諏訪原すわはらじょう

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諏訪原すわはらじょう
静岡しずおかけん
諏訪原城 三ケ月堀
諏訪原すわはらじょう さんケ月かげつほり
別名べつめい 牧野まきのしろ牧野まきの原城はらのじょうおうぎじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 馬場ばば信春のぶはる
築城ちくじょうねん 天正てんしょう元年がんねん1573ねん
おも改修かいしゅうしゃ まつ平家ひらかただしなど
おも城主じょうしゅ 今福いまふくとらこう今川いまがわ氏真うじざねまつ平家ひらかただしひとし
はいじょうねん 天正てんしょう18ねん1592ねん
遺構いこう るい曲輪くるわほり馬出まいだし井戸いどなど
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3449ふん4.94びょう 東経とうけい1387ふん11.4びょう / 北緯ほくい34.8180389 東経とうけい138.119833 / 34.8180389; 138.119833座標ざひょう: 北緯ほくい3449ふん4.94びょう 東経とうけい1387ふん11.4びょう / 北緯ほくい34.8180389 東経とうけい138.119833 / 34.8180389; 138.119833
地図ちず
諏訪原城の位置(静岡県内)
諏訪原城
諏訪原すわはらじょう
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諏訪原すわはらじょう(すわはらじょう)は、遠江とおとうみこく榛原はいばらぐん金谷かなや現在げんざい静岡しずおかけん島田しまだ金谷かなや)にあった戦国せんごく時代じだい日本にっぽんしろ山城やましろ)。諏訪すわ原城はらのじょうともく。甲斐かい武田たけだ築城ちくじょう城内きうち諏訪すわ大明神だいみょうじんまつったことからこのいたとされる。徳川とくがわ時代じだいしろめい牧野まきのしろ。『いえちゅう日記にっき』には牧野ぼくやじょうのほか牧野ぼくや原城はらのじょうとも記載きさい東照宮とうしょうぐう実紀みき徳川とくがわ実紀みき)に、牧野まきのしろ諏訪原すわはらをいふ)と記載きさい

現在げんざい建築けんちくぶつのこっていないものの、ほり曲輪くるわ馬出まいだしなどの遺構いこうがはっきりとのこり、戦国せんごく時代じだい武田たけだ徳川とくがわ築城ちくじょう様式ようしきじょう貴重きちょうなものとなっている。くに史跡しせき指定していされている。

立地りっち[ソースを編集へんしゅう]

諏訪原すわはらじょう牧野ぼくやじょう)は遠江とおのえこくひがしはしちかくの牧之原まきのはら台地だいちしたじょう台地だいち先端せんたん立地りっちする。しろのすぐみなみ東海道とうかいどうとおり、ひがし金谷かなやざかくだると大井川おおいがわをまたいで駿河するがこくはいり、西にし菊川きくかわざかくだると小夜さよ中山なかやま経由けいゆして掛川かけがわげん掛川かけがわ中心ちゅうしん)を中心ちゅうしんとしたややひろめの盆地ぼんちる。また、みなみ牧之原まきのはら台地だいちくだると、きく川下かわしも流域りゅういき平野へいやる。

まる馬出まいだしおよ三日月みかづきほりが3ないし5箇所かしょあり、枡形ますがた虎口ここうなどの遺構いこうのこる。しろさんぽう台地だいち断崖だんがいとなっており、前面ぜんめん巨大きょだい空堀からぼりがこの断崖だんがいへとつづく。

歴史れきし[ソースを編集へんしゅう]

武田たけだぐん遠江とおとうみ徳川とくがわりょう攻略こうりゃく出城でしろとして築城ちくじょうし、天正てんしょう3ねん1575ねん)には武田たけだ徳川とくがわたたかいがひろげられたが、同年どうねん8がつ落城らくじょう以降いこう徳川とくがわしろとなる。

築城ちくじょう[ソースを編集へんしゅう]

えいろく12ねん1569ねん)、駿河するが遠江とおとうみりょうしていた今川いまがわ武田たけだ徳川とくがわ挟撃きょうげきされ滅亡めつぼうし、駿河するが武田たけだに、遠江とおとうみ徳川とくがわ所領しょりょうとなった。しかし、もなく両氏りょうしあらそうようになり、もとかめ2ねん1571ねん)に武田たけだ当主とうしゅ武田たけだ信玄しんげん遠江とおとうみ南東なんとう高天こうてん神城かみしろ攻撃こうげきした。このときは落城らくじょうさせることができず撤退てったいしたが、よくもとかめ3ねん1572ねん)には徳川とくがわ攻勢こうせいをかけ、二俣ふたまたしろなどのしょしろ落城らくじょうさせ、さらに本拠地ほんきょち浜松はままつじょうからって徳川とくがわ当主とうしゅ徳川とくがわ家康いえやす三方みかたばらたたかやぶった。

よくもとかめ4ねん4がつ1573ねん5がつ)、信玄しんげん病死びょうしするものの、跡目あとめいだ武田たけだ勝頼かつより遠江とおとうみ獲得かくとく目論もくろんだ。天正てんしょう元年がんねん1573ねん)の諏訪原すわはらじょう築城ちくじょうもその一環いっかんであり、普請ふしん奉行ぶぎょう馬場ばば信春のぶはる、その補佐ほさ武田たけだしんゆたかめいじ、東海道とうかいどう沿いの牧之原まきのはら台地だいちじょうしろきずかせたという。ただし、このことをしる史料しりょうが『きのえようぐんかん』など後代こうだい成立せいりつした史料しりょうのため、築城ちくじょうしゃについては確定かくていできないものの、この時期じき築城ちくじょう間違まちがいないとかんがえられている(『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』にはえいろく12ねん(1569ねん)に「金谷かなやしろ」を築城ちくじょうしたとあるが、このしろ諏訪原すわはらじょう同一どういつかどうかは断定だんていできない)。信玄しんげん後期こうきから勝頼かつより建設けんせつされた城郭じょうかく特徴とくちょうである、台地だいち突端とったん利用りよう戦闘せんとう正面しょうめん限定げんていさせる構造こうぞうとなっている。小山こやましろともに、大井川おおいがわ西岸せいがん防衛ぼうえいせんおよ高天こうてん神城かみしろへの補給ほきゅうせん確保かくほする重要じゅうよう拠点きょてんとなった。

武田たけだ徳川とくがわによる争奪そうだつせん[ソースを編集へんしゅう]

その勝頼かつせ遠江とおのえへの攻勢こうせいつよめ、天正てんしょう2ねん1574ねん)には主要しゅよう拠点きょてんであった高天こうてん神城かみしろ[1]武田たけだ手中しゅちゅうとしている。ところが天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ長篠ながしのたたか武田たけだぐん織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん大敗たいはいした。徳川とくがわ家康いえやすただちに反攻はんこうてんじて三河みかわ遠江とおとうみ武田たけだかく拠点きょてん攻略こうりゃくし、諏訪原すわはらじょうも7がつ中旬ちゅうじゅんごろから徳川とくがわぐんにより包囲ほういされた。武田たけだかたざいばんしゅ今福いまふくとらこう室賀むろがみつるただし小泉こいずみあきらそう以下いか抗戦こうせんかまえをせ、1ヶ月かげつあまりの攻防こうぼうせんひろげられた。しかし、徳川とくがわぐんによる包囲ほうい攻撃こうげきささえることができず、また敗戦はいせん痛手いたでから勝頼かつせ援軍えんぐん派遣はけんできなかったこともあり、開城かいじょうしろへい小山こやましろ退去たいきょした。徳川とくがわ奪取だっしゅした日時にちじは、天正てんしょう3ねん8がつ日付ひづけ異同いどうあり)[2]とされる。

攻略こうりゃく徳川とくがわはこのしろ拠点きょてん武田たけだぐん監視かんし牽制けんせい駿河するがこくへの攻撃こうげきつづけ、こと高天こうてん神城かみしろへの大井川おおいがわ沿いの補給ほきゅうふうじたことでたたかいを有利ゆうりみちびいた。またこのあいだ徳川とくがわしろだい規模きぼ改修かいしゅうおこなっており、現在げんざいられるしろ遺構いこうはこの時代じだいのものになる。

はいじょう以後いご[ソースを編集へんしゅう]

その天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ甲州こうしゅう征伐せいばつ武田たけだ滅亡めつぼうすると牧野ぼくやじょう存在そんざい意義いぎうすれ、天正てんしょう18ねん1590ねん)にはいじょうとなった。

明治維新めいじいしんむかえると、もと将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ駿府すんぷはいされると慶喜よしのぶしたって随従ずいじゅうしたきゅう幕臣ばくしんたちが、自活じかつのために荒廃こうはいしていた牧野まきのしろ周辺しゅうへん移住いじゅうして開墾かいこんぬし茶畑ちゃばたとした。現在げんざい城址じょうし一帯いったいちゃはたけとなっているが、比較的ひかくてき保存ほぞん状態じょうたいく、大掛おおがかりなほり曲輪くるわなどがのこっている。

昭和しょうわ29ねん1954ねん3月26にち城跡じょうせき一部いちぶ静岡しずおかけん史跡しせき指定していされ、発掘はっくつ調査ちょうさ昭和しょうわ50ねん1975ねん11月25にちにはくに史跡しせき指定してい平成へいせい14ねん2002ねん12月19にちには一部いちぶ区域くいき追加ついか指定していけている[3]現在げんざい史跡しせき指定していは、南北なんぼくやく580m、東西とうざいやく1,450m、やく11まん3せんm2およんでいる。

平成へいせい29ねん2017ねん)4がつ6にち、「ぞく日本にっぽん100名城めいじょう」(146ばん)に選定せんていされた。

城主じょうしゅしろばん[ソースを編集へんしゅう]

武田たけだ城主じょうしゅしろばん諸説しょせつあるが、落城らくじょう武田たけだ家臣かしん今福いまふく信濃しなの小県ちいさがたぐんくにしゅ室賀むろが小泉こいずみなどがしろばんであったとされる[4]

徳川とくがわ家康いえやす諏訪原すわはらじょうれると、城主じょうしゅとして一時いちじてき今川いまがわ氏真うじざねにんじられた以外いがいは、常駐じょうちゅうしろばん定番ていばんしゅばれた、まつ平家ひらかただし甚太郎じんたろう東条とうじょうしろおも)・牧野まきの康成やすなり新次郎しんじろう牛久保うしくぼしろおも)など)を複数ふくすう一方いっぽうべつ交替こうたい守備しゅび普請ふしん担当たんとうする交代こうたいばん人々ひとびと牧野ぼくやばんばれ、西郷さいごういん孫九郎まごくろう西山にしやましろおも)・まつ平家ひらかただし又八郎またはちろう深溝ふかみぞじょうおも)・戸田とだ康長やすなが新六郎しんろくろう連木れんぎじょうおも))をさだめ、交替こうたい西郷さいごう松平まつだいら戸田とだじゅんでほぼ半年はんとしごとやく1かげつあいだつとめた。この守備しゅび体制たいせい天正てんしょう10ねん(1582ねん)の甲斐かい武田たけだ滅亡めつぼうまで継続けいぞくされた。[5]

牧野まきのじょうへの改名かいめい[ソースを編集へんしゅう]

天正てんしょう3ねん8がつ諏訪原すわはらじょう徳川とくがわかたはいると家康いえやすよろこび、古代こだい中国ちゅうごく故事こじにちなんで牧野ぼくやじょう呼称こしょうあらためたとされる。

すなわち、しゅうたけおういんみかどからし(紂王)牧野まきの(ぼくや、中国ちゅうごく地名ちめい)にやぶった故事こじにより、しゅう王朝おうちょうから松平まつだいらやすしおや周防すおうまもる改称かいしょうさせ、また牧野まきの康成やすなり名字みょうじ故事こじきた地名ちめい牧野ぼくや(ぼくや)がつうじていることから、縁起えんぎ名称めいしょうとして牧野まきのじょうあらためたとされる(「寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか[6])。

  • いえちゅう日記にっき常山つねやまだん記述きじゅつ相違そうい
いえちゅう日記にっき』では、天正てんしょう6ねん遠江とおとうみこく牧野まきのじょうについてのほり普請ふしん記述きじゅつがあるが、すでに諏訪原すわはらじょうという呼称こしょう記載きさいはない。また、いえちゅう日記にっきでは、「牧野まきの原城はらのじょう帰陣きじん」、「牧野ぼくやじょう普請ふしん」、「牧野まきのげん普請ふしん出来できて」、と記載きさいあるため、牧野まきの原城はらのじょうとも呼称こしょうしていたようである。
常山つねやまだん』に、「松平まつだいら忠次ただつぐ諏訪原すわはらじょうまもらるゝこと[7]、として、諏訪すわはらしろ牧野ぼくやしろあらためたとあるが、どう時代じだい史料しりょういえちゅう日記にっきに、松平まつだいら忠次ただつぐ城主じょうしゅをした(記述きじゅつはなく、べつ人物じんぶつ)、牧野まきのじょう改名かいめいしたという記述きじゅつはない[8]
  • 牧野まきのりのひがし三河そうご郷土きょうど文献ぶんけんるい記述きじゅつ
牛窪うしくぼ』に初出しょしゅつ、『牛窪うしくぼ密談みつだん』、『宮嶋みやじま伝記でんき』、『まいりかわこく聞書ききがき』、『牧野まきの家家いえいえ』では、おおむねはなしのあらすじがおなじで、諏訪原すわはらじょうめて落城らくじょうさせたのち松平まつだいらやすしおや牧野まきのみぎうままこと城主じょうしゅ派遣はけんし、守護しゅごさせる。このとき徳川とくがわ家康いえやすが、牧野まきの牧野ぼくや中国ちゅうごく故事こじつうじることから、牧野まきのじょう牧野まきの原城はらのじょう)とあらためたという。その天正てんしょう7ねん1579ねん)まで守護しゅごしたという。牧野ぼくやでは、松平まつだいらやすしおや牧野まきのみぎうままこと交代こうたいして守備しゅびし、天正てんしょう12ねん1584ねん)まで、牧野まきの康成やすなりまもるとある、また、中国ちゅうごく故事こじ牧野まきの(ぼくや)になぞらえて牧野ぼくや名付なづけたのは、俗説ぞくせつあやまりとしている。
前出ぜんしゅついえちゅう日記にっきにある、松平まつだいら甚太郎じんたろう西郷さいごういんまつ平家ひらかただし牧野ぼくやじょうばんについては、一切いっさいれていない。

発掘はっくつ調査ちょうさ[ソースを編集へんしゅう]

平成へいせい21ねん2009ねん)から27ねん2015ねん)にかけて、諏訪原すわはらじょう発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた。発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかとして、元来がんらい甲州こうしゅうりゅう築城ちくじょうじゅつ典型てんけいとされた縄張なわばりうち武田たけだ時代じだい構築こうちくされたのは本丸ほんまる南端なんたんにある小型こがたまる馬出うまだしのみと判明はんめいした。

結果けっかとしてまるやそれに付随ふずいする大型おおがたまる馬出まいだし徳川とくがわ整備せいびした可能かのうせいたかく、これまでのまる馬出まいだし武田たけだ築城ちくじょうという固定こてい観念かんねん見直みなおしや、てい評価ひょうかだった徳川とくがわ築城ちくじょう技術ぎじゅつたいするさい検討けんとううながすことになった。

平成へいせい28年度ねんど(2016ねん)には発掘はっくつ調査ちょうさもとづき、まるきた馬出うまだしにあったくすりもん復元ふくげんされた。

交通こうつうアクセス[ソースを編集へんしゅう]

  • 東海道本線とうかいどうほんせん金谷かなやえきから西にし徒歩とほ30ふんえきからきゅう東海道とうかいどう石畳いしだたみのぼってしばらくあるくと城跡じょうせきいたる。また、金谷かなやえきから島田しまだ市営しえいのコミュニティバス(菊川きくかわ神谷城かみやしろせん)も利用りようできる(平日へいじつは5往復おうふく土曜どよう日曜にちようしゅく休日きゅうじつは3往復おうふく[9]

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ徳川とくがわかたしろ城主じょうしゅ小笠原おがさわらちょうただし
  2. ^ 金谷かなやまちへんさん委員いいんかい金谷かなやまち 通史つうしへん 本編ほんぺん』(2004ねん) p.233
  3. ^ 島田しまだ教育きょういく委員いいんかい島田しまだ博物館はくぶつかんくに指定してい史跡しせき 諏訪原すわはら城跡じょうせき整備せいび基本きほん計画けいかく』(2011ねん) P1
  4. ^ 城主じょうしゅ室賀むろが小泉こいずみ→『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだい373・松平まつだいらやすしおやこう。なお、馬場ばば信房のぶふさ築城ちくじょう一説いっせつしろ縄張なわばりを今福いまふく友清ともきよきよし閑斎)が関与かんよし、その今福いまふくあきらばい丹波たんばまもる)がまもったとされ、室賀むろが小泉こいずみはこのときよせとしてえたものともいう。
  5. ^ ひかり西寺にしてら松井まつい文書ぶんしょによると、徳川とくがわ家康いえやすばんぶつとして、天正てんしょう4ねん(1576ねん)3がつ17にち松平まつだいら甚太郎じんたろうどう周防すおうまもるてで、「牧野まきのしろばん、其方しょう添依さるづけ」とあり、いえちゅう日記にっき牧野ぼくやじょうばん松平まつだいら甚太郎じんたろういえちゅう東条とうじょう松平まつへい)と符合ふごうする。 いえちゅう日記にっきによると、天正てんしょう6ねん1578ねん)5がつ10日とおかに、とおしゅう牧野まきの松平まつだいら甚太郎じんたろう牧野まきのしろばん)とある。天正てんしょう6ねん8がつ7にちに、牧野まきのじょうが、松平まつだいら甚太郎じんたろうから西郷さいごう孫九郎まごくろういんつがええとある。天正てんしょう6ねん8がつ8にちに、まつ平家ひらかただしおも殿どのすけ深溝ふかみぞ松平まつだいら)が、牧野まきのじょうほり普請ふしん20日はつか完成かんせい天正てんしょう7ねん(1579ねん)3がつ7にちに、まつ平家ひらかただし西郷さいごういん西郷さいごう孫九郎まごくろういん)にわり、しろばん天正てんしょう8ねん(1580ねん)4がつ18にちに、まつ平家ひらかただしが、西郷さいごういんわり、牧野まきのしろまもるとある。しろばん変遷へんせん;(松平まつだいら甚太郎じんたろう西郷さいごういえただし西郷さいごういえちゅう) これらのことから、松平まつだいらやすしおや牧野まきの新次郎しんじろう康成やすなり)は、牧野まきのしろばん城主じょうしゅではなく、牧野まきのじょう定番ていばんしゅ一員いちいんであることがわかる。
  6. ^ 改名かいめいについての記述きじゅつは『しんてい寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか譜第ふだいろく』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかいへん)のまきだい364の牧野まきの康成やすなりどうまきだい373の松平まつだいらやすしおや松井まつい忠次ただつぐ)の各項かくこうくわしい。
  7. ^ 常山つねやまだん本文ほんぶん;「『松平まつだいら忠次ただつぐ諏訪原すわはらじょうまもらるゝこと』、「天正てんしょうさんねんはちがつ東照宮とうしょうぐう諏訪原すわはらしろおさむさせきゅうふ。此のしろ甲州こうしゅう馬場ばば美濃みのまもるしょうが、しろせいほうにてきづきたりし名高なだかしろなりといへども、しろ兵力へいりょくよわりて、廿にじゅうよんにちよるしろ小山こやましろに迯落けり。東照宮とうしょうぐう、此のこう天神てんじん往来おうらい要路ようろ駿しゅんしゅう田中たなかせんてきと、大井川おおいがわ一筋ひとすじへだたり。勝頼かつせかならすきうかがふべし。だれか此にざいしろまもり、てきふせぐべき、とおおせゆうけるに、松平まつだいら左近さこん忠次ちゅうじすゝみだし不肖ふしょうこうへども、此のしろまもさるべし、とさるける。御感ぎょかんゆう松平まつだいらせいたまものはり、いみなくだされ、松平まつだいら周防すおう守康もりやすおやもうせしは此のときよりのことなり。勝頼かつせ暴悪ぼうあくいんの紂王にたり。これよりおさむいれほろぼすべき、とて。」
  8. ^ いえちゅう日記にっき』は、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリーで『文科ぶんか大学だいがく叢書そうしょいえちゅう日記にっき』(明治めいじ30ねん11月25日刊にっかん校訂こうていほん)としてむことができる。なお、常山つねやまだんは、江戸えど時代じだい中期ちゅうき成立せいりつ湯浅ゆあさ常山つねやまちまたにあふれる伝聞でんぶんもとにした随筆ずいひつ史実しじつ反映はんえいしているものではない。
  9. ^ コミュニティバスの路線ろせん時刻じこくひょう”. 島田しまだ公式こうしきホームページ (2022ねん4がつ12にち). 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[ソースを編集へんしゅう]

  • 盛本もりもと昌広まさひろまつ平家ひらかただし日記にっき』(角川かどかわ選書せんしょ、1999ねん)ISBN 4-04-703304-9 / c0321
  • 増補ぞうほぞく史料しりょう大成たいせい19(いえちゅう日記にっき)』(臨川りんせん書店しょてんかん、1933ねん)ISBN 4-653-00465-X
  • 平山ひらやまゆう武田たけだ滅亡めつぼう』(角川かどかわ選書せんしょ、2017ねん

関連かんれん項目こうもく[ソースを編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[ソースを編集へんしゅう]