(Translated by https://www.hiragana.jp/)
大宝寺氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

大宝寺たいほうじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大宝寺たいほうじ
家紋
むっゆい
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅう武藤むとうりゅう
いえ 武藤むとうひらた
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 武蔵むさしこく
おも根拠地こんきょち 出羽でわこく
著名ちょめい人物じんぶつ 大宝寺だいほうじよし
支流しりゅう分家ぶんけ 砂越さごし
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

大宝寺たいほうじ(だいほうじし)は、日本にっぽん氏族しぞくのひとつである。中世ちゅうせい出羽でわこく大身たいしん豪族ごうぞく戦国せんごく大名だいみょう氏族しぞくで、本姓ほんせい藤原ふじわら鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらしげるきょうとする武藤むとうながれをくみ、しょうとは同族どうぞくたる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

大宝寺たいほうじは、鎌倉かまくら時代ときよ庄内しょうない地方ちほう地頭じとうとして入部にゅうぶしたのがはじまりであるとわれている。最初さいしょ本姓ほんせいである武藤むとうせい名乗なのっていたが、大泉おおいずみそう地頭じとうであったために大泉おおいずみしょうした。のち荘園しょうえん中心ちゅうしんであった大宝寺だいほうじじょう居住きょじゅうしたため、名字みょうじ大宝寺たいほうじへとあらためた。だい梵字ぼんじとも。また、大宝寺たいほうじ大泉おおいずみ初代しょだい武藤むとうひらた羽黒山はぐろさん寺領じりょうおかしたとしてうけたまわもと3ねん1209ねん)に羽黒山はぐろさん衆徒しゅとうったえられている。

大泉おおいずみそう鎌倉かまくら末期まっきには北条ほうじょう一門いちもんが、また南北なんぼくあさ時代じだい中期ちゅうきかんやすし元年がんねん1361ねん)には上杉うえすぎじょうあきら地頭じとうしょくにんぜられており、大宝寺たいほうじ北条ほうじょう上杉うえすぎ在地ざいち代官だいかんとしてこのおさめていたものとおもわれる。

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

くだってひろしただし元年がんねん1460ねん)、将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ討伐とうばつするため出兵しゅっぺい要請ようせいをしたさき伊達だて最上もがみ天童てんどうならんで大宝寺だいほうじあつしがあった。


ひろしただし3ねん1462ねん)には将軍しょうぐん義政よしまさから出羽守でわのかみあたえられたあつしよくひろしせい4ねん1463ねん上洛じょうらくして義政よしまさ謁見えっけん[1]貢物みつぎもの献上けんじょうおおいに面目めんぼくほどこしているなど[注釈ちゅうしゃく 1]室町むろまち時代ときよ後期こうき庄内しょうない地方ちほう中心ちゅうしんにして全盛期ぜんせいきむかえたとわれている。文明ぶんめい9ねん1477ねん)に大宝寺たいほうじから朝倉あさくらたかしけいかいして嫡男ちゃくなん元服げんぷく将軍しょうぐんへんいみなもとめ、これがみとめられて将軍しょうぐん義政よしまさいちあたえられて大宝寺だいほうじ政氏まさうじ名乗なのった[3]。これは、はねしゅう探題たんだい宗家そうけすじとして大宝寺たいほうじ歴代れきだい当主とうしゅへんいみなあたえてきた斯波しば宗家そうけ衰退すいたいし、幕府ばくふとのより強力きょうりょく関係かんけいもとめたことによる。(主家しゅかである斯波しばってわった守護しゅごだい朝倉あさくら仲介ちゅうかいやくっているのが象徴しょうちょうてきである。)[4]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいはいると羽黒山はぐろさん別当べっとうしょく政氏まさうじ以来いらい代々だいだい当主とうしゅね、その宗教しゅうきょう勢力せいりょくって勢力せいりょく伸張しんちょうさせた。飽海あくみ郡代ぐんだいであった砂越さごしえいただし10ねん1513ねん)にだお所領しょりょうひろげるなどちから拡大かくだいさせつつあったが、砂越さごしはいった同族どうぞく出羽でわ安保あぼらいつぎといった国人くにびと勢力せいりょく反抗はんこううようになり、衰退すいたいきざしをはじめる。戦国せんごく初期しょき当主とうしゅはれだいにそれは顕著けんちょとなり、南北なんぼくあさ時代じだい以来いらいのつながりのある越後えちごこく本庄ほんじょう上杉うえすぎ関係かんけいふかめることでなんとか命脈めいみゃくたもった。また、朝倉あさくらとの関係かんけいつづき、朝倉あさくら孫次まごじろう義景よしかげ大宝寺たいほうじからうま購入こうにゅうするさい便宜べんぎ中途ちゅうとにある越後えちご色部いろべ依頼いらいする朝倉あさくらはじめしずく書状しょじょうのこされている[5][6]次代じだいぞうえいろく11ねん1568ねん)にかねてより関係かんけいふかかった本庄ほんじょうしげるちょう武田たけだ信玄しんげん策謀さくぼうらんこすと挙兵きょへいする。しかし、本庄ほんじょうよりもさきぐんけられると降伏ごうぶくし、ぞう息子むすこよし人質ひとじちとしてしたうえ上杉うえすぎ臣従しんじゅうせざるをなくなった。

戦国せんごく時代じだい後期こうき当主とうしゅ大宝寺だいほうじよしは1年間ねんかん人質ひとじち生活せいかつ家督かとくぐと武断ぶだんによる強権きょうけん政治せいじき、よわった家中かちゅうなおすと急速きゅうそく戦国せんごく大名だいみょうしてゆく。大宝寺たいほうじ同等どうとうちからおや上杉うえすぎだった土佐林とさばやしほろぼし、はん大宝寺だいほうじ残党ざんとうをことごとくることで田川たがわ櫛引くしびき飽海あくみの3ぐん掌握しょうあくし、往時おうじ勢力せいりょくちかかたちもどすことに成功せいこうした(この領国りょうごく現在げんざい神奈川かながわけんおおきさとほぼおなじである[よう出典しゅってん])。土佐林とさばやしつとめていた羽黒山はぐろさん別当べっとうしょくよしねるようになった。また由利ゆりぐんしょしょう由利ゆりじゅうとう)や北方ほっぽう安東あんどう台頭たいとうしつつあった最上もがみなどの周辺しゅうへん勢力せいりょく対抗たいこうするため、また東北とうほく諸国しょこくなかでもいちはや中央ちゅうおう政権せいけんちかづき近世きんせい大名だいみょうたすために当時とうじ天下てんかじん織田おだ信長のぶながよしみよしみつうじ、よし信長のぶながから「屋形やかた」の称号しょうごうあたえられた。しかし、羽黒山はぐろさん別当べっとうしょくおとうと義興よしおきゆずったことではね黒山くろやま軋轢あつれきんでしまった。1582ねんよし陸奥みちのくこく大浦おおうら為信ためのぶ出羽いずはこく最上もがみぐん白岩しらいわむす由利ゆりぐん村山むらやまぐんへの方面ほうめん作戦さくせん展開てんかいするが、それぞれ安東あんどうあい最上もがみ義光よしみつ援軍えんぐんによってはばまれた。

1583ねんよし傘下さんかにあった砂越さごしらいつぎ離反りはん懲罰ちょうばつためへいけるが、義光よしみつつうじた家臣かしん東禅寺とうぜんじ義長よしなが東禅寺とうぜんじ勝正かつまさ兄弟きょうだいによってたれた。

滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

よし死後しごおとうと大宝寺だいほうじ義興よしおきぎ、本庄ほんじょうしげるちょうより養嗣子ようしし大宝寺だいほうじ義勝よしかつむかえた。しかし、おや上杉うえすぎ姿勢しせい庄内しょうない国人くにびと反発はんぱつし、義興よしおき1587ねん最上もがみ義光よしみつによってたれ、義勝よしかつ実父じっぷしげるちょうもとのがれた。翌年よくねん義勝よしかつ義光よしみつ大崎おおさき合戦かっせんうごけないとるや、実父じっぷしげるちょうともじゅうさとばらたたか勝利しょうり庄内しょうない奪還だっかんした。その上杉うえすぎつうじて上洛じょうらく豊臣とよとみ秀吉ひでよし臣従しんじゅうして豊臣とよとみせい出羽守でわのかみた。だが、奥州おうしゅう仕置しおきで藤島ふじしま一揆いっき発生はっせいし、1591ねん一揆いっき扇動せんどう罪科つみとがにより改易かいえきされ、ここに戦国せんごく大名だいみょうとしての大宝寺たいほうじ断絶だんぜつした。

その義勝よしかつ上杉うえすぎ家臣かしんになりざいゆるされたが庄内しょうない支配しはいけんまではもどることがなかった。そのため、実父じっぷであるしげるちょう死後しごにその家督かとくいで「本庄ほんじょうたかしちょう」と改名かいめいしたため、大宝寺たいほうじ家系かけい断絶だんぜつした。

一族いちぞく[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

関連かんれん氏族しぞく[編集へんしゅう]

一門いちもんかく[編集へんしゅう]

武藤むとう

砂越さごし砂越さごし武藤むとう

主要しゅよう家臣かしん[編集へんしゅう]

出羽でわ国人くにびとしゅ[編集へんしゅう]

ギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 親元おやもと日記にっきひろしせい6ねん4がつ1にちでは土佐林とさばやしいでいる様子ようすがうかがえる[2]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ かげりょうのきろくひろしせい4ねん10がつ4にちじょう
  2. ^ 親元おやもと日記にっき 1902.
  3. ^ 親元おやもと日記にっき文明ぶんめい9ねん4がつ19にち・5がつ20日はつかじょう
  4. ^ 杉山すぎやま 2014, p. [ようページ番号ばんごう].
  5. ^ 天文てんもん21ねん4がつ8にちづけ朝倉あさくらはじめしずく書状しょじょう」(米沢よねざわ市立しりつ図書館としょかん所蔵しょぞう文書ぶんしょ
  6. ^ 杉山すぎやま 2014.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 杉山すぎやま一弥かずや室町むろまち幕府ばくふ出羽いずは大宝寺たいほうじ」『室町むろまち幕府ばくふ東国とうごく政策せいさく思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-7842-1739-7 はら論文ろんぶんは 『地方ちほう研究けんきゅう』 313ごう 2005ねん
  • オープンアクセス蜷川にながわ親元ちかもと国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション ひろしせい6ねん4がつ1にちじょう」『親元おやもと日記にっき いち坪井つぼいきゅうさん; 日下くさかひろし校訂こうてい吉川よしかわはんななとう東京とうきょう文科ぶんか大学だいがく叢書そうしょ〉、1902ねん4がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73018421https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885254/48 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
史料しりょう
  • かげりょうのきろく
  • 親元おやもと日記にっき
  • 米沢よねざわ市立しりつ図書館としょかん所蔵しょぞう天文てんもん21ねん4がつ8にちづけ朝倉あさくらはじめしずく書状しょじょう