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鎌倉かまくら大草おおくさ

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鎌倉かまくら大草おおくさ(かまくらおおぞうし)とは、室町むろまち時代ときよ鎌倉かまくら古河ふるかわ公方くぼう中心ちゅうしんとした関東かんとう地方ちほう歴史れきししるした歴史れきししょ軍記ぐんきぶつかんれき2ねん天授てんじゅ6ねん/1380ねん)より文明ぶんめい11ねん1479ねん)の100年間ねんかん歴史れきししるしている。『太平たいへい』を継承けいしょうするという意味いみから太平たいへい後記こうき別称べっしょうがある。ぜん3かん[1]

戦国せんごく時代じだい初期しょき作品さくひん推定すいていされている。えいとおるらんから結城ゆうき合戦かっせんについてあつかったなかまきは『結城ゆうき戦場せんじょう』(『えいとおる』)とほぼ同文どうぶんであり、はや時期じき逸失いっしつしてべつ書籍しょせきからおぎなわれた可能かのうせいたかい。 作者さくしゃ不明ふめいだが、東常縁とうのじょうえん斎藤さいとうたえ椿つばきとの和歌わか問答もんどうとおるとくらんによって千葉ちば嫡流ちゃくりゅうとなったいわゆる「下総しもうさ千葉ちば」の存亡そんぼうとなった臼井うすいしろ攻略こうりゃくせんめくくられており、千葉ちばのかつての嫡流ちゃくりゅうであったいわゆる「武蔵むさし千葉ちば」を擁護ようごする記載きさいられることから、武蔵むさし千葉ちば支援しえんして下総しもうさ千葉ちばあらそった東常縁とうのじょうえん関係かんけいしゃ著者ちょしゃ推定すいていするせつ有力ゆうりょくである。またうえちゅうまき下巻げかんの1までには全体ぜんたい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが忠実ちゅうじつ臣下しんかとしての関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ賛美さんびする記述きじゅつがあり、このような傾向けいこう千葉ちばかんする記述きじゅつえる下巻げかんの2にはみられないことから、上巻じょうかんから下巻げかんの1までと下巻げかんの2では作者さくしゃことなる可能かのうせい指摘してきされている[2]

上巻じょうかんには上杉うえすぎ憲春のりはるの諫死事件じけんはじまり、伊達だてまさしむねらん上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん小栗おぐりみつるじゅうらん甲斐かい武田たけだ内紛ないふんあつかい、ちゅうまきえいとおるらん結城ゆうき合戦かっせんあつかい、下巻げかんとおるとくらんあつかって臼井うすいじょう攻防こうぼうめくくられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新編しんぺん埼玉さいたまけん 資料しりょうへん8 中世ちゅうせい4』のように上巻じょうかん下巻げかんをそれぞれ2つにわけ、ぜん5かんとして記述きじゅつされることもある。
  2. ^ 菅原すがわら正子まさこ上杉うえすぎ憲実のりざね実像じつぞう室町むろまち軍記ぐんき民衆みんしゅう研究けんきゅうかいへん民衆みんしゅう研究けんきゅう視点してん』、1997ねん

外部がいぶリンク

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