(Translated by https://www.hiragana.jp/)
村山藩 - Wikipedia コンテンツにスキップ

村山むらやまはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

村山むらやまはん(むらやまはん)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき出羽でわこく村山むらやまぐん現在げんざい山形やまがたけん村山むらやま地方ちほうないで1まんせき所領しょりょうゆうしたはん。1682ねん遠江とおとうみ横須賀よこすかはん5まんせき藩主はんしゅであった本多ほんだ利長としながが、失政しっせいなどを理由りゆうとして大幅おおはばげんふううえうつりふうされた。2だい藩主はんしゅ本多ほんだすけかおるが1699ねん転出てんしゅつしたため、存続そんぞく期間きかんは17年間ねんかんであった。藩主はんしゅ定府じょうふであり、陣屋じんや所在しょざい不明ふめいである[1][注釈ちゅうしゃく 1]

歴史れきし

[編集へんしゅう]
村山藩の位置(山形県内)
山形
山形やまがた
楯岡
楯岡たておか
寒河江
寒河江さがえ
漆山
漆山うるしやま
山野辺
山野辺やまのべ
今宿
今宿いまじゅく
島→
しま
関連かんれん地図ちず山形やまがたけん

天和てんわ2ねん1682ねん)2がつ22にち遠江とおとうみこく横須賀よこすかはん5まんせき藩主はんしゅであった本多ほんだ利長としなが(48さい[1])は、13かじょうとがめをけて[1]所領しょりょう没収ぼっしゅうされた[3]。『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』は横須賀よこすかはん改易かいえきについて、領内りょうない失政しっせい[4][5]先年せんねん巡見じゅんけん使[注釈ちゅうしゃく 2]への不適切ふてきせつ対応たいおう[4][5][注釈ちゅうしゃく 3]という理由りゆうかかげる[3][注釈ちゅうしゃく 4]

利長としなが失政しっせいとされる事柄ことがらには、領民りょうみん困窮こんきゅうげられる[1]。これについては、横須賀よこすかはんりょう浅羽あさば地域ちいき現在げんざい静岡しずおかけん袋井ふくろい)をかこむ、全長ぜんちょう14kmにおよぶ浅羽あさばだいかこえつつみ建設けんせつ背景はいけいにある。浅羽あさば地域ちいきではのべたから8ねん(1680ねん)の「のべたから高潮こうちょう」でおおくの犠牲ぎせいしゃたため、利長としなが柳原やなぎはら十内じゅうない奉行ぶぎょうとしてだいかこえつつみ建設けんせつめいじた。防災ぼうさい農政のうせい見地けんちからはたか評価ひょうかもある一方いっぽう建設けんせつのための労役ろうえき徴税ちょうぜい過酷かこくさもつたえられている[9][10]

領地りょうち没収ぼっしゅうされた利長としながであるが、本多ほんだ父祖ふそ忠勤ちゅうきん[注釈ちゅうしゃく 5]にかんがみ[4]あらためて出羽いずはこく村山むらやまぐんないで1まんせきあたえられ[3]大名だいみょうとしての存続そんぞくみとめられた。なお、同日どうじつづけ同族どうぞく[注釈ちゅうしゃく 6]播磨はりま明石あかしはん6まんせき藩主はんしゅ本多ほんだ政利まさとしも、家政かせいがよくないことにくわえ、巡見じゅんけん使への不適切ふてきせつ対応たいおうがあったという理由りゆう領地りょうち没収ぼっしゅうされ、陸奥みちのく大久保おおくぼはん岩瀬いわせはん)1まんせきうつされている[11][注釈ちゅうしゃく 7]

元禄げんろく3ねん(1690ねんごろ成立せいりつした『あくた寇讎』では、本多ほんだ利長としなが村山むらやま藩主はんしゅとして評価ひょうか対象たいしょうとされている。利長としなが学問がくもんはなにかけいさむをもっぱらにするあまり、横須賀よこすかはん時代じだいには領民りょうみんにつらい政治せいじおこなっていたが、村山むらやまはんうつされて以降いこうみんにも哀憐あいれんしんせるようになった、という人物じんぶつひょうがなされている[4]

利長としなが元禄げんろく5ねん1692ねん)12月16にちに58さい死去しきょした[3][5]あと養嗣子ようしし本多ほんだすけかおる[注釈ちゅうしゃく 8]いだ[12][5]じょかおる元禄げんろく12ねん1699ねん)6がつ13にち越後えちごこく糸魚川いといがわはんうつりふうされ[12][5]、これにより村山むらやまはんはいはんとなった[5]。なお、じょかおる糸魚川いといがわから信濃しなのこく飯山いいやまはん移転いてんし、最終さいしゅうてき石高こくだかを3まん5000せきにしている[1]

歴代れきだい藩主はんしゅ

[編集へんしゅう]
本多ほんだ

譜代ふだい。1まんせき。(1682ねん - 1699ねん

  1. 利長としなが
  2. じょかおる

領地りょうち

[編集へんしゅう]

本多ほんだ利長としなが居所きょしょは「村山むらやま」とされているが[13]知行ちぎょう管理かんりする陣屋じんやがどこにかれたかは不明ふめいである[1][注釈ちゅうしゃく 1]村山むらやま藩主はんしゅくにり(参勤交代さんきんこうたい)をおこなっていない[1]。『あくた寇讎』の記載きさいによれば、村山むらやまはんでは知行ちぎょうさと役人やくにんのみを配置はいちし、それ以外いがい藩士はんし江戸えど居住きょじゅうしていたという[注釈ちゅうしゃく 9]

1まんせき知行ちぎょう具体ぐたいてき村山むらやまぐんのどこにあったかについても不明ふめいてんがある[1]元禄げんろく2ねん(1689ねん)に幕府ばくふ代官だいかん松平まつだいら清三郎せいさぶろうが、管轄かんかつ寒河江さがえりょうから5むら達磨寺だるまでら[注釈ちゅうしゃく 10]高屋たかやむら[注釈ちゅうしゃく 11]仁田にったむら[注釈ちゅうしゃく 12]北目きためむら[注釈ちゅうしゃく 13]北山きたやまむら[注釈ちゅうしゃく 14])、長崎ながさきりょうから5むら君田きみたむら[注釈ちゅうしゃく 15]小泉こいずみむら[注釈ちゅうしゃく 16]島村しまむら[注釈ちゅうしゃく 17]皿沼さらぬまむら[注釈ちゅうしゃく 18]柳沢やぎさわむら[注釈ちゅうしゃく 19])、山形やまがたりょうから杉下すぎしたむら[注釈ちゅうしゃく 20]および山形やまがたの、合計ごうけい5735せき本多ほんだわたしたという記録きろくがあり[26][27]、これらのむら現在げんざい寒河江さがえ南部なんぶから中山ちゅうざんまち山辺やまべまちにまたがって存在そんざいしている。このほか、漆山うるしやまりょうから4000せきあまりわたされた[26][27]。また、『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では山野辺やまのべむら[注釈ちゅうしゃく 21]今宿いましゅくむら[注釈ちゅうしゃく 22]についても村山むらやまはんりょうになったと記載きさいする。

なお、山形やまがたはん最上さいじょう元和がんわ8ねん(1622ねん)に改易かいえきされて以降いこう村山むらやまぐん幕府ばくふりょうはた本領ほんりょう大名だいみょうりょうによって細分さいぶんされていき、時代じだいくだるとともに「しょ大名だいみょう石高こくだか調整ちょうせい」となって領主りょうしゅ変更へんこうかえす、領主りょうしゅけん錯綜さくそうした地域ちいきになっていった[30]村山むらやまはんどう時代じだい村山むらやまぐんないはんちょうはんとしては山形やまがたはん上山うえやまはんがあったが、村山むらやまはん存在そんざいした17年間ねんかんに、山形やまがたはん奥平おくだいら堀田ほった越前えちぜん松平まつへい上山かみのやまはん土岐とき金森かなもり藤井ふじい松平まつへいと、いずれも藩主はんしゅまぐるしく交替こうたいした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b はん城下町じょうかまち事典じてん』は「はん所在地しょざいち」を山形やまがたけん村山むらやま[2]とするが、陣屋じんやについての説明せつめいはない。「村山むらやま」は山形やまがた中心ちゅうしんとする一帯いったい広域こういき地名ちめい近世きんせい村山むらやまぐん現代げんだい村山むらやま地方ちほう)で、みなみ上山かみのやまからきた尾花沢おばなざわまでのかなりひろ範囲はんいし、現代げんだい村山むらやまめるのはその北部ほくぶ一角いっかくである。村山むらやま中心ちゅうしんはもともと楯岡たておかむらばれた土地とちで、自治体じちたいめいとして「村山むらやま」をしょうしたのは1954ねん昭和しょうわだい合併がっぺい以後いごである。
  2. ^ のべたから9ねん/天和てんわ元年がんねん(1681ねん)、徳川とくがわ綱吉つなよし将軍しょうぐん就任しゅうにん諸国しょこく巡見じゅんけん使派遣はけん大名だいみょう統治とうち軍備ぐんびについての調査ちょうさおこなわせた[6]巡見じゅんけん使後年こうねんには儀礼ぎれいするが、天和てんわ元年がんねん派遣はけんには、領民りょうみん領主りょうしゅはん役人やくにん悪政あくせい巡見じゅんけん使うった処分しょぶんむすくなど[6]将軍しょうぐん権力けんりょく強化きょうか支配しはい機構きこう粛正しゅくせいする実効じっこうせいゆうしていた[7]越後えちご高田たかだはん藩政はんせい混乱こんらん越後えちご騒動そうどう)はのべたから9ねん(1681ねん)に綱吉つなよし親裁しんさいにより松平まつだいら光長みつなが改易かいえきという結末けつまつむかえるが、領民りょうみんから虐政ぎゃくせいうったえをけた巡見じゅんけん使から提出ていしゅつされた報告ほうこく判断はんだんのもとになっている[6]
  3. ^ 寛政かんせい』の本多ほんだ利長としながこうには「さきに巡見じゅんけん使封地ほうちいたるのときも其はからひむねにたがえひしにより」[3][8]、『徳川とくがわ実紀みき』には「本多ほんだ出雲いずもまもる政利まさとし本多ほんだ越前えちぜん守利もりとしちょうつね領内りょうないおさかたよからず、其上こたび巡見じゅんけん使派遣はけんされしとき、ひがことありし」とある[6]
  4. ^ このほか利長としなが個人こじん不行跡ふぎょうせき問題もんだいされたといい[4]吉原よしはら遊女ゆうじょ身請みうけして横須賀よこすか城内じょうのうちまわせた[1]のべたから8ねん(1680ねん)に将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな死去しきょしたさいにも吉原よしわら居続いつづけをおこなっていたため登城とじょういっした[1]、といったはなしつたわっている[1]。こうしたことから利長としながを、苛斂誅求かれんちゅうきゅうをこととし酒色しゅしょく耽溺たんできした暴君ぼうくんとして描写びょうしゃする文章ぶんしょうもある[2]
  5. ^ 家康いえやすつかえた本多ほんだかんしげる子孫しそんで、かんしげるから利長としながまで4だいにわたって三河みかわ岡崎おかざき藩主はんしゅつとめた。
  6. ^ 本多ほんだ政利まさとし本多ほんだ忠勝ただかつ子孫しそんにあたる。
  7. ^ 本多ほんだ政利まさとしげんふう行状ぎょうじょうあらたまらず、元禄げんろく6ねん(1693ねん)に改易かいえきされた[11]
  8. ^ 利長としながの庶兄・本多ほんだじょひさで、利長としながおいにあたる。
  9. ^ 知行ちぎょう=「国元くにもと」に大名だいみょうの「本来ほんらいの」まいたるしろ陣屋じんや)があり、周辺しゅうへん藩士はんししゅうじゅうする城下町じょうかまち陣屋じんやまち)がある、という一般いっぱんてきな「はん」のイメージにはんし、ごく小規模しょうきぼ譜代ふだいはんなかには、大名だいみょう定府じょうふ知行ちぎょうはいることもなく、知行ちぎょうにはほとんど藩士はんし居住きょじゅうしていないという事例じれいもしばしばられる。『あくた寇讎』の内容ないよう検討けんとうした白峰しらみね論文ろんぶん(2008ねん)では、大和新庄やまとしんじょうはんについて在所ざいしょ知行ちぎょう)には給人きゅうにん居住きょじゅうせずさと役人やくにんのみが居住きょじゅうしており、それ以外いがいはみな江戸詰えどづめであるという記載きさいが『あくた寇讎』にあること、そして同様どうよう記載きさいはんでも散見さんけんされることを本文ほんぶんしる[14]文末ぶんまつ脚注きゃくちゅう(17)で「これと同様どうよう事例じれい」を列挙れっきょするなか村山むらやまはんげる[15]。このほかにげられているのは、下総しもうさ小見川おみがわはん信濃しなの高遠こうえんはん甲斐かい徳美とくみはん安房あわ勝山かちやまはん三河みかわ伊保いほはん上野うえの吉井よしいはん常陸ひたち麻生あそうはん和泉いずみ大鳥おおとりはん在所ざいしょが「和泉いずみうち大鳥おおとり」と表記ひょうきされている柳沢やなぎさわ保明やすあき(のちの吉保よしやす)2まん2030せき)、下野げや足利あしかがはん駿河するが小島こじまはん
  10. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん中山ちゅうざんまち達磨寺だるまじ。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[16]
  11. ^ 現在げんざい寒河江さがえ高屋たかや[17]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では幕府ばくふりょう山形やまがたはんあずかり)であったと記載きさいされているが、村山むらやまはんりょうになったとはしるされてない[17]
  12. ^ 現在げんざい寒河江さがえ日田にった[18]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では幕府ばくふりょうであったと記載きさいされているが、村山むらやまはんりょうになったとはしるされてない[18]
  13. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん山辺やまべまち北垣きたがきどういちぐんない同名どうめい北目きためむら現在げんざい天童てんどう北目きため)があったため、1873ねん明治めいじ6ねん)に「北垣きたがきむら」に改称かいしょう[19])。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[19]
  14. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん山辺やまべまち北山きたやま。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[20]
  15. ^ 君田きみた町村ちょうそん[21]現在げんざい寒河江さがえ西根にしね。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では幕府ばくふりょう山形やまがたはんあずかり)であったと記載きさいされているが、村山むらやまはんりょうになったとはしるされてない[21]
  16. ^ 現在げんざい寒河江さがえさんいずみ地区ちく[22]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では幕府ばくふりょう山形やまがたはんあずかり)であったと記載きさいされているが、村山むらやまはんりょうになったとはしるされてない[22]
  17. ^ 現在げんざい寒河江さがえ市島いちじま。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[23]
  18. ^ 現在げんざい寒河江さがえ皿沼さらぬま付近ふきんか。皿沼さらぬま島村しまむらえだきょうであったという[23]
  19. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん中山ちゅうざんまち柳沢やぎさわ。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[24]
  20. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん山辺やまべまち杉下すぎした。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』ではこのむら村山むらやまはんりょうであったことが記載きさいされている[25]
  21. ^ 現在げんざい東村山ひがしむらやまぐん山辺やまべまち山辺やまべ[28]寒河江さがえ代官だいかんしょ支配しはいであったという[28]
  22. ^ 現在げんざい北村山きたむらやまぐん大石田おおいしだまち今宿いましゅく[29]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 加藤かとう貞仁さだひと (2016ねん3がつ11にち). “~やまがた~藩主はんしゅ墓標ぼひょう/(40)領地りょうち陣屋じんやも「まぼろし村山むらやまはん”. yamacomi. 山形やまがたコミュニティ新聞しんぶんしゃ. 2022ねん12月15にち閲覧えつらん
  2. ^ a b はん城下町じょうかまち事典じてん, p. 84.
  3. ^ a b c d e 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくきゅうじゅういち本多ほんだ」、国民こくみん図書としょばん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいよん輯』p.698
  4. ^ a b c d e 本多ほんだ利長としなが”. ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん. 2022ねん12月25にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f 村山むらやまはん(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d 馬場ばば憲一けんいち 1972, p. 62.
  7. ^ 馬場ばば憲一けんいち 1972, p. 63.
  8. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくきゅうじゅういち本多ほんだ」、国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう写本しゃほん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか 1520かん (163)』95/137コマ
  9. ^ いわ南平野みなみひらの金字塔きんじとう だいしょう 大地だいち改良かいりょう”. みずいしずえ. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 農業のうぎょう農村のうそん整備せいび情報じょうほう総合そうごうセンター. 2022ねん12月25にち閲覧えつらん
  10. ^ 浅羽あさばだいかこえつつみ名残なごり”. みなみどおしゅうとうもんのさと. 静岡しずおかけん中遠農林事務所ちゅうえんのうりんじむしょ. 2022ねん12月25にち閲覧えつらん
  11. ^ a b 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくはちじゅういち本多ほんだ」、国民こくみん図書としょばん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいよん輯』p.636
  12. ^ a b 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくきゅうじゅういち本多ほんだ」、国民こくみん図書としょばん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいよん輯』p.699
  13. ^ 白峰しらみねしゅん 2008, p. 117.
  14. ^ 白峰しらみねしゅん 2008, p. 108.
  15. ^ 白峰しらみねしゅん 2008, p. 111.
  16. ^ 達磨寺だるまじむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  17. ^ a b 高屋たかやむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  18. ^ a b 仁田にったむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  19. ^ a b 北目きためむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  20. ^ 北山きたやまむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  21. ^ a b 君田きみた町村ちょうそん(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  22. ^ a b 小泉こいずみむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  23. ^ a b 島村しまむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  24. ^ 柳沢やぎさわむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  25. ^ 杉下すぎしたむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  26. ^ a b へんねん西村山にしむらやまぐん , 56/95コマ.
  27. ^ a b 東村山ひがしむらやまぐん まき, 33/145コマ.
  28. ^ a b 山野辺やまのべむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  29. ^ 今宿いましゅくむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  30. ^ 村山むらやまぐん(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]