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足立あだちとおもと

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足立あだち とおもと
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん しょう1130ねんだい前半ぜんはん?)
死没しぼつ しょう
別名べつめい 四郎しろうとおもと
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょうみぎうままこと
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふじゅうさんにん合議ごうぎせい大蔵おおくら御所ごしょ公文こうぶんしょ寄人よりうど
氏族しぞく 足立あだち藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅうまたは勧修寺かんしゅうじりゅう武蔵むさしたけしば後裔こうえいとも)
父母ちちはは ちち藤原ふじわらとおけんはは豊島としまやすしむすめ[1]
兄弟きょうだい しんとお
元春もとはるもとはる元重もとしげとおこう遠景えんけいとおむらとおままし
藤原ふじわらひかりのうつま畠山はたけやま重忠しげただつま北条ほうじょうぼうつま
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足立あだち とおもと(あだち とおもと)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき武将ぶしょう足立あだち武蔵むさしこく足立あだちぐんげん東京とうきょう足立あだちから埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん)を本拠ほんきょとする。かんあと現在げんざい桶川おけがわさいたまなどすうしょにある。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

足立あだち武蔵むさしこく足立あだちぐん本拠ほんきょとした在地ざいち豪族ごうぞくで、とおもとちち藤原ふじわらとおけん武蔵むさしこく足立あだちぐん土着どちゃくし、とおもとから足立あだち名乗なのったとされる。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によると藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅう藤原ふじわら山蔭やまかげ後裔こうえいであり、安達あだち盛長もりながとおけんおとうととしている[2]兵庫ひょうごけん丹波たんば足立あだちきゅうだい所蔵しょぞう足立あだち系図けいず」(『新編しんぺん埼玉さいたまけんべつへん4ねんひょう系図けいずいちきゅうきゅうねん埼玉さいたまけんろくはちななぺーじ[3]によると、藤原ふじわらきた勧修寺かんしゅうじりゅう藤原ふじわら朝忠ちょうちゅう後裔こうえいとする。一方いっぽうで、武蔵むさし国造くにのみやつこいえながれでうけたまわひらてんけいらん時代じだい足立あだち郡司ぐんじであった武蔵むさしたけしば子孫しそんとするせつもあるが、武蔵むさし国造くにのみやつこ系譜けいふ西にし角井つのい系図けいず」(『浦和うらわだい2かん古代こだい中世ちゅうせい史料しりょうへん1〕)には、たけしば外孫そとまご菅原すがわら氷川神社ひかわじんじゃ祭司さいし足立あだち郡司ぐんじいだことがしるされているものの、とおもとあらわれず、その系図けいず信憑しんぴょうせい問題もんだいがあり信用しんようができない[4]。いずれにしても、とおもと以前いぜん系譜けいふ曖昧あいまいではっきりしない。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

平治へいじらん源義朝みなもとのよしともじんしたがい、みぎうままこと任官にんかんし、みなもと義平よしひらひきいる17一人ひとりとしてたたかった。

うけたまわ寿ことぶきひさしらんにおいては、うけたまわ4ねん1180ねん)8がつ挙兵きょへいしたあさ遺児いじみなもと頼朝よりともよりまえもっていのちけており、頼朝よりとも下総しもうさこくから武蔵むさしこくはいった10月2にち豊島としま清元きよもと葛西かさい清重きよしげ父子ふしらととも武蔵むさし武士ぶし最初さいしょむかえに参上さんじょうして、頼朝よりとも鎌倉かまくらりした直後ちょくごの8にち武蔵むさしこく足立あだちぐん本領ほんりょう安堵あんどされた。これは、頼朝よりともによる東国とうごく武士ぶしへの本領ほんりょう安堵あんど最初さいしょである。

もとこよみ元年がんねん1184ねん)10がつ6にち公文こうぶんしょ設置せっちされると、5にん寄人よりうど1人ひとりえらばれた[5]たてひさ元年がんねん1190ねん)に頼朝よりとも上洛じょうらくしたさいみぎ近衛このえ大将たいしょう拝賀はいが布衣ふいさむらい7にんうちえらばれて参院さんいん供奉ぐぶをした[6]。さらに、奥州おうしゅう合戦かっせん勲功くんこうとして頼朝よりとも御家人ごけにん10にん成功せいこう推挙すいきょあたえられたとき、その1人ひとりはい左衛門尉さえもんのじょうにんぜられる[7]頼朝よりとも、2だい将軍しょうぐんみなもとよりゆきとき成立せいりつしたじゅうさんにん合議ごうぎせい1人ひとり安達あだち盛長もりながとともにくわわる。元久もとひさ2ねん1205ねん)の畠山はたけやま重忠しげただらん重忠しげただともにその息子むすことおもと外孫そとまご重秀しげひで戦死せんししているが、『吾妻あづまきょううけたまわもと元年がんねん1207ねん3月3にちじょうむすめ婿むこ北条ほうじょうぼう以下いか有力ゆうりょく御家人ごけにん参加さんかした闘鶏とうけいかいとおもと参加さんかしており、このらん失脚しっきゃくしていなかった。そしてこの記事きじ最後さいご史料しりょうから姿すがたしている。すくなくとも70だい高齢こうれいたっしており、ほどなくぼっしたとられる。

幅広はばひろ縁戚えんせき関係かんけいきずき、むすめ1人ひとりいん近臣きんしん藤原ふじわらひかりのうとつぎ、京都きょうと権門けんもんともふかつながりをゆうしていた[8]。また、べつむすめ畠山はたけやま重忠しげただおよび北条ほうじょうぼうにそれぞれして、男子だんしもうけている。武士ぶし出身しゅっしんでありながら公文こうぶんしょ寄人よりうどえらばれるなど、坂東ばんどう武士たけしなかにあって文官ぶんかんてき素養そよう人物じんぶつであった。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 兵庫ひょうごけん丹波たんば足立あだちきゅうだい所蔵しょぞう足立あだち系図けいず」(『新編しんぺん埼玉さいたまけんべつへんねんひょう系図けいずいちきゅうきゅうねん埼玉さいたまけんろくはちななぺーじ
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では盛長もりながが「安達あだち六郎ろくろう」、とおけんが「安達あだちふじ九郎くろう」としるされ、盛長もりながとおけんあにとしている。盛長もりなが正治しょうじ2ねん1200ねん)に66さいぼっしているため、のべ元年がんねん1135ねんまれである。とおもとなま没年ぼつねんしょうであるが、まご藤原ふじわらともこうじんやす3ねん1168ねんまれであることから、この段階だんかいわか見積みつもって30だい後半こうはんかんがえられ、1130年代ねんだい前半ぜんはんまれと推測すいそくされる。したがってとおもと盛長もりながよりも年長ねんちょうであり、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の兄弟きょうだいじゅんぎゃくで、実際じっさい名乗なのりはとおけんが「六郎ろくろう」、盛長もりながが「ふじ九郎くろう」であったとられる。
  3. ^ 丹波たんばこく氷上ひかみぐん佐治さじしょう現在げんざい兵庫ひょうごけん丹波たんば青垣あおがきまち佐治さじ)に西にしうつしたどおせいとおもとまご)の末裔まつえい江戸えど時代じだいのこした系図けいず内題ないだいに「丹波たんば氷上ひかみぐん佐治さじしょう地頭じとう足立あだち系図けいず」とある。
  4. ^ 北本きたもと教育きょういく委員いいんかい北本きたもと 通史つうしへん』「古代こだい中世ちゅうせい だい3しょう 武士ぶしだん成立せいりつ だい2せつ 平将門たいらのまさかどらん武蔵むさしたけしば[1]」(北本きたもと教育きょういく委員いいんかい、1994ねん
  5. ^ 別当べっとう大江広元おおえのひろもと寄人よりうど中原なかはらちかしのう二階堂にかいどう行政ぎょうせい藤原ふじわらくにどおり大中おおなかしんあき
  6. ^ の6めい三浦みうら義澄よしずみ千葉ちばたねただし工藤くどうゆうけい後藤ごとうはじめきよし葛西かさい清重きよしげ八田はった知重ちえ
  7. ^ の9めい千葉ちばつねしゅう祖父そふ常胤つねたねゆずり)・梶原かじはらけいしげるちち景時かげときゆずり)・八田はった知重ちえちちゆずり)がひだり兵衛ひょうえじょう三浦みうらよしむらちち義澄よしずみゆずり)・葛西かさい清重きよしげみぎ兵衛ひょうえじょう和田わだ義盛よしもり佐原さはらよしれん左衛門尉さえもんのじょう小山こやま朝政ともまさ比企ひきのういんみぎ衛門えもんじょう
  8. ^ 藤原ふじわらひかりのうこう父子ふしこう白河しらかわ法皇ほうおうちかく、うけたまわさんねん政変せいへんかいかんされた。またひかりのういもうと以仁王もちひとおうわらわとなり、真性しんせいんでいる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 金澤かなざわ正大せいだい鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつける武蔵むさし国々くにぐに支配しはいをめぐる公文こうぶんしょ寄人よりうど足立あだちみぎうままこととおもと史的してき意義いぎ」『政治せいじ経済けいざい史学しがく』156・157、1979ねん5がつ・6がつ
  • 金澤かなざわ正大せいだい武蔵むさし武士ぶし足立あだちとおもと」『政治せいじ経済けいざい史学しがく』554、2013ねん2がつ

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]