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きょうしょく

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左京さきょう大夫たいふから転送てんそう

きょうしょく(きょうしき)とは、日本にっぽん律令制りつりょうせいにおいてきょううち司法しほう行政ぎょうせい警察けいさつおこなった行政ぎょうせい機関きかんである。古訓こくんは、「みさとづかさ」[1]唐名とうみょうは、きょうちょう馮翊扶風など。なお、江戸えど幕府ばくふ京都きょうと所司代しょしだい別称べっしょうを、きょうしょく(きょうしょく)といった[2]

きょうない東西とうざいけ(「左京さきょう」と「右京うきょう」)、それぞれに左京さきょうしょく(さきょうしき)、右京うきょうしょく(うきょうしき)がかれた。左京さきょうしょく長官ちょうかん左京さきょう大夫たいふ(さきょうのだいぶ)、右京うきょうしょく長官ちょうかん右京大夫うきょうのだいぶ(うきょうのだいぶ)という。

平安京へいあんきょうでは、あね小路こうじきた朱雀すざく大路おおじ沿いに、左右さゆう役所やくしょ位置いちした。

きょう碁盤ごばんじょう大路おおじ小路こうじ南北なんぼく東西とうざい方向ほうこう整備せいびされ(じょうぼうせい)、天皇てんのう居所きょしょである内裏だいりとそれをかこ中央ちゅうおう官庁かんちょうがいである大内裏だいだいりきょう中央ちゅうおう北端ほくたんもうけられた。これは中国ちゅうごくの「天子てんし南面なんめんする」思想しそうもとづく都城みやこのじょうせいにならったためであり、南面なんめんする玉座ぎょくざよりひだり位置いちするきょうない東側ひがしがわを「左京さきょう」、みぎ位置いちする西側にしがわを「右京うきょう」とんだ。

職掌しょくしょう[編集へんしゅう]

きょうしょくきょういきかかわる行政ぎょうせい司法しほう警察けいさつ統括とうかつした制度せいど日本書紀にほんしょきはじめてえる。きょうしょく地方ちほうにおける国司こくし相当そうとうする職掌しょくしょう[3]あつかっているが、古代こだい国家こっかにおけるきょう国家こっか運営うんえいするために建設けんせつされた人工じんこうてき都市とし空間くうかんとしての性格せいかくゆうしており、そのきょう運営うんえい維持いじするための独自どくじ職掌しょくしょうゆうしていたきょうしょく国家こっかにとってはくことが出来できない中央ちゅうおうかんとされ、国司こくしとはその性格せいかくおおきくことにしていた。これは、国司こくしそとかん地方ちほうかん)であるのにたいし、きょうしょくきょうかん中央ちゅうおうかんあつかいであることからもかる[4]。また、きょうしょく国司こくしではおな職掌しょくしょうでも、内容ないようおおきくことなる事例じれいもある。代表だいひょうてきれいとして戸籍こせきかんする業務ぎょうむげられる。考課こうかれいには国司こくし郡司ぐんじ評価ひょうか対象たいしょうとして戸口とぐち増益ぞうえき人口じんこう増加ぞうか)があり、かくれくびくくいずるされた浮浪ふろう逃亡とうぼうつらぬけづけほんぬきとして戸籍こせき登録とうろく)した成果せいかふくまれていた。だが、きょうぬきづけきょうぬき)はみことのりによって実施じっしされ、国司こくし職掌しょくしょうであった浮浪ふろう逃亡とうぼう死亡しぼうによるじょちょう戸籍こせきなどからのぞく)の権限けんげんきょうかんしては政府せいふおこない、きょうしょくおこなうことはなかった。もっとも、同族どうぞくによる申請しんせいのぞけば、じょちょうはほとんど実施じっしされず、さら度重たびかさなる遷都せんと同行どうこうせずに旧都きゅうとまるみんもいたために戸籍こせき実態じったい乖離かいりおおきくなった。そのため、さだかん18ねん(876ねん[5]になってきょうしょくじょちょう権限けんげんみとめることになった[6]

左右さゆうしょくありそれぞれ左京さきょう右京うきょう統治とうちする。被官ひかん(いちのつかさ)があり、それぞれ左京さきょうしょくひがしを、右京うきょうしょく西市さいちをそれぞれ管轄かんかつ市場いちばかんする事務じむあつかった。唐名とうみょうを「きょうちょう(けいちょう)」という。

行政ぎょうせい事務じむ補佐ほさするためにかくじょうごとにぼうれいかくぼうごとにぼうちょう町長ちょうちょう)がかれ、まつはしまで統治とうちした。ぼうれいぼうちょうはそれぞれ郡司ぐんじさとちょう相当そうとうするが、きょうには郡司ぐんじきゅう在地ざいち有力ゆうりょく豪族ごうぞく存在そんざいしなかったことから、ぼうれいにはぼうない居住きょじゅうするきょうでかつはちはつ位階いかいゆうしたものからえらばれていた。ぼうちょうにはぼうない居住きょじゅうする白丁はくちょうからえらばれた。ぼうちょうぼうないきょう戸籍こせき管理かんりするとともに、租税そぜい徴収ちょうしゅうざつ徭・兵士へいし徴発ちょうはつ犯罪はんざい発生はっせいかんへの通報つうほう犯人はんにんついぼうない治安ちあん維持いじぼうない発生はっせいした奴婢ぬひいえ売買ばいばい裁判さいばんにおける証明しょうめい調査ちょうさなど、ぼうないにおける徴税ちょうぜいてき警察けいさつてき業務ぎょうむおこなっていた[7]ぼうれいれいせいでは定員ていいん12にんであるが、遷都せんとともに変化へんかした。

ところが、平安京へいあんきょう遷都せんとして以後いご従来じゅうらいきょうがいべつ拠点きょてんゆうしていた貴族きぞくそうきょうへの定着ていちゃくすすむとともに、ぼうれい命令めいれいしたがわない貴族きぞくおよびその従者じゅうしゃ増加ぞうかして問題もんだいしていった。その一方いっぽうで、ぼうれいそのものもきょうしょくかんじんとしての要素ようそつよくなり、ぼうとのかかわりが希薄きはくになった。このため、さだかん4ねん862ねん)に左京さきょう大夫たいふきのこんもり提言ていげんによってぼうれいわる地域ちいき責任せきにんしゃとしてちょう設置せっちし、貴族きぞくかんじんをこれににんじることとなった[8]平安へいあん時代じだい中期ちゅうき(10世紀せいき中期ちゅうき)になると、ちょう制度せいど機能きのうしなくなり、地域ちいき社会しゃかい台頭たいとうした有力ゆうりょくしゃ刀禰とねにんずることでかつてのぼうれいちょうになってきた役割やくわりたさせようとした。だが、次第しだい治安ちあん権限けんげん検非違使けびいしうばわれていくことになる。だが、その行政ぎょうせいめんでは依然いぜんとしてきょうしょく一定いってい役割やくわりたしており、14世紀せいきころまでその活動かつどうがみられる[9]

制度せいど比較ひかく[編集へんしゅう]

きょうしょく日本にっぽん独自どくじ制度せいどである。日本にっぽん律令りつりょうのモデルとなったとう制度せいど比較ひかくすると、とう長安ながやす場合ばあい関内かんないみちのち京畿けいきどう)-雍州のちきょうちょう)のしたまんねんけん西側にしがわ)・長安ながやすけん東側ひがしがわ)が設置せっちされ、地域ちいき同様どうようみちしゅうけんという地方ちほう制度せいどしたかれていた(なお、わずかながら、万年まんねんけん長安ながやすけんともに長安ながやすじょうがい一部いちぶ近郊きんこう農村のうそん管轄かんかつとしている)。さら城内じょうないでは、都市としないにおいてはぼうさと別々べつべつ設定せっていされて、ぼうただし日本にっぽんぼうれい相当そうとう)とさとただし日本にっぽんさとちょう相当そうとう)がそれぞれ設置せっちされて、前者ぜんしゃ警察けいさつてき業務ぎょうむ後者こうしゃ徴税ちょうぜいてき業務ぎょうむ担当たんとうしていた。さら長安ながやす市場いちばおよびくだり商人しょうにん組合くみあい)・やしきてん経済けいざい官庁かんちょうであるたいてら管轄かんかつにあったが、日本にっぽんきょう市場いちば規模きぼちいさく、かつくだりやしきてん存在そんざいしなかったとされており、管轄かんかつするきょうしょく被官ひかんとされていた[10]

武家ぶけ官位かんいとしてのきょうしょく[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよには、さん管領かんりょうのひとつ細川ほそかわ宗家そうけ右京大夫うきょうのだいぶしょく代々だいだい世襲せしゅうしたため、細川ほそかわ宗家そうけきょうちょういえとよばれた。また左京さきょう大夫たいふ一色いっしき大崎おおさきなどの家格かかくたか一門いちもんのみが独占どくせんしていた。しかし戦国せんごく時代じだいになり、朝廷ちょうてい公家くげ経済けいざいてき困窮こんきゅうし、官位かんいられるようになると、左京さきょう大夫たいふ地方ちほう戦国せんごく大名だいみょうにとってはくけのためにもっと人気にんきのある官位かんいとなり、大内おおうち武田たけだこう北条ほうじょうといった有力ゆうりょく大名だいみょうほか岩城いわき大宝寺たいほうじといった陸奥みちのく出羽でわ国人くにびと領主りょうしゅまで左京さきょう大夫たいふとなったため、同時どうじ何人なんにんもの左京さきょう大夫たいふ出現しゅつげんするような状態じょうたいであったという(右京大夫うきょうのだいぶ細川ほそかわ京都きょうと周辺しゅうへん実効じっこう支配しはいおこなっていたため、細川ほそかわ宗家そうけ当主とうしゅのみが保持ほじした)[11]

江戸えど時代じだいには武家ぶけ官位かんいとして、二本松にほんまつ藩主はんしゅ丹羽にわ歴代れきだい藩主はんしゅおおく(丹羽たんば長富ながとみ丹羽にわ光重みつしげなど)が左京さきょう大夫たいふを、久保田くぼた秋田あきた藩主はんしゅ佐竹さたけ歴代れきだい藩主はんしゅおおく(佐竹さたけ義宣よしのぶ佐竹さたけよしあつしなど)が右京大夫うきょうのだいぶしょうした。

職員しょくいん[編集へんしゅう]

それぞれ左右さゆうしょく設置せっちされた

  • 史生ふみお
  • 職掌しょくしょう 新設しんせつ
  • 使つかい
  • ちょくひのと

被官ひかんとして ひがし西市さいち

備考びこう藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ政権せいけんひだり右京うきょう一人ひとり統治とうちするきょういん(きょういん)がかれた。

任官にんかんしゃ一覧いちらん[編集へんしゅう]

※()ないとしは、補任ほにんまたはにんねん

左京さきょう大夫たいふ[編集へんしゅう]

飛鳥あすか奈良なら時代じだい[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

室町むろまち時代じだい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

右京大夫うきょうのだいぶ[編集へんしゅう]

飛鳥あすか奈良なら時代じだい[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

室町むろまち時代じだい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 万葉集まんようしゅう 16・3859
  2. ^ 旺文社おうぶんしゃ 古語こご辞典じてん だいはん 「きゃうしき」「きょうしょく」「みさとづかさ」より
  3. ^ 職員しょくいんれいをみると、国司こくし職掌しょくしょうのうち、寺社じしゃ駅伝えきでんすすむのう・烽候などはきょうしょくおこなわず(地理ちりてき不要ふようもしくは中央ちゅうおうかんおこなう)、廛(市場いちばとそこにある店舗てんぽ)・度量衡どりょうこうみちきょう修理しゅうり清掃せいそうなどはきょうしょく独特どくとく職務しょくむである(市川いちかわ、2009ねん、P15-21)。
  4. ^ 市川いちかわ、2009ねん、P14-27
  5. ^ 類聚るいじゅうさんだいかくまき17所収しょしゅうさだかん18ねん6がつ3にちづけ太政官だじょうかん
  6. ^ 市川いちかわ、2009ねん、P128-140・166-179・189-192
  7. ^ 市川いちかわ、2009ねん、P82-98
  8. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん4ねん3がつ15にちじょう
  9. ^ 市川いちかわ、2009ねん、P103-113・269-278
  10. ^ 市川いちかわ、2009ねん、P216-264
  11. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごく大名だいみょう天皇てんのう 室町むろまち幕府ばくふ解体かいたい王権おうけん逆襲ぎゃくしゅう』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2001ねんISBN 4-06-159471-0 P89-94

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 市川いちかわ理恵りえ古代こだい日本にっぽんきょうしょくきょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2009ねんISBN 978-4-642-02473-0

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]