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松平まつだいらちょうのり

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松平まつだいら ちょうのり
松平まつだいらちょうのりぞうこうあらわてらくら
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん もとぶん3ねん3月14にち1738ねん5月2にち
死没しぼつ 明和めいわ5ねん6がつ10日とおか1768ねん7がつ23にち
改名かいめい 喜八郎きはちろう幼名ようみょう)→ちょくけんはつ)→あさのり
別名べつめい 久太郎きゅうたろう通称つうしょう
戒名かいみょう れいわしいん殿どの拈華微笑ねんげみしょうだい居士こじ
墓所はかしょ 埼玉さいたまけん川越かわごえ小仙波こせんばまち喜多きたいん
官位かんい したがえよんした大和やまともり侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家重いえしげ家治いえはる
はん 播磨はりま姫路ひめじはんおも上野うえの前橋まえばしはんおも武蔵むさし川越かわごえはんあるじ
氏族しぞく 結城ゆうき松平まつへい
父母ちちはは ちち松平まつだいらあきらのりはは成田なりた
兄弟きょうだい あさのりのりどう由良ゆら貞通さだみち
つま 正室せいしつみね山内やまうちゆたかじきむすめ
継室けいしつ藤井ふじいけんのりむすめ
土井どいとしけんちょくつねのりみね秋山あきやまただしおさむ高力こうりきただしのべひめ津軽つがる信明のぶあき正室せいしつ
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松平まつだいら ちょうのり(まつだいら とものり)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大名だいみょう。はじめ播磨はりま姫路ひめじはんおも、ついで上野うえの前橋まえばしはんおも、さらに武蔵むさし川越かわごえはんおも結城ゆうき松平まつへい5だい松平まつだいらあきらのり長男ちょうなん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

もとぶん3ねん1738ねん)3がつ16にち陸奥みちのく白河しらかわはんあるじ松平まつだいらあきらのり長男ちょうなんとしてまれる[1]ひろし元年がんねん1741ねん)、ちちあかりのり姫路ひめじはんてんふうとなる。寛延かんえい元年がんねん1748ねん11月27にち、11さいのときちち急死きゅうし翌月よくげつ27にち姫路ひめじはん15まんせきいだが、同月どうげつ姫路ひめじはんではだい規模きぼ農民のうみん一揆いっき発生はっせいしていた。このとし魃と台風たいふうにより姫路ひめじはんない被害ひがいけており、はん年貢ねんぐ納期のうき延期えんきとうみとめたものの、農民のうみん年貢ねんぐ減免げんめんもと強訴ごうそしようとしたのが発端ほったんである[1]

この一揆いっき直接ちょくせつ原因げんいんとなったわけではないが、あさのり姫路ひめじ藩主はんしゅとしての役目やくめはすぐにわりをむかえることとなる。姫路ひめじ西国さいこくおさえる要地ようちであり、藩主はんしゅ幼少ようしょう場合ばあいには他国たこく国替くにがえという不文ふぶんりつがあった。かつて曾祖父そうそふちょくのり幼少ようしょう理由りゆう姫路ひめじから越後えちご村上むらかみはんうつりふうじさせられたが、このときも「幼少ようしょうあさのりには姫路ひめじ藩主はんしゅ適当てきとう」とされ、よく寛延かんえい2ねん1749ねん)1がつ15にちに、かねて姫路ひめじてんふうねらっていた前橋まえばしはんおもにしてまくかく重鎮じゅうちん酒井さかいただしきょう交代こうたい前橋まえばし15まんせきへのてんふうめいじられた。

寛延かんえい4ねん1751ねん)11月11にち元服げんぷくよくたかられき2ねん1752ねん)5がつ7にち前橋まえばしじょうはつ入城にゅうじょうたかられき8ねん1758ねん正月しょうがつ11にちあさのり改名かいめい[1]

たかられき9ねん1759ねん)12月12にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげ右大臣うだいじん転任てんにんにともない、陸奥みちのく会津あいづはんおも松平まつだいら容頌かたのぶとともに朝廷ちょうていへの使者ししゃとして内定ないていされたが、近江おうみ彦根ひこねはんおも大老たいろう井伊いい直幸なおゆき幕府ばくふないでの序列じょれつ(「譜代ふだい将軍家しょうぐんけ家臣かしんだん筆頭ひっとうにして幕府ばくふ大老たいろう井伊いい」と「親藩しんぱん将軍家しょうぐんけ親族しんぞく)の筆頭ひっとうかく一角いっかくである会津あいづはん」、そして「親藩しんぱんにして“将軍家しょうぐんけあにいえ”である越前えちぜん松平まつへい一門いちもんあさのり」)にかんがみたうえ工作こうさくおこなったことにより、内定ないていくつがえされて松平まつだいら容頌かたのぶ井伊いい直幸なおゆき使者ししゃとなった(井伊いい直幸なおゆきのち養父ようふ病気びょうき療養りょうよう理由りゆう辞退じたい松平まつだいらよりゆききょう高松たかまつ松平まつだいら)が使者ししゃとなる)。

前橋まえばしはん利根川とねがわ洪水こうずいによりたびたび被害ひがいける難所なんしょであり[2]前橋まえばしじょうもまた、本来ほんらい利根川とねがわ利用りようした天険てんけん要害ようがいであったがぎゃくに、その利根川とねがわ激流げきりゅうによって年々ねんねんしろ浸食しんしょくけて城郭じょうかく破壊はかいすすみ、あさのりだいには本丸ほんまるにまで浸水しんすいして、居住きょじゅうするには大変たいへん危険きけん状態じょうたいとなっていた。かねてからの財政難ざいせいなんもありじょう再建さいけんあきらめ、明和めいわ4ねん1767ねんうるう9がつ15にち本丸ほんまる崩壊ほうかい危機ききけ、幕府ばくふ許可きょか居城きょじょうはんちょう前橋まえばしから川越かわごしうつした。前橋まえばしじょう周辺しゅうへん前橋まえばしりょう川越かわごえはん代官だいかん支配しはいとなり、前橋まえばしじょう明和めいわ6ねん1769ねん)にはいじょうやぶ却となった。

明和めいわ5ねん(1768ねん)6がつ10日とおか松平まつだいらによる。『徳川とくがわ実紀みき』によれば12にち川越かわごしにて死去しきょ享年きょうねん31。家督かとく次男じなんちょくつねいだ。

墓所はかしょ川越かわごえ喜多きたいん

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 前橋まえばしだい2かん(1973ねん前橋まえばし)569-571ぺーじ
  2. ^ 酒井さかいただしきょうもそれをきらい、おなじ15まんせきでもだか裕福ゆうふくであるとうわさされていた姫路ひめじへのてんふう画策かくさくしたが、うたてふうにかかる費用ひよう姫路ひめじにてちょくのり先代せんだいからつづ凶作きょうさくくわえ、うたてふううわさ察知さっちした百姓ひゃくしょうによるだい騒動そうどう姫路ひめじはん寛延かんえい一揆いっき)、くわえてうたてふう直後ちょくご領内りょうないを2おそった台風たいふうによる被害ひがいにより、酒井さかい借財しゃくざい好転こうてんするどころか、さらに増大ぞうだいした。

かんれき[編集へんしゅう]