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榊原さかきばら忠次ただつぐ

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榊原さかきばら忠次ただつぐ / 大須賀おおすが忠次ただつぐ
榊原さかきばら忠次ただつぐぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 慶長けいちょう10ねん1605ねん
死没しぼつ 寛文ひろふみ5ねん3月29にち1665ねん5月14にち
改名かいめい くにまる幼名ようみょうくにせんだいとも)、大須賀おおすが忠次ただつぐ榊原さかきばら忠次ただつぐ
別名べつめい 五郎左衛門ごろうざえもん松平まつだいら忠次ただつぐ
戒名かいみょう きよしあきらいんてんほまれ長山ながやま
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん姫路ひめじぞう位山くらいやまずいねがいてら
官位かんい したがえ式部しきぶ大輔だいすけしたがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ大政たいせい参与さんよ
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつな
はん 遠江とおとうみ横須賀よこすかはんおも上野うえの館林たてばやしはんおも陸奥みちのく白河しらかわはんおも播磨はりま姫路ひめじはんあるじ
氏族しぞく 大須賀おおすが榊原さかきばら
父母ちちはは ちち大須賀おおすが忠政ただまさははさちしついん松平まつだいらやすしもとむすめ
つま 正室せいしつとくひめ黒田くろだ長政ながまさ次女じじょ
継室けいしつひさしあきらいん寺沢てらさわ広高ひろたかむすめ
小平こだいらふとし長男ちょうなん夭折ようせつ)、ばんせいぼう
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榊原さかきばら 忠次ただつぐ(さかきばら ただつぐ)または大須賀おおすが 忠次ただつぐ(おおすか ただつぐ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき譜代ふだい大名だいみょう大政たいせい参与さんよ。はじめ大須賀おおすがぎ、のち榊原さかきばらいだ。遠江とおとうみ横須賀よこすかはんおも上野うえの館林たてばやしはんおも陸奥みちのく白河しらかわはんおも播磨はりま姫路ひめじはんおも榊原さかきばら3だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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大須賀おおすが忠政ただまさ長男ちょうなんで、徳川とくがわ四天王してんのう榊原さかきばら康政やすまさまごである。はは徳川とくがわ家康いえやすめいであるため、忠次ちゅうじ1だいかぎ終身しゅうしん松平まつだいらせいゆるされる[1]

大石おおいしそう兵衛ひょうえ遠江とおとうみこくしろ飼郡池新田いけしんでん名主なぬしにんじるはんぶつ(『松平まつだいら忠次ただつぐばんぶつ慶長けいちょう19ねん1がつ15にち個人こじんぞう[2]。「松平まつだいらこくせんだい[注釈ちゅうしゃく 1]署名しょめいされ、花押かおうされている

ちちにより3さい祖母そぼ生家せいかである大須賀おおすが相続そうぞくし、遠江とおとうみ横須賀よこすかはんで6まんいしりょうした。家康いえやす配慮はいりょにより、安藤あんどう直次なおじ後見人こうけんにんとされている。その叔父おじたる榊原さかきばら当主とうしゅ榊原さかきばらやすしかちがなく断絶だんぜつしかかっていたところ[注釈ちゅうしゃく 2]徳川とくがわ四天王してんのう血統けっとうえるのを懸念けねんした家康いえやすいのちにより、忠次ただつぐが10さい榊原さかきばら館林たてばやしはん10まんせき相続そうぞくした。一説いっせつには、忠次ちゅうじ自身じしん希望きぼう榊原さかきばら相続そうぞくとなったともされる。これにより、大名だいみょう大須賀おおすが絶家ぜっけとなった[注釈ちゅうしゃく 3]

大須賀おおすが領地りょうち榊原さかきばら吸収きゅうしゅうされたりはせず、幕府ばくふ返上へんじょうとなった。家臣かしんだん解雇かいこいえ絶家ぜっけとなったが、一部いちぶ家臣かしんは3わり加増かぞううえ榊原さかきばら家臣かしん編入へんにゅうされている[3][注釈ちゅうしゃく 4][注釈ちゅうしゃく 5]。また、忠次ちゅうじ擁立ようりつこうがあった榊原さかきばらの3にん家老がろう江戸えど幕府ばくふより「付人つきびと」(家老がろう相当そうとうする)ににんじられてそれぞれ1せんせきあたえられ、榊原さかきばらからの知行ちぎょうとはべつ子孫しそん継承けいしょうすることがゆるされた。幕末ばくまつ幕府ばくふ旗本はたもと御家人ごけにん知行ちぎょうから軍役ぐんえききん徴収ちょうしゅうしようとしたさいかれらの身分みぶんめぐって幕府ばくふ勘定かんじょうしょ榊原さかきばら当時とうじ越後えちごこく高田たかだはんあいだ論争ろんそうになっている[3]

正保しょうほう4ねん12月12にち1648ねん1がつ6にち)、奥平おくだいらあきらのうとも幼年ようねん徳川とくがわ家綱いえつなでんやくおおけられた。その白河しらかわはん14まんせきうたてふうさら姫路ひめじはん15まんせき国替くにがえとなり、寛文ひろふみ3ねん1663ねん)には保科ほしな正之まさゆき推挙すいきょにより、井伊いい直孝なおたか死後しごせきかたちとなっていた幕府ばくふふとしろうしょく大政たいせい参与さんよ)にむかえられた。

万治まんじ2ねん(1659ねん)、現在げんざい加古川かこがわ東神吉ひがしかんきまちから米田よねだまちにかけての加古川かこがわ右岸うがんに「升田ますだつつみ」という堤防ていぼう構築こうちくし、それまで2つにかれていた升田ますだ-船頭せんどうあいだかわながれを1つにするりゅう改変かいへん工事こうじ実施じっししている。

姫路ひめじでは新田にった開発かいはつ指揮しきするかたわら、和歌わか百人一首ひゃくにんいっしゅたしなんだ。

経歴けいれき

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榊原さかきばら忠次ただつぐ法号ほうごうしるした法名ほうみょうじく

官位かんい位階いかい

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榊原さかきばら忠次ただつぐ墓所はかしょ

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ぞう位山くらいやまずいねがいてらにある榊原さかきばら忠次ただつぐ墓所はかしょ。1665ねんせいぼうによっててられ、面積めんせきはおよそ1100m2あり、かれ事跡じせききざんだ碑文ひぶん幕府ばくふ儒学じゅがくしゃである林家はやしやはやし鵞峰によって作成さくせいされている[4]

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 忠次ただつぐ
  2. ^ じつ榊原さかきばらには、かんまさる庶子しょし勝政かつまさがいたが、3にん家老がろう策謀さくぼうにより秘匿ひとくされていた。のち露見ろけんし、3家老がろう流罪るざいになったとされているが事実じじつではない。勝政かつまさ(と庶弟)の子孫しそん旗本はたもととしててられ、のち忠次ちゅうじ子孫しそん本家ほんけに2養子ようし血統けっとうつないでいる。この本家ほんけへの養子ようし一人ひとりで、旗本はたもと次男じなんまれ、紆余曲折うよきょくせつすえ榊原さかきばら本家ほんけいだ榊原さかきばらまさし旗本はたもと次男じなんだったわかころちちいのちにより大須賀おおすがだかたね名乗なのっている。思惑おもわく多々たたあったかもしれないが、榊原さかきばらは「大須賀おおすが」をわすれていなかったということである。
  3. ^ 大須賀おおすがやすしだかおとうと大須賀おおすがやすしたねなど、大須賀おおすが相続そうぞく可能かのうしゃ皆無かいむだったわけではない。
  4. ^ この3わり大須賀おおすが6まんせき榊原さかきばら10まんせきになったのとほぼ同等どうとうである。
  5. ^ 忠次ちゅうじ相続そうぞく幼少ようしょうであるために大須賀おおすがやすしだかおとうと久野くのしろおも大須賀おおすがやすしたね後見こうけんとなったが、これと家臣かしんだん対立たいりつし、横須賀よこすかななにんしゅなどのおおくの家臣かしんったともつたわる。そのおおくの家臣かしん幕府ばくふ指示しじにより紀州きしゅう徳川とくがわ紀伊きいこくにゅうふう以前いぜん当時とうじ駿河するがこく遠江とおのえこく領地りょうちがあり、大須賀おおすが国人くにびとさむらいにルーツを大須賀おおすが家臣かしんよせとはきんえんであった。)に編入へんにゅうされた。

出典しゅってん

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  1. ^ 村川むらかわ浩平こうへい松平まつだいら下賜かし」『日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん』(近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん) ISBN 4-8231-0528-1
  2. ^ 靜岡しずおかけん史料しりょう』4輯、靜岡しずおかけん、1938ねん、334ぺーじ
  3. ^ a b 小宮山こみやま敏和としかず榊原さかきばら家臣かしんだん形成けいせい過程かていまくはん体制たいせい」『譜代ふだい大名だいみょう創出そうしゅつまくはん体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねんISBN 978-4-642-03468-5
  4. ^ 墓所はかしょとうもんよこにある案内あんないばんより。

外部がいぶリンク

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