津軽つがる信明のぶあき

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津軽つがる信明のぶあき
津軽つがる信明のぶあきぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん たかられき12ねん6月22にち1762ねん8がつ11にち
死没しぼつ 寛政かんせい3ねん6月22にち1791ねん7がつ22にち
改名かいめい くま五郎ごろう松五郎まつごろう幼名ようみょう)→信明のぶあき
戒名かいみょう からだこういん殿どのさださかいひろしあきらだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう台東たいとう上野うえのはりいん
官位かんい したがえ土佐とさまもるおくしたがえよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
はん 陸奥みちのく弘前ひろさきはんあるじ
氏族しぞく 津軽つがる
父母ちちはは ちち津軽つがるしんやすしはは青木あおき助右衛門すけえもんいもうとうた
兄弟きょうだい 信明のぶあき阿部あべただしりん継室けいしつほり親忠ちかただ正室せいしつ
ほり親忠ちかただ継室けいしつ須資あきらしつ
つま 正室せいしつ松平まつだいらちょうのりむすめひめ
柴田しばた勝峯かつみねしつ
養子ようしやすしおや
テンプレートを表示ひょうじ

津軽つがる 信明のぶあき(つがる のぶあきら)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大名だいみょう陸奥みちのくこく弘前ひろさきはん8だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえ土佐とさもり

生涯しょうがい[ソースを編集へんしゅう]

たかられき12ねん1762ねん)6がつ22にち、7だい藩主はんしゅ津軽つがるしんやすし長男ちょうなんとして誕生たんじょう安永やすなが5ねん1776ねん)3がつ1にち、10代将軍しょうぐん徳川とくがわ家治いえはる目見まみする。同年どうねん12がつ18にちしたがえ出羽守でわのかみ叙任じょにんする。幼少ようしょうから才能さいのうめぐまれ、宇佐美うさみめぐみすけ戸沢とざわおもんみあらわらからおしえをけてその才能さいのうみがきをかけた。また、当時とうじ名君めいくんばれていた肥後ひごこく熊本くまもとはんおも細川ほそかわ重賢しげかた出羽でわこく米沢よねざわはんおも上杉うえすぎ鷹山ようざん治憲はるのり、そして陸奥みちのく白河しらかわはんおも松平まつだいら定信さだのぶらと親交しんこうったことも、信明のぶあき才能さいのう見識けんしきひろげる一因いちいんとなった。

天明てんめい4ねん1784ねん)2がつ晦日みそかちち急死きゅうしにより家督かとくいだ。このころ、弘前ひろさきはんでは天明てんめいだい飢饉ききん死者ししゃ13まんにんわれるほどのだい被害ひがいけ、その救済きゅうさいなどによる出費しゅっぴから財政ざいせい悪化あっかしていた。このため信明のぶあきはん財政ざいせい改革かいかくし、乳井にゅういみつぐ毛内もうないゆうみぎ衛門えもん有能ゆうのう登用とうよう不正ふせいおこなう家臣かしんたいしてはきびしい処罰しょばつのぞんだ。

改革かいかくのうちめずらしいものとして、ゆうみぎ衛門えもん進言しんげんれての藩士はんし帰農きのう土着どちゃくさくがある。ゆうみぎ衛門えもん武士ぶし窮乏きゅうぼう促進そくしんするのは武士ぶし年貢ねんぐであるべいたよりすぎるからであるとし、藩士はんし織田おだ信長のぶながへいのう分離ぶんり以前いぜんはんのうはん状態じょうたいもどそうとしたのである。このころ、弘前ひろさきはんでは飢饉ききん相次あいついで領地りょうち荒廃こうはいし、百姓ひゃくしょう年貢ねんぐさえなく、てて逃亡とうぼうするという有様ありさまであった。そこで藩士はんしはんのうはんにすることで、荒廃こうはいした田畑たはた復興ふっこうさせようとしたのである。しかし、当初とうしょ反対はんたいろんおおく、はじめは希望きぼうしゃのみにとどめた。その赤石あかし安右衛門やすえもん菊地きくちひろしらの尽力じんりょくもあって、荒廃こうはいした田畑たはたのうち1000町歩ちょうぶ復興ふっこうした。

信明のぶあきはさらに倹約けんやくれい出費しゅっぴ大幅おおはば削減さくげんくら設置せっちによる食糧しょくりょう備蓄びちく藩校はんこう開設かいせつ教育きょういく普及ふきゅうはんほう制定せいてい年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう方法ほうほうていめんほうから検見けんみほうあらためるなどして、着実ちゃくじつ改革かいかくおこなって財政ざいせい再建さいけんした。しかし寛政かんせい3ねん1791ねん)、信明のぶあきは30さい急死きゅうしし、改革かいかくはあといちというところで挫折ざせつした。これには毒殺どくさつせつもある。嗣子ししがなかったため、あと養嗣子ようししやすしおや別家べっけ津軽つがるちょだか)がいだ。

大正たいしょう4ねん(1915ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[1]

系譜けいふ[ソースを編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.32