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安達あだち盛長もりなが

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安達あだち 盛長もりなが
安達あだち盛長もりなが法体ほうたいぞうだかじゅうしゅより)
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん のべ元年がんねん1135ねん
死没しぼつ 正治しょうじ2ねん4がつ26にち1200ねん6月9にち
改名かいめい 盛長もりながはちす西にし
別名べつめい ふじ九郎くろう
墓所はかしょ 愛知あいちけん蒲郡がまごおり五井ごいまちおか海道かいどう 長泉寺ちょうせんじ
伊豆いず修禅寺しゅぜんじ温泉おんせんじょう 梅林ばいりんのぼこう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふじゅうさんにん合議ごうぎせい上野うえの奉行ぶぎょうじん三河みかわ守護しゅご
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆき
氏族しぞく 藤原ふじわらさかな名流めいりゅう安達あだち
父母ちちはは ちち小野田おのだ兼広かねひろ、または小野田おのだけんもりははしょう
兄弟きょうだい 藤原ふじわらとおけん盛長もりなが
つま 丹後たんご内侍ないし
景盛かげもり時長ときなが源範頼みなもとののりよりしつ
テンプレートを表示ひょうじ
安達あだち盛長もりながはか愛知あいちけん蒲郡がまごおり長泉寺ちょうせんじ

安達あだち 盛長もりなが(あだち もりなが)は、平安へいあん時代じだい末期まっき鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにんじゅうさんにん合議ごうぎせい一人ひとり鎌倉かまくら時代じだい繁栄はんえいする安達あだち大曽根おおそねで、みなもと頼朝よりとも流人るにん時代じだいからの側近そっきんである。

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では小野田おのだ三郎さぶろう兼広かねひろ藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅう)のとしているが[1]盛長もりなが以前いぜん家系かけい系図けいずによってことなり、その出自しゅつじははっきりしていない。あに藤原ふじわらとおけんでその足立あだちとおもととされている。とおもと年上としうえおいにあたる[注釈ちゅうしゃく 1]

生涯しょうがい

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みなもと頼朝よりとも乳母うばである比企ひき長女ちょうじょ丹後たんご内侍ないしつまとしており、頼朝よりとも伊豆いず流人るにんであったころからつかえる。つまがかつて宮中きゅうちゅう女房にょうぼうつとめていたことから、藤原ふじわらくにどおり頼朝よりとも推挙すいきょするなどきょう知人ちじんおおく、京都きょうと情勢じょうせい頼朝よりともつたえていたとわれている。また『曽我そが物語ものがたり』によると、頼朝よりとも北条ほうじょう政子まさこあいだったのは盛長もりながだという。

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつ頼朝よりとも挙兵きょへいしたがい、使者ししゃとして各地かくち関東かんとう武士ぶし糾合きゅうごう活躍かつやく石橋いしばしさんたたかのち頼朝よりともとともに安房あわこくのがれる。そのさい下総しもうさこくだい豪族ごうぞくである千葉ちば常胤つねたね説得せっとくして味方みかたにつけた。頼朝よりとも再挙さいきょして、鎌倉かまくら本拠ほんきょ関東かんとうおさめると、もとこよみ元年がんねん1184ねん)のころから上野うえのこく奉行ぶぎょうじんとなる。文治ぶんじ5ねん1189ねん)、奥州おうしゅう合戦かっせん従軍じゅうぐん物見岡ものみおか合戦かっせんでは、あずかり囚人しゅうじん筑前ちくぜんぼう良心りょうしん平家ひらか一族いちぞく)が戦功せんこうてた。しんおんとして、陸奥みちのくこく安達あだちぐん出羽いずはこく大曽根おおそねそうたまわったとかんがえられ、子息しそくわたる九郎くろう景盛かげもり安達あだちに、次郎じろう時長ときなが大曽根おおそねとなる。公式こうしき家来けらいつことを禁止きんしされていた流人るにん時代じだいから、数少かずすくない実質じっしつてき従者じゅうしゃとして身辺しんぺんはべっていた盛長もりなが頼朝よりとも信頼しんらいあつく、頼朝よりとも私用しよう盛長もりながあまなわたくをしばしばおとずれていること記録きろくされている。

正治しょうじ元年がんねん1199ねん)1がつ頼朝よりとも死後しご出家しゅっけしてはちす西にし名乗なのる。同年どうねん4がつだい将軍しょうぐんみなもとよりゆき宿老しゅくろうとしてじゅうさんにん合議ごうぎせい一人ひとりになり、幕政ばくせい参画さんかく。そのとし三河みかわこく守護しゅごであることが確認かくにんできる。同年どうねんあきこった梶原かじはら景時かげとき弾劾だんがい梶原かじはら景時かげときへん)では強硬きょうこう一人ひとりとなった。生涯しょうがい無位むい無官むかんのままよく正治しょうじ2ねん4がつ26にち死去しきょ享年きょうねん66。

安達あだち盛長もりなが屋敷やしき現在げんざいあまなわ神明しんめい神社じんじゃ付近ふきんとされ、神社じんじゃまえに「安達あだち盛長もりながてい」の石碑せきひっているが、近年きんねん研究けんきゅうでは扇ガ谷おうぎがやつ無量むりょう寺谷てらがい付近ふきんかんがえられている[2]。ここは、北条ほうじょうよりゆきはは松下まつした禅尼ぜんに実家じっかであり、北条ほうじょう時宗じしゅう誕生たんじょうでもある。また、霜月しもづき騒動そうどうさい安達あだち泰盛やすもりめられ、滅亡めつぼうしたところでもある。

埼玉さいたまけん鴻巣こうのす糠田ぬかた1439のひかりてらにはそれがかつて安達あだち盛長もりながかんだったという伝承でんしょうがあり、本寺ほんじには南北なんぼくあさ時代じだい制作せいさく推定すいていされるつて安達あだち盛長もりなが座像ざぞうがある。

出自しゅつじかんする疑問ぎもん

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前述ぜんじゅつとおり、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の記述きじゅつしたがえば小野田おのだ三郎さぶろう兼広かねひろであり、足立あだちとおもと叔父おじにあたることになるのであるが、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では盛長もりながについて「しろかい」「小野おの田藤たふじ九郎くろう」とされる一方いっぽうとおけんに「みぎ大将たいしょう家人かじん」「安達あだちふじ九郎くろう」という混同こんどうられる記述きじゅつがある[3]こと、『吾妻あづまきょうとうにおいて盛長もりながを「小野田おのだ」とする記述きじゅつ一切いっさいられず、基本きほんてきふじ九郎くろうしるされていることから、まだ名字みょうじしょうしていなかったとかんがえられる。

一方いっぽうで、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』において頼朝よりとも叔父おじにあたるはんさとし項目こうもくには「ふじ九郎くろうもり長人ながと云々うんぬん」という記述きじゅつ[4]あり、なんらかの関係かんけいせいをうかがわせる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では盛長もりながが「安達あだち六郎ろくろう」、とおもとちちとおけんが「安達あだちふじ九郎くろう」としるされ、盛長もりながとおけんあにとしている。盛長もりなが正治しょうじ2ねん1200ねん)に66さいぼっしているため、のべ元年がんねん1135ねんまれである。とおもとなま没年ぼつねんしょうであるが、まご藤原ふじわらともこうじんやす3ねん1168ねんまれであることから、この段階だんかいわか見積みつもって30だい後半こうはんかんがえられ、1130年代ねんだい前半ぜんはんまれと推測すいそくされる。したがってとおもと盛長もりながよりも年長ねんちょうであり、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の兄弟きょうだいじゅんぎゃくで、実際じっさい名乗なのりはとおけんが「六郎ろくろう」、盛長もりながが「ふじ九郎くろう」であったとられる。

出典しゅってん

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  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 40ぺーじ
  2. ^ 高橋たかはし慎一しんいちろう 2017, pp. 42–45.
  3. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくよんかんろくろくよん
  4. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくさんかんいち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 福島ふくしま金治きんじ安達あだち泰盛やすもり鎌倉かまくら幕府ばくふ霜月しもづき騒動そうどうとその周辺しゅうへん有隣堂ゆうりんどう有隣うりん新書しんしょ〉、2006ねんISBN 978-4-89660-196-1 
  • 高橋たかはしまき一朗いちろう鎌倉かまくら歴史れきし谷戸たにとめぐりのススメ』高志こうし書院しょいん、2017ねんISBN 978-4-86215-175-9 
  • 安達あだち盛長もりなが何故なぜふじ九郎くろうとのみしょうしたのか

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関連かんれん項目こうもく

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