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西尾にしおただし

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西尾にしおただし
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 文政ぶんせい4ねん4がつ15にち1821ねん5月16にち
死没しぼつ 文久ぶんきゅう元年がんねん7がつ26にち1861ねん8がつ31にち
諡号しごう はなけい
戒名かいみょう こうしゅんいんせんほうみちやす
墓所はかしょ 静岡しずおかけん掛川かけがわ西大渕にしおおぶちりゅうねむりてら
官位かんい したがえ式部しきぶしょう輔、隠岐おきもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 遠江とおとうみこく横須賀よこすかはんあるじ
氏族しぞく 西尾にしお後期こうき東条とうじょうよしりょう庶流)
父母ちちはは ちち酒井さかい忠実ちゅうじつははりゅうひめ西尾にしおただしうつりむすめ
養父ようふ西尾にしおただしかた
兄弟きょうだい 三宅みやけかんただし松平まつだいらただしかたちゅう
つま 正室せいしつ土岐ときよりゆきぬのむすめ
忠篤ただあつ本多ほんだ忠恕ただひろ四男よつお)、むすめほり直武なおたけ正室せいしつ)、
そだて松平まつだいら信正のぶまさしつ)、むすめ平松ひらまつあつしつ)、
むすめ加納かのうぼうしつ
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西尾にしお ただし(にしお たださか)は、遠江とおとうみ横須賀よこすかはんだい7だい藩主はんしゅ横須賀よこすかはん西尾にしお10代。

文政ぶんせい4ねん(1821ねん)にまれる。播磨はりま姫路ひめじはんあるじ酒井さかい忠実ちゅうじつ三男さんなんで、酒井さかいただしがくやしなえおとうとにあたるとされている。天保てんぽう13ねん1842ねん)10がつ16にちははりゅうひめ実家じっかである横須賀よこすかはんだい6だい藩主はんしゅ西尾にしおただしかた養子ようしとなる。同年どうねん12がつ22にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよし拝謁はいえつする。同年どうねん12がつ22にちしたがえ式部しきぶしょう輔に叙位じょい任官にんかんする。天保てんぽう14ねん1843ねん)8がつ7にちちゅうかた隠居いんきょにより家督かとくぎ、隠岐おきもり転任てんにんする。

ひろし3ねん1846ねん)6がつ18にち奏者そうしゃばんにんじられる。藩政はんせいにおいてはちゃ樹木じゅもく栽培さいばい尽力じんりょくし、はん財政ざいせい再建さいけん目指めざした。またみずか絵画かいが造詣ぞうけいふかく、はなけいごうした。

文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)7がつ26にち江戸えどそとさくら田屋敷たやしき死去しきょした。享年きょうねん41。あと長男ちょうなん忠篤ただあついだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ