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吉良氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

よしりょう

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よしりょう
家紋
本姓ほんせい 清和せいわはじめ足利あしかが庶流
いえ 吉良きら長氏ながうじ[1]三河みかわよしりょう
吉良きら義継よしつぎ奥州おうしゅうよしりょう
種別しゅべつ 武家ぶけ
士族しぞく
出身しゅっしん 三河みかわこく幡豆はずぐん吉良きらそう[1]
おも根拠地こんきょち 三河みかわこく
武蔵むさしこく
著名ちょめい人物じんぶつ 吉良きら貞義さだよし
吉良きら頼康よりやす
吉良きら義央よしなか
支流しりゅう分家ぶんけ 今川いまがわ(武家ぶけ,士族しぞく)
奥州おうしゅうよしりょう(武家ぶけ,士族しぞく)
荒川あらかわ(武家ぶけ)
西尾にしお(武家ぶけ,子爵ししゃく)
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

よしりょう(きらし)は、武家ぶけ士族しぞくだった日本にっぽん氏族しぞく足利あしかがよし長子ちょうし長氏ながうじとし、所領しょりょう三河みかわこく幡豆はずぐん吉良きらそうから吉良きら名乗なのった。室町むろまち時代ときよには足利あしかが一族いちぞくちゅうでも名門めいもん地位ちいめて幕府ばくふ要職ようしょく歴任れきにん[2]三河みかわよしりょう奥州おうしゅう武蔵むさしよしりょうかれ、三河みかわ吉良きら西条さいじょう東条とうじょう両家りょうけかれた。東条とうじょう三河みかわよしりょう奥州おうしゅう吉良きら蒔田まきた)は徳川とくがわつかえて江戸えど時代じだい高家こうかとなった[2]前者ぜんしゃ忠臣蔵ちゅうしんぐら吉良きら義央よしなか吉良上野介きらこうずけのすけ)で著名ちょめい事件じけん三河そうご吉良きら本家ほんけ改易かいえきになったが、その分家ぶんけ奥州おうしゅう吉良きら明治維新めいじいしんまでのこり、維新いしん士族しぞくとなった[3]

概要がいよう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ清和せいわはじめ足利あしかが当主とうしゅ足利あしかがよし長子ちょうし長氏ながうじ地頭じとうしょくつとめる三河みかわこく吉良きらそう名字みょうじとしたのにはじまる[2]長氏ながうじおとうと義継よしつぎからは奥州おうしゅうよしりょう(のちに武蔵むさしよしりょう)がる。また三河みかわよしりょう南北なんぼくあさ時代じだい西条さいじょうよしりょう東条とうじょうよしりょう分裂ぶんれつした。

長氏ながうじまごにあたる吉良きら貞義さだよし足利尊氏あしかがたかうじによる鎌倉かまくら幕府ばくふろく探題たんだい討伐とうばつたすけ、貞義さだよし満義みつよし以来いらい室町むろまち幕府ばくふ引付ひきつけあたまじん世襲せしゅうした[4]三河みかわよしりょう全国ぜんこく数多かずおお存在そんざいした足利あしかが一門いちもん諸氏しょしなかでも家格かかくたかく、室町むろまち幕府ばくふにおいては足利あしかが将軍家しょうぐんけ待遇たいぐうける足利あしかが御三家ごさんけ足利あしかが一家いっかともいう、渋川しぶかわ石橋いしばし)の筆頭ひっとう位置付いちづけられた。「御所ごせ将軍しょうぐん)がえれば吉良きらぎ、吉良きらえれば今川いまがわぐ」とぞくわれ、おなじく足利あしかが一門いちもんであるさん管領かんりょういえ斯波しば細川ほそかわ畠山はたけやま)より家格かかく格式かくしき上位じょういであった[注釈ちゅうしゃく 1]。もっとも、それゆえ幕政ばくせいへの関与かんよ守護しゅご大名だいみょうとして世襲せしゅうぶんこく形成けいせいするめん抑制よくせいされた。

戦国せんごく時代じだいには三河みかわ武蔵むさしりょう系統けいとうとも本領ほんりょうってわずかな勢力せいりょく保持ほじつづけた。西条さいじょう三河みかわ吉良きら戦国せんごく時代じだい後期こうき三河みかわ一向いっこう一揆いっき参加さんかして滅亡めつぼうしたが、東条とうじょう三河みかわよしりょう奥州おうしゅう吉良きら蒔田まきた)は徳川とくがわつかえて江戸えど時代じだい家名かめいつないだ。三河みかわよしりょうは4200せき蒔田まきたは1420せきりょうして江戸えど幕府ばくふ高家こうかとなったが、前者ぜんしゃ当主とうしゅ吉良きら義央よしなか吉良上野介きらこうずけのすけ)がかかわった赤穂あこう事件じけん忠臣蔵ちゅうしんぐら)のために改易かいえきとなった。こののち蒔田まきた吉良きらせい復姓ふくせいし、さらにのちには三河みかわよしりょう分家ぶんけ旗本はたもとだった東条とうじょう(500せき)も吉良きらせい復姓ふくせいし、この両家りょうけ明治維新めいじいしんまでつづき、維新いしん両家りょうけとも士族しぞく後者こうしゃ大正たいしょう元年がんねん吉良きら義道よしみち死去しきょしたのちはどうなったかは不明ふめいである[6]

以上いじょう足利あしかが一門いちもんよしりょうとはべつに、清和せいわはじめためよしりゅうなどの土佐とさよしりょうもある(後述こうじゅつ)。

三河みかわよしりょう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ足利あしかがよし三河みかわこく幡豆はずぐん吉良きらそうげん愛知あいちけん西尾にしお吉良きらまち)の地頭じとうしょく、これを庶長子ちょうし長氏ながうじゆずったことにはじまる[1]当時とうじ吉良きらそう矢作川やはぎかわ東西とうざいひろがっており、かわ東西とうざいをそれぞれ「東条とうじょう」、「西条さいじょう」と区分くぶんしてんだ[1]長氏ながうじ西条さいじょう西尾にしおじょう本拠ほんきょとし、おとうと義継よしつぎ東条とうじょうしろげん西尾にしお吉良きらまち駮馬まだらめ〈まだらめ〉城山しろやま)を本拠ほんきょとした。義継よしつぎ系統けいとう東条とうじょうよしりょう区別くべつして前期ぜんき東条とうじょうよしりょうばれるが、のち陸奥みちのくこくうつ奥州おうしゅうよしりょうとなる。なお、長氏ながうじ幡豆はずぐん今川いまがわそう隠居いんきょとしたが、その次男じなんくにがこれを継承けいしょうして今川いまがわとなった。

承久じょうきゅうらん以降いこう足利あしかが守護しゅごとなった三河みかわこくおおくの所領しょりょう数多すうた分家ぶんけまれ、長氏ながうじはそのそう指揮しき監督かんとくけん宗家そうけからゆだねられる立場たちばにあった。長氏ながうじみつる霜月しもづき騒動そうどう安達あだち泰盛やすもりくみしたため北条ほうじょうから討伐とうばつけて戦死せんしし、その貞義さだよしは、元弘もとひろ3ねん1333ねん)に宗家そうけ足利尊氏あしかがたかうじ後醍醐天皇ごだいごてんのうほう討伐とうばつのために西上にしがみする途中とちゅう三河みかわこく逗留とうりゅうしたさい、「鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうのためにがるべきである」と進言しんげんしたとされ、これによってこうろく探題たんだい攻撃こうげきったという逸話いつわがあるが、史実しじつとはされていない。

南北なんぼくあさ室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい貞義さだよし満義みつよし嫡男ちゃくなん満貞みつさだとともにかんおう擾乱じょうらん足利あしかが直義ただよしぞくして各地かくち転戦てんせんし、一時いちじてき南朝なんちょうにも帰順きじゅんしたのち最終さいしゅうてき室町むろまち幕府ばくふった。しかし、そのあいだ前期ぜんき東条とうじょうよしりょう陸奥みちのくこくうつったのち吉良きらそう東条とうじょう被官ひかんそう北朝ほくちょうたかしとして満義みつよし幼少ようしょうよんなん尊義たかよし義貴よしたか擁立ようりつ別家べっけ東条とうじょうよしりょう)をてたため、以後いご西条さいじょう勢力せいりょく限定げんていされた嫡流ちゃくりゅう西条さいじょうよしりょう)とは、たがいに正統せいとうせい主張しゅちょうしてあらそったが、のち和睦わぼくしたという。西条さいじょうよしりょう資料しりょうじょうよしりょう殿どの」としるされるのにたいし、東条とうじょうよしりょうは「東条とうじょう殿どの」とばれる[7]

初代しょだいちょう隠居いんきょしょとしてきずかれたかんは「丸山まるやま御所ごしょ」としょうされたが、室町むろまち時代じだい西条さいじょうよしりょう当主とうしゅ京都きょうとにあって足利あしかが一門いちもんなかでも渋川しぶかわ石橋いしばし両家りょうけとともに足利あしかが御三家ごさんけとして別格べっかく格式かくしきゆうした。評定ひょうじょうしゅ代々だいだいにんじられたいえなかでもよしりょうしき評定ひょうじょうしゅとして出身しゅっしん出世しゅっせ評定ひょうじょうしゅよりもおもんじられたが、いっぽうで世襲せしゅう守護しゅご領国りょうごく形成けいせいする方向ほうこうへの発展はってんはなかった。

東西とうざいりょうよしりょう南北なんぼくあさ時代じだい以来いらいおよそ1世紀せいきあいだこうそうひろげ、応仁おうにんらんでも西条さいじょう吉良きらよししんひがしぐん東条とうじょう吉良きらよしふじ西にしぐんにそれぞれぞくしてたたかったという。ただ東西とうざい両家りょうけながらく対立たいりつつづけたというのは、天文てんもん22ねん(1553ねん)に成立せいりつした『今川いまがわ』にもとづくはなしぎず、裏付うらづけとなる資料しりょう存在そんざいしないと指摘してきされている[8]よしりょう遠江とおとうみこくにも浜松はままつそうりょうし、また酒匂さこそうかかかわそうを請所としていたため、同国どうこく守護しゅご斯波しば協調きょうちょう関係かんけいたもつことでところしょく維持いじしてきたが、応仁おうにんらん拡大かくだい長期ちょうきするなかひがしぐん駿河するが守護しゅご今川いまがわ義忠よしただ西にしぐん斯波しばよしれん征討せいとう幕府ばくふめいじられ、酒匂さこかかかわそうあたえられたことを遠江とおのえへの侵攻しんこう開始かいしする。酒匂さこかかかわそう代官だいかんであるきょうみ斯波しば家臣かしん狩野かの味方みかたして今川いまがわたたかったが、浜松はままつそう代官だいかんめし尾長おながれん今川いまがわつうじて今川いまがわ義忠よしただにしたときには運命うんめいともにしており[9]遠江とおとうみよしりょう家臣かしんおや斯波しばおや今川いまがわ分裂ぶんれつした。今川いまがわ遠江とおとうみ侵攻しんこう義忠よしただ戦死せんしによって中断ちゅうだんし、おなひがしぐん斯波しば義寛よしひろ守護しゅご任命にんめいされたが、ともかく斯波しば支配しはい回復かいふくしたことで、よしりょう浜松はままつそう代官だいかんおや今川いまがわ飯尾いいおからおや斯波しば大河内おおこうち交替こうたいさせた[10]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

えいただし5ねん(1508ねん)、今川いまがわ義忠よしただおやふたた遠江とおのえ侵攻しんこうして同国どうこく守護しゅごしょく獲得かくとくすると、よしりょう浜松はままつそうまもるためにふたた代官だいかんおや今川いまがわ飯尾いいお交替こうたいさせた。おや斯波しば大河内おおこうち今川いまがわへの抵抗ていこうつづけ、飯尾いいお本拠ほんきょ引間ひきましろうば遠江とおとうみ復帰ふっきはか斯波しばよしたちむかれたことから、今川いまがわおやえいただし14ねん(1517ねん)に引間ひきまじょう奪還だっかんして大河内おおこうち巨海こみらをほろぼした。このあいだよしりょう大河内おおこうちおさえることはせず、といって飯尾いいお積極せっきょくてき支援しえんする姿勢しせいしめさず、今川いまがわ斯波しば両氏りょうしこうそうあいだ遠江とおとうみ所領しょりょう支配しはい確保かくほするため柔軟じゅうなん対応たいおうしていたとられる。しかし、斯波しばよしたちらえられて本国ほんごく尾張おわりこく送還そうかんされ、浜松はままつそう代官だいかん飯尾いいおけんれん今川いまがわぞくすることとなった。

西条さいじょう吉良きら義信よしのぶあかりおう政変せいへん足利あしかが将軍家しょうぐんけ家督かとくあらそいで足利あしかがよしいん義稙よしたねぞくし、えいただし5ねん義稙よしたね将軍しょうぐん復帰ふっき功績こうせきがあったとして三河みかわ守護しゅごにんじられたとするせつがある[11][12]が、よしりょう在京ざいきょう奉公ぼうこう義稙よしたね政権せいけん弱体じゃくたいすすむにつれて次第しだい確認かくにんされなくなっていく。おな時期じきよしりょう今川いまがわ斯波しばこうそう板挟いたばさみとなり、ついには遠江とおとうみ今川いまがわぶんこくとなった結果けっか西条さいじょう吉良きら義尭よしたかのこされた所領しょりょうのある三河そうごしたこくして現地げんち支配しはい専念せんねんする方針ほうしん転換てんかんした[13]。なお、今川いまがわ系譜けいふから今川いまがわおや長女ちょうじょ義尭よしたか正室せいしつであったことが判明はんめいしている[14][15]よしりょう圧倒あっとうする勢力せいりょく成長せいちょうしたとはいえ、下剋上げこくじょうとの批判ひはん領国りょうごく支配しはい安定あんていはかるためにも、今川いまがわとしては本家ほんけであるよしりょうとの良好りょうこう関係かんけい維持いじする必要ひつようがあったとみられる[14]

のこ本領ほんりょう三河みかわにおいては、東条とうじょうよしりょうからへんいみなける立場たちばだったとされる[注釈ちゅうしゃく 2]あんさち松平まつだいら松平まつだいら清康きよやす徳川とくがわ家康いえやす祖父そふ)が台頭たいとうしてきたが、天文てんもん4ねん1535ねん)12月に清康きよやすが斃れると、今度こんど尾張おわりこく織田おだ信秀のぶひで勢力せいりょく西にしさんかわおよびはじめ、小林こばやし輝久てるひさによれば、西条さいじょう吉良きらよしきょう天文てんもん9ねん(1540ねん)に信秀のぶひで侵攻しんこうけて戦死せんしした可能かのうせいがあるという[18]

とおるろく天文てんもん初年しょねんのころ、東条とうじょうよしりょうではもちひろ西条さいじょう吉良きら義尭よしたかやすきょうおとうと)を養嗣子ようししむかえ、東西とうざいりょうよしりょう近親きんしん関係かんけい再生さいせいしていた。しかし、東条とうじょう当主とうしゅとなったやす今川いまがわへの対抗たいこうはかり、三河みかわ支配しはい目論もくろ織田おだ加担かたんする。やす義尭よしたか側室そくしつられ正室せいしつ今川いまがわ)のいていなかったようだが、養家ようか東条とうじょうよしりょうだけでなく実家じっか西条さいじょう吉良きら家督かとくをものぞんで西条さいじょう重臣じゅうしんあらそった形跡けいせきがあることから、おや今川いまがわ西条さいじょう重臣じゅうしん対抗たいこうするために織田おだむすんだ可能かのうせい指摘してきされている[19]西条さいじょうよしりょう義昭よしあきやすおとうと)があといだが、りょうよしりょう近親きんしん関係かんけいとなってもなおこのように分裂ぶんれつふくみの状況じょうきょうにあった。やす天文てんもん18ねん1549ねん)に今川いまがわ義元よしもとやぶれてらえられ駿河するが抑留よくりゅうされることとなり、西条さいじょう吉良きら義昭よしあき東条とうじょうあわせてぐよう今川いまがわめいじられた。こうして今川いまがわ影響えいきょう統一とういつされたよしりょうは、今川いまがわ隷属れいぞくする立場たちばあまんじた。ただし、小林こばやし輝久てるひさ彦は、天文てんもん23ねん(1554ねん)にやすがいったん今川いまがわゆるされてりょうよしりょういだものの、弘治こうじ元年がんねん(1555ねん)に再度さいど叛旗はんきひるがえした結果けっか義昭よしあき継承けいしょうする地位ちいったと[20][注釈ちゅうしゃく 3]

当時とうじ今川いまがわにとってよしりょう存在そんざいは、家格かかく秩序ちつじょうえからなやみのたねだったようである。今川いまがわ義元よしもと重臣じゅうしんふとしはらゆきとき天文てんもん18ねん(1549ねん)9がつ5にちづけ書状しょじょうよしりょう当主とうしゅを「屋形やかたさま」とんでいるうえ宛先あてさき当主とうしゅ本人ほんにんではなく「西条さいじょうしょろう」すなわち西条さいじょうよしりょう家老がろうあてとしている。現実げんじつ世界せかいでは今川いまがわ駿河するが遠江とおとうみ三河そうご3かこく支配しはいしており、弱小じゃくしょう勢力せいりょくよしりょうはそのした従属じゅうぞくしているにもかかわらず、書札しょさつれい世界せかいではゆきときやす陪臣ばいしん家来けらい家来けらい)としてわなければならなかった[22]

吉良きら義昭よしあき今川いまがわ義元よしもと周旋しゅうせんにより、尾張おわり守護しゅご斯波しばよしぎんおよびこれをようする織田おだ信長のぶながよしみむすぼうとしたものの、よしぎん会見かいけん席次せきじめぐあらそいをこしている[注釈ちゅうしゃく 4]。そのおけ狭間はざまたたか義元よしもと信長のぶながられ、三河そうごこくから今川いまがわ勢力せいりょく後退こうたいすると、その支配しはい目指めざ松平まつだいら家康いえやす(のちの徳川とくがわ家康いえやす)と義昭よしあき対立たいりつすることになる。義昭よしあき善明ぜんみょうつつみたたか藤波ふじなみなわてたたか家康いえやす降伏ごうぶくする。えいろく6ねん1563ねん)、三河みかわ一向いっこう一揆いっき勃発ぼっぱつするとこれに加担かたんしてふたた家康いえやすやぶれ、家康いえやす今川いまがわ人質ひとじち時代じだい面識めんしきがあったというやすよしりょう家督かとく相続そうぞくさせた[24]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいやすじょう松平まつだいら清康きよやす家康いえやす祖父そふ)のいもうとははとしていた関係かんけい江戸えど幕府ばくふてられ、そのわたるだいきゅう吉良きら荘内そうないで3,000せきりょうし、室町むろまち以来いらい門地もんちたかさもあって高家こうか家格かかく付与ふよされた。これ以降いこうよしりょうは、幕府ばくふ儀典ぎてん関係かんけい仕切しきいえとして存続そんぞくする。

よしわたるつぎふゆ相続そうぞくした。その長男ちょうなん義央よしなか赤穂あこう事件じけん忠臣蔵ちゅうしんぐら)で著名ちょめいである。元禄げんろく14ねん1701ねん)、義央よしなか儀典ぎてん指導しどうかんして勅使ちょくし饗応きょうおうやく播磨はりま赤穂あこうはんあるじ浅野あさの長矩ながのりから殿中でんちゅう刃傷にんじょうけ、長矩ながのり切腹せっぷく元禄げんろく15ねん1702ねん)に大石おおいし良雄よしお以下いか浅野あさの遺臣いしんらによる本所ほんじょ吉良きらていへのりをけて、武林たけばやし隆重たかしげてられ、くびたれた[25]。その当主とうしゅ吉良きら義周よしちか義央よしなかまご)が改易かいえきされて諏訪すわ配流はいるとなり、子供こどもなく配所はいしょ病没びょうぼつした[26]義周よしちかほうむられた長野ながのけん諏訪すわ法華寺ほっけじには、2018ねん平成へいせい30ねん)6がつ、「吉良きら義周よしちかおおやけ慰霊いれいかい」により制作せいさくされた「吉良きら義周よしちかおおやけ木造もくぞう坐像ざぞう[27]ほん堂奥どうおうあいだ安置あんちされ、毎歳まいさいいとなまれている。

ふゆ次男じなん義央よしなかおとうと)は東条とうじょう改姓かいせいして分家ぶんけし、500せき一般いっぱん旗本はたもととして幕府ばくふつかえていたが、とおる17ねん1732ねん)、よし叔のまごたるよしまこと三河みかわ吉良きら本家ほんけえていることを理由りゆう吉良きらへの復姓ふくせい幕府ばくふねがゆるされた。このきゅう東条とうじょう吉良きら東条とうじょうせい時代じだいおなじく一般いっぱん旗本はたもとのままであり、高家こうか格式かくしきあたえられなかった。以後いご明治維新めいじいしんまで500せき旗本はたもととして存続そんぞくする。歴代れきだい当主とうしゅ西にしまる書院しょいんばんなどをつとめた。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

きゅう東条とうじょう旗本はたもと吉良きらは、明治めいじ2ねん(1869ねん)に士族しぞく編入へんにゅうされた。明治めいじ4ねん吉良きら太郎たろう義道よしみちなる人物じんぶつ同家どうけいでいる。かれ明治めいじ31ねんに45さい出家しゅっけしてそうになり、大正たいしょう元年がんねん8がつ25にちに59さい死去しきょしている。これ以降いこう三河そうご吉良きらがどうなったかは不明ふめいである[6]

2017ねん12月15にち鹿児島かごしま吉野よしのまちせんいわおえん観音岩かんのんいわ吉良きら義央よしなか菩提ぼだいとむら慰霊いれいさいがあった。吉良きら義央よしなかむすめ島津しまつつなたかとついでいた縁戚えんせきから建立こんりゅうされたもので島津しまつ当主とうしゅらが菩提ぼだいとむらった[28]

屋敷やしき[編集へんしゅう]

菩提寺ぼだいじ[編集へんしゅう]

歴代れきだい[編集へんしゅう]

西条さいじょうよしりょう)(東条とうじょうよしりょう

奥州おうしゅう武蔵むさしよしりょう[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

東条とうじょうよしりょうだい3だい吉良きらけい吉良きらさだは、成良親王なりながしんのうひさしばんから興国こうこく6ねん1345ねん)、奥州おうしゅう管領かんりょう奥州おうしゅう探題たんだい前身ぜんしん)にまで出世しゅっせし、陸奥みちのく多賀城たがじょうって足利あしかが政権せいけん奥州おうしゅう統治とうちようとなる。そのかんおう擾乱じょうらん勃発ぼっぱつすると直義ただよしかたぞくし、おなじく奥州おうしゅう管領かんりょうみことかたぞくしたはたけ山国やまくにほろぼすが、そのすき勢力せいりょく伸張しんちょうしてきた南朝なんちょう北畠きたばたけ顕信あきのぶ多賀城たがじょうとされる。以後いごふたた勢力せいりょく回復かいふくして正平しょうへい7ねん3がつ1352ねん4がつ)に多賀城たがじょう奪回だっかい正平しょうへい8ねん5がつ1353ねん6がつ)にはみなみ朝方あさがた拠点きょてん宇津峰うづみねじょう陥落かんらくさせて奥州おうしゅう南朝なんちょう勢力せいりょく崩壊ほうかいさせた。しかしこの直後ちょくご死去しきょしたとみられる。

つづ吉良きら満家みついえ奥州おうしゅう管領かんりょう任命にんめいされ、はたけ山国やまくにくにかい奥州おうしゅうそう大将たいしょう石塔せきとうぼう義憲よしのりあらそうこととなる。そのあいだ中央ちゅうおう直義ただよし殺害さつがい成功せいこうしたたかしは、斯波しばけんあらたな奥州おうしゅう管領かんりょうとして派遣はけんしたため、奥州おうしゅう一時いちじよん管領かんりょう並立へいりつとなる。畠山はたけやま石塔せきとうくだした満家みついえ死後しご吉良きら持家もちいえあとぐが幼少ようしょうのため、満家みついえ叔父おじ吉良きらさだけい満家みついえおとうとよし良治よしはるあらそった。貞治さだはる6ねん1367ねん)、足利あしかが義詮よしあきら斯波しばただし吉良きらさだけい奥州おうしゅう管領かんりょうとして追討ついとうするようにめいじ、さらに奥州おうしゅうそう大将たいしょうとして石橋いしばしとうよし派遣はけんした。この結果けっかやぶれて逐電ちくでんし、奥州おうしゅうよしりょう往時おうじ勢力せいりょく回復かいふくするにいたらず、衰退すいたい一途いっとをたどる。

滅亡めつぼう危機ききひんした奥州おうしゅうよしりょうであるが、初代しょだい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが基氏もとうじからまねかれた上野うえのこく飽間きょう移住いじゅうすると、徐々じょじょ勢力せいりょく回復かいふくはじめる。

鎌倉かまくら公方くぼうつかえた奥州おうしゅうよしりょうは、公方くぼうおな足利あしかがながれをくむいえとして「鎌倉かまくら公方くぼう一家いっか」という別格べっかくあつかいをけ、「足利あしかが一家いっかしゅ」「さかずきしゅ」としょうされた。よし良成よしなりだかだい武蔵むさしこく荏原えばらぐん世田谷せたがや東京とうきょう世田谷せたがや)に世田谷せたがやじょうかまえ、同地どうち土着どちゃくする。以後いご拠点きょてんえるたびに「蒔田まきた御所ごしょ」、「世田谷せたがや御所ごしょ」、「世田谷せたがや殿でん」とばれた。

戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

関東かんとう覇者はしゃとなったこう北条ほうじょうまれて傀儡かいらいした古河ふるかわ公方くぼうとともに、こちらも政略せいりゃく結婚けっこんつうじて北条ほうじょう傘下さんかはいった。なりだか頼康よりやす北条ほうじょう氏綱うじつなむすめ結婚けっこんし、武蔵むさしこく久良ひさよし岐郡蒔田まきた神奈川かながわけん横浜よこはまみなみ)の蒔田まきたしろをもりょうして「蒔田まきた殿どの」とばれ、こう北条ほうじょうぶん国内こくないにありながら独自どくじ印判いんばんじょうもちいることをゆるされた。

頼康よりやす堀越ほりこし六郎ろくろう今川いまがわ一門いちもん)とさきひめ氏綱うじつなむすめ)の氏朝うじともむかえて養子ようしとし家督かとくゆずるが、この氏朝うじともだい豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつによるのち北条ほうじょう滅亡めつぼうい、庇護ひごしゃうしなって旧領きゅうりょう世田谷せたがや実相院じっそういん篭居ろうきょする。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家康いえやすしたがうようになると家格かかくたかさをみとめられ、高家こうかとしててられた。このころから、蒔田まきたとして正式せいしき改称かいしょうしている。よしりょう系図けいずによれば、高家こうか吉良きら名乗なのるのは一人ひとりのみという家康いえやす意向いこうがあったからであるという[35]今川いまがわにおける品川しながわ上杉うえすぎにおける畠山はたけやま織田おだにおける津田つだおなじ)。

赤穂あこう事件じけんによって三河みかわよしりょう断絶だんぜつしたことを契機けいきに、1710ねんに「よしりょう」への復姓ふくせいゆるされた。なお同年どうねん浅野あさの長矩ながのりおとうと浅野あさの長広ながひろ旗本はたもととして浅野あさの再興さいこうしている。つまりこのとしに「浅野あさの」「よしりょう両家りょうけ同時どうじ再興さいこうするかたちとなった。

なお、豪徳寺ごうとくじ一族いちぞくよし良政よしまさただし世田谷せたがや城内じょうのうち叔母おばとむらうため創建そうけんしたひろしとくいん前身ぜんしんであり、近隣きんりんにある吉良きら菩提寺ぼだいじである勝光かつみついん墓地ぼちないに、吉良きら一族いちぞくはかのこる。

幕末ばくまつ知行ちぎょうは1425せきだった[3]

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ当主とうしゅ吉良きらよしつね朝廷ちょうてい早期そうき帰順きじゅんしたため、本領ほんりょう安堵あんどされ、幕臣ばくしんから朝臣あそんてんじるとともにちゅう大夫たいふせきあたえられた[3]

1869ねん明治めいじ2ねん)12月にちゅう大夫たいふしも大夫たいふ上士じょうししょうはいされるとともに士族しぞく編入へんにゅう[3]華族かぞく爵制になったさいさだめられた『叙爵じょしゃく内規ないき』のぜんあんである『叙爵じょしゃく規則きそく』ではきゅうこう男爵だんしゃくふくまれていたため、奥州おうしゅう吉良きら男爵だんしゃく候補こうほにあがっているものの、最終さいしゅうてきな『叙爵じょしゃく内規ないき』ではきゅうこう授爵じゅしゃく対象たいしょうがいとなったので結局けっきょく士族しぞくのままだった[3]

明治めいじ以降いこうはかつての知行ちぎょうであった千葉ちばけん長生ちょうせいぐん寺崎てらさき移住いじゅうした。

歴代れきだい[編集へんしゅう]

三河みかわ奥州おうしゅう武蔵むさしよしりょう系譜けいふ[編集へんしゅう]

土佐とさよしりょう[編集へんしゅう]

土佐とさよしりょう
本姓ほんせい しょう清和せいわはじめ河内かわうちはじめためりゅう[36]
たいら?
いえ 吉良きら希望きぼう
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 土佐とさこく吾川あがわぐんよしりょう[36]
おも根拠地こんきょち 土佐とさこく吾川あがわぐん南部なんぶ弘岡ひろおかじょう[36]
著名ちょめい人物じんぶつ 吉良きらちかしさだ
吉良きら親実ちかざね
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

土佐とさよしりょう(とさきらし)は、日本にっぽん武家ぶけひとつ。本姓ほんせいみなもと一説いっせつたいら)。つうはじめ「まれ」を、のちに「せん」をもちいた。平安へいあん時代じだいすえから戦国せんごく時代じだい土佐とさこく吾川あがわぐん南部なんぶ支配しはいした国人くにびと領主りょうしゅで、土佐とさ七雄ななおひとつにかぞえられた[36]みなもと頼朝よりともおとうとまれよし子孫しそんといわれる氏族しぞくであったが、これは戦国せんごく時代じだいえた。その一時期いちじき本山もとやまよしりょうしょうしたが、本山もとやま衰亡すいぼう長宗我部ちょうそかべ支流しりゅうよしりょうしょうし、これも戦国せんごく時代じだいまつ断絶だんぜつした。

みなもとのぞみりゅう[編集へんしゅう]

源義朝みなもとのよしとも五男いつお土佐とさ冠者かんじゃまれよしながれで、その次男じなんみなもと希望きぼう吉良きら希望きぼう)をとする。まれ平治へいじらん土佐とさこく流罪るざいとなった。ながじてあに頼朝よりとも挙兵きょへいほうけ、みずからも挙兵きょへい計画けいかくしたが、養和ようわ元年がんねん1181ねん[注釈ちゅうしゃく 7]奇襲きしゅうはいする。

吉良きら物語ものがたり』によると、まれかよっていた平田ひらたけいとおむすめまれ死後しごほどなく男子だんしんだとされる。この男子だんしたてひさ5ねん1194ねん)、亡父ぼうふ旧友きゅうゆうであった夜須やすこうむねともなわれて鎌倉かまくら幕府ばくふひらいた伯父おじ頼朝よりとも拝謁はいえつした。頼朝よりともはすぐにはしんじなかったものの最終さいしゅうてきにはみとめ、土佐とさこく吾川あがわぐんのうちすうせんかん三河みかわこく吉良きらそうげん 愛知あいちけん西尾にしお)のうちうまの飼場さんひゃくかん下賜かしした。男子だんしはこれ以後いご吉良きら八郎はちろう希望きぼう」を名乗なのって土佐とさよしりょう始祖しそとなったとされる。一説いっせつにはまれ長男ちょうなん隆盛りゅうせい系統けいとうともいわれる。また、以上いじょうことれきは『吉良きら物語ものがたり』でのみ確認かくにんされ、どう時代じだい公式こうしき記録きろくには記述きじゅつがないため、希望きぼう実在じつざい自体じたいうたが見方みかた存在そんざいする。このほか、神社じんじゃとうさつに「吉良きら平三へいぞうじょう」と記載きさいがあることからたいらであるとするせつもある[37]

希望きぼう後裔こうえいは、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから現在げんざい高知こうち春野はるのまち弘岡ひろおか中心ちゅうしんとした在地ざいち領主りょうしゅとなった。鎌倉かまくら時代じだい北条ほうじょう被官ひかんてき存在そんざいだったが、希望きぼうより6だい希世きせいまれしゅう兄弟きょうだい後醍醐天皇ごだいごてんのうつかえ、元弘もとひろらんにおいてろく探題たんだい攻略こうりゃくこうがあった。以後いごしばらく、四国しこくにおけるみなみ朝方あさがたゆうとして河野こうのらと行動こうどうをともにする。

しかし、まれゆうまれしゅうまご)が土佐とさ守護しゅご細川ほそかわ傘下さんかはしって以降いこう北朝ほくちょうかたとなり、南朝なんちょうかたこめ大高おおだか坂城さかき(のちの高知こうちじょう)の攻撃こうげき参加さんかするなどしている。まれゆうのちは、嫡男ちゃくなんまれじょう、そのおとうとせんいでいったとされるが、このときからつうが「まれ」から「せん」に変更へんこうされており、兄弟きょうだい共通きょうつう文字もじもないことから、せんについては血統けっとう変化へんか指摘してきされている[注釈ちゅうしゃく 8]。また、このころから土佐とさ守護しゅごしょく世襲せしゅうするようになった細川ほそかわしたがっていたとみられ、実際じっさい応仁おうにん文明ぶんめいには、せんどおり細川ほそかわ勝元かつもとしょうとして上洛じょうらく応仁おうにんらんにおいてそれなりの軍功ぐんこうてたといわれる。

室町むろまち時代じだい土佐とさこく細川ほそかわによる守護しゅご領国りょうごくせいしたにあった。よしりょう拠点きょてんであった吾川あがわぐん南部なんぶ守護しゅごだいかく有力ゆうりょく国人くにびと大平おおひら支配しはいにあり、おな地域ちいき森山もりやま木塚きづからと対抗たいこうしたとされる[39]。その1507ねん中央ちゅうおうおおきな権力けんりょくった本家ほんけ細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつえいただし錯乱さくらん)されたことをきっかけに、土佐とさ守護しゅごだい細川ほそかわふく各地かくち細川ほそかわ一族いちぞく京都きょうとのぼり、大平おおひら影響えいきょうちいさくなった。これらにより土佐とさもまた、守護しゅごによる領国りょうごく支配しはいわって戦国せんごく時代じだいむかえることとなる。この時期じき土佐とさこくは、盟主めいしゅてき存在そんざいである土佐とさ一条いちじょうしたに、土佐とさ七雄ななお土佐とさなな守護しゅごとも)とばれるよしりょうふくめた有力ゆうりょく7国人くにびと割拠かっきょした。

せんちゅうとき本山もとやま大平おおひら山田やまだなどのしょぞくとともに長宗我部ちょうそかべけんじょほろぼし、勢力せいりょく拡大かくだいする[37][注釈ちゅうしゃく 9]細川ほそかわちからうしなったのち土佐とさにおいては土佐とさ一条いちじょうほうじ、宣経のぶつねとき一条いちじょうからまもりにんぜられ最盛さいせいむかえた。宣経のぶつね天文てんもん年間ねんかん周防すおうからそうがく第一人者だいいちにんしゃ南村なんそん梅軒ばいけんまねきいれ、土佐とさみなみがく基礎きそきずいた。しかし、梅軒ばいけん講説こうせつ理解りかいしえたのは、宣経のぶつね従弟じゅうてい宣義のぶよしにんだけで、宣経のぶつね嫡男ちゃくなんせんじき居眠いねむりしていたという。

宣経のぶつねくなると、せんじき家督かとく継承けいしょうするが、前述ぜんじゅつとお梅軒ばいけん講説こうせつ居眠いねむりするような人物じんぶつで、当主とうしゅとなったのちせいおこたっていた。その翌年よくねんには梅軒ばいけんよしりょうもとっていき、宣義のぶよしはこれをいさめたが禁固刑きんこけいしょされ、えいろく初期しょき断食だんじき自殺じさつしてしまった。このころは、上記じょうき土佐とさ七雄ななお群雄割拠ぐんゆうかっきょはげしくなり、えいただし14ねん1517ねん)の恵良えらぬまたたかいで高岡たかおかぐん有力ゆうりょくしゃ津野つのもとやぶって土佐とさ西部せいぶ進出しんしゅつしてきた一条いちじょうと、土佐とさ中央ちゅうおう進出しんしゅつ朝倉あさくらじょうきずいた本山もとやま両氏りょうしにいつ挟撃きょうげきされてもおかしくない状況じょうきょうであった。この状況じょうきょう打開だかいするため駿河するがまもるせんじき一条いちじょうむすぶことを決意けついするが、これによって本山もとやまよしりょう攻撃こうげき決行けっこうした。本山もとやまがわぐんけ、天文てんもん9ねん1540ねん)、せんじき仁淀川によどがわ狩猟しゅりょうかけたすきねらって攻撃こうげき本山もとやましげるたつにより城主じょうしゅ不在ふざいであった吉良きらみねじょう落城らくじょうせんじき仁淀川によどがわ軍勢ぐんぜい応戦おうせんするもられてしまい、ここにみなもとのぞみりゅう土佐とさよしりょう滅亡めつぼうする。

このほか、よしりょう滅亡めつぼうには諸説しょせつがある。『吉良きら物語ものがたり』においてはえいろく6ねん1563ねん)に長宗我部ちょうそかべめられ滅亡めつぼうしたとされ、えいろく5ねん1562ねん)に本山もとやまめられ滅亡めつぼうしたとするせつもあるが、資料しりょう本山もとやましげるたつ吉良きらせい僭称せんしょうから信憑しんぴょうせいうすい。

本山もとやまりゅう[編集へんしゅう]

よしりょうほろぼした本山もとやまは、以後いごひらせいよしりょうしょうしたとされる。そして土佐とさいちじょう攻略こうりゃく失敗しっぱいするあいだねらい、吾川あがわぐん南部なんぶ支配しはいおさめた。しかしながらその支配しはいじゅうすうねんほどで、以後いご伸長しんちょうしてきた長宗我部ちょうそかべ駆逐くちくされた。

長宗我部ちょうそかべりゅう[編集へんしゅう]

えいろく6ねん1563ねん)、本山もとやまくだした長宗我部ちょうそかべ元親もとちかみずからの実弟じっていであるおやさだせんじき女婿じょせいめとらせ、よしりょう名跡みょうせきがせた。おやさだ一門いちもん実力じつりょくしゃとしてよくもとおや補佐ほさ天正てんしょう3ねん1575ねん)の土佐とさ一条いちじょうとのたたかい(四万十川しまんとがわたたか)では活躍かつやくせる。しかし、その親実ちかざね天正てんしょう16ねん1588ねん)に謀叛ぼうほん嫌疑けんぎけてころされ、長宗我部ちょうそかべ支族しぞくとしての土佐とさよしりょうも2だい滅亡めつぼうした[注釈ちゅうしゃく 10]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ぶん国法こくほう吉良きら条目じょうもく[編集へんしゅう]

法式ほうしき」13じょう、「禁制きんせい」10じょうからる。吉良きら宣経のぶつねにより制定せいていされたとするが、後世こうせい潤色じゅんしょくがなされている。

吉良きらしろ[編集へんしゅう]

弘岡ひろおかじょう吉良きらほうしろとも。高知こうち春野はるのまち弘岡上ひろおかかみ大谷おおや弘岡ひろおか平野へいや一望いちぼうできる丘陵きゅうりょうじょうつ。みなみみね北嶺きたみねの2ほうからなっていた。長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょうでは記載きさいがない一方いっぽうとうしろ西南せいなんに「西にししろ」の記載きさいがあり、盛時せいじにはこの2しろ体制たいせいであったとかんがえられている[39]現在げんざいるい建物たてもの礎石そせきのこり、「吉良きら城跡じょうせき」として昭和しょうわ35ねん春野はるのまちげん 高知こうち)により史跡しせき指定していされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ よしりょう殿どの渋川しぶかわ殿どの石橋いしばし殿どの、此御さんにん大概たいがいさんしょくどうこと、乍去吉良きら殿御とのご賞翫しょうがん」(足利あしかが義政よしまさだい幕府ばくふ重職じゅうしょく注文ちゅうもん)、「そうじてよしりょう殿どの御事おんことは、さんしょくよりもなお公儀こうぎ賞翫しょうがん」(『家中かちゅう竹馬たけうま』)など[5]
  2. ^ 松平まつだいら清康きよやす東条とうじょう吉良きらもちきよしへんいみなを、清康きよやすこうちゅうもちきよしもちひろへんいみなけたとするせつがある[16][17]
  3. ^ なお、小林こばやしはこの時期じきよしりょう記録きろく混乱こんらんしているのは、江戸えど時代じだいはいってすぐによしりょう今川いまがわ同族どうぞく関係かんけい回復かいふくさせて婚姻こんいんかさねるなど関係かんけいつよまった結果けっか両家りょうけ先祖せんぞである吉良きらよしやす今川いまがわ義元よしもと対立たいりつ事実じじつ忌避きひされたと推測すいそくする[21]
  4. ^ 小林こばやし輝久てるひさ彦はこのときよしりょうやすであるとしている[23]
  5. ^ 吉良きらよしじょう荒川あらかわじょうやす荒川あらかわ定昭さだあき柘植つげあにただししつ東条とうじょう義武よしたけ
  6. ^ 東条とうじょう義武よしたけおい吉良きらよしじょうらいまご
  7. ^ 吉良きら物語ものがたり』の記述きじゅつより。みなもとのぞみはい年月としつきには諸説しょせつがある(みなもとのぞみよし参照さんしょう)。
  8. ^ 春野はるのまち』では南北なんぼくあさまれけい衰微すいびし、土佐とさ守護しゅごしょく世襲せしゅうするようになった細川ほそかわとともに入部にゅうぶした足利あしかがけい三河みかわよしりょう一族いちぞくとされるせんがとってわったのではないかとの推理すいりがなされている[38]
  9. ^ 長宗我部ちょうそかべけんじょはいには、吸江ぎゅうこうあん寺領じりょう問題もんだい大津おおつじょう拠点きょてんとした天竺てんじくほろぼされたというせつもある。
  10. ^ 親実ちかざねのものとされる天正てんしょう17ねん(1589ねん)の年紀としのりはいったむねさつのこされており、殺害さつがい同年どうねん以降いこうとするせつもある[40]。また、もとおやおやさだよしりょうがせるかんがえはなく(もとおやおいでもある本山もとやましげるたつ次男じなんよしりょう当主とうしゅてられたほろあかしがあるとされる)、親実ちかざね蓮池はすいけしょうしたとするせつもある[41]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 太田おおた 1934, p. 1991.
  2. ^ a b c 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『よしりょう』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 255.
  4. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはんよしりょう』 - コトバンク
  5. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 117.
  6. ^ a b 斎藤さいとうしげる 1975, pp. 55.
  7. ^ 小林こばやし 2019, p. 245.
  8. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 60.
  9. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 39-41.
  10. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 42-43.
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  12. ^ 小林こばやし 2019, p. 247.
  13. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 42-48.
  14. ^ a b 黒田くろだ基樹もとき北条ほうじょう氏康うじやすつま みずけいいん平凡社へいぼんしゃ中世ちゅうせいから近世きんせいへ〉、2017ねん12月。ISBN 978-4-582-47736-8 P37-39.
  15. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 49.
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  17. ^ 小林こばやし 2019, p. 275.
  18. ^ 小林こばやし 2019, p. 251.
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  21. ^ 小林こばやし 2019, p. 270-271.
  22. ^ 小林こばやし 2019, p. 252-253.
  23. ^ 小林こばやし 2019, p. 272-273.
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  25. ^ 赤穂あこう総務そうむへんさんしつ忠臣蔵ちゅうしんぐら兵庫ひょうごけん赤穂あこう、1989ねん昭和しょうわ64ねん)~2014ねん平成へいせい26ねん
  26. ^ 斎藤さいとうしげる 1975, pp. 53/55.
  27. ^ 広報こうほうにしお 平成へいせい30ねん12月1にちごう (PDF) 、2023ねん7がつ30にち閲覧えつらん
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  29. ^ 本所ほんじょ松坂まつさかまち公園こうえん現地げんち説明せつめい
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  31. ^ 中央ちゅうおう義士ぎしかい忠臣蔵ちゅうしんぐら史蹟しせき事典じてん 東京とうきょうばん」(がつ書房しょぼう、2008ねん
  32. ^ 現在げんざい氷川神社ひかわじんじゃ一本松いっぽんまつざか南下なんかしたアルゼンチン共和きょうわこく領事館りょうじかんかいに位置いちする。
  33. ^ 御府内ごふない場末ばすえ往還おうかん其外沿革えんかく圖書としょ元禄げんろくななねん皇紀こうきせんろくひゃくねん記念きねん麻布まふ区史くし」)
  34. ^ 境内けいだい花岳寺かがくじ由緒ゆいしょ案内あんないばん」・一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん西尾にしお観光かんこう協会きょうかい西尾にしお観光かんこう公式こうしきwebなど。
  35. ^ 太田おおた 1934, p. 1995.
  36. ^ a b c d 太田おおた 1934, p. 1996.
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  39. ^ a b 春野はるのまち編纂へんさん委員いいんかい 1976, 室町むろまち春野はるの.
  40. ^ 吉村よしむら 2014, p. [ようページ番号ばんごう].
  41. ^ 朝倉あさくら 2014, p. [ようページ番号ばんごう].

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 春野はるのまち編纂へんさん委員いいんかい へん春野はるのまち春野はるのまち、1976ねん3がつ31にちNCID BN06883716 
    • 春野はるのまち編纂へんさん委員いいんかいへん (1976ねん3がつ31にち). “鎌倉かまくら春野はるの” (PDF). 春野はるのまち. 高知こうち. 2017ねん5がつ13にち閲覧えつらん
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    • 春野はるのまち編纂へんさん委員いいんかいへん (1976ねん3がつ31にち). “戦国せんごく春野はるの” (PDF). 春野はるのまち. 高知こうち. 2017ねん5がつ13にち閲覧えつらん
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  • 平井ひらい上総かずさ ちょ平井ひらい上総かずさ へん長宗我部ちょうそかべ元親もとちかえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう 1〉、2014ねん10がつISBN 9784864031257 
    • 吉村よしむら佐織さおり ちょ豊臣とよとみ土佐とさにおける女性じょせい知行ちぎょう—『長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょう』を中心ちゅうしんに」、平井ひらい上総かずさ へん長宗我部ちょうそかべ元親もとちかえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう 1〉、2014ねん10がつISBN 9784864031257 
    • 朝倉あさくらけいけい ちょ戦国せんごく末期まっき国人くにびと本山もとやましげるたつとその家族かぞくたち」、平井ひらい上総かずさ へん長宗我部ちょうそかべ元親もとちかえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう 1〉、2014ねん10がつISBN 9784864031257 
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 高知こうちけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ春野はるのまち吉良きら城跡じょうせきこう
  • 小林こばやし輝久てるひさちょ天文てんもん弘治こうじ年間ねんかん三河みかわよしりょう」、大石おおいし泰史やすし へん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいななかん 今川いまがわ義元よしもと〉、2019ねん6がつ、243-283ぺーじISBN 9784864033251 
  • 谷口たにぐち雄太ゆうた戦国せんごくにおける三河みかわよしりょう動向どうこう」『中世ちゅうせい足利あしかが血統けっとう権威けんい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん11月、38-62ぺーじISBN 9784642029582 初出しょしゅつ:『戦国せんごく研究けんきゅう』66ごう、2013ねん
  • 斎藤さいとうしげる赤穂あこう義士ぎしじつ纂』赤穂あこう義士ぎしじつ頒布はんぷかい、1975ねん(昭和しょうわ50ねん)。 
  • 松田まつだ敬之たかゆき『〈華族かぞく爵位しゃくい請願せいがん人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2015ねん平成へいせい27ねん)。ISBN 978-4642014724 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

よしりょう清和せいわはじめ足利あしかがりゅう
土佐とさよしりょう
  • みなみがく土佐とさみなみがく海南かいなん学派がくは) - 土佐とさこく発達はったつした朱子学しゅしがく土佐とさよしりょうがその発展はってん寄与きよした

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]