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畠山はたけやま国清くにきよ

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畠山はたけやま 国清くにきよ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい - 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 正平しょうへい17ねん/貞治さだはる元年がんねん1362ねん)?
改名かいめい 国清くにきよみちちかい
官位かんい 左近さこん将監しょうげん阿波あわもり左京さきょう大夫たいふ修理しゅうり大夫たいふ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 関東かんとう管領かんりょう評定ひょうじょう奉行ぶぎょう
和泉いずみこく紀伊きいこく河内かわうちこく伊豆いずこく武蔵むさしこく守護しゅご
氏族しぞく 足利あしかが畠山はたけやま
父母ちちはは ちち畠山はたけやまこく
兄弟きょうだい 国清くにきよふかせいよしくによりゆき義輝よしてる
せいけいあま足利あしかが基氏もとうじしつ
義清よしきよ義晴よしはる
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金山かなやまじょうきずかれた伊豆いずくに城山しろやま
修善寺しゅぜんじじょうきずかれた伊豆いず城山しろやま

畠山はたけやま 国清くにきよ(はたけやま くにきよ)は、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょうである。足利あしかが支流しりゅう畠山はたけやま出身しゅっしん和泉いずみこく紀伊きいこく守護しゅご関東かんとう管領かんりょうとなる。伊豆いず守護しゅご義清よしきよ義晴よしはる

生涯しょうがい

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畠山はたけやまこくとしてまれる[1]おとうとふかなどがいる[1]。『韮山にらやままち』は、ちちいえこくが、たてたけし2ねん1335ねん)12月、伊豆いず国府こくふでの新田しんでんぜいとのたたかいでしたと推定すいていし、このことが足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし兄弟きょうだいによるいえこく遺児いじたちの優遇ゆうぐう背景はいけいになっていたのだろうとしている[1]

足利尊氏あしかがたかうじしたがい、鎌倉かまくら幕府ばくふ討幕とうばくたてたけし新政しんせいから離反りはんしたのち南朝なんちょうとのたたかいで和泉いずみいで紀伊きい守護しゅごとなる。のち河内かわうちこく守護しゅごにもなり、畿内きない勢力せいりょくひろげた。足利あしかが内紛ないふんから発展はってんしたかんおう擾乱じょうらんではたかしおとうと足利あしかが直義ただよしぞくし、政争せいそうやぶれた直義ただよし京都きょうと脱出だっしゅつして吉野よしの南朝なんちょうぞくすると国清くにきよしたがうが、のちたかしかたき、武蔵野むさしの合戦かっせん参戦さんせんしている。

ちゅう先代せんだいらんのとき、足利あしかが直義ただよしのもとで参戦さんせんしている[1]のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん1336ねん)3がつ九州きゅうしゅう多々良たたらはまたたかでもちょく義軍ぎぐんとして出撃しゅつげきしている[1]。これらのこうにより、同年どうねん5がつ和泉いずみこく守護しゅご補任ほにんされた[1]

同年どうねん9がつ1にち南朝なんちょう武将ぶしょうきし和田わだおさむたたかい、八木はちぼくじょう現在げんざい岸和田きしわだ八木やぎ地区ちく?)まで撤退てったいさせる(『きし和田わだおさむぐんちゅうじょう[2])。しかし、7にち天王寺てんのうじから中院なかのいんみぎ少将しょうしょうみぎ中将ちゅうじょう中院なかのいん定平さだへい?)と楠木くすのき一族いちぞく橋本はしもとただししげるらがおさむ援軍えんぐんると、おさむ城中じょうちゅうからってたため、国清くにきよはさちされた格好かっこうになり、蕎原そぶらじょう大阪おおさか貝塚かいづか蕎原そぶら)まで撤退てったいして籠城ろうじょう、しかしこれもとされて敗走はいそうする(『きし和田わだおさむぐんちゅうじょう[2])。

紀伊きいこく守護しゅごとしての活動かつどう

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同年どうねん10がつ紀伊きいこくへいすすめた[3]たてたけし4ねん1337ねん)4がつ和泉いずみこく守護しゅごしょくかれた[4]。これは、みなみ朝方あさがた本拠ほんきょ吉野よしのちかく、重要じゅうようさをしていた紀伊きいこく守護しゅごしょくとして専念せんねんするためと推測すいそくされている[4]国清くにきよは、同月どうげつあらたにくに大将たいしょうとして派遣はけんされた細川ほそかわすめらぎうみらと協力きょうりょくして、こよみおう元年がんねん1338ねんまつごろまでには紀伊きいこく北部ほくぶをほぼ平定へいていした[5]

正平しょうへい2ねん1347ねん)8がつ楠木くすのき正行まさゆき挙兵きょへいし、国清くにきよ幕府ばくふぐんとしてこれに対抗たいこうした[6]国清くにきよ紀伊きいこく守護しゅごとしての活動かつどうかんおう2ねん1352ねん)3がつまで確認かくにんできる[7]

関東かんとう執事しつじとしての活動かつどう

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正平しょうへい8ねん/文和ふみかず2ねん1353ねん)、たかし関東かんとう地方ちほう統治とうちのために設置せっちした次男じなん鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが基氏もとうじ補佐ほさする立場たちば関東かんとう管領かんりょうとなり、伊豆いずこく守護しゅごとなった。同年どうねん鎌倉かまくら武蔵むさし入間いるまぐん入間川いりまがわうつし(入間川いりまがわじん)、遠縁とおえんである秩父ちちぶ武蔵むさしひら一揆いっきひきい、武蔵むさし守護しゅごにもなり権勢けんせいるった。正平しょうへい13ねん/のべぶん3ねん1358ねん)にみなみ朝方あさがた新田にった義興よしおき謀殺ぼうさつした。

韮山にらやままち』は、国清くにきよが、同年どうねんたかし死去しきょしたのを契機けいきに、出家しゅっけしてみちちかい名乗なのったと推測すいそくしている[8]

2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきらからの援軍えんぐん要請ようせいけ、正平しょうへい14ねん/のべぶん4ねん1359ねん)10がつ上洛じょうらくし、義詮よしあきら細川ほそかわきよしらとともに、河内かわちこく紀伊きいこくにあるみなみ朝方あさがた拠点きょてんめている[9]正平しょうへい15ねん/のべぶん5ねん1360ねん)5がつ下旬げじゅん帰京ききょうした[10]

正平しょうへい15ねん/のべぶん5ねん1360ねん)には、きよし義詮よしあきら対立たいりつ失脚しっきゃくすることになり、政治せいじてきくるしい立場たちばとなった。国清くにきよ軍勢ぐんぜいとも関東かんとう無断むだん帰還きかんしたが、きよし投降とうこう攻勢こうせい南朝なんちょうにより京都きょうと一時いちじ失陥しっかんする事態じたいまねくことになり、これにより国清くにきよはますます面目めんぼくうしなうことになった。

正平しょうへい16ねん/かんやすし元年がんねん1361ねん)11月、かつての直義ただよし武将ぶしょうたちからはじめたいして国清くにきよ罷免ひめん嘆願たんがんると、国清くにきよ失脚しっきゃく領国りょうごく伊豆いずのがれた。国清くにきよ伊豆いず豪族ごうぞくたち糾合きゅうごうすることではじめ抵抗ていこうしようとしたが、伊豆いず豪族ごうぞくたち協力きょうりょくられず、三津みつづじょう金山かなやまじょうとされるなど敗戦はいせんかえし、最後さいご牙城がじょうとして籠城ろうじょうした修禅寺しゅぜんじじょうとされ、はじめ降伏ごうぶくした。その国清くにきよ消息しょうそくさだかではなく、降伏ごうぶく斬殺ざんさつされたとも流浪るろうすえ大和やまと窮死きゅうししたともいう[11]。「津川つがわほん畠山はたけやま系図けいず」は正平しょうへい17ねん/貞治さだはる元年がんねん1362ねん)、畠山はたけやま正平しょうへい19ねん/貞治さだはる3ねん1364ねん)にぼっしたとつたえている。

国清くにきよ失脚しっきゃく叛乱はんらんによって畠山はたけやま一時いちじ没落ぼつらくしたが、のちおとうとふか義詮よしあきらゆるされて越前えちぜん守護しゅご任命にんめいされ、以降いこう畠山はたけやま嫡流ちゃくりゅうふか系統けいとううつった。とはいえかわ内国ないこく守護しゅご任命にんめいされたのは国清くにきよ最初さいしょであり、河内かわうち畠山はたけやま実質じっしつてき国清くにきよであるといえる。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東京とうきょう帝国ていこく文科ぶんか大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ へんのべもと元年がんねんがつじゅうにちじょう 和田わだ文書ぶんしょ」『だい日本にっぽん史料しりょう だいろくへんさん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1903ねん、416–418ぺーじdoi:10.11501/782841NDLJP:782841https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782841/235 
  • 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい辞典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん9がつISBN 4-404-01757-X 
  • 和歌山わかやまけんへんさん委員いいんかい へん和歌山わかやまけん』《中世ちゅうせい和歌山わかやまけん、1994ねん3がつ25にちNDLJP:9576730 (よう登録とうろく)
  • 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい へん韮山にらやままちだいじゅうかん通史つうし自然しぜんはらはじめ古代こだい中世ちゅうせい》、韮山にらやままち刊行かんこう委員いいんかい、1995ねん3がつ31にちNDLJP:9541049 (よう登録とうろく)
  • 田辺たなべ久子ひさこ関東かんとう公方くぼう足利あしかがよんだい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん9がつISBN 4-642-07789-8 

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
畠山はたけやまこく
河内かわうち畠山はたけやま
畠山はたけやま国清くにきよ
次代じだい
畠山はたけやまよしふか