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津軽つがる為信ためのぶ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
津軽つがる 為信ためのぶ / 大浦おおうら 為信ためのぶ
津軽つがる為信ためのぶぞうかわしゅうてらくら
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん19ねん1がつ1にち1550ねん1がつ18にち
死没しぼつ 慶長けいちょう12ねん12月5にち1608ねん1がつ22にち
改名かいめい おうぎ幼名ようみょう)→大浦おおうら弥四郎やしろう為信ためのぶ津軽つがる為信ためのぶ
戒名かいみょう 瑞祥ずいしょういん殿どのてんしつげんとうだい居士こじ
墓所はかしょ 青森あおもりけん弘前ひろさき藤代ふじしろ津軽つがるさんかわしゅうてら
官位かんい したがえみぎきょうあきらしたがえよん右京大夫うきょうのだいぶおくしたがえさん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ
はん 陸奥みちのくこく弘前ひろさきはん津軽つがるはん藩主はんしゅ
氏族しぞく久慈くじ?→)大浦おおうら津軽つがる
父母ちちはは ちち大浦おおうらまもるしん?、久慈くじ治義はるよし信長のぶなが)?
養父ようふ大浦おおうらためそく
つま 正室せいしつ大浦おおうらためそくむすめ阿保あほりょう
側室そくしつさかえげんいん(白鳥しらとり長久ちょうきゅうむすめ[1])
しんけんしんけんしんまい冨子とみこ兼子かねこもりひさしつ
養子ようしたてひろ
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津軽つがる 為信ためのぶ(つがる ためのぶ)/ 大浦おおうら為信ためのぶ(おおうらためのぶ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう陸奥みちのくこく弘前ひろさきはん初代しょだい藩主はんしゅ官位かんいしたがえよん右京大夫うきょうのだいぶ

生涯しょうがい

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出自しゅつじ

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津軽つがる為信ためのぶ出自しゅつじには様々さまざませつ伝承でんしょうがあり、南部なんぶ支族しぞくした久慈くじじょうおもであった久慈くじだしとも、大浦おおうらまもるしんともわれる。為信ためのぶ経歴けいれき津軽つがるがわのこされる資料しりょうと、南部なんぶがわ資料しりょうとのあいだ記述きじゅつちがいがあるため、はっきりしないてんおおい。

為信ためのぶ南部なんぶ一族いちぞくであったという見方みかたは、南部なんぶがわ資料しりょう存在そんざいする。この見方みかた補強ほきょうする資料しりょう津軽つがる文書ぶんしょなかにもある。その文書ぶんしょ豊臣とよとみ秀吉ひでよしからおくられたもので、宛名あてなは「南部なんぶみぎきょうあきら(なんぶうきょうのすけ)」とある。この書状しょじょう為信ためのぶてられたものであると推定すいていされていることから、大浦おおうらさん南部なんぶ八戸はちのへ根城ねじろ南部なんぶとう同様どうよう南部なんぶ一族いちぞくであったことをしめ証拠しょうこひとつと推定すいていされている。

為信ためのぶ実家じっかわれる久慈くじ出自しゅつじは、南部なんぶ始祖しそである南部なんぶ光行みつゆきたてひさ2ねん1191ねん地頭じとうしょくとして陸奥みちのくぬかぐん入部にゅうぶして以降いこう、そのよんなん七戸しちのへ三郎さぶろうちょうしん庶子しょし家系かけい久慈くじ入部にゅうぶして久慈くじしょうしたとされ、室町むろまちには南部なんぶ嫡流ちゃくりゅう時政ときまさ信実しんじつ久慈くじ修理しゅうり助治すけじせい養子ようしとなっている。

えいろく10ねん1567ねん)(えいろく11ねん1568ねんせつもある[2])、大浦おおうらためそく養子ようしとなり、大浦おおうらいで大浦おおうらしろおもになる。

謀反むほん

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弘前ひろさきはんかんせん史書ししょである『津軽つがる一統かずのりこころざし』によると、もとかめ2ねん1571ねん)5がつ5にち自分じぶんささえじょう堀越ほりこしじょうから出撃しゅつげき、2キロメートルほどはなれている石川いしかわじょう工事こうじよそおいながら、突如とつじょ攻略こうりゃくし、南部なんぶ宗家そうけであるさん南部なんぶ当主とうしゅ南部なんぶはれまさし叔父おじにあたる石川いしかわ高信たかのぶ自害じがいんだ(びたとするせつ[注釈ちゅうしゃく 1]もある)。南部なんぶはれせいは、このころには石川いしかわ高信たかのぶ実子じっしでかつはれまさし長女ちょうじょ婿むことなり養嗣子ようししであった石川いしかわしんただしあらそっており、さん南部なんぶ石川いしかわ内部ないぶこうそうをいいことに為信ためのぶまわりの豪族ごうぞく次々つぎつぎはじめる。はれまさし対立たいりつする石川いしかわ弱体じゃくたいさせるため石川いしかわ津軽つがる地方ちほうかするよう、為信ためのぶみつそそのかしたとのせつもある。 天正てんしょう3ねん1575ねん大光寺だいこうじじょう城代じょうだい滝本たきもと重行しげゆきめ、敗退はいたいするも、翌年よくねん1576ねんとす(『えいろく日記にっき』)。 天正てんしょう6ねん1578ねん)7がつあらかじ無頼ぶらい徒輩とはい潜入せんにゅうさせておき放火ほうか撹乱かくらん浪岡なみおかしろ落城らくじょうさせ浪岡なみおか御所ごしょ北畠きたばたけあきらむら北畠きたばたけ親房ちかふさ後裔こうえい)を自害じがいさせる。しかし奥州おうしゅう貴種きしゅであった浪岡なみおか北畠きたばたけほろぼした影響えいきょう安東あんどうとの関係かんけい悪化あっか安東あんどう南部なんぶ浪岡なみおか勢力せいりょくとのたたかいであるろくかわ合戦かっせんきる。

それにたい南部なんぶがわ史料しりょう[4]によると、石川いしかわ高信たかのぶ津軽つがるはいったのをもとかめ3ねん1572ねん)として、天正てんしょう9ねん1581ねん)に(為信ためのぶころされておらず)病死びょうしとしている[注釈ちゅうしゃく 2]為信ためのぶは、高信たかのぶから津軽つがる郡代ぐんだいいだ次男じなん石川いしかわしんじきおとうと)の石川いしかわ政信まさのぶ重臣じゅうしんとしてつかえ、主君しゅくんりいるために自分じぶん実妹じつまいひさ政信まさのぶ愛妾あいしょうしていた。天正てんしょう10ねん1582ねん)、同役どうやく浅瀬石あせいし隠岐おきぬや政信まさのぶに、もう一人ひとり同役どうやく大光寺だいこうじこうあい讒言ざんげん出羽でわこく追放ついほうさせた。そして天正てんしょう18ねん1590ねん)3がつ[注釈ちゅうしゃく 3]政信まさのぶと於久をともども宴席えんせき招待しょうたい油断ゆだんさせて毒殺どくさつし、その居城きょじょうだった浪岡なみおかしろ急襲きゅうしゅう占拠せんきょして津軽つがる地方ちほう押領したとある。しかし、これにかんしては南部なんぶがわ作意さくいしめ証拠しょうこ[よう出典しゅってん]存在そんざいする。民間みんかん記録きろくえいろく日記にっき』をはじ[注釈ちゅうしゃく 4]、『南部なんぶはれまさし書状しょじょう[注釈ちゅうしゃく 5]や『みなみけい書状しょじょう』ももとかめ2ねん為信ためのぶ石川いしかわじょう攻略こうりゃく物語ものがたっている[注釈ちゅうしゃく 6]。そして天正てんしょう年間ねんかんにはすで津軽つがる地方ちほう為信ためのぶ完全かんぜん掌握しょうあく[よう出典しゅってん]しており[注釈ちゅうしゃく 7]石川いしかわ政信まさのぶ津軽つがるれる状況じょうきょうではなかった[注釈ちゅうしゃく 8]。さらに南部なんぶがわ主張しゅちょう事実じじつなら天正てんしょう18ねん挙兵きょへいした為信ためのぶは、同年どうねん小田原おだわら征伐せいばつでの豊臣とよとみ秀吉ひでよしもとまいりじんしていないことになる[注釈ちゅうしゃく 9]現在げんざいでは南部なんぶ豪族ごうぞく連合体れんごうたいいきだっしておらず、「郡代ぐんだい」をけるほどさん南部なんぶ勢力せいりょく統制とうせい強固きょうこなものではなかったとかんがえられている(そもそも主従しゅうじゅう関係かんけいではなかった)。

ちなみに津軽つがるがわ資料しりょうでは、石川いしかわ政信まさのぶはそのちち高信たかのぶんだよくもとかめ3ねん為信ためのぶたれているが毒殺どくさつとの記載きさいはなく、また津軽つがる系譜けいふ為信ためのぶいもうとっていない。

独立どくりつ

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天正てんしょう13ねん1585ねん)3がつ油川あぶらかわしろ攻略こうりゃくそとはま一帯いったい制圧せいあつ[注釈ちゅうしゃく 10]したのち、さらに田舎館いなかだてじょうおとす。このころ為信ためのぶ正室せいしつ阿保あほりょうおとうと2にん大浦おおうらためそくなん六男むつお)が川遊かわあそちゅう溺死できししているが、これは為信ためのぶこう跡目あとめあらそいをけるため義弟ぎていたちを暗殺あんさつさせたとわれている。同年どうねん4がつには盟友めいゆうであるせん徳政とくせい浅瀬石あせいしじょう守備しゅびして南部なんぶぜい3,000を奮戦ふんせんによって撃退げきたいする(宇杭合戦かっせん)が、為信ためのぶはこれに援軍えんぐんおくらなかったとされ、後々あとあと盟友めいゆう関係かんけい亀裂きれつはいるきっかけとなる。またこれ以前いぜん天正てんしょう9ねん(1581ねんごろ北方ほっぽう交易こうえき権益けんえき拡大かくだい目論もくろ為信ためのぶ津軽つがるアイヌこうそう状態じょうたいとなり、鼻和はなわぐんでアイヌ民族みんぞく掃討そうとうせん実行じっこうした[5]

最上もがみから情報じょうほうにより中央ちゅうおう豊臣とよとみ政権せいけんたいする工作こうさく必要ひつようかんがえ、天正てんしょう13ねんはじめてみずか上洛じょうらくしようとあじさわより海路かいろ出帆しゅっぱんしたが、暴風ぼうふうまれ松前まさきおきまでながされてしまう。それでも上洛じょうらくたそうと、天正てんしょう14ねん1586ねん)は矢立峠やたてとうげえるルートをこころみるが比内ひない浅利あさり妨害ぼうがいで、天正てんしょう15ねん1587ねん)にへい2,000ととも南部なんぶりょうとっろうとするが南部なんぶさまたげられて、天正てんしょう16ねん1588ねん)には秋田あきたこうからすすんだが秋田あきたはばまれて、いずれも失敗しっぱいかえしている。

本領ほんりょう安堵あんど

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天正てんしょう17ねん(1589ねん秋田あきた実季みき和睦わぼくし、みずからではなかったが家臣かしん八木橋やぎはし備中びっちゅう上洛じょうらくさせることに成功せいこうした。豊臣とよとみ家臣かしん石田いしだ三成みつなりかいして豊臣とよとみ秀吉ひでよし名馬めいばたか献上けんじょうし、津軽つがるさんぐん平賀ひらかぐん鼻和はなわぐん田舎いなかぐん)ならびに合浦がつぽいちえん所領しょりょう安堵あんどされた。しかし奥州おうしゅうそう検地けんちではこの所領しょりょうだか4まん5,000せきのうち3まんせき津軽つがる領地りょうちだかで、のこり1まん5,000せき太閤たいこうぞう入地いれじとされた。 秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつさいには、家臣かしん18れて為信ためのぶ自身じしんが、天正てんしょう18ねん1590ねん)3がつ駿河するがこく三枚橋さんまいばしじょう参向さんこうし、小田原おだわらひがしする秀吉ひでよし謁見えっけんした。

一方いっぽう南部なんぶでは前田まえだ利家としいえたよって、為信ためのぶそう無事ぶじれい違反いはんする逆徒ぎゃくととして喧伝けんでん秀吉ひでよしうったえ、いち為信ためのぶ征伐せいばつ対象たいしょうにされかけた。 だがはやくから豊臣とよとみ政権せいけん恭順きょうじゅんしめ政治せいじてき工作こうさくおこなっており、天正てんしょう18ねん4がつ小田原おだわらへい1,000をれてさんじんした南部なんぶしんただし先駆さきがけ、その前月ぜんげつ小田原おだわらへの途上とじょう沼津ぬまづ秀吉ひでよし謁見えっけんたしていた為信ためのぶは、石田いしだ三成みつなり羽柴はしば秀次しゅうじ織田おだ信雄のぶおかいしての釈明しゃくめいみとめられ独立どくりつした大名だいみょうとして認知にんちされることに成功せいこうした[6]。これには、秀吉ひでよし秀次しゅうじ織田おだ信雄のぶおさんめいとも鷹狩たかがりをこのんだことをきつけた為信ためのぶが、津軽つがる特産とくさんたかおくって友誼ゆうぎむすんだ[注釈ちゅうしゃく 11]ことも本領ほんりょう安堵あんどつながったとられている[7]

また、大浦おおうら政信まさのぶ近衛このえしょうどおり落胤らくいんだという伝承でんしょうにちなみ、為信ためのぶはやくから廷臣ていしん近衛このえ接近せっきんして折々おりおり金品きんぴんべいなどの贈物おくりものをしており、上洛じょうらくしたさいもと関白かんぱく近衛このえぜんひさおとずれ「自分じぶんぜんひさこう祖父そふなおとおる殿どの奥州おうしゅう遊歴ゆうれきなされたさい落胤らくいん」と主張しゅちょうしていた。近衛このえかぎらずそのころ公家くげ窮乏きゅうぼうしており、関白かんぱくしょくきたいが家柄いえがら羽柴はしば秀吉ひでよし猶子ゆうしにして藤原ふじわらせいさづけた近衛このえぜんひさは、為信ためのぶからの財政ざいせい支援しえん増額ぞうがくにより為信ためのぶ猶子ゆうしとした。このときから為信ためのぶ本姓ほんせい藤原ふじわらとして、近衛このえ家紋かもん牡丹ぼたんちなあんず葉牡丹はぼたん使用しようゆるされ、せい大浦おおうらから津軽つがるあらためている。これにより形式けいしきじょうは、秀吉ひでよし為信ためのぶ義兄弟ぎきょうだいとなった。

その九戸くのへ政実まさみらん討伐とうばつ[注釈ちゅうしゃく 12]文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき伏見ふしみじょう普請ふしんなどに功績こうせきげた。

ぶんろく3ねん1594ねん)には大浦おおうらじょうから堀越ほりこしじょう居城きょじょううつした。

慶長けいちょう2ねん1597ねん為信ためのぶせん徳政とくせいせいやすし浅瀬石あせいしじょうめて、かつて盟友めいゆう関係かんけいにあったせんいさおほろぼした[注釈ちゅうしゃく 13]

関ヶ原せきがはらたたかいと晩年ばんねん

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慶長けいちょう5ねん1600ねん)1がつ27にち右京大夫うきょうのだいぶ任官にんかんされる(藤原ふじわらせい[8]同年どうねん関ヶ原せきがはらたたかでは領国りょうごく周囲しゅういがすべてひがしぐんという状況じょうきょうから三男さんなんしんまいともに、ひがしぐんとして参加さんかした。しかし、嫡男ちゃくなんしんけん豊臣とよとみ秀頼ひでより小姓こしょうしゅうとしてだい坂城さかきにあり、西にしぐん壊滅かいめつすると三成みなり重成しげなりらをれて帰国きこくしている。これらをかんがえると、つまりは真田さなだらと同様どうようの、りょうぐんのこさくねらったともかんがえられる。そのためか戦後せんご行賞こうしょうでは上野うえのこく大舘おおたち2,000せき加増かぞうとどまった(上野うえのりょうについては満天まんてんひめだいたて御前ごぜん項目こうもく参照さんしょう)。

関ヶ原せきがはら出陣しゅつじんちゅう家臣かしん反乱はんらんするのをおそれ、出陣しゅつじんまえ一族いちぞくである重臣じゅうしんもり岡信おかのぶはじめ暗殺あんさつさせるが、結局けっきょく合戦かっせんちゅう国許くにもと反乱はんらんこって居城きょじょう堀越ほりこしじょう占拠せんきょされた。しかし西にしぐん敗戦はいせんほうつたわると、反乱はんらんかた戦意せんい喪失そうしつうえ追討ついとうされている。

その家中いえじゅう騒動そうどうにて堀越ほりこしじょう簡単かんたん占拠せんきょされたりなどしたため、慶長けいちょう8ねん1603ねん)には岩木川いわきがわ土淵つちぶちがわはさまれた高岡たかおかたかおか)に新城しんじょう着工ちゃっこうした(のちに同地どうち弘前ひろさき改名かいめいされ、しろ弘前ひろさきじょうとなる)。ただししろ建設けんせつはあまりすすまず、次代じだいしんまいがれた。

慶長けいちょう12ねん1607ねん)10がつ13にち嫡男ちゃくなんしんけん京都きょうと死去しきょした[9]

同年どうねん慶長けいちょう12ねん)12月5にち死去しきょ[10]。58さい[10]

大正たいしょう4ねん1915ねん)10がつ24にちしたがえさんおくられた[11]

為信ためのぶ名代なだいつとめるなど、次代じだいとして確実視かくじつしされていた嫡男ちゃくなんしんけん為信ためのぶ自身じしん相次あいついで死去しきょしたため、家督かとく三男さんなんしんまい次男じなんしんけんすで死亡しぼうしていた)がまましいだものの、翌年よくねんしんけん嫡男ちゃくなんくませんだい大熊おおくま)がきむしんのり津軽つがるたてひろしんけん家臣かしんされて、正嫡せいちゃく主張しゅちょう幕府ばくふ裁定さいていもとめるいえ騒動そうどう勃発ぼっぱつした(津軽つがる騒動そうどう)。幕府ばくふしんまい正嫡せいちゃくとして公認こうにんし、たてひろらは追放ついほうされおいえ騒動そうどうおさまった。

墓所はかしょ

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弘前ひろさき藤代ふじしろにあるかわしゅうてらにあり、霊屋たまや建物たてものくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。また、弘前ひろさき西茂森にししげもり長勝寺ちょうしょうじ木像もくぞう安置あんちされている。明治めいじ時代じだいはいってだい4だい藩主はんしゅ為信ためのぶ曾孫そうそんにあたる信政のぶまさまつこうあきら神社じんじゃ合祀ごうしされている。

人物じんぶつ逸話いつわ

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津軽つがる為信ためのぶ銅像どうぞう
  • 弘前ひろさき城東じょうとうもんちかくの弘前ひろさき文化ぶんかセンター正面しょうめん入口いりくちまえには、津軽つがる為信ためのぶ銅像どうぞうがある。戦前せんぜんまでは弘前ひろさきじょう本丸ほんまるにあった銅像どうぞうは、戦時せんじちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつにより撤去てっきょされ、銅像どうぞう出陣しゅつじんといわれている。2004ねんあらたな銅像どうぞういま位置いち設置せっちされた。
  • 嫡男ちゃくなんしんけんきょうざいばんちゅうやまいたおれたさい津軽つがるにいた為信ためのぶは、自身じしんやまいおちいっていたにもかかわらず、しんまいともなってきょうまで見舞みまいにおとずれ、そのまま同地どうちぼっしている。親子おやこ兄弟きょうだい最期さいごわかれがしたかったから、という見解けんかいもあるが、しんけん診察しんさつけていた名医めいい自分じぶんてもらいたかったからというせつもある。いずれにせよ、そのとしの10がつしんじけん在京ざいきょうのまま死去しきょし、その2ヵ月かげつ為信ためのぶきょう死去しきょした。
  • 大浦おおうら津軽つがるを1だい大名だいみょうげた為信ためのぶは、当時とうじからその実力じつりょくたか評価ひょうかされており、「天運てんうんいたり。武将ぶしょううつわあたらせたまう」(『津軽つがる一統かずのりこころざし』)とある。
  • 岩手いわてけん久慈くじでは地元じもと出身しゅっしん偉人いじんとされており、久慈くじ秋祭あきまつりには津軽つがる為信ためのぶ題材だいざいとする山車だし[12][13]
  • 為信ためのぶ着手ちゃくしゅしてしんまい完成かんせいさせた弘前ひろさきじょうには、「かんしん」というまもがみしゃがあった。このしゃ稲荷いなりしゃであったが、じつはその稲荷いなりさまうしろに厨子ずしがあり、その厨子ずしいちひらかれることがなく、「かんしん」はそのなか安置あんちされているとわれていた。明治めいじになってその「ひらかずのみや」のとびらけられると、なかには豊臣とよとみ秀吉ひでよし木像もくぞうはいっていた。為信ためのぶは、幕府ばくふによる改易かいえき危険きけんかえりみずに、津軽つがる大名だいみょうにしてくれた秀吉ひでよし城内じょうないまつっていたのである。
  • 肖像しょうぞう銅像どうぞうなどかられるように、立派りっぱひげかぶと前立まえだての錫杖しゃくじょうがトレードマークである。
  • 豊臣とよとみ秀吉ひでよしから太刀たち友成ともなり」を拝領はいりょうした。この太刀たち歴代れきだい藩主はんしゅがれたのちに、最後さいご藩主はんしゅ津軽つがるうけたまわあきらこうあきら神社じんじゃ寄進きしん[14]2020ねん現在げんざい神社じんじゃよこ建設けんせつされた高岡たかおかもりひろしぜんはん歴史れきしかん収蔵しゅうぞうされている。

系譜けいふ

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家臣かしん

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小笠原おがさわら兼平かねひら森岡もりおかの3めいは「大浦おおうらさんろう」とばれる。

フィクションにおける津軽つがる為信ためのぶ

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小説しょうせつ

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ラジオドラマ

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演劇えんげき

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その

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 黒石くろいし浅瀬石あせいし星田ほしだ文書ぶんしょに「石川いしかわひだりこうもんかいみなもと高信たかのぶ南部なんぶきていまかえらず。城中じょうちゅうささえうるものなかりしかば為信ためのぶたたかわずして攻略こうりゃくすることたり。」「…南部なんぶ高信たかのぶたりて津軽つがる総監そうかんせしが、留守るすちゅう為信ためのぶめられ落城らくじょうしたり。」という記述きじゅつがある。まただいくだりいん (弘前ひろさき)元禄げんろく15ねん1702ねん)のしょうえちょうに『いち じゅういちめん観音堂かんのんどう 寺山てらやまかん石川いしかわ大膳だいぜん天正てんしょうねん本尊ほんぞんちょうサ一尺五寸木造石川殿安置仏云』という記述きじゅつもあるという[3]
  2. ^ おくみなみ落穂おちぼしゅうでは天正てんしょう8ねん(1580ねん石川いしかわじょうにて病死びょうしせつゆうしん私記しきでは天正てんしょう9ねん2がつ21にち津軽つがる病死びょうしせつっている。
  3. ^ 史料しりょうにより天正てんしょう16ねんせつおくみなみ落穂おちぼしゅう)、天正てんしょう17ねんせつ南部なんぶよう)もある。いずれにせよ3がつ16にち死没しぼつしたという部分ぶぶん共通きょうつうしている。南部なんぶ公認こうにん系図けいずである『系譜けいふ』には「ため奥州おうしゅう津軽つがるぐんだいきょ浪岡なみおかじょう天正てんしょうじゅうろくねん戊子ぼしねんさんがつじゅうろくそつ行年ぎょうねん廿にじゅうきゅうさい云々うんぬん」とある。
  4. ^ えいろく日記にっきもとかめ2ねん5がつ5にち八幡宮はちまんぐう競馬けいば早朝そうちょう見物けんぶつつかまつこう同夜どうや大浦おおうら殿どのひゃくほどニ而石川いしかわ大淵おおふちさきへ押寄大膳だいぜん殿でんおとこうよし同日どうじつ和徳わとく讃岐さぬきおとこう而諸じん驚入おどろきいこうゆう大浦おおうら殿どの堀越ほりこし町居まちい飛鳥あすか殿城とのしろこう。」とあるが、「こうよし」とあるようにこれは伝聞でんぶんである。また黒石くろいし浅瀬石あせいし星田ほしだ文書ぶんしょのように、当時とうじ石川いしかわじょう城主じょうしゅ石川いしかわ高信たかのぶ不在ふざいであったとする記述きじゅつもある。まただいくだりいんしょじょうちょう高信たかのぶ生存せいぞんしめしている。
  5. ^ はれまさし書状しょじょう(『南部なんぶ文書ぶんしょ』100~102ごう)は浅水あさみず三戸さんのへぐん五戸ごのへまち方面ほうめんめに八戸はちのへ加勢かせい依頼いらいしたもので、為信ためのぶ独立どくりつ傍証ぼうしょうするものではない。
  6. ^ もとかめ2ねん天正てんしょう16ねんごろまで為信ためのぶ軍事ぐんじ行動こうどうについて南部なんぶがわ編纂へんさん史料しりょうれていないことは事実じじつである。しかしこれら遠野とおの南部なんぶ所蔵しょぞう文書ぶんしょについては歴年れきねんしるされておらず、年代ねんだい比定ひていには慎重しんちょうようする。『岩手いわてけん』においても「これら書状しょじょうどういち年代ねんだいのものか判明はんめいしない」とある。『青森あおもりけん』『しん青森あおもり 資料しりょうへん2』でもみなみけい書状しょじょう年代ねんだい比定ひていなおされている。それによると、天正てんしょう17ねん1589ねん)の段階だんかいでも津軽つがる地方ちほうにおいて為信ためのぶなんらかの軍事ぐんじ行動こうどうこしていたとみられており『津軽つがる一統かずのりこころざし』の記述きじゅつ信頼しんらいせいうたがわれる。よって天正てんしょう17ねん前後ぜんこう浪岡なみおかじょう為信ためのぶによりおそわれたとする南部なんぶがわ史料しりょうもっぱ改竄かいざんされたものだというせつ検証けんしょうようする。
  7. ^ ろくかわ合戦かっせんでは比山ひやま滝本たきもとぜい侵攻しんこうゆるしており、また撃退げきたいしたとはいえ大浦おおうらぜい痛手いたでけており、南部なんぶ浪岡なみおか旧臣きゅうしんんでいくなか完全かんぜん掌握しょうあくできていたのかは疑問ぎもんのこる。
  8. ^ おくみなみ落穂おちぼしゅう』『津軽つがること』に「石川いしかわ高信たかのぶくん石川いしかわじょうにて天正てんしょうはちねん死去しきょゆうしといへども大光寺だいこうじはじしょしん彦次郎ひこじろう政信まさのぶくん補佐ほさ北畠きたばたけ臣下しんか服従ふくじゅうせしゆえから南部なんぶりょうになりくだりおかじょう浪岡なみおかしろ)に移住いじゅうきゅうふなり。」とある。
  9. ^ おくみなみ落穂おちぼしゅう』『津軽つがる右京大夫うきょうのだいぶ為信ためのぶこと』では「天正てんしょうじゅうはちねん九戸くのへ政実まさみ宮野みやのじょうこもり、さんいきおいこれかこみ、日々ひび合戦かっせんときなし。此時太閤たいこう秀吉ひでよしおおやけ北条ほうじょう征伐せいばつとして関東かんとう下向げこうあり、まで殿下でんか不通ふつうやからみな征伐せいばつ風説ふうせつ相聞そうもんたるゆえに、右京うきょうみつ上京じょうきょうえんもとめて近衛このえぜん関白かんぱくぜんひさこうたよ嘆願たんがんせしかば、ぜんひさこう承諾しょうだくせられ、祖父そふなおつうこう落胤らくいんまごなり藤原ふじわらせいあんず葉牡丹はぼたん紋所もんどころまでたまわり、秀吉ひでよしこうへの吹挙のしょ持参じさんして小田原おだわら陣所じんしょくだり、秀吉ひでよしおおやけに謁し、津軽つがるぐんよんまんせんせき安堵あんどしょたまわり、したがえみぎきょうあきらなり」とあり、小田原おだわらさんじん否定ひていしていない。
  10. ^ しん青森あおもり 資料しりょうへん2』ではみなみけい書状しょじょうひとつ(『南部なんぶ文書ぶんしょ』112ごう)を天正てんしょう17ねん1589ねん)に比定ひていなおしており、それによると天正てんしょう17ねん時点じてん横内よこうちしろ浜口はまぐち小湊こみなとくち)などのそと浜東はまひがし依然いぜんとして南部なんぶりょうとして健在けんざいであり、天正てんしょう13ねん横内よこうち城主じょうしゅつつみ弾正だんじょう左衛門さえもんらをがいはま全域ぜんいきれたという津軽つがるがわ記述きじゅつ脚色きゃくしょくされたものだとしている。一方いっぽうで『えいろく日記にっき』には天正てんしょう13ねん3がつに「大浦おおうら殿どの旗本はたもとぜいせん余人よにんさんがつじゅうきゅうにち門徒もんとてらとまり、そとはまざんにゅうこう。」とあり、そとはま攻略こうりゃく天正てんしょう13ねん天正てんしょう18ねん1590ねん)のわたっておこなわれた可能かのうせい指摘してきされている。
  11. ^ 弘前ひろさきはん織田おだ信雄のぶおのおれい書状しょじょうのこされている。
  12. ^ 九戸くのへ討伐とうばつ直後ちょくごにも南部なんぶしんじき小田原おだわらさんじんつづいて、為信ためのぶ悪逆あくぎゃくであるといいつの豊臣とよとみ秀吉ひでよし奉行ぶぎょう浅野あさの長政ながまさ実父じっぷ石川いしかわ高信たかのぶ敵討かたきうちゆるしをねがたので、長政ながまさ拒否きょひするとともに不測ふそく事態じたいけるため、討伐とうばつぐんくわわっていた為信ためのぶ即刻そっこく領地りょうちかえるよううながしたとされる。
  13. ^ えいろく日記にっき慶長けいちょう2ねん3がつ5にちこうに「浅瀬石あせいし大和やまとなみ、一子安芸両人堀越之城江呼寄、大勢おおぜい取巻とりまけ打取うちと三男さんなんじょうかい先達せんだつ而病致候。其子いきいちにんよんさいしを家来けらい引連南部なんぶこう落行こうみぎしゃ先年せんねんより謀反むほんしんゆうづけ顧此打取うちとこうよし。」とあり、せんいさお通説つうせつのような合戦かっせんではなく謀略ぼうりゃくにより殺害さつがいした可能かのうせいがある。

出典しゅってん

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  1. ^ 青森あおもりけん弘前ひろさき大字だいじ新寺しんてらまち浄土宗じょうどしゅうがつ窓山まどやまさかえげんいんさだあきらてらのこ記録きろく史料しりょうより
  2. ^ 長谷川はせがわしげるいち 『青森あおもりけん歴史れきし』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃけん〉、2000ねん年表ねんぴょう。 ISBN 4-634-32020-7
  3. ^ 大仏だいぶつはなじょうしのかい 『つわものどものゆめのあと 石川いしかわじょう』、1981ねん
  4. ^ おくみなみ落穂おちぼしゅう』『ゆうしん私記しき』『しんじ直記なおき』『南部なんぶよう』、松岡まつおか西にしあんしょじょう石井いしいさんあんせいまん覚書おぼえがきひとし
  5. ^ 長谷川はせがわしげるいち ちょ本州ほんしゅう北端ほくたんにおける近世きんせい城下町じょうかまち成立せいりつ」、北海道ほっかいどう東北とうほく研究けんきゅうかい へん海峡かいきょうをつなぐ日本にっぽん三省堂さんせいどう、1993ねん、153-156ぺーじISBN 4385354618 http://hdl.handle.net/10129/2044
  6. ^ 秀吉ひでよしから為信ためのぶてた朱印しゅいんじょう津軽つがる文書ぶんしょおよび、白川しらかわとおる石田いしだ三成みつなり生涯しょうがい』(だいしょうじゅうこう近世きんせい大名だいみょう津軽つがる存続そんぞく背景はいけい石田いしだ三成みつなり」)より。
  7. ^ 弘前ひろさき』では個人こじんめい明記めいきしていないが、有力ゆうりょくしゃとの仲介ちゅうかいをした秀吉ひでよし側近そっきん存在そんざい言及げんきゅうされている。
  8. ^ 村川むらかわ浩平こうへい天正てんしょうぶんろく慶長けいちょう武家ぶけ叙任じょにん豊臣とよとみせい下賜かし事例じれい」『駒沢こまざわ史学しがく』80ごう、2013ねん
  9. ^ 青森あおもりけん 1971, p. 249.
  10. ^ a b 青森あおもりけん 1971, p. 250.
  11. ^ 青森あおもりけん 1971, p. 252.
  12. ^ 岩手いわてけん希望きぼう王国おうこく岩手いわて放課後ほうかご座談ざだんかい(H21.1.22)」、2009ねん3がつ19にち
  13. ^ はたひろし英雄えいゆう津軽つがる為信ためのぶ」『はたけこうじ情熱じょうねつブログ』、2008ねん7がつ6にち
  14. ^ 太刀たち めい 友成ともなりさく”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 弘前ひろさき文化財ぶんかざい保存ほぞん技術ぎじゅつ協会きょうかい. 2020ねん10がつ2にち閲覧えつらん
  15. ^ 弘前ひろさきじょう合体がったいロボ「ちょうしろ合体がったいタメノブーンV」登場とうじょう 株式会社かぶしきがいしゃジェイクリエイト『観光かんこうRe:デザイン』
  16. ^ ちょうしろ合体がったいタメノブーンV弘前ひろさき公式こうしきサイト

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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