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上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅう

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上杉うえすぎ 氏憲うじのり / 上杉うえすぎ 禅秀ぜんしゅう
時代じだい 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ おうひさし24ねん1がつ10日とおか1417ねん1がつ27にち
改名かいめい 氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう法名ほうみょう
官位かんい みぎ衛門えもん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ関東かんとう管領かんりょう上総かずさ武蔵むさし守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが満兼みつかね持氏もちうじ
氏族しぞく いぬかか上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎ朝宗ともむね
兄弟きょうだい 禅秀ぜんしゅうあらわ氏朝うじとも
つま 正室せいしつ武田たけだ信春のぶはるむすめ
憲方のりかた憲秋のりあき憲春のりはる持房もちふさかいみことぜん欽蔵ぬし教朝のりとも岩松いわまつみつるじゅん正室せいしつ那須なす資之すけゆきしつ千葉ちば兼胤かねたねしつ
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上杉うえすぎ 禅秀ぜんしゅう(うえすぎ ぜんしゅう) / 上杉うえすぎ 氏憲うじのり(うえすぎ うじのり)は、室町むろまち時代ときよ前期ぜんき武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう関東かんとう管領かんりょう禅秀ぜんしゅう出家しゅっけめい

生涯しょうがい

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ちちである上杉うえすぎ朝宗ともむね高齢こうれいになるまで活躍かつやくしたため、氏憲うじのり活躍かつやく目立めだつものではなかったが、おうひさし9ねん1402ねん)に奥州おうしゅうより侵攻しんこうしてきた伊達だてまさしむね撃退げきたいして功績こうせきげ、鎌倉かまくら派遣はけんした稲村いなむら公方くぼう足利あしかが満貞みつさだ対立たいりつ反対はんたい満貞みつさだあに篠川しのかわ公方くぼう足利あしかが満直みつただ協調きょうちょうしつつ奥州おうしゅうにおけるいぬかか上杉うえすぎ勢力せいりょく拡大かくだいさせる[1]。また、おうなが16ねん1409ねん)、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが満兼みつかねあたらしい御所ごしょ移徙わたましす)さいにはそう奉行ぶぎょうつとめるなど、いぬかか上杉うえすぎ後継こうけいしゃとして鎌倉かまくらでもおもきをなした存在そんざいであった。さら朝宗ともむねにはむすめがおらず、いぬかか上杉うえすぎ婚姻こんいん戦略せんりゃく氏憲うじのり中心ちゅうしんおこなわれてきたことられている。

おうなが16ねん(1409ねん)、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが満兼みつかね死去しきょともなって、ちち隠居いんきょ出家しゅっけすると、いぬかか上杉うえすぎ家督かとくぐ。かれ生年せいねん不明ふめいであるが、このときには40だいになっていたとみられる[2]おうなが18ねん1411ねん2がつ9にち山内やまうち上杉うえすぎ上杉うえすぎけんじょうのちいで関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんし、若年じゃくねんであった鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ補佐ほさした[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし持氏もちうじ氏憲うじのりうとましくおもい、氏憲うじのり対立たいりつしゃであったけんじょう息子むすこ憲基のりもと重用じゅうようするようになる。また、朝宗ともむね以来いらいいぬかか上杉うえすぎ急激きゅうげき勢力せいりょく拡大かくだい山内やまうち上杉うえすぎおびやかすにいたった。

おうなが22ねん1415ねん)には氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)の家臣かしん出仕しゅっし理由りゆう所領しょりょう没収ぼっしゅうし、禅秀ぜんしゅう抗議こうぎして5月2にち関東かんとう管領かんりょう辞任じにんすると、持氏もちうじ憲基のりもとがせた。これに不満ふまんいた禅秀ぜんしゅうは、持氏もちうじ叔父おじ満隆みつたか養嗣子ようししおとうともちなからと共謀きょうぼううえ挙兵きょへいしてもち居館きょかん襲撃しゅうげきし、持氏もちうじ憲基のりもと駿河するが越後えちご追放ついほうして鎌倉かまくら制圧せいあつした。

しかし室町むろまち幕府ばくふ4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちもち救援きゅうえん支持しじし、きたからは上杉うえすぎぼうかた憲基のりもと伯父おじ)、西にしからは今川いまがわはんせい中心ちゅうしんとした幕府ばくふぐんせる。禅秀ぜんしゅう防戦ぼうせんしたが、配下はいか武将ぶしょうたち次々つぎつぎ離反りはんするにおよんでつい力尽ちからつき、おうなが24ねん(1417ねん)1がつ10日とおか満隆みつたかもちなかとも鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう雪ノ下ゆきのしたぼう自害じがいした(上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん)。

この反乱はんらんにはいぬかか上杉うえすぎだけでなく、むすめとつさき千葉ちば岩松いわまつ那須なすつま実家じっか武田たけださらにそれ以外いがい小田おだ宇都宮うつのみや山入やまいりをはじめとする関東かんとう有力ゆうりょく大名だいみょう中小ちゅうしょう武士ぶしくわわっており、一時いちじてきとは鎌倉かまくら舞台ぶたいにした政変せいへんげきにおいてはん政権せいけんがわ同地どうち掌握しょうあくしたのは禅秀ぜんしゅうだけである。やぶれたとはいえ、禅秀ぜんしゅう勢力せいりょくおおきさと周到しゅうとう作戦さくせん能力のうりょくなどの力量りきりょう評価ひょうかされるものであったとえる[4]

子息しそく

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禅秀ぜんしゅうには子女しじょおおく、『上杉うえすぎ系図けいず大概たいがい』には「御子みこ男女だんじょどもよんじゅうにん」とする記述きじゅつがある。

上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんやぶれたさいとも自刃じじんした息子むすこ
上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんのちびた息子むすこ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 就任しゅうにん月日つきひは『鎌倉かまくらだい日記にっき』、辞任じにん月日つきひは『喜連川きつれがわばんかん』によるが、しょうようはくによれば、おうなが17ねん10がつ11にちにはすで関東かんとう管領かんりょう奉書ほうしょしており、同日どうじつ以前いぜん関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんし、辞任じにん月日つきひについては史料しりょう裏付うらづけがないため確定かくていできないとする[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 杉山すぎやま一弥かずや稲村いなむら公方くぼう室町むろまち幕府ばくふ」「篠川しのかわ公方くぼう室町むろまち幕府ばくふ」『室町むろまち幕府ばくふ東国とうごく政策せいさく思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-7842-1739-7 
  2. ^ 山田やまだ 2013, p. 144.
  3. ^ しょうようひろし ちょ関東かんとう管領かんりょう補任ほにん沿革えんかくしょう稿こう-その()-」、芥川あくたがわ龍男たつお へん日本にっぽん中世ちゅうせい史的してき展開てんかい文献ぶんけん出版しゅっぱん、1997ねん 
  4. ^ 山田やまだ 2013, pp. 145–149.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山田やまだ邦明くにあき ちょいぬかか上杉うえすぎ政治せいじてき地位ちい」、黒田くろだ基樹もとき へん関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちいちかん〉、2013ねんISBN 978-4-86403-084-7 /初出しょしゅつ:千葉ちばけん研究けんきゅう』11ごう別冊べっさつ、2003ねん 

関連かんれん項目こうもく

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