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沼田ぬまた祐光ゆうこう

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沼田ぬまた 祐光ゆうこう
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 慶長けいちょう17ねん1612ねん
改名かいめい めんまつひとし上野うえのすけ
戒名かいみょう 清光せいこういん殿どのめんまつひとしだい居士こじ
墓所はかしょ 青森あおもりけん弘前ひろさき誓願寺せいがんじ
主君しゅくん 津軽つがる為信ためのぶ
氏族しぞく 沼田ぬまた
父母ちちはは ちち沼田ぬまたひかりけんそうけん?)
兄弟きょうだい 祐光ゆうこう麝香じゃこうひかり寿ことぶきいん細川ほそかわ幽斎ゆうさい正室せいしつ
兵庫ひょうごすけ
テンプレートを表示ひょうじ

沼田ぬまた 祐光ゆうこう(ぬまた すけみつ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう津軽つがる家臣かしん沼田ぬまためんまつひとしとも。

津軽つがる為信ためのぶ軍師ぐんしとして活躍かつやくしたといわれているが、詳細しょうさいについては不明ふめいてんおおい。

生涯しょうがい

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沼田ぬまたひかりけんそうけん?)のとして誕生たんじょうしたといわれる。

出自しゅつじについては諸説しょせつあり、おもせつとしては、上野うえの沼田ぬまた一族いちぞくにあたりみなもと頼朝よりとも時代じだいより代々だいだい若狭わかさこく熊川くまかわ領有りょうゆうし、のち若狭わかさ武田たけだぞくしたとされる。ちちえいろく年間ねんかん熊川くまかわしろ築城ちくじょうしたが、えいろく12ねん1569ねん)に武田たけだ被官ひかん松宮まつみやきよしちょうめられ、沼田ぬまた一族いちぞく近江おうみこく退出たいしゅつしたとされる。

祐光ゆうこう陸奥みちのくこく戦国せんごく大名だいみょう津軽つがる為信ためのぶつかえたが、それ以前いぜん足跡あしあと不明ふめいてんおおい。また、陰陽いんようどう易学えきがく天文学てんもんがくつうじており[1]、これらを駆使くしした伝承でんしょう弘前ひろさきじょう築城ちくじょうしろ選定せんていさい土地とち吉凶きっきょううらなうなど)がつたわっている。中央ちゅうおう政界せいかいとのパイプ役ぱいぷやくになっていたともつたわるが、現時点げんじてんでの資料しりょうにおいては経歴けいれき実績じっせきなどはしょうとせざるをない。

為信ためのぶ当初とうしょ500せきあたえるとしたが、祐光ゆうこうはこれを辞退じたいし、兵庫ひょうごすけあたえるようねがかなえられ、祐光ゆうこう自身じしん隠居いんきょりょう100せきけた。もとかめ2ねん1571ねん)5がつ石川いしかわじょうめや、天正てんしょう3ねん1575ねん)1がつ大光寺だいこうじじょうめに参加さんかした。

慶長けいちょう17ねん1612ねん)12月、病死びょうし

なお、まごゆうただし兵庫ひょうごすけ)は500せき為信ためのぶ嫡男ちゃくなんしんけん付属ふぞく家臣かしんとなるが、しんけん死後しご知行ちぎょうげられ浪人ろうにんした[2]。2だい藩主はんしゅしんまいだいになり、きゅうこうをもってまねがえされ、祐光ゆうこう隠居いんきょりょう100せきにて再度さいどかかえられた(その150せき加増かぞう)。

青森あおもりけん弘前ひろさき誓願寺せいがんじに、祐光ゆうこう以下いか弘前ひろさき藩士はんし沼田ぬまた代々だいだい墓所はかしょ現存げんそんする。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 若狭わかさこく熊川くまかわは、朝廷ちょうてい陰陽いんようどう天文てんもんどう主流しゅりゅうであった土御門つちみかど安部あべ所縁しょえんふかい。
  2. ^ しんけん為信ためのぶ死後しご後継こうけいあらそいがあり、やぶれたしんけんはんない粛清しゅくせいされている。