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千葉ちばみつるたね

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千葉ちばみつるたね
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい - 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 正平しょうへい15ねん/のべぶん5ねん11月3にち1360ねん12月11にち
死没しぼつ おうひさし33ねん6月8にち1426ねん7がつ12にち
別名べつめい 千葉ちばかい
官位かんい したがえ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 下総しもうさ守護しゅご
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばたねはは新田にった義貞よしさだむすめ
兄弟きょうだい ひじりさとし
兼胤かねたねうまかんたね
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千葉ちば みつるたね(ちば みつたね)は、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ前期ぜんきにかけての武将ぶしょう千葉ちばだい14だい当主とうしゅだい13だい当主とうしゅ千葉ちばたねはは新田にった義貞よしさだむすめ

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

正平しょうへい20ねん/貞治さだはる4ねん1365ねん)9がつちちによりわずか6さい家督かとくいだ。弘和ひろかず元年がんねん/えいいさお元年がんねん1381ねん)、小山こやま義政よしまさらんさいしては、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが氏満うじみついのちにより、下野げや小山こやま義政よしまさ攻撃こうげきした。

おうひさし23ねん1416ねん)8がつ上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんさいしては、兼胤かねたねかんたねらとともに上杉うえすぎ氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)にくみして鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ追放ついほう加担かたんした(『鎌倉かまくら大草おおくさ』の記録きろくしんじれば、首謀しゅぼうしゃとされる上杉うえすぎ氏憲うじのり足利あしかが満隆みつたか兵力へいりょくがそれぞれ2せん・1せんであったのにたいして8せん動員どういんしたという)。ところが、これにおこった京都きょうと将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちいのちけた今川いまがわはんせい上杉うえすぎぼうかたらを中心ちゅうしんとする幕府ばくふ軍勢ぐんぜい鎌倉かまくらめてる。

おうなが24ねん1417ねん)1がつまでまんたね禅秀ぜんしゅうとも懸命けんめいたたかったが、やぶれて禅秀ぜんしゅう自害じがいし、まんたね降伏ごうぶくした。このとき、一命いちめいたすけられている。しかし隠居いんきょして政界せいかいから退しりぞくことを余儀よぎなくされた。

おうなが32ねん1426ねん)6がつ8にち、67さい死去しきょし、あと千葉ちば兼胤かねたねいだ。

一説いっせつには、まんたね兄弟きょうだいであるひじりさとし開山かいさんとなった増上寺ぞうじょうじいださとしほまれとりおおせおうなが25ねんまれ)をまんたね次男じなんとする史料しりょう(『さんえんやまこころざし』)もあるが、千葉ちばがわ史料しりょうでは確認かくにんできないという。また、ひじりさとし弟子でし日比谷ひびや飯倉いいくらてんいん現在げんざい東京とうきょうみなと芝公園しばこうえん所在しょざい)をひらいたなまほまれちんこうまんたねとする伝承でんしょうがある[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉田よしだ政博まさひろ中世ちゅうせい武蔵むさしこくにおける浄土宗じょうどしゅう展開てんかい過程かてい」『戦国せんごく東国とうごく宗教しゅうきょう社会しゃかい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2022ねんISBN 978-4-642-02973-5 P81-82.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]