(Translated by https://www.hiragana.jp/)
松平重勝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

松平まつだいら重勝しげかつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平まつだいら重勝しげかつ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天文てんもん18ねん1549ねん
死没しぼつ 元和がんわ6ねん12月14にち1621ねん1がつ6にち
戒名かいみょう まつたけしいん殿どのゆうほまれじょしろだい居士こじ
墓所はかしょ 静岡しずおかけん静岡しずおかあおい大鋸おおがまち西福寺さいふくじ
官位かんい 大隅おおすみまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす松平まつだいらただしてる徳川とくがわ秀忠ひでただ
はん 越後えちご三条さんじょうはんおも下総しもうさ関宿せきやどはんおも遠江とおとうみ横須賀よこすかはんあるじ
氏族しぞく 能見のうみ松平まつへい
父母ちちはは ちち松平まつだいら重吉しげよしはは松平まつだいらちかしちょうむすめ
兄弟きょうだい 重利しげとし重勝しげかつ石川いしかわ康正こうせいしつ倉橋くらはし政範まさのりしつ
つま 正室せいしつ鳥居とりい忠吉ただよしむすめ
重忠しげただじゅうちょう重則しげのり重信しげのぶ勝隆かつたか
岩瀬いわせあずかしつ
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら 重勝しげかつ(まつだいら しげかつ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての大名だいみょう越後えちごこく三条さんじょうはんおも下総しもうさこく関宿せきやどはんおも遠江とおとうみこく横須賀よこすかはん初代しょだい藩主はんしゅ官位かんい大隅おおすみまもる能見のうみ松平まつへい4だい

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

松平まつだいら重吉しげよしよんなん異説いせつり)として誕生たんじょうはは松平まつだいらちかしちょうむすめ異説いせつり)。

徳川とくがわ家康いえやすつかえて初期しょきだい番頭ばんがしらつとめ、慶長けいちょう10ねん1605ねん)に伏見ふしみじょう守護しゅご慶長けいちょう17ねん1612ねん)に、家康いえやすろくなん松平まつだいらただしてる家老がろうとなり、越後えちご高田たかだはん支配しはいしたただしてる配下はいかとして越後えちごこくさんじょう2まんせきあたえられた。長男ちょうなん重忠しげただ将軍家しょうぐんけだい番頭ばんがしらつとめていたため、次男じなんじゅうちょう手元てもといた。

元和がんわ2ねん1616ねん)7がつ主君しゅくんちゅうてる改易かいえきとなった。

ちゅうてる改易かいえきはしかし連座れんざせず、幕府ばくふかえされて徳川とくがわ秀忠ひでただつかえ、よく元和がんわ3ねん1617ねん)に譜代ふだい大名だいみょうとして2まん6,000せき拝領はいりょうして下総しもふさ関宿せきやど藩主はんしゅとなった[1]。その元和がんわ5ねん1619ねん遠江とおとうみこく横須賀よこすかはんうつり、駿河するがこく駿府すんぷじょう城代じょうだい兼務けんむする。

元和がんわ6ねん1620ねん)に駿府すんぷ城下じょうかにて死去しきょした。享年きょうねん72。法名ほうみょうまつたけしいん殿どのゆうほまれじょしろだい居士こじ」。墓所はかしょ現在げんざい静岡しずおかけん静岡しずおかあおい大鋸おおがまち西福寺さいふくじ存在そんざいする。

嫡男ちゃくなん重忠しげただあといだ。

逸話いつわ

[編集へんしゅう]

元和がんわ2ねん(1616ねん)7がつ主君しゅくんちゅうてる改易かいえきとなったが、高田たかだはんたいしてちゅうてる蟄居ちっきょ処分しょぶんつたえる幕府ばくふからの使者ししゃとなったのは三男さんなん重則しげのりで、はん改易かいえき処分しょぶんつたえる上使じょうしつとめたのがなん勝隆かつたかだった。勝隆かつたかは、高田たかだよりさき三条さんじょう父兄ふけいもとおとずれ、ちゅうてるじょふう報告ほうこくした。その高田たかだにおけるじょふうもうわたしにおいて重勝しげかつじゅうちょう共々ともども息子むすこおとうとである上使じょうし勝隆かつたかしたがかたちだったとつたわる。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 白根しらねたかしたね徳川とくがわ一門いちもんづけ家老がろう成立せいりつ過程かてい駿府すんぷ政権せいけん」1999ねん3がつ(『徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きよう33』)