、流罪るざい関係かんけいするといった見方みかたもされている[73][注釈ちゅうしゃく 12]。この事件じけんさい常陸ひたちこくもの頼朝よりともまもらずにした問題もんだい[74]事件じけんからほどなく常陸ひたちこく多気たきよしみき叛旗はんきひるがえしたこと[75]などが『吾妻あづまきょう』にしるされており、同国どうこく武士ぶしとつながりがふかかったはんよりゆきたいする頼朝よりとも疑心ぎしんふかめたとするせつもある[76]

事件じけんかんする解釈かいしゃく[編集へんしゅう]

北条ほうじょう時政ときまさ黒幕くろまくせつ[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ三浦みうらあまねぎょう大正たいしょう北条ほうじょう時政ときまさ黒幕くろまくせつとなえ、それ以来いらい学界がっかいおおきな影響えいきょうあたえてきた[77][78][79]。『吾妻あづまきょう』や『曽我そが物語ものがたり』では工藤くどうゆうけいったのち時致ときむねみなもと頼朝よりともをもおそっており、これが時政ときまさ暗躍あんやくによるものとする解釈かいしゃくである[80]時政ときまさ事前じぜん駿河するがこく入国にゅうこく準備じゅんびおこなっており[注釈ちゅうしゃく 13][81]頼朝よりとも富士野ふじの到着とうちゃくしたさいもあらかじめ参上さんじょうしており[注釈ちゅうしゃく 14]、このせつ説得せっとくりょくをもたらした。

またそれ以前いぜんより時政ときまさ兄弟きょうだいえんがあり、あに祐成すけなりおとうとである筥王(曾我そが時致ときむね)を時政ときまさ屋形やかたおとずれ、時政ときまさ烏帽子えぼしおやとして元服げんぷくしている[82]従来じゅうらいより面識めんしきのあった時政ときまさ兄弟きょうだい頼朝よりとも襲撃しゅうげきへと誘導ゆうどうしたとする見方みかた現在げんざいでもおお[83]

一方いっぽうで、頼朝よりとも時政ときまさよりゆき擁立ようりつ利害りがい一致いっちしており、時政ときまさ頼朝よりともおそうほどの動機どうきはないし、事件じけん頼朝よりとも時政ときまさあいだ懸隔けんかくられない。よりゆきれの舞台ぶたい時政ときまさ殺人さつじん仕組しくむとはかんががたく、また祐成すけなりったのは時政ときまさ側近そっきん仁田にった忠常ただつねであり、祐成すけなり時政ときまさねらった可能かのうせいたかく、兄弟きょうだい時政ときまさ統制とうせい逸脱いつだつした行動こうどうをとっているとして、時政ときまさ黒幕くろまくせつ疑問ぎもんする見方みかたもある[84]

クーデターせつ[編集へんしゅう]

小説しょうせつ永井ながい路子みちこは、富士ふじ巻狩まきがはんよりゆき粛清しゅくせい大庭景義おおばのかげよし岡崎おかざき義実よしざね鎌倉かまくら追放ついほう安田やすだよしじょう誅殺ちゅうさつなどがつづいていることから、戦時せんじ体制たいせいから平時へいじ体制たいせいへの移行いこうすすめていた頼朝よりとも御家人ごけにんたちとのあいだ意識いしき懸隔けんかくしょうじており、挙兵きょへい以来いらい歴戦れきせん御家人ごけにんなかには平時へいじ体制たいせいではちから発揮はっきできず不満ふまん反発はんぱつつのらせていたものもいて、そのような不満ふまん分子ぶんし曾我そが兄弟きょうだいかたきちの混乱こんらんじょうじて頼朝よりともたおはんよりゆき擁立ようりつするはん北条ほうじょうのクーデターを計画けいかくしたというせつとなえた[85]

伊東いとう父子ふし襲撃しゅうげきにおけるみなもと頼朝よりとも関与かんよせつ[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ保立ほたて道久みちひさ伊東いとう祐親すけちか工藤くどうゆうけい襲撃しゅうげきされる直前ちょくぜん自分じぶん外孫そとまごにあたる頼朝よりとも長男ちょうなんせん鶴丸つるまる千鶴ちづる御前ごぜん)を殺害さつがいしており、工藤くどうゆうけいによる伊東いとう祐親すけちか父子ふし襲撃しゅうげきそのものに息子むすこころされた頼朝よりともによる報復ほうふく要素ようそがあり[注釈ちゅうしゃく 15]曾我そが兄弟きょうだい工藤くどうゆうけいによる伊東いとう父子ふし襲撃しゅうげき背後はいご頼朝よりともがいたことをっていたとしている[86]。このせつでは、曾我そが兄弟きょうだいはじめから頼朝よりともちち殺害さつがいしたかたきとして認識にんしきしていたことになる。

曽我そがぶつ[編集へんしゅう]

のう調伏ちょうぶく曽我そが」(『のうかん』)

芸能げいのうのう」や「さいわいわか舞曲ぶきょく」に、どう事件じけん題材だいざいとした「曽我そがぶつ」とばれる一群いちぐんみとめられる。さいわいわか舞曲ぶきょくのうとで同様どうよう曲名きょくめいもあるが内容ないようことにしており、たとえばのう小袖こそで曽我そが」の場合ばあい小袖こそでをめぐる演出えんしゅつられないといったちがいがある[87][88][89]。 

のう[編集へんしゅう]

のう曽我そがぶつとく真名まなほんとの関係かんけいせい指摘してきされる[90]のう曽我そがぶつのうち室町むろまち時代ときよには成立せいりつしていたとされる作品さくひん

  1. とらおく
  2. 元服げんぷく曽我そが
  3. 調伏ちょうぶく曽我そが
  4. 伏木ふしき曽我そが
  5. 夜討ようち曽我そが
  6. 禅師ぜんじ曽我そが
  7. 小袖こそで曽我そが

があり、近世きんせいまでふくめると20作品さくひん以上いじょう存在そんざい指摘してきされる[91]のう上演じょうえんはやれいとされるのは、ひろみこと寺務じむかたしょまわり請』に「曽我そがとら」とある、おうなが34ねん1427ねん)の「とらおく」であるとされる[92]。またこれを「とらおく」ではなく「伏木ふしき曽我そが」に比定ひていする見解けんかいもある[93]いで『日記にっきえいとおる4ねん(1432ねん)3がつ14にちじょうに「曽我そが五郎ごろう元服げんぷく」とあるのう元服げんぷく曾我そが」もはやれいである[94]。また曽我そが物語ものがたりとうらない独自どくじ志向しこうみとめられる。たとえば吾妻あづまきょう曽我そが物語ものがたりさいわいわか舞曲ぶきょく場合ばあい五郎ごろう北条ほうじょう時政ときまさ烏帽子えぼしおやとなり元服げんぷくしているが、のう元服げんぷく曽我そが」の場合ばあい箱根はこね権現ごんげんから曽我そがさとかえ道中どうちゅうにて、箱根はこね権現ごんげん別当べっとうにより元服げんぷくおこなわれる構成こうせいである[95][96]

以下いかではかく作品さくひんについて解説かいせつする。「元服げんぷく曽我そが」は作者さくしゃづけのうほん作者さくしゃ註文ちゅうもん』・『自家じかでんしょうともみやぞうさくとしている[97]。「小袖こそで曽我そが」は仮名かめいほんより真名まなほんとの近似きんじせい指摘してきされ[88][98]のう曽我そがぶつ真名まなほんちか関係かんけいにあるとする指摘してきがある[99]。「伏木ふしき曽我そが[注釈ちゅうしゃく 16]とら仇討あだうちちのである「井手いで井出いで)のさと」を訪問ほうもん兄弟きょうだい御霊みたま出会であ構成こうせいである。「伏木ふしき」という言葉ことば自体じたいは、真名まなほん仮名かめいほん狩場かりば描写びょうしゃにて登場とうじょうする[93]。「禅師ぜんじ曽我そが」は『自家じかでんしょう』によると世阿弥ぜあみさくであるという。曽我そが兄弟きょうだいはは末子まっし禅師ぜんじ手紙てがみおく描写びょうしゃがあるが、曽我そが物語ものがたりには確認かくにんされず独自どくじせいみとめられる[100]。「調伏ちょうぶく曽我そが」は作者さくしゃづけのうほん作者さくしゃ註文ちゅうもん』・『自家じかでんしょうともみや増作ぞうさくとしている[97][101]

さいわいわか舞曲ぶきょく[編集へんしゅう]

さいわいわか舞曲ぶきょく[注釈ちゅうしゃく 17]曽我そがぶつ以下いかななてんつたわり[107]とく仮名かめいほんとの関係かんけいせい指摘してきされる[108][109]一方いっぽう曽我そが物語ものがたり記述きじゅつだけではなく舞曲ぶきょく独自どくじ志向しこうみとめられる[110][111]

曲目きょくもく 解説かいせつ
いちまんはこおうきりけん曽我そが[注釈ちゅうしゃく 18]
元服げんぷく曽我そが
和田わだ酒盛さかもり
和田わだえん
上演じょうえんはつは『げんつぎきょう天文てんもん15ねん1546ねん)3がつ9にちじょうであり、そのかえ上演じょうえんされている[114]現存げんそんするしょほんおおさから人気にんききょくであることをうかがわせ、ほんさく影響えいきょうから浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきとう派生はせい作品さくひん発生はっせいした[115][116]和田わだ酒盛さかもり曽我そが兄弟きょうだい和田わだ義盛よしもりとのさかずきろん五郎ごろう朝比奈あさひな義秀よしひで草摺くさずりき(ちからくらべ)とう主題しゅだいで、題材だいざい仮名かめいほん曽我そが物語ものがたりっている。五郎ごろうあにじゅうろう難境なんきょうすく構成こうせいである[117]。この草摺くさずりきはとく人気にんき場面ばめんであったようで、ふるくは長谷川はせがわ久蔵きゅうぞう天文てんもん20ねん(1551ねん)に清水寺きよみずでら奉納ほうのうしたとつたわるだい絵馬えまほか近世きんせいには菱川ひしかわ師宣もろのぶ大森おおもりよしきよしたちばなまもるこくといった絵師えし作品さくひん題材だいざいとなり、おおくの作例さくれい確認かくにんされている。これらの作品さくひんは、上記じょうき久蔵きゅうぞう奉納ほうのうだい絵馬えま影響えいきょうけたものだとする指摘してきがある[118]
小袖こそで曽我そが
小袖こそで乞)
のう小袖こそで曽我そがとはことなり、さいわいわか舞曲ぶきょく場合ばあい実際じっさい小袖こそで登場とうじょうする。また浄瑠璃じょうるりの「小袖こそでそが」は舞曲ぶきょくから派生はせいしている[119]
けんさん 文字通もじどおけんかたな)に焦点しょうてんてられ、兄弟きょうだい富士野ふじの相沢あいざわげんいた過程かてい箱根はこね権現ごんげんにて別当べっとうよりそれぞれがたなあにくろ鞘巻さやまきかたなおとうと兵庫ひょうごさく太刀たち)をさずかる[120]別当べっとうかたな伝来でんらいべる。このみかどいのちにより長刀ちょうとう二分にぶんされたものであり、それぞれ「まくらかみ」「すんなし」と名付なづけられ、のちすんなしは「ともきり」とあらためられた。その源満仲みなもとのみつなかわたともきりは「ひげきり」と、まくらかみは「ひざきり」とあらためられ、源頼光みなもとのよりみつわたった[121]。さらにひげきりは「おにきり」と、ひざきりは「蜘蛛くもきり」とあらためられ、みなもと嫡流ちゃくりゅう伝来でんらい最終さいしゅうてき源義経みなもとのよしつねにより奉納ほうのうされたとする。一方いっぽう仮名かめいほんではかたきちにもちいたかたな木曽きそ義仲よしなかから相伝そうでんされる「さん宝剣ほうけん」の1つ「微塵みじん」と「あかどうづくりの太刀たち」(奥州おうしゅうまる)となっている[122]
夜討ようち曽我そが げんつぎきょう天文てんもん15ねん(1546ねん)3がつ9にちじょう上演じょうえんしるされる。同日どうじつ和田わだ酒盛さかもり」も上演じょうえんされている。
じゅうばんきり 上演じょうえんはつは『げんつぎきょう天文てんもん14ねん1545ねん)6がつ4にちじょうであり[123]じゅうばんきり存在そんざいしめ史料しりょうはつは「ひがししょうてらねずみ物語ものがたり」(天文てんもん6ねんごろ成立せいりつ)である[124][125]

近世きんせい以後いご[編集へんしゅう]

近世きんせいになると浄瑠璃じょうるり浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきといった分野ぶんや曽我そがぶつまれた[116]天和てんわ3ねん(1683ねん)には近松ちかまつ門左衛門もんざえもん浄瑠璃じょうるり世継よつぎ曽我そが」を創作そうさく人気にんきはくした。これは曽我そが兄弟きょうだいぼっしたのち世界せかいおも舞台ぶたいであり、「世継よつぎ」にあたるじゅうろう遺児いじ焦点しょうてんてられている[126]近松ちかまつほかにもおおくの曾我そがぶつ創作そうさくした。しかしこれらが自由じゆう制限せいげんなく上演じょうえんできたわけではなく、たとえば歌舞伎かぶきあけぼの曽我そが夜討ようち』が江戸えど中村なかむら上演じょうえんされたが、江戸えど幕府ばくふにより3にち上演じょうえん禁止きんしされるなどしている[127]

絵画かいが版画はんが[編集へんしゅう]

15世紀せいきには富士ふじ巻狩まきがりないしかたき場面ばめん絵画かいががなされていたとされ、一休宗純いっきゅうそうじゅん自戒じかいしゅう』に「エトキカ琵琶びわヲヒキサシテ、しま帚ニテ、アレハ畠山はたけやま六郎ろくろう、コレハ曽我そが十郎じゅうろう五郎ごろうナントうんタリ」とあり、絵解えときの題材だいざいとなっていることがられる[128][129]畠山はたけやま重保しげやすは『曽我そが物語ものがたり』においては梶原かじはらけいとの「鹿しかあらそい」でられるため、どう場面ばめん富士ふじ巻狩まきがり)をえがいたものであったと推定すいていされている[130][131]

現存げんそんするものでは『月次げつじ風俗ふうぞく屏風びょうぶだい7おうぎ富士ふじ巻狩まきがり」がれいであり[132]絵画かいがれい全体ぜんたい場合ばあいみぎせきを「富士ふじ巻狩まきがり」、ひだりせきを「かたきち(夜討ようち)」とした一双いっそう形式けいしき曽我そが物語ものがたり屏風びょうぶおお現存げんそんする[133][134]。このうちひだりせきさいわいわか舞曲ぶきょく夜討ようち曽我そが」「じゅうばんきり」を題材だいざいにしているという指摘してきがあり[135]さいわいわか舞曲ぶきょくとのふかかかわりが指摘してきされる[136]たとえばひだりせきには「まくもんづくし」[注釈ちゅうしゃく 19]えがかれこれはさいわいわか舞曲ぶきょく夜討ようち曽我そが」と共通きょうつうしているが、曽我そが物語ものがたりには確認かくにんされないものである[137][138]。またひだりせきえるざつ餉を長持ながもち兄弟きょうだいれる場面ばめんさいわいわか舞曲ぶきょく夜討ようち曽我そが」と共通きょうつうしているが、『曽我そが物語ものがたり』には確認かくにんされない[139]

また17世紀せいきまつ以降いこうは、みぎせき富士ふじ巻狩まきがりのみを主題しゅだいとして一双いっそう構成こうせいするれいおおいという指摘してき[140]挿絵さしえりの『曽我そが物語ものがたり』の刊行かんこうれいえたことによって『曽我そが物語ものがたり』を題材だいざいとする絵画かいが一般いっぱん庶民しょみんにもひろがっていったとする指摘してきがある[141]

浮世絵うきよえ題材だいざいとしてももちいられ、おおくの作品さくひんつくられた[142]

はかしゃ霊地れいち[編集へんしゅう]

曽我そが八幡宮はちまんぐう静岡しずおかけん富士宮ふじのみや上井出かみいで

どう事件じけん時代じだいかかわらず影響えいきょうをもたらしつづけ、日本にっぽん全国ぜんこく曽我そが兄弟きょうだいかんする墓所はかしょほこら点在てんざいしている[143][144][145][146]曽我そが兄弟きょうだい信仰しんこう対象たいしょうとなり、富士野ふじの周辺しゅうへんでは曽我そが八幡宮はちまんぐう点在てんざいするほか曽我そがとう[147]ひとし確認かくにんされている。また全国ぜんこくどう事件じけんもととした祭事さいじ確認かくにんされる[注釈ちゅうしゃく 20][注釈ちゅうしゃく 21]

また、とら御前ごぜんのもの(とらいし)も全国ぜんこく点在てんざいする[152]。「とらいし」が存在そんざいする背景はいけいに、説話せつわしゅう謡曲ようきょくられる「とら退治たいじたん」が関係かんけいするという指摘してきがある[153]

一方いっぽう曽我そが兄弟きょうだいからかたきにあたる工藤くどうゆうけい墓所はかしょほこらるいすくなく、富士野ふじの位置いちする静岡しずおかけん富士宮ふじのみや存在そんざいするれい指摘してきされるのみである。富士宮ふじのみや上井出かみいで工藤くどうゆうけいはかがあり、その大悟たいごあん裏手うらて墓石はかいしがあったとされるが、現在げんざい不明ふめいである[154]

また富士大ふじだい宮司ぐうじ屋敷やしきうらどおりに「工藤くどう垣内かきうち(くどうかいと)」とばれるとおりがあった。『駿河するが』によると、富士山ふじさん本宮ほんぐう浅間あさま大社たいしゃ社人しゃにんとおりにあるづか発掘はっくつし、なかのものをした。するとその社人しゃにん狂気きょうきし、みずからを工藤くどうゆうけいとし、なかのものをもどもとのようにしなければころすとさけんだという。社人しゃにん家族かぞくらは慄きこれをもともどし、その場所ばしょは「工藤くどうづか」とばれるようになったという[155]

関連かんれん用語ようご[編集へんしゅう]

どう事件じけんもととなり成立せいりつしたとされる季語きごに「とらあめ」がある。曾我そがあめとらあめとらなみだとも呼称こしょうされ、陰暦いんれき5がつ28にちごろあめ[156]とらかなしみのなみだや、かたきちがこった5月の天候てんこうむすけられて発生はっせいした言葉ことばとされる。

また「とら自体じたい降雨こううこすイメージが存在そんざいし、とらあめむすびついて「とらあめ」という言葉ことば成立せいりつしたとする見解けんかいもある[157]。「曽我そがあめ」については吾妻あづまきょう真名まなほん相当そうとうする部分ぶぶん確認かくにんされる[158]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
  • 曾我そが兄弟きょうだい狩場かりばあけぼの』(1908ねん
  • 曾我そがじゅうばん』(1916ねん
  • えいろく曾我そがたん』(1917ねん小林こばやし
  • 小袖こそで曽我そが』(1920ねん
  • 夜討ようち曽我そが』(1923ねんみかどキネ)
  • 曽我そが』(1927ねん
  • 日活にっかつ行進曲こうしんきょく 曽我そが兄弟きょうだい』(1929ねん
  • 夜討ようち曽我そが』(1929ねん、マキノ)
  • 仇討あだうち日本晴にっぽんばれ こうまき 曾我そが兄弟きょうだい』(1931ねんみかどキネ)
  • 富士ふじあけぼの 少年しょうねん曾我そが』(1940ねん
  • 曽我そが兄弟きょうだい 富士ふじ夜襲やしゅう』(1956ねん東映とうえい監督かんとく佐々木ささきやすし
テレビドラマ
小説しょうせつ
  • 高橋たかはし直樹なおき天皇てんのう刺客しかく』(2006ねん文庫ぶんこだい:『曾我そが兄弟きょうだい密命みつめい天皇てんのう刺客しかく』)文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
  • 坂口さかぐち螢火ほたるび曽我そが兄弟きょうだいよりねつめて』(2023ねん幻冬舎げんとうしゃルネッサンス
漫画まんが
歌謡かようきょく

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 暗殺あんさつかかわったろうしたがえ大見おおみしょう藤太とうた八幡やはた三郎さぶろう伊東いとう祐親すけちかはすぐさまたしている
  2. ^ 吾妻あづまきょう』によると、祐親すけちか石橋いしばしさん合戦かっせんたいらぐんくわわる準備じゅんびをしていたところを捕縛ほばくされる[10]
  3. ^ 事件じけん動向どうこう以下いかとおりである(吾妻あづまきょう)。6月1にち曾我そが祐成すけなりおとうとにあたるそう律師りっし)が尋問じんもんされ、また曾我そが祐信すけのぶ宥免ゆうめんされた。6月3にちにはかたきとき逐電ちくでんした常陸ひたちこくものたちの所領しょりょう没収ぼっしゅうされた。7月2にちには律師りっし自害じがいしている。
  4. ^ そのとらは6がつ18にち箱根はこね祐成すけなり供養くよういとなみ、祐成すけなり最後さいごあたえた葦毛あしげうまささげて出家しゅっけ信濃しなの善光寺ぜんこうじおもむいた。そのとき19さいであったとしるされている(『吾妻あづまきょう』)
  5. ^ 中世ちゅうせい曽我そがそう中心ちゅうしんは、現在げんざい曽我谷津そがやつ地区ちく下曽我しもそが)とされる[21]
  6. ^ 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや所在しょざい
  7. ^ 20かいおよ武士ぶしによるりの披露ひろうごうしゅぐみ左右さゆうにんずつ)の20ばんであるため、けい40にんとなる[30]
  8. ^ 十郎じゅうろう言葉ことば五郎ごろう同様どうよう文言もんごんしるしている
  9. ^ 五郎ごろう勝手かって下山げざん元服げんぷくしたことで勘当かんどうされていた[34]
  10. ^ 2度目どめ訪問ほうもんでは屋形やかたいたらず曾我そがさともどっている[59]
  11. ^ 兄弟きょうだいかりにわひそゆうけいねら箇所かしょのこと
  12. ^ はんよりゆきは8がつ2にち突如とつじょ頼朝よりとももと謀反むほん否定ひていする起請文きしょうもん提出ていしゅつしているが、10日とおかには頼朝よりとも寝床ねどこひそんでいたはんよりゆきあいだしゃ捕縛ほばくされ、はんよりゆきは17にち伊豆いずこく配流はいるされている。配流はいるさいはんよりゆき狩野かの宗茂むねしげゆうけいおとうと宇佐美うさみゆうしげるによって連行れんこうされており、20日はつかには曾我そが兄弟きょうだい異父いふ兄弟きょうだいであるはら小次郎こじろう北条ほうじょうほん吾妻あづまきょう』や『曽我そが物語ものがたり』では「きょう小次郎こじろう」)がはんよりゆき縁坐えんざとして誅殺ちゅうさつされている。『れきあいだ』によると、事件じけん直後ちょくご鎌倉かまくらではしばらくのあいだ頼朝よりとも消息しょうそく確認かくにんできず、頼朝よりとも安否あんぴ心配しんぱいするつま政子まさこたいして、巻狩まきがり参加さんかせず鎌倉かまくらのこっていたはんよりゆきが「わたしひかえておりますので(ご安心あんしんください)」と見舞みまいの言葉ことばおくった。この言質げんち謀反むほんうたがいとられたとするせつもある。
  13. ^ 吾妻あづまきょうたてひさよんねん1193ねん)5がつ2にちじょう北条ほうじょう殿どの駿河するがこく下向げこうしたまふ。これかりくららんんがために、かのくにおもむかしめたまふべし」
  14. ^ 吾妻あづまきょうたてひさよんねん1193ねん)5がつ15にちじょう北条ほうじょう殿どのはあらかじめそのところまいりこうせられ、餉をけんぜしめたまふ」
  15. ^ 保立ほたて頼朝よりともゆうけい共謀きょうぼうした証拠しょうこはないものの、工藤くどうゆうけいおとうとである宇佐美うさみゆうしげる同族どうぞく工藤くどう茂光しげみつはやくから頼朝よりともむすんでその挙兵きょへい参加さんかしていること、工藤くどう本拠ほんきょである伊豆いずこく狩野かの鹿野かの)にゆうけい従者じゅうしゃかくんで襲撃しゅうげき機会きかいねらっていたことをげ、頼朝よりともゆうけいあいだなんらかのかかわりがあったことを否定ひていできないとしている。
  16. ^ 曽我そが物語ものがたりにおいて、兄弟きょうだい狩場かりばにて工藤くどうゆうけいねらうも伏木ふしき(または躑躅つつじ)にあしをかけ落馬らくばする場面ばめんのこと
  17. ^ 現存げんそんする舞曲ぶきょく本文ほんぶんは「越前えちぜんみゆきわかけい」と「大頭おおとけい」に大別たいべつされ[102][103]さいわいわか舞曲ぶきょく台本だいほんものした版本はんぽん大頭おおとけいふくまれる[104]版本はんぽんはまず活字かつじばん成立せいりつ[105]江戸えど時代じだい初期しょきには挿絵さしえふくそろいぶつとして刊行かんこうされた(「まいほん」)[106]
  18. ^ きりけん曽我そが」と「いちまんはこおう」は同一どういつである[112][113]
  19. ^ 富士野ふじのかく御家人ごけにん屋形やかたられたまくもんぐんのこと
  20. ^ たてひさ4ねん(1193ねん)5がつ28にち曽我そが五郎ごろう十郎じゅうろう兄弟きょうだい富士ふじ裾野すその工藤くどうゆうけいったさいかさやして松明たいまつとした故事こじから、毎年まいとし5がつ28にちに、小田原おだわら所在しょざいする城前しろまえてら付近ふきん家々いえいえからふるかさあつめて本堂ほんどう裏側うらがわにある曽我そが兄弟きょうだい墓前ぼぜんげてはなち、しゅうそうれつつくって読経どきょうをしながらそのめぐって行道ぎょうどう供養くようする「かさまつり」がおこなわれていたが[148]、2011ねんてらがわからのもうによりまつりでの開催かいさい中止ちゅうしとなり、同年どうねんより城前しろまえてらまゆみ信徒しんと中心ちゅうしんに、城前しろまえてら保育園ほいくえん年長ねんちょうぐみ十郎じゅうろう五郎ごろうとら御前ごぜん稚児ちごとしてしゅうそうとも参列さんれつかさ供養くようかい継続けいぞくしている[149]なお保存ほぞんかいでは下曽我しもそが駅前えきまえ公園こうえんなど市内しない各所かくしょ関連かんれん行事ぎょうじ続行ぞっこうしている[150]
  21. ^ 鹿児島かごしまでは毎年まいとし7がつ郷中ごうなか教育きょういく一環いっかんとして、曾我そが兄弟きょうだいかたきちの故事こじならい、かずかさやす「曽我そがどんのかさき」を開催かいさいしている[151]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ 海老えびぬま真治しんじ「「富士ふじきたふもとわか彦路」再考さいこう--『吾妻あづまきょう関係かんけい地名ちめい検討けんとう中心ちゅうしんとして」56ぺーじ山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きよう』5、2011ねん
  3. ^ 木村きむら茂光しげみつ頼朝よりとも政権せいけん甲斐かいはじめ」19ぺーじ、『武田たけだ研究けんきゅうだい58ごう、2018ねん
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]