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いん

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いん
だい邑商
夏 (三代)
二里頭遺跡
紀元前きげんぜん17世紀せいきごろ - 紀元前きげんぜん1046ねん 西周 (王朝)
殷の位置
公用こうよう 上古じょうこ中国語ちゅうごくご甲骨文字こうこつもじ
首都しゅと いん現在げんざい安陽あんよう
ちょう
詳細しょうさいいん都城みやこのじょう参照さんしょう
おう
紀元前きげんぜん17世紀せいき - ? てんおつ
? - 紀元前きげんぜん1046ねん紂王
変遷へんせん
なつほろぼして成立せいりつ 紀元前きげんぜん17世紀せいき
しゅう反乱はんらんにより滅亡めつぼう紀元前きげんぜん1046ねん
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

いん(いん、拼音: Yīn紀元前きげんぜん17世紀せいきごろ - 紀元前きげんぜん1046ねん)は、中国ちゅうごく大陸たいりくにあった王朝おうちょう考古学こうこがくてき実在じつざい確認かくにんされている中国ちゅうごく大陸たいりく最古さいこ王朝おうちょうである。いんだいしょう(しょう、拼音: Shāng)、しょうあさいんしょうともばれる。

文献ぶんけんによれば、てんおつおう)がなつ(のおう)をほろぼし建立こんりゅうしたとされる(紀元前きげんぜん16世紀せいき以前いぜん)。紀元前きげんぜん11世紀せいきみかどからし(紂王)のだいしゅうによってほろぼされた(いんしゅう革命かくめい)。

王朝おうちょうめいいん

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いんから出土しゅつどした甲骨文字こうこつもじには、王朝おうちょうめいおよび「いん」は見当みあたらず、いん後期こうき首都しゅとめいは「しょう」とばれた。しゅう先代せんだい王朝おうちょうめいとして「いん」をもちいた。

いん」はしょう蔑称べっしょうであるとするせつがあるが、いん字義じぎ出土しゅつど文献ぶんけん用例ようれいからはそのような要素ようそ見出みだせない[1]。またいん時代じだいには「中国ちゅうごく」という言葉ことば使用しよう確認かくにんされていない(「なにみこと」を参照さんしょう)。

考古学こうこがくてき比定ひてい

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いんだいおも遺跡いせき二里にりあたまいん先行せんこうする時代じだい遺跡いせき)。いん王朝おうちょう都城みやこのじょうは、おかいん墟(安陽あんよう)。

おか文化ぶんか

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ていしゅうおか文化ぶんか紀元前きげんぜん1600ねんごろ - 紀元前きげんぜん1400ねんころ)は、だい規模きぼ都城みやこのじょう発掘はっくつされ、初期しょきしょういん王朝おうちょうていしゅうしょうじょう建国けんこくしゃてんおつ推定すいてい)と同定どうていするのが通説つうせつである[2]

偃師しょうじょう

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偃師のしかばねきょうみぞで、しょういん王朝おうちょう初期しょきていしゅうしょうじょうどう時期じき)のだい規模きぼ都城みやこのじょうつかっている。これは二里にりあたま遺跡いせきからやく6kmひがしにある。

洹北しょうじょう

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いん墟のすぐ北東ほくとう(洹水北岸ほくがん)に、いんちゅう都城みやこのじょう遺跡いせき発見はっけんされている(花園はなぞのしょうむら)。文字もじきざまずうらないぼくしたししこつ出土しゅつどしている。いんちゅういたっても文字もじ資料しりょうはほとんどまった出土しゅつどしていない。

いん

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現在げんざい安陽あんよういん墟(だい邑商)は紀元前きげんぜん1300ねんころからいん滅亡めつぼうまでの後期こうき首都しゅと。洹水南岸なんがんにあり、洹北しょうじょうのすぐ南西なんせい甲骨文字こうこつもじしょうたむろむら出土しゅつどすることが契機けいき発掘はっくつはじめられ、その地区ちく宮殿きゅうでんおよび工房こうぼうかんがえられ、首都しゅと存在そんざい推定すいていされた。都城みやこのじょう遺跡いせきつかっていない。洹水をはさんだ北側きたがわでは22だいおうたけちょう以降いこうおう発掘はっくつされている。かぶとこつぶんからもここにいたのはたけひのとだいからとかんがえられるが、『たけしょ紀年きねん』では19だいおうばんかのえによるとある。

甲骨文字こうこつもじ

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いん考古学こうこがくてき研究けんきゅういん墟から出土しゅつどするいん後期こうき甲骨文字こうこつもじ亀甲きっこうじゅうこつ文字もじ)(漢字かんじみなもと)の発見はっけんにより本格ほんかくてきはじまった。これにより、『史記しき』にいうところのいん実在じつざいせいうたがいのないものとなった[3][4]かぶとこつうらないぼくでは上甲うえこう[5]始祖しそとしてあつかわれ、てんおつとう)が建国けんこくしゃとしてきわめて重要じゅうようまつられている。

22代目だいめたけちょうより以前いぜんいん文字もじはほとんど出土しゅつどがない。ただし、ふで木簡もっかんたけ簡をあらわ漢字かんじ甲骨文字こうこつもじ確認かくにんできることから、文字もじ以前いぜんからもちいられた可能かのうせいみとめるせつもある。

いん実在じつざいした最初さいしょおうおうてんおつだいおつ)とされるが、『史記しき』ではほろ上甲うえこう以前いぜんちぎり神話しんわじょう)、昭明しょうめいあいあきらわか、曹圉、めいがいたとされる。しかし、この7めいいん後期こうき甲骨文字こうこつもじでは祭祀さいし対象たいしょうとなっていない。くわえて、7めいもちいられる文字もじ甲骨文字こうこつもじ存在そんざいしていないため、かれらやそれに付随ふずいする神話しんわしゅう以降いこう創造そうぞうされたとかんがえられる[6]

かぶとこつぶんにおいては、上甲うえこう筆頭ひっとうになっており、かれいんだいにおける「始祖しそ」であったということになる。ただし、上甲うえこう、匚乙、匚丙、匚丁、しめせみずのえしめせみずのとの6めいも、十干じっかんとおりであるため、形式けいしきてきつくられた神話しんわであるとするせつがある。とくに、上甲うえこうから匚丁は、しめせみずのえ以降いこうとはことなり、甲骨文字こうこつもじ配偶はいぐうしゃ祭祀さいしかんする記録きろくがないため、この4めいはほぼ確実かくじつ神話しんわであるとえる[6]

また、『史記しき』でおうとされるてんおつちゅうみずのえふとしかぶと沃丁も、かぶとこつぶんあらわれないため、後世こうせい創作そうさくであるとするせつがある。そして、後期こうきかぶとこつぶんあらわれる9代目だいめおう・雍己、11代目だいめおうぼくみずのえ、12代目だいめおう・戔甲は、初期しょきあらわれないため、いん後期こうき系譜けいふ追加ついかされたおうであるとするせつがある。くわえて、後世こうせいかぶとこつぶんにおける2代目だいめおうぼくへい、7代目だいめおう小甲こかぶとも、おうくらべて記述きじゅつされるれいすくないため、当初とうしょ祖先そせんとされても王位おういについていなかったとかんがえられていたとおもわれる。つまり、いん当初とうしょからおうとして実在じつざい確認かくにんできるのは、だいおつだいひのと大甲おおかぶとだいかのえだいつちのえ中丁なかちょうおつの7めいである[6]

史記しき』や『尚書しょうしょ』では、19代目だいめばんかのえ現在げんざいいん遷都せんとをし、国内こくない混乱こんらんおさめたとされているが、いん墟から出土しゅつどしたかぶとこつぶんには、22代目だいめたけちょうよりまえおう時代じだいのものが存在そんざいしないため、19・20・21代目だいめいんおういん墟にはいなかったとかんがえられ、『史記しき』や『尚書しょうしょ』の記述きじゅつ事実じじつではなかったこと、そして国内こくない混乱こんらんおさめたのはたけひのとであったことがあきらかとなった。かぶとこつぶんでは、上甲うえこうなりだいおつおう)、だいひのと大甲おおかぶとおつが「しめせ(5にん直系ちょっけい先祖せんぞ)」とされ、おつ以降いこうの「直系ちょっけい先祖せんぞ」が祭祀さいしされていない。つまり、これ以降いこう系譜けいふ成立せいりつしておらず、おつからたけひのとまでが国内こくない混乱こんらんしていたということになる。『史記しき』や『尚書しょうしょ』では、おつ名君めいくんであったとされるが、これはおついん初期しょき安定あんていした時期じき最後さいごおうであり、かく勢力せいりょくが「おつ子孫しそんであること」を正統せいとうせい根拠こんきょとしていたからであるとかんがえられる[6]

史記しき』や『尚書しょうしょ』では、おうが「亳(おか遺跡いせき)」にいたのち中丁なかちょうが「囂(隞)」、かわ亶甲が「そう」、おつが「耿」に遷都せんとしたとする。しかし、内紛ないふんはじまったのはおつ以降いこうであり、またかぶとこつぶんに亳以がい地名ちめいられないため、遷都せんとはなし後世こうせいつくられたとかんがえられる[6]

上甲うえこうは『国語こくご』のなかで「上甲うえこうほろ」とされ、いん末裔まつえいとされるそう初代しょだいおうは「ほろ」、2代目だいめおうは「ほろなか」とされる。また、「ほろ」はいんだいかぶとこつぶんにおいて「いん王朝おうちょう支配しはい土地とちまたはその領主りょうしゅ」を意味いみしている。これらのことから、落合おちあいあつしおもえいん系譜けいふ成立せいりつについて、

  • いん王朝おうちょう支配しはいにあったほろは、しゅういんほろぼしたさいしゅう加担かたんして、そのいん末裔まつえい」としてみとめられた。
  • いん末裔まつえい」としての正統せいとうせい主張しゅちょうするため、自己じこ系譜けいふいん王朝おうちょうつなげた。『史記しき』でいん王朝おうちょうとされるちぎりから上甲うえこうほろちちほろ始祖しそ神話しんわであり、いん王朝おうちょうである上甲うえこうとして系譜けいふつなげた。また、そう初代しょだいおうほろみかどからしの庶兄とされた。
  • ほろまごそう領地りょうちてその君主くんしゅになった。

という過程かてい考察こうさつしている[6]

史書ししょじょう歴史れきし

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以下いかだい部分ぶぶんは『史記しき』にもとづく。

しょう名前なまえ

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しょう名前なまえは『つうこころざし』などでいん王朝おうちょうちぎりしょうふうじられたとあるのに由来ゆらいするとされ[7]、『尚書しょうしょ』でも「しょう」が使つかわれている。

創建そうけん以前いぜん

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伝説でんせつじょういん始祖しそちぎりとされている。ちぎりは、ゆう娀氏のむすめみかどつぎであった簡狄げんとりたまごべたためにんだとされる。ちぎりみかどしゅんのときに治水ちすいを援けた功績こうせきみとめられ、みかどしゅんによりしょうふうじられせいたまわった。ゆう娀(ゆうえびす)の「えびす」は西方せいほう遊牧民ゆうぼくみん意味いみし、ゆう娀(ゆうえびす)のむすめである簡狄の「」は北方ほっぽう狩猟しゅりょうみん意味いみする[8]女神めがみ野外やがい水浴すいよくで、てんからりてきたとりたまごんで妊娠にんしんし、おとこむというのは、きたアジア狩猟しゅりょうみん遊牧民ゆうぼくみん共通きょうつう始祖しそ伝説でんせつである[8]

そのちぎり子孫しそん代々だいだいなつ王朝おうちょうつかえた。また、ちぎりからてんおつ)までの14だいあいだに8かいうつしたという。

  1. ちぎり始祖しそ
  2. 昭明てるあき - ちぎり
  3. あい - 昭明しょうめい
  4. あきらわか - あい
  5. 曹圉 - あきらわか
  6. めい - 曹圉の
  7. - めい
  8. 上甲うえこうほろほろ) -
  9. むくいおつ(匚乙) - 上甲うえこうほろ
  10. むくいへい(匚丙) - むくいおつ
  11. むくいひのと(匚丁) - むくいへい
  12. しゅみずのえしめせみずのえ) - むくいひのと
  13. しゅみずのとしめせみずのと) - しゅみずのえ
  14. てんおつ) - しゅみずのと

いんおう一覧いちらん

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いんしょう王室おうしつ系図けいず
代数だいすう (諡号しごう含) 在位ざいいねん 在位ざいい年数ねんすう
1 てんおつなり ぜん1558ねん?- ぜん1546ねん? 12ねん/29ねん
* ふとしひのと
2 そとへい ぜん1546ねん? - ぜん1544ねん? 2ねん?
3 なかみずのえ ぜん1544ねん? - ぜん1540ねん? 4ねん?
4 ふとしむねふとしかぶと ぜん1540ねん? - ぜん1528ねん? 12ねん?
5 沃丁 ぜん1528ねん? - ぜん1509ねん? 19ねん?
6 ふとしかのえ ぜん1509ねん? - ぜん1504ねん? 5ねん?
7 小甲こかぶと ぜん1504ねん? - ぜん1487ねん? 17ねん?
8 ちゅうむねふとしつちのえ ぜん1487ねん? - ぜん1413ねん? 74ねん?
9 雍己 ぜん1412ねん? - ぜん1401ねん? 11ねん?
10 中丁なかちょうなかひのと ぜん1400ねん? - ぜん1391ねん? 9ねん?
11 そとみずのえ ぜん1391ねん? - ぜん1381ねん? 10ねん?
12 かわ亶甲 ぜん1381ねん? - ぜん1372ねん? 9ねん?
13 おつ ぜん1372ねん? - ぜん1353ねん? 19ねん?
14 からし ぜん1353ねん? - ぜん1339ねん? 14ねん?
15 沃甲 ぜん1339ねん? - ぜん1334ねん? 5ねん?
16 ひのと ぜん1334ねん? - ぜん1325ねん? 9ねん?
17 みなみかのえ ぜん1325ねん? - ぜん1319ねん? 6ねん?
18 かぶと ぜん1319ねん? - ぜん1315ねん? 4ねん?
19 ばんかのえ ぜん1315ねん? - ぜん1287ねん? 28ねん?
20 しょうからし ぜん1287ねん? - ぜん1284ねん? 3ねん?
21 しょうおつ ぜん1284ねん? - ぜん1274ねん? 10ねん?
22 こうはじめたけちょう ぜん1274ねん? - ぜん1215ねん?
ぜん1190ねん? - ぜん1132ねん?
59ねん/58ねん
* おのれ
23 かのえ ぜん1215ねん? - ぜん1204ねん? 11ねん?
24 かぶと ぜん1204ねん? - ぜん1171ねん? 33ねん?
25 廩辛 ぜん1171ねん? - ぜん1167ねん? 4ねん?
26 かのえひのと ぜん1167ねん? - ぜん1159ねん? 8ねん?
27 たけおつ ぜん1159ねん? - ぜん1124ねん?
ぜん1148ねん? - ぜん1113ねん?
35ねん?
28 ふとしひのと ぜん1124ねん? - ぜん1111ねん?
ぜん1113ねん? - ぜん1102ねん?
13ねん/11ねん
29 みかどおつ ぜん1111ねん ?- ぜん1102ねん?
ぜん1102ねん? - ぜん1076ねん?
9ねん/26ねん
30 みかどからし受) ぜん1102ねん? - ぜん1050ねん?
ぜん1076ねん? - ぜん1046ねん?
52ねん/30ねん

易姓革命えきせいかくめい

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なつの桀王は暴政ぼうせいき、その治世ちせいはひどくみだれた。これにたいし、いんおうちぎりからかぞえて14代目だいめてんおつともいう)は天命てんめいけて悪政あくせいただすとして、賢人けんじんいんたすけをりて蜂起ほうきじょうせんなつぐん撃破げきはし、かく都市とし破壊はかい、こうしてなつ滅亡めつぼうした。現代げんだい考古学こうこがく調査ちょうさによると、なつ都市としのひとつであったもちきょうろう遺跡いせきでは、いんによるはげしい破壊はかい虐殺ぎゃくさつあとつかっている。遺骨いこつおおくは手足てあし刃物はもの切断せつだんされたり、かお陥没かんぼつしており、実際じっさいにはいんちからによって、中原なかはら支配しはいしゃったことがしのばれる。遺跡いせきからはなつじんのどれも毀損きそんされた遺骨いこつともいん青銅せいどう武器ぶき出土しゅつどする[9]

歴代れきだい治世ちせい

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このようにしてなつ打倒だとうしたてんおつ諸侯しょこう推挙すいきょされておうとなった。いた。

4代目だいめおうふとしかぶと暴君ぼうくんであったため、いん追放ついほうされた。のちふとしかぶと反省はんせいしたので、いんゆるした。ふとしかぶと善政ぜんせいふとしむねしょうされた。

おう雍己ときに、王朝おうちょう一旦いったんおとろえた。おう雍己のつぎおうふとしつちのえ賢人けんじんのぼる任用にんようし、善政ぜんせいつとめたことでいん復興ふっこうした。おうふとしつちのえ功績こうせきとなえて、おうふとしつちのえちゅうしゅうしょうされた。

ちゅうむね死後しご王朝おうちょうふたたおとろえた。おうおつ賢人けんじんみこけん任用にんようし、善政ぜんせいつとめ、いんふたた復興ふっこうした。

おうおつ死後しごまた王朝おうちょうおとろえた。おうばんかのえいん墟(だい邑商)に遷都せんとし、ころ善政ぜんせい復活ふっかつさせた。

おうばんかのえ死後しごにも王朝おうちょうおとろえた。おうたけちょう賢人けんじんでんせつ任用にんようし、いん中興ちゅうこうたした。たけひのと功績こうせきとなえてかれこうしゅうしょうされた。

たけひのと以降いこうおうおおむ暗愚あんぐ暴君ぼうくんであった。王朝おうちょう最後さいごみかどからし(紂王)は即位そくい妲己溺愛できあい暴政ぼうせいおこなった。そのため、しゅうたけおうに誅され(牧野まきのたたか)、いんはあっけなく滅亡めつぼうした[10]

現代げんだい考古学こうこがく調査ちょうさによると、いんうらないによって政治せいじおこない、そのため多数たすう人身御供ひとみごくう必要ひつようとした。中国ちゅうごく文字もじである漢字かんじは、ほねきざむための象形しょうけい文字もじとしてはじまった。これまでに(2012ねん現在げんざい)、すくなくとも1まん4000たいいんだい生贄いけにえ犠牲ぎせいとなった人骨じんこつ発掘はっくつされており、それらはいん以外いがいほか部族ぶぞくからせしめてき要求ようきゅうされ、献上けんじょうされた人身御供ひとみごくうであった。このような恐怖きょうふ政治せいじおおくの部族ぶぞく反感はんかんい、やがて、しゅうほろなど東西とうざい南北なんぼくやっつの従属じゅうぞく国家こっかひそかに連絡れんらくい、連携れんけいし、やがて紂王が東夷あずまえびす征伐せいばつしたすきをついて、反乱はんらん牧野まきのたたかいでいんぐん撃破げきはし、王朝おうちょう滅亡めつぼうした[11]

いん王位おうい継承けいしょう

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いん王位おうい継承けいしょうについて、『史記しき』をあらわした司馬しばは、これをかん時代じだい制度せいどめ(かん時代じだいになると、いくつかの氏族しぞく君主くんしゅ権力けんりょく共有きょうゆうすることなどかんがえられなかった)、親子おやこ相続そうぞくおよび兄弟きょうだい相続そうぞく解釈かいしゃくしたが(右記うき図表ずひょう)、後年こうねん亀甲きっこうじゅうこつ文字もじ解読かいどくから、基本きほん世襲せしゅうで、かならずしも実子じっし相続そうぞくおこなわれていたわけではなかったことが判明はんめいした。いん氏族しぞく共同きょうどうたい連合体れんごうたいであり、いん王室おうしつすくなくともふた以上いじょう王族おうぞく氏族しぞく)からなっていたと現在げんざいではかんがえられている。

仮説かせつによると、いん王室おうしつは10の王族おうぞく(「かぶと」〜「みずのと」は氏族しぞくめい解釈かいしゃく)からなり、不規則ふきそくではあるが、原則げんそくとして「かぶと」「おつ」「へい」「ひのと」(「へい」ははや時期じき消滅しょうめつ)の4つの氏族しぞくあいだで、定期ていきてきおう交替こうたいしていたとする。それ以外いがいの「つちのえ」「おのれ」「かのえ」「からし」「みずのえ」「みずのと」の6つの氏族しぞくなかから、臨時りんじ中継なかつぎのおうしたり、王妃おうひめとっていたと推測すいそくされる。

上記じょうき関連かんれんして、いん王族おうぞく太陽たいよう末裔まつえい当時とうじかんがえられており、『山海さんかいけい』のつたえる10太陽たいよう神話しんわじゅうにち神話しんわ)は、いん王朝おうちょうの10の王族おうぞく氏族しぞく)の王位おうい交替こうたい制度せいどあらわし、羿(げい)により9太陽たいようおとされる(神話しんわ)のは、ひとつの氏族しぞく権力けんりょく集中しゅうちゅう強大きょうだいしたことを反映はんえいしたものとする解釈かいしゃくもある。

滅亡めつぼう

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いん王朝おうちょうつくられたきさきははつちのえかなえはこれまでに中国ちゅうごくつかった青銅器せいどうきのうちもっとおもものである。

紂王のであるたけかのえは、しゅうおういんふうじられた。たけおう死後しごたけかのえは、たけおう兄弟きょうだいかん叔鮮蔡叔霍叔しょとも反乱はんらんこした(さんかんらん)が失敗しっぱいし、叔度以外いがい誅殺ちゅうさつされた。(叔度は追放ついほうされたがそのいだ。)そのたけかのえろくちち)の伯父おじほろけい(紂王のあに)がそうふうじられ、いん祭祀さいしつづけた。ほろけいには嫡子ちゃくしかったため、おなじく紂王のあにほろなかそうこうぐ。異説いせつもあるが、そのほろなか衍の子孫しそん孔子こうしとされ、その孔子こうし家系かけい世界せかい最長さいちょう家系かけいとして現在げんざいまでつづいている。

紂王の叔父おじ朝鮮ちょうせんわた朝鮮ちょうせん建国けんこくしたと中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでは主張しゅちょうされているが、中国人ちゅうごくじんによって朝鮮ちょうせん建国けんこくされたことになってしまうため、韓国かんこくがわだんくん朝鮮ちょうせんこそはつ王朝おうちょうであり朝鮮ちょうせんたんなる後世こうせい創作そうさくであると主張しゅちょうしている。

商人しょうにんという言葉ことばは、しょういんにんくに滅亡めつぼうしたのち生業せいぎょうとして、各地かくちわたあるき、ものっていたことに由来ゆらいするとされる。そこからてんじて、店舗てんぽたずに各地かくちわたあるいてものっていたひとを「あれはしょう人間にんげんだ」とんだことから「商人しょうにん」という言葉ことばまれたというものである。ただし、白川しらかわしずは「しょう商業しょうぎょう商賈しょうこがあるのは、ほろびいん裔がくにほろんでのち行商ぎょうしょうしたがったからであるとするせつもあるが、しょうにはしょうがあり、代償だいしょうつぐなえ贖(とく)のためにしょうおこなわれるようになり、のちにそのことが形式けいしきして、商行為しょうこうい意味いみするものとなったものとおもわれる」と否定ひていしている。

滅亡めつぼうたいするしゅう認識にんしき

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いん滅亡めつぼう理由りゆうについて、しゅうかんおう時代じだいつくられた「76だい盂鼎」の銘文めいぶんには、「わたしおう)がいたところによると、いん天命てんめいうしなったのは、いん諸侯しょこういん百官ひゃっかんがみなしゅふけり、軍隊ぐんたいうしなったからである。」とあるため、このころから「いんさけによってほろびた」という伝承でんしょう形成けいせいされていたことがわかる[12]

滅亡めつぼうねんについて

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しゅういんほろぼしたのは具体ぐたいてきなんねん出来事できごとかを推定すいていする作業さぎょうすすめられている。中国ちゅうごくなつしょう周年しゅうねんひょうプロジェクトはこの出来事できごと紀元前きげんぜん1046ねんであるとした。

ふるせつでは『たけしょ紀年きねん』におうからかそけおう西にしあまね最後さいごおう)まで257ねんという記述きじゅつがあり、かそけおうんだのが紀元前きげんぜん771ねんのことなのでいんほろんだのは紀元前きげんぜん1027ねん出来事できごととなる。また『漢書かんしょ』にはしゅうは867ねんつづいたという記述きじゅつがあり、これからは紀元前きげんぜん1123ねん出来事できごととなる。

それ以外いがいにも多数たすうせつがあり、いん滅亡めつぼう一番いちばんふる時代じだいくのは紀元前きげんぜん1127ねんもっとあたらしい時代じだいでは紀元前きげんぜん1018ねんとなっている。

政治せいじ

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いん社会しゃかい基本きほん単位たんい(ゆう)とばれる氏族しぞくごとの集落しゅうらくで、すうせんの邑がすうひゃく豪族ごうぞく王族おうぞく従属じゅうぞくしていた。いんおうおおくの氏族しぞくによって推戴すいたいされた君主くんしゅだったが、かたこくとよばれる地方ちほう勢力せいりょく征伐せいばつ外敵がいてきからの防衛ぼうえいによる軍事ぐんじ活動かつどうによって次第しだい専制せんせいてき性格せいかくびていった。また、宗教しゅうきょうにおいてもいんおうかみかい人界じんかいできる最高さいこうシャーマンとされ、後期こうきにはしゅうさい制度せいどによる大量たいりょう生贄いけにえささげる鬼神きじん崇拝すうはい発展はってんした。この王権おうけん神権しんけんによっていんおうはみずからの地位ちい強固きょうこなものにし、残酷ざんこく刑罰けいばつ制定せいていして統治とうち強化きょうかはかった。しかし祭祀さいしのために戦争せんそう捕虜ほりょ生贄いけにえささげる慣習かんしゅうが、周辺しゅうへん諸氏しょしぞくうらみをい、いんたいする反乱はんらんまねき、いん滅亡めつぼうみちびいたとするせつもある。現代げんだい考古学こうこがく調査ちょうさでは、これまでに発見はっけんされたいんによる生贄いけにえになったひとほねけい1まん4000たいにのぼる[13]

軍事ぐんじ

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いん王朝おうちょう軍隊ぐんたい氏族しぞく構成こうせいされ、いんおうによる徴集ちょうしゅうけると普段ふだん農耕のうこう従事じゅうじしていた氏族しぞく構成こうせいいん武器ぶきをとり、出征しゅっせいする軍隊ぐんたい編成へんせいした。この軍隊ぐんたい指揮しきするのはかく氏族しぞく貴族きぞくだった。

強大きょうだい軍事ぐんじりょくほこったいん王朝おうちょうは、度重たびかさなる戦争せんそう勝利しょうりおさめるために、兵種へいしゅ戦法せんぽう軍備ぐんびなどを発展はってんさせていった。そのなか特筆とくひつすべきは、「さん戦法せんぽう」という大量たいりょう戦車せんしゃ活用かつようした戦術せんじゅつである。いん王朝おうちょう歩兵ほへい中心ちゅうしん軍制ぐんせいから、戦車せんしゃ中心ちゅうしんとした軍制ぐんせい変化へんかするのは、いん支配しはいいき拡大かくだいして黄河こうがちゅう流域りゅういき中原ちゅうげんなど、戦車せんしゃ疾駆しっくさせるのにてきした平原ひらはら地帯ちたい戦場せんじょうになっていったからとかんがえられる。『りょ春秋しゅんじゅう』によるといんおうなつの桀王をったとき、「りょうしゃななじゅうじょうりょう)、必死ひっし決死けっしたいろくせんにん」があったといい、「れいさんひゃくしゃ」「いたさんひゃくしゃ」と記載きさいされたかぶとこつぶんがあることから、いち戦役せんえき出撃しゅつげきした戦車せんしゃは300りょうにもたっしていたことがうかがえる。

戦車せんしゃ歩兵ほへい共同きょうどうしてたたかいをおこなった。1りょう戦車せんしゃには3にんへいり、左側ひだりがわ兵士へいしゆみを、右側みぎがわ兵士へいしほこほこち、中央ちゅうおう兵士へいし御者ぎょしゃとなった。戦車せんしゃ部隊ぶたいは5りょう最小さいしょう単位たんいで、戦車せんしゃへい15にん付随ふずいする歩兵ほへい15にんからなっていた。100りょう戦車せんしゃ戦車せんしゃへい歩兵ほへいがそれぞれ300にん、25りょう戦車せんしゃ戦車せんしゃへい歩兵ほへいが75にんというふうに、戦車せんしゃが5の倍数ばいすうで、戦車せんしゃへい歩兵ほへいは15の倍数ばいすう編成へんせいされていた。戦車せんしゃ運用うんようほうでは「さん戦法せんぽう」がされ、これは軍隊ぐんたいひだりみぎなかの3つの部隊ぶたいけ、たがいに連携れんけいしててき対処たいしょするというものだった。

軍備ぐんびについては戦車せんしゃせんてきしたほこほこ弓矢ゆみや木製もくせいたてかたななどが使つかわれた。そのでもいん王朝おうちょうではほこほこ合体がったいさせた発明はつめいされている。ほこほこ材質ざいしつ青銅せいどうせいで、弓矢ゆみやの鏃の材質ざいしつ石器せっきほねなども使つかわれた。防具ぼうぐについては戦車せんしゃへいったままの状態じょうたい戦車せんしゃっていたため標的ひょうてきにされやすく、そのためじゅうそうすすんだ。いんだいよろい皮革ひかくから、かぶと青銅せいどうつくられている。また、てき弓矢ゆみやからまもるためにたて戦車せんしゃには用意よういされていた[14]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐藤さとう信弥しんやあまね理想りそうされた古代こだい王朝おうちょう」(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016ねん
  2. ^ 松丸まつまる道雄みちお永田ながた英正ひでまさ中国ちゅうごく文明ぶんめい成立せいりつ講談社こうだんしゃ、1985ねん、14ぺーじ
  3. ^ 松丸まつまる道雄みちお永田ながた英正ひでまさ中国ちゅうごく文明ぶんめい成立せいりつ講談社こうだんしゃ、1985ねん、57ぺーじ
  4. ^ なお20世紀せいき初頭しょとうまで、いん伝説でんせつじょう王朝おうちょうとされていた。とく19世紀せいき末期まっき中国ちゅうごく古代こだいかいではうたぐいにしえばれる『過去かこ記録きろくうたがう』方針ほうしんかんがえがつよく、『史記しき』の記述きじゅつすべ架空かくうかんがえられていた。
  5. ^ いんでは王族おうぞく有力ゆうりょくしゃたいして十干じっかんした諡号しごうもちいた。
  6. ^ a b c d e f 落合おちあいあつしおもえいん中国ちゅうごく最古さいこ王朝おうちょう』(中央公論ちゅうおうこうろん新書しんしょ、2015ねん
  7. ^ 図説ずせつ 中国ちゅうごく文明ぶんめい2 文明ぶんめい原点げんてんそうもとしゃ、2007ねん、pp.6-7.
  8. ^ a b 岡田おかだ英弘ひでひろ『だれが中国ちゅうごくをつくったか』PHP研究所けんきゅうじょPHP新書しんしょ〉、2005ねん9がつ16にち、28-29ぺーじISBN 978-4569646190 
  9. ^ 『NHKスペシャル 中国ちゅうごく文明ぶんめいなぞだい2しゅう 漢字かんじ誕生たんじょう 王朝おうちょう交代こうたい秘密ひみつ 2012ねん、3:98-
  10. ^ この時代じだい小説しょうせつにしたものが『ふうしん演義えんぎ』である。
  11. ^ 『NHKスペシャル 中国ちゅうごく文明ぶんめいなぞだい2しゅう 漢字かんじ誕生たんじょう 王朝おうちょう交代こうたい秘密ひみつ 2012ねん
  12. ^ 佐藤さとう信弥しんやあまね理想りそうされた古代こだい王朝おうちょう」(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016ねん
  13. ^ 『NHKスペシャル 中国ちゅうごく文明ぶんめいなぞだい2しゅう 漢字かんじ誕生たんじょう 王朝おうちょう交代こうたい秘密ひみつ 2012ねん、17:22-
  14. ^ 図説ずせつ 中国ちゅうごく文明ぶんめい2 いんしゅう 文明ぶんめい原点げんてん』 いねはた耕一郎こういちろう監修かんしゅう 株式会社かぶしきがいしゃそうもとしゃ 2007ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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