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大久保おおくぼはん

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大久保おおくぼはん(おおくぼはん)は、陸奥みちのくこく岩瀬いわせぐん大久保おおくぼむら現在げんざい福島ふくしまけん須賀川すかがわ大久保おおくぼ)に陣屋じんやき、江戸えど時代じだい前期ぜんき短期間たんきかん存在そんざいしたはん[1][2]岩瀬いわせはん(いわせはん)ともばれる[3][2][注釈ちゅうしゃく 1]。1682ねん播磨はりま明石あかしはん6まんせき藩主はんしゅであった本多ほんだ政利まさとし失政しっせいなどをとがめられ、大幅おおはばげんふうけて1まんせきうつされたが、行状ぎょうじょうあらたまらなかったために1693ねん改易かいえきされた。

歴史れきし

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大久保藩の位置(福島県内)
福島
福島ふくしま
白河
白河しらかわ
須賀川
須賀川すかがわ
長沼
長沼ながぬま
大久保 ↓
大久保おおくぼ
関連かんれん地図ちず福島ふくしまけん

前史ぜんしげんてんふうまでの本多ほんだ政利まさとし

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本多ほんだ政利まさとしは、「徳川とくがわ四天王してんのう」の一人ひとりである本多ほんだ忠勝ただかつ曾孫そうそんにあたる人物じんぶつであり、忠勝ただかつけい本多ほんだ家督かとくいだ本多ほんだ政勝まさかつである。譜代ふだい名家めいか出身しゅっしんであり、正室せいしつには水戸みとはんあるじ徳川とくがわ頼房よりふさむすめむかえている[4]

ただし政利まさとし大名だいみょうとなるまでに、本多ほんだ複雑ふくざつ相続そうぞく事情じじょうゆうした。本多ほんだ忠勝ただかついえ長男ちょうなん忠政ただまさからその政朝まさともがれた。政朝まさとも死去しきょしたさい、その長男ちょうなん本多ほんだ政長まさなが幼少ようしょうであったため、遺言ゆいごんによって従弟じゅうてい本多ほんだ政勝まさかつ忠勝ただかつ二男じなんちゅうあさ)が本家ほんけぐこととなった[6]政勝まさかつ大和やまと郡山こおりやまはん15まんせき藩主はんしゅとなった[6]寛文ひろふみ11ねん(1671ねん)に政勝まさかつぼっすると、政勝まさかつ養子ようしむかえられていた政長まさながと、政勝まさかつ実子じっしである政利まさとしとのあいだ相続そうぞくをめぐる騒動そうどう勃発ぼっぱつし、幕府ばくふ裁定さいていによって政長まさながに9まんせき政利まさとしに6まんせきあたえられることとなった(きゅうろく騒動そうどう[7][8]

のべたから7ねん(1679ねん)、本多ほんだ政利まさとし播磨はりまこく明石あかしはんに6まんせきうつされた[4][9][10]

たてはんからはいはんまで

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天和てんわ2ねん1682ねん)2がつ22にち明石あかし藩主はんしゅ本多ほんだ政利まさとししろ没収ぼっしゅううえあらためて陸奥みちのくこく岩瀬いわせぐんないで1まんせきあたえられた[4]。この処分しょぶんについて『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』は、「家政かせいよろしからず」というてん先年せんねん巡見じゅんけん使[注釈ちゅうしゃく 2]への不適切ふてきせつ対応たいおう[注釈ちゅうしゃく 3]という理由りゆうかかげる[4]。なお同日どうじつづけ遠江とおとうみこく横須賀よこすかはん(5まんせき)の藩主はんしゅ本多ほんだ利長としなが[注釈ちゅうしゃく 4]失政しっせいなどを理由りゆうとして、しろ没収ぼっしゅうのうえ出羽でわこく村山むらやまはん1まんせきうつ処分しょぶんおこなわれている。

政利まさとしあたえられた領地りょうちは、「長沼ながぬまりょう」とばれる幕府ばくふりょう[注釈ちゅうしゃく 5]から分割ぶんかつされた11かそんであり[15]大久保おおくぼむら陣屋じんやかれた[16]政利まさとし大久保おおくぼ藩主はんしゅとして領地りょうちにははいったことはなく[17]江戸えど藩邸はんていらしていた[17]

大久保おおくぼはん藩政はんせいかんする史料しりょうはほとんどのこされていない[17]大桑原おおかんばらむら現在げんざい須賀川すかがわ大桑原おおかんばら)の年貢ねんぐ割符わりふじょうが、天和てんわ2ねん(1682ねんぶん貞享ていきょう元年がんねん(1684ねんぶんの2てんつたわっているが、長沼ながぬまりょう時代じだいくらべるとべいかね賦課ふかばいとなり、災害さいがい以外いがいのぞだか控除こうじょ)がなく、新規しんき課税かぜいおこなうなどの内容ないようとなっている[17]。6まんせきから1まんせきへの大幅おおはばげん処分しょぶんけたはんとして、収入しゅうにゅう確保かくほはかった措置そちとはなされるものの、領民りょうみんおも負担ふたんした「悪政あくせい」という評価ひょうかけられない[17]

元禄げんろく6ねん1693ねん)6がつ13にち改易かいえき処分しょぶん[4]政利まさとし庄内しょうないはんあるじ酒井さかい忠真ただざねあづけられた[4]改易かいえき理由りゆうは、行状ぎょうじょうあらためず、さらにつみのない女性じょせい奉公ほうこうじん侍女じじょないしは下女げじょ)を殺害さつがいする事件じけんこしたためとされる[注釈ちゅうしゃく 6]

こう

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本多ほんだ政利まさとし庄内しょうないでも問題もんだいこし、元禄げんろく15ねん(1702ねん)に三河みかわ岡崎おかざきはんあるじ水野みずの忠之ただゆきあずかりにえられた[4]宝永ほうえい4ねん(1707ねん)、政利まさとし岡崎おかざきにおいて67さいぼっした。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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本多ほんだ

1まんせき譜代ふだい

  1. 政利まさとし

領地りょうち

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領地りょうち岩瀬いわせぐん以下いか11かそん[3]

  • 大久保おおくぼ北横田きたよこた深渡戸ふかあどはしきょうきちへい新田しんでんふくむ)、畑田はただ矢沢やざわ袋田ふくろだ仁井田にいだ滑川なめかわ山寺やまでら越久おつきゅう大桑原おおかんばら[15][17]

陣屋じんや大久保おおくぼむら宿やどかれたとされる[20]。ただし、陣屋じんや周辺しゅうへん陣屋じんやまちきずかれた様子ようすられない[20]

大久保おおくぼはんはいはんにより、その所領しょりょうおさむおおやけされた。その元禄げんろく13ねん(1700ねん)に松平まつだいらよりゆきたかし徳川とくがわ頼房よりふさなん)が陸奥みちのくこく岩瀬いわせぐんないおよび常陸ひたち国内こくないで2まんせき領地りょうちあたえられると、長沼ながぬま陣屋じんやいた(長沼ながぬまはん常陸ひたち府中ふちゅうはん参照さんしょう[21]大久保おおくぼむら[1]大桑原おおかんばらむら[22]などは長沼ながぬまはんりょうとなっている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』では領地りょうちが「陸奥みちのくこく岩瀬いわせぐんのうち」とあるものの、居所きょしょ表示ひょうじはない[4]。『あくた寇讎』では居所きょしょが「奥州おうしゅう岩瀬いわせ」と表記ひょうきされている[5]
  2. ^ のべたから9ねん/天和てんわ元年がんねん(1681ねん)、徳川とくがわ綱吉つなよし将軍しょうぐん就任しゅうにん諸国しょこく巡見じゅんけん使派遣はけん大名だいみょう統治とうち軍備ぐんびについての調査ちょうさおこなわせた[11]巡見じゅんけん使後年こうねんには儀礼ぎれいするが、天和てんわ元年がんねん派遣はけんには、領民りょうみん領主りょうしゅはん役人やくにん悪政あくせい巡見じゅんけん使うった処分しょぶんむすくなど[11]将軍しょうぐん権力けんりょく強化きょうか支配しはい機構きこう粛正しゅくせいする実効じっこうせいゆうしていた[12]越後えちご高田たかだはん藩政はんせい混乱こんらん越後えちご騒動そうどう)はのべたから9ねん(1681ねん)に綱吉つなよし親裁しんさいにより松平まつだいら光長みつなが改易かいえきという結末けつまつむかえるが、領民りょうみんから虐政ぎゃくせいうったえをけた巡見じゅんけん使から提出ていしゅつされた報告ほうこく判断はんだんのもとになっている[11]
  3. ^ 寛政かんせい』の本多ほんだ政利まさとしこうには「巡見じゅんけん使つかい封地ほうちにいたるのとき、其はからひむねたがえひしにより」とある[4]
  4. ^ 同族どうぞくではあるが、本多ほんだひろこうかんしげる子孫しそんであり、男系だんけいではかなりのへだたりがある。
  5. ^ 長沼ながぬまりょう」は慶安けいあん2ねん(1649ねん)より幕府ばくふりょうとなっていた地域ちいき[13][14]、31かそん2まんせきあまりおさめる代官だいかんしょ岩瀬いわせぐん長沼ながぬまむら須賀川すかがわ長沼ながぬま)にかれていた[13]
  6. ^ 寛政かんせい』によれば「さき気色けしきをかうぶるのしょ、いまにいたりて其行あとをあらためず。させる罪科つみとがもなき侍女じじょ殺害さつがいし、不仁ふじんなる所行しょぎょうだい聴にたっし、りょう没収ぼっしゅうせられ」[4]。『徳川とくがわ実紀みき』によれば「平常へいじょう言行げんこう不良ふりょうなれば、さきにもいましめられしに、こたびざいなき婢をころしたるにより、所領しょりょういちまんせきおさむおおやけせられ[18]」とある。また、政利まさとし女色じょしょくにふけった[3]という風説ふうせつどう時代じだいからあり[19]、『明良あきよしひろしはん』では明石あかしはん改易かいえき原因げんいんとして、城下じょうか遊女ゆうじょててびたったことをしるしている[19]。『あくた寇讎編者へんしゃ色欲しきよく関係かんけい風説ふうせつには懐疑かいぎてきであるが、そうした風説ふうせつまね平素へいそ不徳ふとく批判ひはんしている[19]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 大久保おおくぼむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ a b はん城下町じょうかまち事典じてん, p. 60.
  3. ^ a b c 岩瀬いわせはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) (コトバンク所収しょしゅう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくはちじゅういち本多ほんだ」、国民こくみん図書としょばん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいよん輯』p.636
  5. ^ 白峰しらみねしゅん 2008, p. 114.
  6. ^ a b 本多ほんだ政勝まさかつ”. デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus(コトバンク所収しょしゅう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  7. ^ 郡山こおりやまはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) (コトバンク所収しょしゅう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  8. ^ はん城下町じょうかまち事典じてん, p. 429.
  9. ^ 本多ほんだ政利まさとし”. デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus(コトバンク所収しょしゅう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  10. ^ 明石あかしはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) (コトバンク所収しょしゅう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c 馬場ばば憲一けんいち 1972, p. 62.
  12. ^ 馬場ばば憲一けんいち 1972, p. 63.
  13. ^ a b 長沼ながぬまむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  14. ^ 長沼ながぬままちぜい要覧ようらん -021/044page”. 長沼ながぬままちぜい要覧ようらん. 長沼ながぬままち教育きょういく委員いいんかい. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  15. ^ a b ふるさと昔話むかしばなし - 038/056page”. ふるさと昔話むかしばなし. 岩瀬いわせむら教育きょういく委員いいんかい. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  16. ^ 大久保おおくぼはん”. 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  17. ^ a b c d e f ふるさと昔話むかしばなし - 039/056page”. ふるさと昔話むかしばなし. 岩瀬いわせむら教育きょういく委員いいんかい. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  18. ^ 徳川とくがわ実紀みきまきなな
  19. ^ a b c 小田おだしんひろし 2004, p. 16.
  20. ^ a b たいらはく 2009, p. 71.
  21. ^ 長沼ながぬまはん”. 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  22. ^ 大桑原おおかんばらむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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