浜松はままつじょう

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浜松はままつじょう
静岡しずおかけん
天守門(模擬)・模擬天守
天守てんしゅもん模擬もぎ)・模擬もぎ天守てんしゅ
別名べつめい 曳馬ひくまじょう出世しゅっせじょう
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう[1]
天守てんしゅ構造こうぞう なし
望楼ぼうろうがた3じゅう4かい鉄筋てっきんコンクリートづくり模擬もぎ1958ねん昭和しょうわ33ねん))
築城ちくじょうぬし 今川いまがわさだしょう
築城ちくじょうねん えいただし年間ねんかん1504ねん - 1520ねん)?
おも改修かいしゅうしゃ 徳川とくがわ家康いえやす
おも城主じょうしゅ 飯尾いいお松平まつだいら堀尾ほりお
井上いのうえ水野みずの青山あおやまほか
はいじょうねん 1871ねん明治めいじ4ねん
遺構いこう 石垣いしがき曲輪くるわ
指定してい文化財ぶんかざい 浜松はままつ城跡じょうせき(浜松はままつ指定してい史跡しせき)
再建さいけん造物ぞうぶつ 模擬もぎ天守てんしゅ
位置いち 北緯ほくい3442ふん42.39びょう 東経とうけい13743ふん29.67びょう / 北緯ほくい34.7117750 東経とうけい137.7249083 / 34.7117750; 137.7249083 (浜松はままつじょう)座標ざひょう: 北緯ほくい3442ふん42.39びょう 東経とうけい13743ふん29.67びょう / 北緯ほくい34.7117750 東経とうけい137.7249083 / 34.7117750; 137.7249083 (浜松はままつじょう)
地図ちず
浜松城の位置(静岡県内)
浜松城
浜松はままつじょう
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浜松はままつじょう(はままつじょう。きゅう字体じたい濱松はままつ󠄁しろ󠄀)は、静岡しずおかけん浜松はままつ中央ちゅうおうにある日本にっぽんしろあと野面のづらみの石垣いしがき有名ゆうめい歴代れきだい城主じょうしゅおおくがのち江戸えど幕府ばくふ重鎮じゅうちん出世しゅっせしたことから「出世しゅっせじょう」といわれた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

浜松はままつじょう前身ぜんしんは15世紀せいきごろ築城ちくじょうされた曳馬ひくまじょうであり、築城ちくじょう城主じょうしゅ不明ふめいである。16世紀せいき前半ぜんはんには今川いまがわ支配しはい飯尾いいお城主じょうしゅつとめていた。このころ曳馬ひくまじょうは、江戸えど時代じだい絵図えずにみられる「古城こじょう」と表記ひょうきされた部分ぶぶんであり、現在げんざい元城もとしろまち東照宮とうしょうぐう付近ふきんにあたる。

徳川とくがわ家康いえやすもとかめ元年がんねん1570ねん)に曳馬ひくまじょう入城にゅうじょうし、浜松はままつじょうへと改称かいしょうしろいき拡張かくちょう改修かいしゅうおこない、城下町じょうかまち形成けいせいすすめた。徳川とくがわ家康いえやすざいしろにおける浜松はままつじょう具体ぐたいぞう明確めいかくであるが、古文書こもんじょ出土しゅつど遺物いぶつから現在げんざい本丸ほんまるけてしろいき拡張かくちょうされたことがうかがえる。また、徳川とくがわ家康いえやす築造ちくぞうした浜松はままつじょうは、づくりのしろであり、石垣いしがき瓦葺かわらぶき建物たてものそなえていなかったとされる。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたか以後いご江戸えど時代じだいつうじて徳川とくがわ譜代ふだい大名だいみょう居城きょじょうとなり、浜松はままつじょうから豊臣とよとみしょくうしなわれる。江戸えど時代じだい浜松はままつ城主じょうしゅきゅういえじゅうだいがれていき、歴代れきだい城主じょうしゅによってしろいき改変かいへん改修かいしゅうすすめられた。

堀尾ほりおざいしろ創建そうけんされた天守てんしゅは、17世紀せいきのうちに姿すがたし、天守てんしゅだいのみが現在げんざいつたわる。以降いこう天守てんしゅもん浜松はままつじょう最高さいこうしょ位置いちする建造けんぞうぶつといえ、江戸えど時代じだいとおして浜松はままつじょう代表だいひょうする建物たてものであったことがうかがえる[2]

明治めいじ6ねん1873ねん)のはいじょうれいにより、浜松はままつじょう建物たてもの土地とちはらげがおこなわれ、さんまるまる宅地たくち進行しんこうした。天守てんしゅきょく本丸ほんまる一部いちぶおおきな開発かいはつまぬかれ、昭和しょうわ25ねん1950ねん)の浜松はままつじょう公園こうえん開設かいせついた[3]

歴史れきし[編集へんしゅう]

今川いまがわよしりょう飯尾いいお時代じだい[編集へんしゅう]

浜松はままつじょう以前いぜん曳馬ひくまじょう(引馬じょう引間ひきましろ)が浜松はままつ拠点きょてんだった。築城ちくじょうしゃについては諸説しょせつあるが、今川いまがわさだしょうはじめて築城ちくじょうしたという。ただし、室町むろまち時代じだい中期ちゅうきには三河みかわこくよしりょう支配しはいしていたことが判明はんめいしている。

斯波しば今川いまがわこうそうすると、よしりょう家臣かしんだんなか斯波しば味方みかたする大河内おおこうちさだつな今川いまがわ味方みかたをする飯尾いいおじょうれん(またはそのちち飯尾いいおけんれん)があらそい、斯波しば今川いまがわやぶれるとよしりょう浜松はままつ支配しはいけんうしなった。えいただし11ねん1514ねん)、今川いまがわおやから曳馬ひくまじょうあたえられた飯尾いいお正式せいしき今川いまがわ家臣かしんとなった。じょうれん今川いまがわつづづかえ、おけ狭間はざまたたかにも参加さんかした。おけ狭間はざまたたかいにおいて今川いまがわ義元よしもと戦死せんしすると今川いまがわ衰退すいたいはじまるが、この時期じき飯尾いいお当主とうしゅれんかられんりゅうへとうつわる。

曳馬ひくまじょう石碑せきひ

今川いまがわ衰退すいたい城主じょうしゅ飯尾いいおれんりゅう今川いまがわ氏真うじざね反旗はんき疑惑ぎわくをもたれ、えいろく8ねん1565ねん)に今川いまがわぐん攻囲こういされ多大ただい損害そんがいこうむるが、陥落かんらくまぬかれた。このとき今川いまがわからの和議わぎ勧告かんこく受諾じゅだくしたれんりゅうは、戦後せんご今川いまがわさいぞくのため駿府すんぷへの大赦たいしゃ御礼おれい出向でむいたが、和議わぎ謀略ぼうりゃくで、れんりゅうころされた。以後いご曳馬ひくまじょうは、れんりゅう家老がろう江間えまによってまもられるも城内きうち徳川とくがわ武田たけだ分裂ぶんれつして内紛ないふんきていたため徳川とくがわ家康いえやすによって早期そうき攻略こうりゃくされた。一説いっせつではそのれんりゅう未亡人みぼうじん田鶴たづるほう中心ちゅうしんとした飯尾いいお残党ざんとうによってまもられるが、家康いえやすえいろく11ねん1568ねん)12月にお田鶴たづるほう使者ししゃおくじょうわたせば妻子さいし共々ともども面倒めんどうると降伏ごうぶくうながすもお田鶴たづるほう拒否きょひつづけたため、家康いえやすへい使つかってみ、お田鶴たづるほうしろへい指揮しきして奮戦ふんせんしたが侍女じじょとも討死うちじににした。また、お田鶴たづるほうまつった「椿つばきひめ観音かんのん」がしろちかくにのこっている。

家康いえやす時代じだい[編集へんしゅう]

もとかめ元年がんねん1570ねん)に家康いえやす武田たけだ信玄しんげん侵攻しんこうそなえるため、本拠地ほんきょち三河みかわこく岡崎おかざきから遠江とおとうみこく曳馬ひくまうつした。岡崎おかざきじょう嫡男ちゃくなん信康のぶやすゆずられた。当初とうしょ天竜川てんりゅうがわわたった見付みつけ磐田いわた)にあらたに築城ちくじょうをするつもりであったが、籠城ろうじょうせんまれたさい天竜川てんりゅうがわにより「背水はいすいじん」となることから、曳馬ひくまじょう西南せいなん方向ほうこう拡張かくちょうした。そのさい曳馬ひくまという名称めいしょうが「うまく」、つまり敗北はいぼくにつながり縁起えんぎわるいことから、かつてこのにあった荘園しょうえん浜松はままつそう)にちなんでしろめい地名ちめいとも「浜松はままつ」とあらためた[4]

もとかめ3ねん1573ねん)、武田たけだ信玄しんげんがこのしろめる素振そぶりをせながらこれを無視むしするような行軍こうぐんをして家康いえやす挑発ちょうはつ挑発ちょうはつされた家康いえやす浜松はままつじょうからってたが、武田たけだぐん巧妙こうみょう反撃はんげきって敗北はいぼくきっした(三方みかたばらたたか。なお諸説しょせつり)。 三方みかたばらたたかでは徳川とくがわぐん一方いっぽうてき敗北はいぼくなか家康いえやす寸前すんぜんまでめられ、夏目なつめ吉信よしのぶ鈴木すずき久三郎きゅうさぶろう身代みがわりにして、成瀬なるせ吉右衛門きちえもん日下部くさかべへいみぎ衛門えもん小栗おぐり忠蔵ちゅうぞう島田しまだおさむ兵衛ひょうえといったわずかな供回ともまわりのみで浜松はままつじょうかえった。この敗走はいそう伊賀越いがごえならんで人生じんせい最大さいだい危機ききともわれている。浜松はままつじょう到着とうちゃくした家康いえやすは、すべての城門じょうもんひらいて篝火かがりびき、いわゆる空城そらじょうけいおこなう。そしてけをべてそのままいびきをいてねむんだとわれる。このしん余裕よゆうもどした家康いえやす姿すがた将兵しょうへいみな安堵あんどしたとされる。浜松はままつじょうまで追撃ついげきしてきた山県やまがたあきらけいたいは、空城そらじょうけいによって警戒けいかいしんあふられ城内じょうない突入とつにゅうすることを躊躇ちゅうちょおもなおし、そのままげたといわれている

拡張かくちょう改修かいしゅう天正てんしょう10ねん1582ねん)ごろに大体だいたい終了しゅうりょうした[4]が、その4ねん天正てんしょう14ねん1586ねん)、家康いえやす浜松はままつから駿府すんぷ本拠ほんきょうつすことになった。家康いえやすざいしろ期間きかんは29さいから45さいまでの17ねんになる。

家康いえやす以後いご[編集へんしゅう]

家康いえやす以後いご天正てんしょう18ねん(1590ねん)からは秀吉ひでよし家臣かしん堀尾ほりお吉晴よしはると、その次男じなん堀尾ほりおただしわせて11年間ねんかんざいじょうしたが、関ヶ原せきがはらたたか功績こうせき出雲いずもこく富田とみたうつりふう以後いごは、一時いちじ徳川とくがわ頼宣よりのぶ領地りょうちだった時期じきのぞいて、譜代ふだい大名だいみょうかくいえ次々つぎつぎはいった。近世きんせいには天守てんしゅ存在そんざいしなかったようで絵図えずにも記載きさいがない。本丸ほんまるにあったじゅう天守てんしゅ代用だいようとされていたようだ。

浜松はままつじょう明治維新めいじいしんのちはいじょうとなり破壊はかいされた。城址じょうし昭和しょうわ25ねん(1950ねん)に「浜松はままつじょう公園こうえん」となり、昭和しょうわ33ねん(1958ねん)に鉄筋てっきんコンクリートせい復興ふっこう天守てんしゅ再建さいけんされた。昭和しょうわ34ねん(1959ねん)には浜松はままつ史跡しせきとして指定していされた。

現在げんざい天守閣てんしゅかく資料しりょうかんとして使つかわれており、家康いえやすはじめとした当時とうじのゆかりの品々しなじな見学けんがくできるほか、しろ周辺しゅうへんみどりあふれ、さくら名所めいしょとしても名高なだかく、シーズンには花見はなみきゃくあふかえる。

もともと曳馬ひくまじょうだった部分ぶぶんには、江戸えど時代じだいには米蔵よねぞうなどがかれていた。明治維新めいじいしん明治めいじ27ねん(1894ねん)に井上いのうえのべりょうによって東照宮とうしょうぐう創建そうけんされ、太平洋戦争たいへいようせんそうなか昭和しょうわ20ねん(1945ねん)に焼失しょうしつしたが昭和しょうわ34ねん(1959ねん)に再建さいけんされて現在げんざいいたる。

2017ねん平成へいせい29ねん)、ぞく日本にっぽん100名城めいじょう(148ばん)に選定せんていされた[5]

歴代れきだい城主じょうしゅ藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

構造こうぞう[編集へんしゅう]

本丸ほんまる遠景えんけいみなみから)

天守てんしゅ曲輪くるわ[編集へんしゅう]

天守てんしゅ周辺しゅうへん天守てんしゅきょくばれ、本丸ほんまるから独立どくりつした曲輪くるわとなっている。東西とうざい56m・南北なんぼく68mのいびつな多角たかくがたで、ひがし大手おおてとして天守てんしゅもん西にし搦手からめてとしてうめもんはいされている。周囲しゅうい鉢巻はちまき石垣いしがき土塀どべいかこみ、土塀どべいには屏風びょうぶおりなどの横矢よこや武者むしゃはしりがもうけられるなど防御ぼうぎょせいたか設計せっけいで、創建そうけんには籠城ろうじょうせん想定そうていした場所ばしょだったとかんがえられている。

16世紀せいきまつきずかれた天守てんしゅだいのこされているほか、昭和しょうわ33ねん復興ふっこう天守てんしゅ建設けんせつされ、2014ねん天守てんしゅもん付近ふきん土塀どべい復元ふくげんされた。

天守てんしゅ[編集へんしゅう]

模擬もぎ天守てんしゅ

天守てんしゅ堀尾ほりおおさめた16世紀せいきまつ創建そうけんされたとみられるが、江戸えど時代じだい初期しょきにはうしなわれ、以降いこう再建さいけんされなかった[3]当時とうじ天守てんしゅ姿すがたつたえる資料しりょうのこされていないが、おな堀尾ほりおおさめたしろ当時とうじ天守てんしゅのこ松江城まつえじょう創建そうけん浜松はままつじょう天守てんしゅ参考さんこう設計せっけいされ、両者りょうしゃ関係かんけい注目ちゅうもくされている[6]

野面のづらみによる天守てんしゅ創建そうけん天守てんしゅだいのこされている。1へんやく21mのややいびつな四角形しかっけいで、西側にしがわ八幡台はちまんだいばれる突出とっしゅつと、東側ひがしがわづけばれる部分ぶぶんがある。 天守てんしゅだい上部じょうぶ安政あんせいだい地震じしんこう復興ふっこう天守てんしゅ建設けんせつなおされたとみられるが、創建そうけん当時とうじ姿すがたがよくのこされている。

現在げんざい天守てんしゅだいてられている建物たてものは、昭和しょうわ33ねん(1958ねん)4がつ26にち完成かんせいした鉄筋てっきんコンクリートみやつこ復興ふっこう天守てんしゅである。地上ちじょう3かい地下ちか1かいけんで、1-2かい徳川とくがわ家康いえやす浜松はままつにまつわる歴史れきし資料しりょう展示てんじする資料しりょうかん、3かい展望てんぼうだいとして使用しようされている。昭和しょうわ31ねん1がつ結成けっせいされた浜松はままつじょう再建さいけん期成きせい同盟どうめいかい募金ぼきん運動うんどう展開てんかいし、あつまった浄財じょうざいをもとに当時とうじ金額きんがくで1395まん6せんえんとうじて建設けんせつされた[7]復興ふっこう天守てんしゅ名古屋工業大学なごやこうぎょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅつとめた城戸きどひさによる設計せっけいで、丸岡まるおかしろ天守てんしゅがモデルとされている[7]建設けんせつにあたって天守てんしゅだいたいし2/3程度ていどおおきさでてられたため、史実しじつ天守てんしゅよりもちいさな建物たてものとなっている[8]

天守てんしゅ隣接りんせつする八幡台はちまんだい

天守てんしゅもん[編集へんしゅう]

天守てんしゅもん天守てんしゅおなじ16世紀せいきまつてられた櫓門やぐらもん[3]天守てんしゅ曲輪くるわ東側ひがしがわ位置いちする。改修かいしゅう改築かいちくおこなわれながらも、はいじょうまで存続そんぞくした。江戸えど時代じだい初期しょき天守てんしゅうしなわれて以降いこう浜松はままつじょうもっとたか位置いちにあり、江戸えど時代じだいとおして浜松はままつじょう代表だいひょうする建物たてものであった。

こわされるまえ天守てんしゅもん図面ずめん写真しゃしんつかっていないものの、安政あんせいだい地震じしん被害ひがい状況じょうきょうしめした絵図えず平成へいせい21年度ねんどからおこなわれた発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかをもとに、2014ねん復元ふくげんされた。

うめもん[編集へんしゅう]

うめもん天守てんしゅ曲輪くるわ西側にしがわ位置いちし、西端せいたんじょう曲輪くるわとをむすんだ。浜松はままつは「遺構いこう残存ざんそんしていることがあきらかであるため、遺構いこう調査ちょうさ整備せいび進捗しんちょくじょうきょうにより、歴史れきしてき検証けんしょうもとづいた復原ふくげん計画けいかく検討けんとうする」としている[7]

本丸ほんまる[編集へんしゅう]

天守てんしゅ曲輪くるわ東側ひがしがわ一段いちだんひく場所ばしょ位置いちし、るい鉢巻はちまき石垣いしがきかこまれていた。北側きたがわには富士見ふじみ東側ひがしがわには本丸ほんまる裏門うらもん南東なんとうすみにはひし南側みなみがわにはてつもん多聞たもんがあった。江戸えど時代じだい初期しょきには徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ専用せんよう御成おなり御殿ごてんがあったとみられるが、江戸えど中期ちゅうきには姿すがたしたとかんがえられている。

はいじょう本丸ほんまる西にし半分はんぶん浜松はままつじょう公園こうえんとなり富士見ふじみ石垣いしがきなどの遺構いこうのこされているが、ひがし半分はんぶんは1960年代ねんだい本丸ほんまる地形ちけいけずかたち造成ぞうせいおこなわれたため姿すがためておらず、裏門うらもんひしてつもん多門たもん遺構いこううしなわれた。跡地あとち道路どうろ市役所しやくしょとなっている。

富士見ふじみ

富士見ふじみ本丸ほんまる北側きたがわ位置いちするで、現在げんざい石垣いしがき礎石そせき一部いちぶのこる。北側きたがわあつかべたずにはしらせた構造こうぞうち、前方ぜんぽう玉砂利たまじゃりかれた御殿ごてんふう建物たてものであり、17世紀せいきちゅう後半こうはんてられたと推定すいていされている[9]。18世紀せいき後半こうはん以降いこう改修かいしゅうて、比較的ひかくてき長期間ちょうきかんにわたり使用しようされており、富士山ふじさんながめながらちゃなどがもよおされていたと推測すいそくされている[9]

多聞たもん

多聞たもんは、本丸ほんまる清水しみず曲輪くるわあいだ位置いちし、東西とうざいなが平屋ひらや長屋ながやで、東側ひがしがわには本丸ほんまるへの正門せいもんであるてつもんもうけられていた。 はいじょう石垣いしがきだい部分ぶぶんうしなわれたが、2014ねんえんようかべ内側うちがわから堀尾ほりお時代じだい石垣いしがき一部いちぶ発見はっけんされ、2020ねん本丸ほんまるみなみ広場ひろば整備せいびわせて公開こうかいされている。

清水しみず曲輪くるわ[編集へんしゅう]

清水しみず曲輪くるわ天守てんしゅ曲輪くるわ南側みなみがわ細長ほそながかこんだおび曲輪くるわで、天守てんしゅきょくまもるためちゅう土手どて空堀からぼりがあり、東側ひがしがわ清水しみずもんがあった。

北側きたがわ浜松はままつじょう公園こうえんになっているが、清水しみず門跡もんぜきふく南側みなみがわ市街しがいされている。

西端せいたんじょう曲輪くるわ[編集へんしゅう]

西端せいたんじょう曲輪くるわ天守てんしゅ曲輪くるわ西側にしがわ位置いちする曲輪くるわで、るい土塀どべいかこまれ、そとはしじょう曲輪くるわ接続せつぞくするはし城門じょうもんがあった。

曲輪くるわ全体ぜんたい浜松はままつじょう公園こうえんとなっている。

まる[編集へんしゅう]

まる本丸ほんまる東側ひがしがわ位置いちし、藩主はんしゅ政務せいむ日常にちじょう生活せいかついとなまる御殿ごてんがあったほか、東側ひがしがわまる裏門うらもん南側みなみがわ本丸ほんまる表門おもてもんがあった。

まるあときゅう元城もとしろ小学校しょうがっこう敷地しきち市役所しやくしょ敷地しきちきた半分はんぶんにあたる。

まる御殿ごてん

まる御殿ごてんはらげによって解体かいたいされたが、詳細しょうさい絵図えずめんのこされており、くわしい様子ようすをうかがうことができる。

さんまる[編集へんしゅう]

まる南東なんとうがわ位置いちし、周囲しゅういるいほりかこまれ、重臣じゅうしん屋敷やしきならんでいた。さんまる南側みなみがわ浜松はままつじょう正門せいもんである大手門おおてもんがあった。

はいじょうるい撤去てっきょほりてがすすみ、完全かんぜん市街地しがいちされている。大手おおてもん現在げんざい連尺れんじゃく交差点こうさてん付近ふきんにあった。

出世しゅっせじょう[編集へんしゅう]

冒頭ぼうとうべたとおり、一般いっぱんてきには数々かずかず浜松はままつ城主じょうしゅ幕府ばくふ重鎮じゅうちん出世しゅっせしたれいおおいことから出世しゅっせじょうともばれたとされるが[10][11]一方いっぽう井上いのうえただしはじめのように不祥事ふしょうじこし左遷させんされたれいもある。

水野みずの忠邦ただくに肥前ひぜんこく唐津からつおさめていたが、長崎ながさき警備けいびがあるため一定いってい以上いじょう出世しゅっせ困難こんなんであった。しかし、忠邦ただくにまくかくとして参画さんかくするために日頃ひごろから幕府ばくふ要人ようじん接待せったい賄賂わいろ攻勢こうせいをかけていた。幕府ばくふ事件じけんこしたせいはじめ左遷させんし、忠邦ただくに浜松はままつうつした。忠邦ただくに寺社じしゃ奉行ぶぎょう出世しゅっせし、さら文政ぶんせい11ねん1828ねん)には老中ろうじゅうとなった。

忠邦ただくにはその天保てんぽう改革かいかくつまずき、つづ政争せいそう失脚しっきゃく長男ちょうなんちゅうせいだいになって出羽でわこく山形やまがたうつされた。浜松はままつ水野みずのただしせいわって井上いのうえただしはじめ長男ちょうなんせいはるおさめることになった。

江戸えど時代じだいの265年間ねんかん浜松はままつはん藩主はんしゅは22にんいて、平均へいきんやく12ねんじゃく期間きかん藩主はんしゅわっている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 引馬じょう浜松はままつなか元城もとしろまちはしごくるわじょう配置はいちされた曲輪くるわ
  2. ^ 発掘はっくつ報告ほうこくでは、浜松はままつじょう天守てんしゅもんはばやく10.92mはほぼ確定かくていてきであり、たかさ37.0mであると推測すいそくしている(「浜松はままつ城跡じょうせき5」2011)。
  3. ^ a b c 和田わだ達也たつや 編著へんちょ浜松はままつ城跡じょうせき浜松はままつ教育きょういく委員いいんかい、2013
  4. ^ a b 小和田こわだ哲男てつお 「信長のぶなが同盟どうめい今川いまがわ武田たけだ撃破げきは」『歴史れきしぐんぞうシリーズ・徳川とくがわ家康いえやす』 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、9ぺーじ、56-57ぺーじ
  5. ^ 浜松はままつじょうにんじょうなど選定せんてい=「ぞく100名城めいじょう」-日本にっぽん城郭じょうかく協会きょうかい時事通信じじつうしん、2017ねん4がつ6にち
  6. ^ しろ現場げんばより~発掘はっくつ復元ふくげん最前線さいぜんせん浜松はままつじょう出世しゅっせじょうしたまっていた豊臣とよとみ時代じだい浜松はままつじょう
  7. ^ a b c 浜松はままつじょう公園こうえん歴史れきしゾーン整備せいび基本きほん計画けいかく浜松はままつ公園こうえん緑地りょくち公園こうえん平成へいせい23ねん2がつ
  8. ^ 浜松はままつじょう公園こうえん長期ちょうき整備せいび構想こうそう浜松はままつ平成へいせい26ねん2がつ
  9. ^ a b 浜松はままつ教育きょういく委員いいんかい 2010 『浜松はままつ城跡じょうせき4財団ざいだん法人ほうじん浜松はままつ文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん
  10. ^ 浜松はままつじょう歴史れきし
  11. ^ 現在げんざい浜松はままつじょうのこ家康いえやすの「出世しゅっせじょう」<家康いえやすへん11>

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]