津軽 為信
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生涯
[出自
[謀反
[それに
ちなみに
独立
[本領 安堵
[また、
その
関ヶ原 の戦 いと晩年
[
その
墓所
[人物 ・逸話
[![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/d/de/Tsugaru_Tamenobu_statue.jpg/200px-Tsugaru_Tamenobu_statue.jpg)
弘前 城東 門 近 くの弘前 文化 センター正面 入口 前 には、津軽 為信 の銅像 がある。戦前 までは弘前 城 本丸 にあった銅像 は、戦時 中 の金属 供出 により撤去 され、銅像 出陣 といわれている。2004年 、新 たな銅像 が今 の位置 に設置 された。嫡男 ・信 建 が京 に在 番 中 に病 に倒 れた際 、津軽 にいた為信 は、自身 も病 に陥 っていたにもかかわらず、信 枚 を伴 って京 まで見舞 いに訪 れ、そのまま同地 で没 している。親子 兄弟 の最期 の別 れがしたかったから、という見解 もあるが、信 建 が診察 を受 けていた名医 に自分 も診 てもらいたかったからという説 もある。いずれにせよ、その年 の10月 に信 建 は在京 のまま死去 し、その2ヵ月 後 に為信 も京 で死去 した。大浦 (津軽 )氏 を1代 で大名 に引 き上 げた為信 は、当時 からその実力 を高 く評価 されており、「天運 時 至 り。武将 其 の器 に中 らせ給 う」(『津軽 一統 志 』)とある。岩手 県 久慈 市 では地元 出身 の偉人 とされており、久慈 秋祭 りには津軽 為信 を題材 とする山車 が出 る[12][13]。為信 が着手 して信 枚 が完成 させた弘前 城 には、「館 神 」という守 り神 の社 があった。この社 は稲荷 社 であったが、実 はその稲荷 様 の後 ろに厨子 があり、その厨子 は一 度 も開 かれることがなく、「館 神 」はその中 に安置 されていると言 われていた。明治 になってその「開 かずの宮 」の扉 が開 けられると、中 には豊臣 秀吉 の木像 が入 っていた。為信 は、幕府 による改易 の危険 を顧 みずに、津軽 家 を大名 にしてくれた秀吉 を城内 に祀 っていたのである。肖像 画 や銅像 などから見 て取 れるように、立派 な髭 や兜 の前立 ての錫杖 がトレードマークである。豊臣 秀吉 から太刀 「友成 」を拝領 した。この太刀 は歴代 藩主 に受 け継 がれた後 に、最後 の藩主 津軽 承 昭 が高 照 神社 に寄進 [14]。2020年 現在 、神社 横 に建設 された高岡 の森 弘 前 藩 歴史 館 に収蔵 されている。
系譜
[家臣
[新屋 源次郎 板垣 将 兼 一 戸 兵 庫之助 一 町田 信清 一町田 森 清 乾 安 儔大湯 昌 致大湯 昌吉 尾崎 喜蔵 -板垣 将 兼 、多田 玄蕃 と共 に謀反 を企 て、討 たれる。小笠原 信 浄 - 「大浦 三 老 」小 栗山 左京 小野 茶 右 衛門 兼平 綱 則 - 「大浦 三 老 」兼平 信秋 菊池 刑部 北村 宗 統 葛原 祐 清 (治部 )郡 市 左衛門 金 信 就金 信 則 笹森 建 房 (勘 解 由 )千 徳政 氏 多田 采女 多田 玄蕃 -板垣 将 兼 、尾崎 喜蔵 と共 に謀反 を企 て、討 たれる。田中 吉祥 (太郎 五郎 ) -六 羽 川 合戦 にて、為信 の身代 わりとなり討死 。田中 宗久 (宗右衛門 )乳井 建 清 対馬 右 衛門 太郎 東海 幸義 (吉兵衛 )沼田 祐光 (為信 の軍師 )服部 康成 松野 信 安 森 岡信 元 - 「大浦 三 老 」森下 作兵衛 尉
フィクションにおける津軽 為信
[小説
[ラジオドラマ
[ゲーム
[- 『
戦国 無双 2 Empires』(PS2、2006年 演 :山田 真一 ) - 『
戦 極 姫 ~戦乱 に舞 う乙女 達 ~』(PS2/PSP、2009年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 2〜戦乱 の世 、群雄 嵐 の如 く〜』(Windows、2010年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 2〜葉隠 の乙女 、戦乱 に乗 ず〜』(Xbox 360、2010年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 2〜百 華 、戦乱 辰 風 の如 く〜炎 』(PS2、2010年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 2〜百 華 、戦乱 辰 風 の如 く〜嵐 』(PSP、2010年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 3〜天下 を切 り裂 く光 と影 〜』(PS2、2011年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 3〜天下 を切 り裂 く光 と影 〜』(PSP、2012年 演 :倉田 まりや) - 『
戦国 大戦 - 1582日 輪 、本能寺 より出 づる-』(TCAG、2012年 演 :伊 智生 士 冶) - 『
戦 極 姫 -華 - 〜真 録 ・天下 を切 り裂 く光 と影 〜』(Windows、2014年 演 :倉田 まりや) - 『
戦 極 姫 7〜戦雲 つらぬく紅蓮 の遺志 〜』(Windows、2016年 演 :水 純 なな歩 ) - 『
戦 極 姫 7〜戦雲 つらぬく紅蓮 の意思 〜』(PS Vita、2017年 演 :水 純 なな歩 ) - 『
津軽 為信 統一 記 』(Android / iOS、2019年 )
演劇
[その他
[- 『
超 城 合体 タメノブーンV』(2016年 )-弘前 市 が企画 した市民 参加 型 プロジェクトで誕生 した巨大 ロボットキャラクター。為信 に因 み命名 された[15][16]。
脚注
[注釈
[- ^
黒石 市 浅瀬石 星田 文書 に「石川 左 工 門 之 介 源 高信 は南部 に行 きて未 だ還 らず。城中 支 うる者 なかりしかば為信 は戦 わずして攻略 すること得 たり。」「…南部 高信 が来 たりて津軽 を総監 せしが、留守 中 為信 に攻 められ落城 したり。」という記述 がある。また大 行 院 (弘前 市 )の元禄 15年 (1702年 )の書 上 帳 に『一 十 一 面 観音堂 寺山 館 ニ石川 大膳 天正 二 年 ノ本尊 長 サ一尺五寸木造石川殿安置仏云』という記述 もあるという[3]。 - ^
奥 南 落穂 集 では天正 8年 (1580年 )石川 城 にて病死 説 、祐 清 私記 では天正 9年 2月 21日 津軽 で病死 説 を採 っている。 - ^
史料 により天正 16年 説 (奥 南 落穂 集 )、天正 17年 説 (南部 史 要 )もある。いずれにせよ3月 16日 に死没 したという部分 は共通 している。南部 氏 の公認 系図 である『御 系譜 』には「為 奥州 津軽 郡 代 、居 浪岡 城 、天正 十 六 年 戊子 年 三 月 十 六 卒 、行年 廿 九 歳 云々 」とある。 - ^
永 禄 日記 元 亀 2年 5月 5日 「八幡宮 競馬 、早朝 ニ見物 仕 候 。同夜 大浦 殿 五 百 騎 程 ニ而石川 大淵 ヶ崎 へ押寄大膳 殿 を落 し候 由 。同日 和徳 讃岐 も落 し候 而諸人 驚入 候 。尤 大浦 殿 ハ堀越 町居 飛鳥 殿城 江 入 り候 。」とあるが、「候 由 」とあるようにこれは伝聞 である。また黒石 市 浅瀬石 星田 文書 のように、当時 石川 城 は城主 の石川 高信 不在 であったとする記述 もある。また大 行 院 書 上 帳 も高信 の生存 を示 している。 - ^
晴 政 書状 (『南部 家 文書 』100~102号 )は浅水 (三戸 郡 五戸 町 )方面 攻 めに八戸 氏 の加勢 を依頼 したもので、為信 の独立 を傍証 するものではない。 - ^
元 亀 2年 ~天正 16年 頃 迄 の為信 の軍事 行動 について南部 側 編纂 史料 が触 れていないことは事実 である。しかしこれら遠野 南部 家 所蔵 文書 については歴年 が記 されておらず、年代 比定 には慎重 を要 する。『岩手 県 史 』においても「これら書状 は同 一 年代 のものか否 か判明 しない」とある。『青森 県 史 』『新 青森 市 史 資料 編 2』でも南 慶 儀 書状 が年代 比定 し直 されている。それによると、天正 17年 (1589年 )の段階 でも津軽 地方 において為信 が何 らかの軍事 行動 を起 こしていたとみられており『津軽 一統 志 』の記述 の信頼 性 も疑 われる。よって天正 17年 前後 に浪岡 城 が為信 により襲 われたとする南部 側 史料 が専 ら改竄 されたものだという説 は検証 を要 する。 - ^
六 羽 川 合戦 では比山 ・滝本 勢 の侵攻 を許 しており、また撃退 したとはいえ大浦 勢 も痛手 を受 けており、南部 氏 が浪岡 氏 旧臣 を取 り込 んでいく中 で完全 に掌握 できていたのかは疑問 が残 る。 - ^ 『
奥 南 落穂 集 』『津軽 之 事 』に「石川 高信 君 石川 城 にて天正 八 年 死去 有 しといへども大光寺 始 め諸 臣 彦次郎 政信 君 を補佐 、北畠 の臣下 を服従 せし故 、自 から南部 家 領 知 になり、行 丘 城 (浪岡 城 )に移住 し給 ふなり。」とある。 - ^ 『
奥 南 落穂 集 』『津軽 右京大夫 為信 之 事 』では「天正 十 八 年 九戸 政実 宮野 城 に籠 り、三 戸 勢 之 を囲 み、日々 合戦 止 む時 なし。此時太閤 秀吉 公 北条 征伐 として関東 に下向 あり、是 まで殿下 へ不通 の輩 は皆 征伐 の風説 相聞 得 たる故 に、右京 密 に上京 縁 を求 めて近衛 前 関白 前 久 公 を頼 り嘆願 せしかば、前 久 公 御 承諾 せられ、祖父 尚 通 公 落胤 の孫 に被 成 下 、藤原 姓 杏 葉牡丹 の御 紋所 まで賜 り、秀吉 公 への吹挙の御 書 持参 して小田原 御 陣所 へ下 り、秀吉 公 に謁し、津軽 郡 四 万 五 千 石 の安堵 書 を賜 り、従 五 位 下 右 京 亮 と被 成 下 」とあり、小田原 参 陣 を否定 していない。 - ^ 『
新 青森 市 史 資料 編 2』では南 慶 儀 書状 の一 つ(『南部 家 文書 』112号 )を天正 17年 (1589年 )に比定 し直 しており、それによると天正 17年 時点 で横内 城 や浜口 (小湊 口 )などの外 ヶ浜東 部 は依然 として南部 領 として健在 であり、天正 13年 に横内 城主 ・堤 弾正 左衛門 らを討 ち外 ヶ浜 全域 を手 に入 れたという津軽 氏 側 の記述 は脚色 されたものだとしている。一方 で『永 禄 日記 』には天正 13年 3月 に「大浦 殿 旗本 勢 千 余人 、三 月 二 十 九 日 門徒 寺 へ御 留 り、外 ヶ浜 不 残 御 手 に入 候 。」とあり、外 ヶ浜 攻略 は天正 13年 と天正 18年 (1590年 )の二 度 に渡 って行 われた可能 性 も指摘 されている。 - ^
弘前 藩 に織田 信雄 のお礼 の書状 が残 されている。 - ^
九戸 氏 討伐 直後 にも南部 信 直 は小田原 参 陣 時 に続 いて、為信 を悪逆 であるとい募 り豊臣 秀吉 の奉行 浅野 長政 に実父 ・石川 高信 の敵討 の許 しを願 い出 たので、長政 は拒否 するとともに不測 の事態 を避 けるため、討伐 軍 に加 わっていた為信 に即刻 領地 へ帰 るよう促 したとされる。 - ^
永 禄 日記 慶長 2年 3月 5日 の項 に「浅瀬石 大和 並 、一子安芸両人堀越之城江呼寄、大勢 取巻 打取 。三男 城 之 介 ハ先達 而病死 致候。其子息 一 人 四 歳 ニ成 しを家来 引連南部 江 落行候 。右 者 先年 より謀反 之 心 有 之 ニ付 顧此度 打取 候 由 。」とあり、千 徳 氏 を通説 のような合戦 ではなく謀略 により殺害 した可能 性 がある。
出典
[- ^
青森 県 弘前 市 大字 新寺 町 、浄土宗 月 窓山 栄 源 院 貞 昌 寺 に残 る記録 史料 より - ^
長谷川 成 一 、他 『青森 県 の歴史 』山川 出版 社 〈県 史 〉、2000年 、年表 。 ISBN 4-634-32020-7 - ^
大仏 ケ鼻 城 を偲 ぶ会 『つわものどもの夢 のあと石川 城 』、1981年 。 - ^ 『
奥 南 落穂 集 』『祐 清 私記 』『信 直記 』『南部 史 要 』、松岡 西 庵 書 上 、石井 三 庵 政 満 覚書 、等 - ^
長谷川 成 一 著 「本州 北端 における近世 城下町 の成立 」、北海道 ・東北 史 研究 会 編 『海峡 をつなぐ日本 史 』三省堂 、1993年 、153-156頁 。ISBN 4385354618。http://hdl.handle.net/10129/2044 - ^
秀吉 から為信 に宛 てた朱印 状 、津軽 家 文書 及 び、白川 亨 『石田 三成 の生涯 』(第 二 章 十 項 「近世 大名 津軽 家 存続 の背景 と石田 三成 」)より。 - ^ 『
弘前 市 史 』では個人 名 を明記 していないが、有力 者 との仲介 をした秀吉 側近 の存在 が言及 されている。 - ^
村川 浩平 「天正 ・文 禄 ・慶長 期 、武家 叙任 と豊臣 姓 下賜 の事例 」『駒沢 史学 』80号 、2013年 。 - ^
青森 県 1971, p. 249. - ^ a b
青森 県 1971, p. 250. - ^
青森 県 1971, p. 252. - ^
岩手 県 「希望 王国 岩手 放課後 座談 会 (H21.1.22)」、2009年 3月 19日 。 - ^
畑 浩 治 「英雄 津軽 為信 」『畑 こうじ情熱 ブログ』、2008年 7月 6日 。 - ^ “
太刀 銘 友成 作 ”.一般 社団 法人 弘前 文化財 保存 技術 協会 . 2020年 10月 2日 閲覧 。 - ^
弘前 城 合体 ロボ「超 城 合体 タメノブーンV」登場 株式会社 ジェイクリエイト『観光 Re:デザイン』 - ^
超 城 合体 タメノブーンV弘前 市 公式 サイト
参考 文献
[青森 県 編 『青森 県 史 』 (一 )、歴史 図書 社 、1971年 5月 31日 。(要 登録 )