安達あだちあらわ

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安達あだちあらわ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん しょう1285ねんごろか?)
死没しぼつ 元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん5月22にち1333ねん7がつ4にち[1]
改名かいめい ときあらわのべあきら法名ほうみょう
官位かんい 秋田あきたじょうかいひだり兵衛ひょうえじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ ひがし使引付ひきつけあたまじん寄合よりあいしゅう
主君しゅくん まもりくに親王しんのう
氏族しぞく 安達あだち
父母ちちはは ちち安達あだちはじめあきら[1]はは山河さんが重光しげみつむすめ
つま 金沢かなざわ政顕まさあきむすめ
こうけい[1]あらわだか[1]女子じょし北条ほうじょうだか正室せいしつ)、女子じょし二階堂にかいどうさだしつ二階堂にかいどうこうただしはは[1]
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安達あだち あらわ(あだち ときあき)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき鎌倉かまくら幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにん秋田あきたじょうかい安達あだち一族いちぞくで、ちち霜月しもづき騒動そうどうたれた安達あだちはじめあきら

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

弘安ひろやす8ねん1285ねん)の霜月しもつき騒動そうどうちちむねあらわをはじめ一族いちぞくおおくがほろぼされたが、幼子おさなごであったときあらわ[2]乳母うばいだかれてなんのがれた。そのせいむらりゅう北条ほうじょう庇護ひごにあったようであり、徳治とくじ2ねん1307ねん[3]までにはその当主とうしゅ北条ほうじょうむら烏帽子えぼしおや元服げんぷくし「」のたまわってときあらわ名乗なのったとされている[4]えいひとし元年がんねん1293ねん)のひら禅門ぜんもんらん平頼綱たいらのよりつなほろぼされたのち安達あだち一族いちぞく復帰ふっきみとめられると、やがてときあらわ安達あだち家督かとくである秋田あきたじょうかい継承けいしょうしたが、これを継承けいしょうできる可能かのうせい血統けっとういくつかあるなかときあらわえらばれたのもせいむらりゅう北条ほうじょう、すなわちこの当時とうじ政界せいかい中枢ちゅうすうにあった北条ほうじょうむら影響えいきょうによるものとされている[5]史料しりょう確認かくにんできるところでは、ときあらわはつは『一代いちだいよう徳治とくじ2ねん(1307ねん1がつ22にちじょう[3]であり、よく徳治とくじ3ねん(のちのべけい元年がんねん1308ねん[6]段階だんかいでは秋田あきたじょうかいであったことが確実かくじつである。

おうちょう元年がんねん1311ねん)、9だい執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき死去しきょにあたり、ときあらわ貞時さだときから長崎ながさきえんともに9さい嫡子ちゃくしだか後見こうけんたくされた。ぶん元年がんねん1317ねん)に霜月しもつき騒動そうどうたれたちちむねあらわの33回忌かいき供養くようおこなう。正和しょうわ5ねん1316ねん)、14さい執権しっけんしょくいだたかときむすめとつがせて北条ほうじょうとくむねいえ外戚がいせきとなり、またときあらわ嫡子ちゃくしだかけい長崎ながさきえんむすめつまむかえ、うち管領かんりょうとも縁戚えんせき関係かんけいむすんで権勢けんせいつよめた。

げんとおる4ねん1324ねん)9がつ後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく発覚はっかくし、関与かんよした公家くげらがろく探題たんだいによって処罰しょばつされ、弁明べんめいのために後醍醐天皇ごだいごてんのうから鎌倉かまくら派遣はけんされた万里小路まりこうじせんぼう長崎ながさきえんとも詰問きつもんし、困惑こんわくするせんぼうときあらわおそれるよう嘲弄ちょうろうまねいたという。正中せいちゅう3ねん1326ねん)3がつこう出家しゅっけしたがってときあらわ出家しゅっけ法名ほうみょうのべあきらしょうする。こう後継こうけいしゃめぐり、こうわらわ御内おんうちじんむすめんだ太郎たろうくにとき長崎ながさきたいし、こうしゅうとであるときあらわ安達あだち一族いちぞく反対はんたいしてこうおとうとたい対立たいりつこり、北条ほうじょう一門いちもんがそれにまれる事態じたいとなっている(よしみれき騒動そうどう)。最終さいしゅうてきにはくに嫡子ちゃくしあつかいとなっている。

元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん(1333ねん)の幕府ばくふ滅亡めつぼうさいし、ひがししょうてら北条ほうじょう一門いちもんとも自害じがいした(ひがししょうてら合戦かっせん[7]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 尊卑そんぴぶん』。
  2. ^ ちちむねあらわ霜月しもつき騒動そうどう伯父おじときあらわ大伯父おおおじ)の安達あだち泰盛やすもりじゅんじたときは21さいであったことから、であるときあらわがこの当時とうじ幼児ようじであったことは確実かくじつで、さい以下いかであったと推定すいていされている(細川ほそかわ典拠てんきょ奥富おくとみ敬之たかゆき鎌倉かまくら北条ほうじょう基礎きそてき研究けんきゅう』(1980ねん)P.167)。
  3. ^ a b いちだいよう徳治とくじ2ねん(1307ねん)1がつ22にちじょう
    ねん丁未ていみ正月しょうがつじゅういちにちひがし使あるきかい上洛じょうらくじゅうにちどう使つかいときあらわ上洛じょうらく、」
  4. ^ 細川ほそかわ論文ろんぶん(『白山はくさん史学しがくだい24ごう P.27)。
  5. ^ 細川ほそかわ論文ろんぶん(『白山はくさん史学しがくだい24ごう P.29)。田中たなかみのる同様どうようせつとなえている(細川ほそかわ同左どうさ)。
  6. ^ 武家ぶけ年代ねんだい徳治とくじ3ねん7がつ8にちじょう
    のべけいもとななはち久明ひさあき親王しんのうゆう上洛じょうらくこれよし、以しろかい申入もうしいれ、」
    また、『北條ほうじょうきゅうだいせいおう2ねん1289ねんじょう掲載けいさいされている将軍しょうぐん久明ひさあき親王しんのうについての記事きじでも「徳治とくじさんねんなながつはちにちゆう上洛じょうらくゆかり、以秋田あきたじょうかいあらわさる」と同様どうよう内容ないよう確認かくにんできる(細川ほそかわ論文ろんぶん(『白山はくさん史学しがくだい24ごう P.28))。
  7. ^ 尊卑そんぴぶん脉』、『太平たいへいまきだい10 「だか幷一門以下於東勝寺自害事」。

参考さんこう文献ぶんけん論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 細川ほそかわ重男しげお秋田あきたじょうかいやすたちあらわとくむね外戚がいせき権威けんい権力けんりょく―」(所収しょしゅう細川ほそかわ鎌倉かまくら北条ほうじょう神話しんわ歴史れきし 権威けんい権力けんりょく』(日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい、2007ねんだいろくしょう初出しょしゅつは『白山はくさん史学しがくだい24ごう、1988ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]