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千葉ちばたね

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千葉ちばたね
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん たてたもつ6ねん8がつ11にち1218ねん9月2にち
死没しぼつ じん2ねん9月17にち1241ねん10月23にち
別名べつめい 千葉ちばかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけい
とくむね:(北条ほうじょうよしとき→)北条ほうじょうやすしとき
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばしげるたね? または 千葉ちば胤綱たねつな?
つま 北条ほうじょうぼうむすめ[1]
よりゆきたね女子じょし藤原ふじわら信通のぶみちしつ
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千葉ちば たね(ちば ときたね)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん千葉ちばだい7だい当主とうしゅ。『千葉大ちばだい系図けいず』によれば、千葉ちばしげるたね三男さんなんとされてきたが、近年きんねんになって千葉ちば胤綱たねつななりたね長男ちょうなん)の長男ちょうなんとする見方みかた有力ゆうりょくされている[2]

略歴りゃくれき

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千葉ちばしげるたねぼっしたけん6ねん(1218ねん)にまれる。北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ鎌倉かまくら幕府ばくふだい3だい執権しっけん北条ほうじょうやすしときよりへんいみなけてどきたね名乗なの[ちゅう 1]

安貞やすさだ2ねん1228ねん)、胤綱たねつなにより、千葉ちばかい継承けいしょうする。よしみただし元年がんねん1235ねん)、京都きょうとにおいてひらけいだか(『平戸ひらど著者ちょしゃていに「千葉ちばかいぼうもの」が乱入らんにゅうした(原因げんいんけいだかけい千葉ちば家臣かしんあいだ女性じょせい問題もんだいであるという)。このとき千葉ちばかいはまだ13さいときたねであった。よく2ねん1236ねん)に下総しもうさ国一くにいちみやである香取かとりしゃ造営ぞうえい遷宮せんぐう)の宣旨せんじけている。どう4ねん1238ねん)には将軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけい上洛じょうらくがあり、ときたね供奉ぐぶする予定よていであったが、執権しっけんである北条ほうじょうやすし命令めいれいによって香取かとりしゃ造営ぞうえいわっていないことを理由りゆう上洛じょうらくめられている[10](この命令めいれい背景はいけいには上洛じょうらくによって香取かとりしゃ造営ぞうえいおくれることや千葉ちばたいするじゅう財政ざいせい負担ふたんにつながることを幕府ばくふがわ危惧きぐしたとみられ、のち上洛じょうらくしたがった下総しもうさこく地頭じとうたいしてもときたね事例じれいきながら帰国きこくするように命令めいれい[11]されている)[12]香取かとりしゃ造営ぞうえいちゅうじん2ねん(1241ねん)に24さいぼっし、よりゆきたねあといだ。

どきたね系譜けいふ問題もんだい

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千葉ちば系譜けいふ初期しょきのものとかんがえられる『神代かみよ本千葉ほんちば系図けいず』などのふる系図けいずでは、ときたね胤綱たねつな長男ちょうなんとし、おな系統けいとう伊豆山いずさん権現ごんげん般若はんにゃいん系図けいず』では、そのおとうとよりゆきたね後見こうけんつとめたたいたね次郎じろう)を配置はいちしている。ところが、『吾妻あづまきょう』によれば、胤綱たねつな享年きょうねんは21であり、けん6ねん当時とうじはまだ11さいぎない。そこで江戸えど時代じだいに『千葉大ちばだい系図けいず』が作成さくせいされたさい先行せんこう系図けいずあやまりがあるとして胤綱たねつなときたね兄弟きょうだいとしてちちなりたねとした。ところが、ときたねまれたとしなりたね死去しきょしており、ときたねに「次郎じろうたいたね」と名乗なのおとうとがいるのもあやまりであるとして、たいたねなりたね次郎じろうすなわち「胤綱たねつなおとうとたねあに」とする系図けいずに“修正しゅうせい”をおこなった。これは当時とうじ吾妻あづまきょう』が比較的ひかくてき信憑しんぴょうせいたか歴史れきししょとしておもんじられてきたことによる部分ぶぶんおおきい。

ところが、近年きんねんになって鎌倉かまくら時代じだい後期こうき創建そうけんであるとはえ、創建そうけん当時とうじから千葉ちば密接みっせつなつながりをゆうした本土ほんどてら過去かこちょう胤綱たねつな享年きょうねんを31とする記述きじゅつがあることが問題もんだいされ、『吾妻あづまきょう』が編纂へんさんされたときげん史料しりょうからの引用いんようあやまって「としじゅういち」(安貞やすさだ2ねん5がつ28にちかのえじょう)としてしまったものをさらに『千葉大ちばだい系図けいず』の編者へんしゃしんじて引用いんようして、これにわせるかたちで“修正しゅうせい”をおこなったものとかんがえられるようになった。

つづいて、『神代かみよ本千葉ほんちば系図けいず』と同様どうよう九州きゅうしゅう千葉ちば伝来でんらいされた系譜けいふもと作成さくせいされたとみられるべつ系統けいとうの『徳島とくしま本千葉ほんちば系図けいず』『ひら朝臣あそんとくしま系図けいず』(いずれも九州きゅうしゅう千葉ちばの庶流であるもと佐賀さが藩士はんし徳島とくしま伝来でんらいした系図けいず)が発見はっけんされ、そこには胤綱たねつなときたねは『神代かみよ本千葉ほんちば系図けいず』とおなじように父子ふしとされており、とく後者こうしゃ記述きじゅつされた胤綱たねつな享年きょうねん本土ほんどてら過去かこちょう合致がっちしていることが確認かくにんされた。本来ほんらい千葉ちば宗家そうけときたね嫡孫ちゃくそんそうたね直系ちょっけい)でありながら、鎌倉かまくら時代じだい末期まっき一族いちぞく内紛ないふん宗家そうけ地位ちいうしなって下総しもうさ本国ほんごくからはなされた九州きゅうしゅう千葉ちばには信頼しんらいせいたか系図けいず史料しりょうつたわっていた可能かのうせいたかいとみられている[13]

また、ときたね胤綱たねつな長男ちょうなんでないとした場合ばあい鎌倉かまくら時代じだい後期こうき千葉ちば関係かんけいしゃによってかれたとわれている『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』にある“千葉ちば当主とうしゅ長男ちょうなん継承けいしょうされつづけた”とする記述きじゅつとの矛盾むじゅん胤綱たねつな没後ぼつごあに」であるたいたね千葉ちば継承けいしょうできなかったことの説明せつめいかないというてん問題もんだいてん発生はっせいするため、「どきたね胤綱たねつな長男ちょうなんたいたねあに 」が実際じっさいただしい系譜けいふであるとかんがえられている。なお、胤綱たねつなが31さいぼっしたとすれば、ときたねは21さいときとなる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ とく宗家そうけ本来ほんらいならば将軍しょうぐんしたいち御家人ごけにんという立場たちばにありながら、烏帽子えぼしおや関係かんけいによるいち付与ふよ利用りようして、有力ゆうりょく御家人ごけにん統制とうせいしたことが指摘してきされており、地域ちいき棟梁とうりょうかく有力ゆうりょく御家人ごけにんであった千葉ちばもその統制とうせいにあった[3]。その統制とうせい主体しゅたいである烏帽子えぼしおや、すなわち有力ゆうりょく御家人ごけにんいちたまわ相手あいて将軍しょうぐんからとく宗家そうけ移行いこうしたという見解けんかいしめされており[4][5](→詳細しょうさい北条ほうじょう#北条ほうじょうによるいち付与ふよについて参照さんしょう)、たいたね北条ほうじょうやすしときよりゆきたね北条ほうじょうよりゆきそうたねたねむね兄弟きょうだい北条ほうじょう時宗じしゅうたねさだ貞胤さだたね北条ほうじょう貞時さだときこうたね北条ほうじょうだかからいち拝領はいりょうしたとかんがえられる[6]さらに、足利あしかがにおいてつうの「」がかない足利あしかが家時いえときについて「」の北条ほうじょうからのへんいみなであることが指摘してきされており[7]、「」をつうとしない千葉ちばにおいては、ほんこうどきたねがそれとおなじケースとかんがえられ、年代ねんだいてき北条ほうじょうやすしからたまわったものとみられる。ただし、紺戸こんとあつし論文ろんぶんによれば、『千葉ちば系図けいず』(『つづけぐんしょ類従るいじゅうだいろく輯下に所収しょしゅう)でときたね註記ちゅうきじん2ねん42さいぼっしたという記載きさいがみられ、その場合ばあい生年せいねん正治しょうじ2ねん1200ねん)となるため、元服げんぷく1209-14ねんあいだとなり、「」のあたえたのはたいではなくそのちちよしときではないかとしている[8]以上いじょう千葉ちば当主とうしゅ北条ほうじょう烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけいむすんだむね服部はっとり英雄ひでお明確めいかくしめしている[9]

出典しゅってん

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  1. ^ 奥山おくやましょう史料しりょうしゅう所収しょしゅう桓武かんむたいらもろりゅう系図けいず』より。
  2. ^ 千葉ちばけん史料しりょう研究けんきゅう財団ざいだん へんだい1へんだい2しょう 房総ぼうそうにおける中世ちゅうせいてき世界せかい」『千葉ちばけん歴史れきし 通史つうしへん 中世ちゅうせい千葉ちばけん、2007ねん、130-138ぺーじ 
  3. ^ 菱沼ひしぬま一憲かずのり中世ちゅうせい地域ちいき社会しゃかい将軍しょうぐん権力けんりょく汲古書院しょいん、2011ねん
  4. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん、2004ねん 
  5. ^ 山野やまの龍太郎りゅうたろう ちょ鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」、山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねん、163ぺーじ 
  6. ^ 紺戸こんと 1979, p.15系図けいず・p.18.
  7. ^ 小谷おたに俊彦としひこ ちょ北条ほうじょう専制せんせい政治せいじ足利あしかが」、田中たなか大喜だいぎ へん下野しもの足利あしかがえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2013ねん、131ぺーじ 
  8. ^ 紺戸こんと 1979, p. 18.
  9. ^ 服部はっとり英雄ひでお肥前ひぜん千葉ちば調査ちょうさ委員いいんかい中世ちゅうせい小城おぎ景観けいかんうみからかんがえる」『中世ちゅうせい肥前ひぜん千葉ちば足跡あしあと : しょう京都きょうと小城おぎ源流げんりゅう佐賀さがけん小城おぎ教育きょういく委員いいんかい、2011ねんhdl:2324/20437NCID BB05770990https://hdl.handle.net/2324/20437 
  10. ^ 香取かとり文書ぶんしょよしみただしよんねん推定すいてい正月しょうがつじゅうさんにち関東かんとう御教書みぎょうしょうつし(『鎌倉かまくら遺文いぶん』7-5203)
  11. ^ 香取かとり文書ぶんしょよしみただしよんねんさんがつじゅうにち関東かんとう御教書みぎょうしょうつし(『鎌倉かまくら遺文いぶん』7-5218)
  12. ^ 上杉うえすぎ和彦かずひこ鎌倉かまくら将軍しょうぐん上洛じょうらくとその周辺しゅうへん」『古代こだい文化ぶんか』43かん11ごう、1991ねん /所収しょしゅう:上杉うえすぎ和彦かずひこ鎌倉かまくら幕府ばくふ統治とうち構造こうぞう研究けんきゅう校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねんISBN 978-4-7517-4600-4 
  13. ^ 丸井まるいたかし千葉ちば妙見みょうけん信仰しんこう岩田いわた書院しょいん、2013ねん、19-35ぺーじISBN 9784872947946 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて : 鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん場合ばあい」『中央ちゅうおう史学しがくだい2ごう中央大学ちゅうおうだいがく、1979ねん、10-26ぺーじISSN 03889440 
  • 千野ちのはらやすしかた千葉ちば 鎌倉かまくら南北なんぼくあさへん』崙書房しょぼう出版しゅっぱん、1995ねん、159-160ぺーじISBN 9784845510153 

外部がいぶリンク

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