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藤原ふじわらくにどおり

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藤原ふじわらくにどおり
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ しょう
別名べつめい 大和やまと判官ほうがんだいふじ判官ほうがんだいくにどおり
官位かんい 大蔵おおくら御所ごしょ公文こうぶんしょ寄人よりうど
主君しゅくん みなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 藤原ふじわら
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藤原ふじわら くにどおり(ふじわら の くにみち)は、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき官吏かんりみなもと頼朝よりとも初期しょき右筆ゆうひつ大和やまと判官ほうがんだいふじ判官ほうがんだいくにどおりかれることがおおい。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

多才たさい有職故実ゆうそくこじつつうじ、文筆ぶんぴつにもながじ、うらないその百般ひゃっぱん才能さいのうがあったという。『吾妻あづまきょう』での初出しょしゅつ頼朝よりともはたきょげの直前ちょくぜんうけたまわ4ねん1180ねん)6がつ22にちじょうである。8月4にちじょうには、そのころきょうはなれて「遊歴ゆうれき」していたが、安達あだち盛長もりなが推挙すいきょ頼朝よりともつかえたとある。頼朝よりともはたきょげの初戦しょせんである山木やまきけんたかし襲撃しゅうげき直前ちょくぜんに、酒宴しゅえんにかこつけてけんたかしかんまり、周囲しゅうい地形ちけい絵図えずにしてかえり、それをもと頼朝よりともたち作戦さくせんった。

頼朝よりとも時代じだい初期しょきにおいて右筆ゆうひつ公事こうじ奉行ぶぎょうじん供奉ぐぶじんなどをつとめ、もとこよみ元年がんねん1184ねん)10がつ6にちじょうには新造しんぞう公文こうぶんしょきちしょはじめ始業しぎょうしきのようなもの)できちしょ最初さいしょ行政ぎょうせい文書ぶんしょ)をく。このときの初代しょだい公文こうぶんしょ別当べっとう当時とうじ中原なかはらせいであった大江広元おおえのひろもとである。藤原ふじわらしゅんけんみなもと頼朝よりともつかえて以降いこう右筆ゆうひつとしてもかげうすくなる。

それでも、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)10がつ24にちおこなわれた勝長かつなが寿ひさしいんどう供養くよう参列さんれつゆるされたきょう吏は広元ひろもとくにどおり2人ふたりだけで、広元ひろもと同格どうかくあるいはそれに地位ちいみとめられており、よく文治ぶんじ2ねん1186ねん)9がつ9にち頼朝よりともきくはな絶句ぜっくけんじたところ、そのみごとさにうたれた頼朝よりとも毎年まいとしけんじるようにめいじたということから、頼朝よりともあつ信任しんにんつづけていたようである。