村山 藩
歴史
[歴代 藩主
[本多 家
領地
[1
なお、
脚注
[注釈
[- ^ a b 『
藩 と城下町 の事典 』は「藩 の所在地 」を山形 県 村山 市 [2]とするが、陣屋 についての説明 はない。「村山 」は山形 市 を中心 とする一帯 を指 す広域 地名 (近世 の村山 郡 、現代 の村山 地方 )で、南 は上山 市 から北 は尾花沢 市 までのかなり広 い範囲 を指 し、現代 の村山 市 が占 めるのはその北部 の一角 である。村山 市 の中心 部 はもともと楯岡 村 と呼 ばれた土地 で、自治体 名 として「村山 」を称 したのは1954年 (昭和 の大 合併 )以後 である。 - ^
延 宝 9年 /天和 元年 (1681年 )、徳川 綱吉 は将軍 就任 後 に諸国 に巡見 使 を派遣 、大名 の統治 や軍備 についての調査 を行 わせた[6]。巡見 使 は後年 には儀礼 化 するが、天和 元年 の派遣 時 には、領民 が領主 や藩 役人 の悪政 を巡見 使 に訴 え出 て処分 に結 び付 くなど[6]、将軍 権力 を強化 し支配 機構 を粛正 する実効 性 を有 していた[7]。越後 高田 藩 の藩政 の混乱 (越後 騒動 )は延 宝 9年 (1681年 )に綱吉 の親裁 により松平 光長 の改易 という結末 を迎 えるが、領民 から虐政 の訴 えを受 けた巡見 使 から提出 された報告 が判断 のもとになっている[6]。 - ^ 『
寛政 譜 』の本多 利長 の項 には「さきに巡見 使 封地 に至 るのときも其はからひ御 むねに違 ひしにより」[3][8]、『徳川 実紀 』には「本多 出雲 守 政利 、本多 越前 守利 長 、常 に領内 の治 め方 よからず、其上こたび巡見 使 派遣 されし時 、ひが事 ありし」とある[6]。 - ^ このほか
利長 個人 の不行跡 も問題 視 されたといい[4]、吉原 の遊女 を身請 けして横須賀 城内 に住 まわせた[1]、延 宝 8年 (1680年 )に将軍 徳川 家綱 が死去 した際 にも吉原 で居続 けを行 っていたため登城 の機 を逸 した[1]、といった話 が伝 わっている[1]。こうしたことから利長 を、苛斂誅求 をこととし酒色 に耽溺 した暴君 として描写 する文章 もある[2]。 - ^
家康 に仕 えた本多 康 重 の子孫 で、康 重 から利長 まで4代 にわたって三河 岡崎 藩主 を務 めた。 - ^
本多 政利 は本多 忠勝 の子孫 にあたる。 - ^
本多 政利 は減 封 後 も行状 が改 まらず、元禄 6年 (1693年 )に改易 された[11]。 - ^
利長 の庶兄・本多 助 久 の子 で、利長 の甥 にあたる。 - ^
知行 地 =「国元 」に大名 の「本来 の」住 まいたる城 (陣屋 )があり、周辺 に藩士 が集 住 する城下町 (陣屋 町 )がある、という一般 的 な「藩 」のイメージに反 し、極 小規模 の譜代 藩 の中 には、大名 が定府 で知行 地 に入 ることもなく、知行 地 にはほとんど藩士 が居住 していないという事例 もしばしば見 られる。『土 芥 寇讎記 』の内容 を検討 した白峰 の論文 (2008年 )では、大和新庄 藩 について在所 (知行 地 )には給人 が居住 せず郷 役人 のみが居住 しており、それ以外 はみな江戸詰 めであるという記載 が『土 芥 寇讎記 』にあること、そして同様 の記載 が他 藩 でも散見 されることを本文 で記 し[14]、文末 脚注 (17)で「これと同様 の事例 」を列挙 する中 で村山 藩 を挙 げる[15]。このほかに挙 げられているのは、下総 小見川 藩 、信濃 高遠 藩 、甲斐 徳美 藩 、安房 勝山 藩 、三河 伊保 藩 、上野 吉井 藩 、常陸 麻生 藩 、和泉 大鳥 藩 (在所 が「和泉 之 内 大鳥 」と表記 されている柳沢 保明 (のちの吉保 )2万 2030石 )、下野 足利 藩 、駿河 小島 藩 。 - ^
現在 の東村山 郡 中山 町 達磨寺 。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[16]。 - ^
現在 の寒河江 市 高屋 か[17]。『角川 日本 地名 大 辞典 』では幕府 領 (山形 藩 預 かり)であったと記載 されているが、村山 藩 領 になったとは記 されてない[17]。 - ^
現在 の寒河江 市 日田 か[18]。『角川 日本 地名 大 辞典 』では幕府 領 であったと記載 されているが、村山 藩 領 になったとは記 されてない[18]。 - ^
現在 の東村山 郡 山辺 町 北垣 (同 一 郡 内 に同名 の北目 村 (現在 の天童 市 北目 )があったため、1873年 (明治 6年 )に「北垣 村 」に改称 [19])。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[19]。 - ^
現在 の東村山 郡 山辺 町 北山 。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[20]。 - ^
君田 町村 か[21]。現在 の寒河江 市 西根 。『角川 日本 地名 大 辞典 』では幕府 領 (山形 藩 預 かり)であったと記載 されているが、村山 藩 領 になったとは記 されてない[21]。 - ^
現在 の寒河江 市 三 泉 地区 か[22]。『角川 日本 地名 大 辞典 』では幕府 領 (山形 藩 預 かり)であったと記載 されているが、村山 藩 領 になったとは記 されてない[22]。 - ^
現在 の寒河江 市島 。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[23]。 - ^
現在 の寒河江 市 皿沼 付近 か。皿沼 は島村 の枝 郷 であったという[23]。 - ^
現在 の東村山 郡 中山 町 柳沢 。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[24]。 - ^
現在 の東村山 郡 山辺 町 杉下 。『角川 日本 地名 大 辞典 』ではこの村 が村山 藩 領 であったことが記載 されている[25]。 - ^
現在 の東村山 郡 山辺 町 山辺 [28]。寒河江 代官 所 支配 であったという[28]。 - ^
現在 の北村山 郡 大石田 町 今宿 [29]。
出典
[- ^ a b c d e f g h i j k
加藤 貞仁 (2016年 3月 11日 ). “~やまがた~藩主 の墓標 /(40)領地 も陣屋 も「幻 の村山 藩 」”. yamacomi.山形 コミュニティ新聞 社 . 2022年 12月15日 閲覧 。 - ^ a b 『
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仁田 村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ a b “
北目 村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ “
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君田 町村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ a b “
小泉 村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ a b “
島村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ “
柳沢 村 (近世 )”.角川 日本 地名 大 辞典 . 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ “
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参考 文献
[二木 謙一 監修 、工藤 寛 正 編 『藩 と城下町 の事典 』東京 堂 出版 、2004年 。山形 県 西村山 郡 『編 年 西村山 郡 史 地 』山形 県 西村山 郡 、1915年 。山形 県 東村山 郡 『東村山 郡 史 巻 之 二 』山形 県 東村山 郡 、1910年 。白峰 旬 「『土 芥 寇讎記 』における「居城 」・「居所 」表記 に関 する一 考察 」『別府大学 大学院 紀要 』第 10号 、2008年 。馬場 憲一 「諸国 巡見 使 制度 について :幕府 政治 との関連 を中心 に」『法政 史学 』第 24号 、1972年 。