司馬しば

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司馬しば
司馬しば

司馬しば(しば せん、紀元前きげんぜん145/135ねん? – 紀元前きげんぜん87[1]/86ねん?[2])は、中国ちゅうごく前漢ぜんかん時代じだい歴史れきしで、『史記しき』の著者ちょしゃ

せい司馬しばは遷、ちょう[2][3]しゅうだい記録きろくがかりである司馬しば子孫しそんで、ふとしれい司馬しばだんちち[4]太初たいしょれき制定せいていや、通史つうし史記しき』の執筆しっぴつなどの業績ぎょうせきがある[4]自称じしょうは「ふとしおおやけ[5]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

家系かけい[編集へんしゅう]

とお部分ぶぶん信憑しんぴょうせいには疑問ぎもんのこるが[6]ちち司馬しばだんくなるさい遺言ゆいごんによると、司馬しば遷の家系かけいしゅん時代じだい功績こうせきげ、代々だいだい歴史れきし天文てんもんつかさど一族いちぞくであるという。はためぐみぶんおうらにつかえた司馬しば、そのまごしろおこり部下ぶかとして長平ながだいたたか従軍じゅうぐんした司馬しば(しばきん)、さらにそのまご始皇帝しこうてい時代じだい鉄鉱てっこう管理かんりする役職やくしょくにあった司馬しばあきら(しばしょう)がいる[4]司馬しばあきら司馬しばさわ(しばむえき)とい、かん長官ちょうかんいた。その大夫たいふ爵位しゃくい司馬しば司馬しば遷の祖父そふたる[4][5]

このような家系かけいにおいて、ちち司馬しばだんもさまざまなから天文てんもんえきみちろんなどのおしえを[7]かん王朝おうちょうつかえ、司馬しば遷3さいとしから[8]もとふうまでのやく30年間ねんかんにわたりふとしれい官職かんしょくていた[9]だん道家どうかてき思想しそう基礎きそに、旺盛おうせい批判ひはん精神せいしんち、先祖せんぞんだ歴史れきししょ編纂へんさん事業じぎょうへの熱意ねつい常々つねづねかかえていた[9]

生誕せいたんから少年しょうねんまで[編集へんしゅう]

司馬しば遷は、一族いちぞく代々だいだいはかがあったうちひだり馮翊なつようけんりゅうもん[10]現在げんざい陝西せんせいしょう渭南かん城市じょうし芝川しばかわ鎮)でまれた[11]かれはそこで10さいになるまえまでごし[ちゅう 1]農耕のうこう牧畜ぼくちくなど[12]つうじて壮健そうけん身体しんたいはぐくんだ[13]。9さいになるころまでにはいえじゅくでの勉学べんがくはじめた[12]

10さいときには「古文こぶん尚書しょうしょ)を誦んじた」という[12]。『尚書しょうしょ』(『しょけい』)をまなんだであるあな安国やすくに[14][ちゅう 2]当時とうじさむらいちゅうにんにあったことから、司馬しば遷は長安ながやすうつっていたとかんがえられる[15]。さらにただしなからにも師事しじし、歴史れきししょ春秋しゅんじゅう』は政治せいじ根本こんぽん原理げんり体現たいげんしたものだと主張しゅちょうするおおやけひつじがく影響えいきょうけた[11][16]

だい旅行りょこう[編集へんしゅう]

司馬しば遷は20さいごろからたび出発しゅっぱつし、東南とうなんおよび中原なかはらめぐる。このたびのきっかけはなにか、また一人ひとりなのか複数ふくすうによるものなのかは不明ふめいだが、その旅程りょていくわしくわかっている[12][17]最初さいしょこう淮(現在げんざい江蘇ちぁんすーしょう安徽あんきしょう北部ほくぶ)へき、かんしんてたはははかたずねた。つぎ江西えにしいおりやまからが疏いたきゅう見物けんぶつ[18]、さらに浙江せっこうしょうかい稽山のぼり、禹がはいったとつたわる洞窟どうくつ(禹穴)を探検たんけんしたりした[17]。こののちかれは湘江に沿ってちょうすなかった。そこでこごめはらげた汨羅こうて、また当地とうち不遇ふぐうかこった賈誼おもいをせた[17]

東南とうなん方向ほうこうたびすわえ文化ぶんかれたのち司馬しば遷はきたかい、闔閭おっとゆかりのしゅうとおとず[17]、さらに儒家じゅか発展はってんであるひとしおもむいた[12]。魯の滞在たいざい長期ちょうきわたったとおもわれる[17][19]。そのはいずれも山東さんとうしょう南部なんぶ江蘇ちぁんすーしょう北部ほくぶたる鄱、はじめ嘗君ゆかりの薛[20]、彭城(じょしゅう)をおとずれた。彭城のきたにはゆたか・沛のがあり、司馬しば遷はそこまであしばしてしょうなに曹参樊噲なつこう(滕公)の生家せいか見物けんぶつし、かれらのはなしいた[21]

その河南かなん地方ちほう開封かいふうじょしゅう)へかった。開封かいふうだいはりばれたたかし首府しゅふだったであり、土地とちひとからはた攻撃こうげき陥落かんらくした様子ようすうかがい、しんりょうくんたずねた。[22]じょしゅう戦国せんごく時代じだい末期まっきすわえ土地とちであり、ここで壮大そうだいはるさるくん古城こじょう宮室きゅうしつ見物けんぶつした[23]河南かなんのちにした司馬しば遷は西にしかったとおもわれ[24]もとゆかりゆかりの箕山みのやまのぼった[25]

登用とうよう巡遊じゅんゆう随行ずいこう[編集へんしゅう]

このたびがいつわったのかははっきりしない[26]たびからもどった3ねんの22さいごろ司馬しば遷はろうちゅう任命にんめいされる。これは定常ていじょう業務ぎょうむたないが勅命ちょくめい使者ししゃ天子てんし巡遊じゅんゆうしたがうなど、皇帝こうてい侍従じじゅうにな仕事しごとおこなった。当時とうじろうちゅうになるには2000せき以上いじょう官位かんいもの子息しそくがせるか、もしくは優秀ゆうしゅう人物じんぶつ試験しけん採用さいようされるかのふたつの方法ほうほうがあった。ちちだん官位かんいは600せきであったため、司馬しば遷は後者こうしゃ道筋みちすじ登用とうようされたとかんがえられる[26]

かれつかえるたけみかど生涯しょうがいにおいてなん巡遊じゅんゆうおこない、ろうちゅう司馬しば遷もおおくにしたがった。もとかなえ5ねんぜん112ねん)、たけみかどはたとくこう居城きょじょうとした雍でみかどまつり、みかどのぼったという崆峒をおとずれ、さらに西にしかいやすしいたった[26]翌年よくねんにはともえしょくなどの西南せいなん巡遊じゅんゆう随行ずいこうし、こんあきらまでいたった。このときたてまつ使つかいは、のちに「西南せいなんえびす列傳れつでん」にまとめられた[26][27]

ちちふうぜん[編集へんしゅう]

かんたけみかど

もとふう元年がんねんぜん110ねん)、たけみかどふうぜん儀式ぎしきけた準備じゅんびかり、武威ぶいしめす18まん騎兵きへい各地かくち派遣はけんした。この軍団ぐんだん洛陽らくよう到着とうちゃくしたさいしたがっていたちち司馬しばだんやまいたおれた。西南せいなんたてまつ使つかいからもどった司馬しば遷は洛陽らくようかった[28]

ゆかにあり、司馬しばだん先祖せんぞ事業じぎょうみちなかばでらねばならないことをなげき、司馬しば遷へぐようめいじた。そして、しゅうこうだんさだめた礼楽れいがくおとろえたさい孔子こうしあらわれ『』『しょ』『春秋しゅんじゅう』をあらわしたが、400ねん以上いじょう経過けいかしたいまはまた事績じせき記録きろくすさんでいると指摘してきした[29][30]ちちだい孔子こうしとなれといいのこし、いきった[28]

ちちのちけ、司馬しば遷はふうぜん儀式ぎしきくわわった。緱氏と嵩山たけやま祭祀さいしったかどうかはわからないが、泰山たいざんでのふうぜんには参加さんかし、その大典たいてん内容ないようを「ふうぜんしょ」にまとめた[28][31]。このたてまつ使つかいにおいて司馬しば遷はひとしおとずれ、そのくに気風きふう[32] や、ひとしじんらの情報じょうほう[28]。そのふうぜん行列ぎょうれつ北方ほっぽう巡幸じゅんこうし、遼寧りょうねい河北かわきたそしてうちこうむふるばらいたった。しょはた時代じだい整備せいびされた「直道なおみち」の北端ほくたんたり、ここで司馬しば遷はこうむきずいた要塞ようさいなどをにした[28][33]

もとふう2ねんぜん109ねん)もたけみかど各地かくちめぐり、山東さんとう半島はんとう泰山たいざんおとずれた。このとしひさごという場所ばしょ黄河こうが決壊けっかいこしたため、たけみかど百官ひゃっかんたきぎ背負しょわせてかい修復しゅうふく工事こうじおこなった。司馬しば遷もこれに付随ふずいし、のちに「かわみぞしょ」をかせる体験たいけん[34]

ふとしれい拝命はいめい[編集へんしゅう]

ちちから3ねんもとふう3ねんぜん108ねん)、司馬しば遷はふとしれい官職かんしょく継承けいしょうした。かれ才能さいのうたかわれており、ちちくなるさいに「ふとし任命にんめいされる」とべていたが、3ねんふく期間きかんとしてかれた[35]かれ就任しゅうにんするや、友人ゆうじんらに政治せいじへの参加さんかすすめた。そのなか一人ひとり・摯峻とわした手紙てがみのこっている。司馬しば遷は君子くんし最上さいじょうかたとくてることであり、その実現じつげんのために君主くんしゅへのはたらきかけをすべきとく。摯峻は有能ゆうのうものげられる時代じだいたが、わたし気楽きらくごしたいと返答へんとうさそいにおうじなかった[35]。この当時とうじ司馬しば遷は血気けっきさかんであり、にんやすへの手紙てがみにて、私的してきことかえりみず職務しょくむ専念せんねんたけみかど期待きたいこたえるとかんがえていたとべている[35]

実際じっさいふとしれいとなったかれおおくの書籍しょせき文書ぶんしょれることを仕事しごととし[36]豊富ほうふ知識ちしきをさらに収集しゅうしゅうした。一方いっぽうもとふう4ねんぜん107ねん)、5ねんぜん106ねん)のたけみかど巡遊じゅんゆうにもしたがい、各地かくちまわった[35]

改暦かいれき史記しき編纂へんさん開始かいし[編集へんしゅう]

太初たいしょ元年がんねんぜん104ねん)、司馬しば遷はひとつの事業じぎょう完成かんせいさせ、あらたな事業じぎょうかったとしであった。前者ぜんしゃ太初たいしょれき制定せいていであり、後者こうしゃは『史記しき執筆しっぴつ着手ちゃくしゅしたことである。太初たいしょれきは、年初ねんしょなつこよみであるはる正月しょうがつ固定こていし、じゅうよん節気せっきれる[37] ことで、各月かくつき朔日さくじつじゅうにちがつまつ確定かくていさせた。中国ちゅうごくにおける時間じかん感覚かんかく基礎きそとなったこのこよみ制定せいていには30-40めい人間にんげんかかわり、公孫こうそんきょうひろしつぼとげから落下らっか閎ら専門せんもんつらねたが、司馬しば遷は「わたしつぼとげりつれき制定せいていした」とべており[38]主導しゅどうてき役割やくわりたしたとかんがえられる[39]

司馬しば遷の先祖せんぞ天文てんもんつかさどり、ほしれき観測かんそく歴史れきし重要じゅうよう仕事しごとのひとつであった。太初たいしょれき制定せいていは、ちち遺言ゆいごんである祖先そせん事業じぎょう実現じつげんする一環いっかんであり、また孔子こうし言葉ことばなつこよみただしい」[40]実現じつげんするものでもあった[39]

そして、司馬しば遷はいよいよ『史記しき』にかった[39]。20さいごろからのだい旅行りょこう、そして仕官しかんたけみかど巡遊じゅんゆう随行ずいこうし、前漢ぜんかん支配しはい中国ちゅうごくのほぼ各地かくち歴訪れきほうしていた[35]かれは、旅先たびさき土地とち長老ちょうろうたずねては故事こじき、ふとしれいとして各種かくしゅ史料しりょうとおし、過去かこおもいをめぐらせていた[28]史記しき執筆しっぴつはじまってからもたけみかど巡幸じゅんこう毎年まいとしのようにおこなわれ、司馬しば遷もさらに知見ちけんんだ[28]

りょうわざわい[編集へんしゅう]

前漢ぜんかんにとって民族みんぞくとのあらそいは重要じゅうよう問題もんだいだった。司馬しば遷が『史記しき』にはじめた太初たいしょ元年がんねん西域せいいき征伐せいばつかりはじめたとしでもあり[28]将軍しょうぐんひろたけみかどちょうであった夫人ふじんあに)による遠征えんせいによって太初たいしょよんねんぜん101ねん)に区切くぎりがつくと、今度こんど匈奴きょうどけられた[41]匈奴きょうど且鞮こうたん当初とうしょこそ従順じゅうじゅん態度たいどせた[42]。しかし翌年よくねんかん使者ししゃむかえた匈奴きょうど態度たいど高慢こうまんで、しかもわるいことにたん于のははへの脅迫きょうはくてき工作こうさく露見ろけんしてしまい、かん匈奴きょうど関係かんけい悪化あっかした。天漢てんかんねんぜん99ねん)にたけみかど派兵はへい決断けつだんしたが、ここでりょう単独たんどく行動こうどうねがた。結果けっかてきたけみかどかれ配下はいか5000の歩兵ほへい出陣しゅつじんゆるし、りょうてきしんくにはいって情報じょうほう収集しゅうしゅうなどに成果せいかげた。しかし、3まんえるてきぐん遭遇そうぐう包囲ほういされてしまい、かれはげしいたたかいをりながら退却たいきゃくつづけた。匈奴きょうど打撃だげきあたえたかれであったが、裏切うらぎりもあって、ついには投降とうこうみちえらんだ[43][44]

たけみかど方針ほうしんはんしてもうたたかいにやぶれたかぎ自刃じじんすべきところを[45]りょう投降とうこうしたというほうれ、おこったたけみかど臣下しんか処罰しょばつ下問かもんした。みなりょう非難ひなんするなか司馬しば遷はただ一人ひとりかれ弁護べんごした[44]

りょうごとおやこうあずかしんじつね奮不顧身以殉國家こっかきゅう。其素しょ畜積也,ゆう國士こくしふうこん舉事いち不幸ふこうぜん軀保妻子さいししんずい而媒糱其たんまことつう也!且陵ひさげ步卒ほそつ不滿ふまんせんふか輮戎そもそもすうまんこれとりこすくい扶傷ひま,悉舉引弓みんども攻圍こういてん千里せんりつきどうきゅうちょう空拳くうけんおかせ白刃はくじんきたくびそうてきとくじん死力しりょく,雖古名將めいしょう也。雖陷はいしか其所摧敗またあし暴於天下でんかかれ不死ふしむべ欲得よくとくとう以報かん也。 — 『漢書かんしょ』「ひろけんでん」21[46]

司馬しば遷は、りょう人格じんかく献身けんしんさをげて国士こくしだとめ、いち敗北はいぼくをあげつらうこと非難ひなんした。5000にたない兵力へいりょくだけで匈奴きょうど窮地きゅうちおちいりながらも死力しりょくをふりしぼりてき打撃だげきあたえたかれには、過去かこ名将めいしょうといえどもおよばない。自害じがい選択せんたくをしなかったことは、きてかえり、ふたたびかんのためにたたかうためであるとべた[44]

しかしこれはぎゃく効果こうかだった。はんするりょう擁護ようごげかけられたうえ司馬しば遷がう「過去かこ名将めいしょう」のくだりを、たけみかどたい匈奴きょうどせん功績こうせきすくなく[44]りょう救援きゅうえんしなかったひろ非難ひなんしているものとめた[45]たけみかどいのちによって、即座そくざかれ獄吏ごくり連行れんこうされた[44]高官こうかんであったが、司馬しば遷には賄賂わいろおくれるほど財力ざいりょくく、友人ゆうじんなかにもべるものはいなかった[44]

だが、天漢てんかんさんねんぜん98ねん)になるとたけみかどかんがえをあらため、びた部下ぶか恩賞おんしょうあたえ、りょうすくったがこれは成功せいこうしなかった。ところが、ある匈奴きょうど捕虜ほりょから、りょう匈奴きょうどへい軍事ぐんじ訓練くんれんほどこしているとの誤報ごほう[ちゅう 3] がもたらされ、事態じたい一変いっぺんした。たけみかど激怒げきどし、りょう一族いちぞくすべ処刑しょけいされた。そしてこのるい司馬しば遷にもおよび、かれには宮刑きゅうけいくさけい)がしょされた[44]

この処罰しょばつは、司馬しば遷にとって大変たいへん屈辱くつじょくだった。かれは、ひとりかかる様々さまざま恥辱ちじょくなかでも男性だんせいほこりをうばくさけい最低さいていなものだとった[47]。そして、宮刑きゅうけいしょされたものはもはや人間にんげんとしてあつかわれない存在そんざいだとべた[44]。ここまでの絶望ぜつぼうさらされながらも、司馬しば遷は自害じがいにははしれなかった。かれには、ちち遺言ゆいごんでもある『史記しき』の完成かんせいという使命しめいまえに、えてきるみちえらんだ[44]

漢書かんしょ』では、司馬しば遷処ばつ背景はいけいには執筆しっぴつちゅうの『史記しき』にて「けいみかど本紀ほんぎ」をしるしたが、その内容ないようちちけいみかど否定ひていてきひょうしていたことったたけみかどおこって削除さくじょさせたとい、これにりょうけんかさなって厳罰げんばつせられたという。しかしこのせつには確証かくしょう[45]

史記しき』の完成かんせいとその[編集へんしゅう]

牢獄ろうごくつながれてから4ねんふとはじめ元年がんねんぜん96ねん)6がつ大赦たいしゃによって司馬しば遷は釈放しゃくほうされた。そしてかれには中書ちゅうしょれいにんくだった。宮中きゅうちゅう文書ぶんしょあつかい、皇帝こうてい奏上そうじょうする文書ぶんしょ、またぎゃく皇帝こうていみことのり接受せつじゅする中書ちゅうしょれいは、ふとしれいよりもはるかに重要じゅうようなポストだったが、宦官かんがんにな役職やくしょくであるこのにん司馬しば遷にとって屈辱くつじょくであった[48]

史記しき』の執筆しっぴつみながら、ふとしはじめねんぜん95ねん)からの3年間ねんかん司馬しば遷はたけみかど巡遊じゅんゆうにつきしたがった。ふとしはじめよんねんぜん93ねん)に泰山たいざんからもどった司馬しば遷は、にんやすからっていた手紙てがみ返書へんしょ(『ほうにんしょうきょうしょ』)をいた。にんやす手紙てがみとは、たか地位ちいにあるにもかかわらず司馬しば遷が有能ゆうのう人物じんぶつ推挙すいきょしていないことをめたものだった。かつてふとしれい着任ちゃくにんしたころ人材じんざい発掘はっくつおこなっていた司馬しば遷だったが、このときには五体ごたいとなった自分じぶんにはその資格しかくいとことわった[48]つづけてかれは、自分じぶんかんがえをべた。

自分じぶんおそれない。あの事件じけんときえらぶのはじつ簡単かんたんだったが、もしんでしまっては自分じぶんいのちなどきゅうとううし一本いっぽん価値かちすらなかった。ぬことがむずかしいのではない、対処たいしょすることがむずかしかったのだ。んでしまえば史記しき完成かんせいさせることが出来できず、仕事しごと途中とちゅうのままでわるのを自分じぶんはもっともはじとした」とべ、さらに「いま自分じぶんはただ、『史記しき』の完成かんせいのためだけにながらえているであり、このほん完成かんせいさせることが出来できたなら、自分じぶんきにされようともかまわない。」 — 『漢書かんしょ』「司馬しば遷傳」21-27[49]

この手紙てがみなかで、司馬しば遷は『史記しき』をおよそ130へんべている[50]。『史記しき』のなか司馬しば自身じしんふでかんがえられるもっとおそ出来事できごと記述きじゅつは、せい3ねんぜん90ねん)にひろ匈奴きょうど降伏ごうぶくしたたたかいであった[51]。また「ふとしおおやけ自序じじょ」にて、やく130へん536,500の『史記しき』を名山めいざんぞうし、副本ふくほん京師けいしいたとある[52]。これらのてんから、にんやすへの返書へんしょいたときにはほぼかたちになっていたが、『史記しき』が完成かんせいしたのはその4ねんぜん90ねんであり、字数じすうしるし、本書ほんしょうつしのみにまとめたうえふでいたとかんがえられる[48]

史記しき完成かんせい司馬しば遷がいつまで、どのようにきたかははっきりしていない[48]王国おうこくは『観堂かんどうしゅうりん』にて、司馬しば遷のたけみかど崩御ほうぎょぜん87ねん前後ぜんこうではないかとしるした[1]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

旅行りょこうそして探検たんけん[編集へんしゅう]

司馬しば遷は20さいから各地かくちめぐたびはじめ、役人やくにん登用とうようされてからもたけみかどしたがって様々さまざまおとずれた。この旅行りょこうかんのほぼ全土ぜんど網羅もうらし、四川しせん中部ちゅうぶ雲南うんなんなど当時とうじ未開みかいえる場所ばしょにまでいたっている。そしてこれは放浪ほうろうなどではなく、かれ各地かくち丁寧ていねいまわり、資料しりょう調しらべ、古老ころうなど様々さまざま人々ひとびとはなしいた。これらかさねた調査ちょうさは『史記しき』に反映はんえいされた。いわばかれ著述ちょじゅつ以前いぜんに、だい旅行りょこうであり探検たんけんでもあった[53]

しかし、このたび紀行きこうぶん風土記ふどきのようなかたちにはまとめられなかった。司馬しば遷がふでった目的もくてき歴史れきし記述きじゅつであり、そのために個人こじん直接的ちょくせつてき観察かんさつはそのなか消化しょうかされてしまった。また、特定とくてい歴史れきしてき事件じけん土地とち環境かんきょうからしるすこともしなかった[53]

孔子こうしからの影響えいきょう[編集へんしゅう]

ちちから「だい孔子こうしたれ」と厳命げんめいされた司馬しば遷は、すでわかころから儒教じゅきょう教育きょういくけ、その影響えいきょうつよけた。具体ぐたいてきには、『史記しき』において人物じんぶつ出来事できごと判断はんだん基準きじゅんに、おお孔子こうし言葉ことば導入どうにゅうしている。これらは、『春秋しゅんじゅう』『れい』『論語ろんご』から出典しゅってん不明ふめいなものまでをふくめ、なにかしらの論評ろんぴょうにおいて「孔子こうしはこうった」と引用いんようしたり、またはみずからが意見いけんべる形式けいしき孔子こうし著作ちょさくから言論げんろん襲用しゅうようしているかたちかれたりしている[54]とく司馬しば遷は、孔子こうし思想しそうにおいて六芸りくげい(「」「しょ」「れい」「らく」「えき」「春秋しゅんじゅう」に大別たいべつする文化ぶんかてき伝統でんとう[ちゅう 4])を重視じゅうしし、孔子こうしげんりて六芸りくげいこそがひとまさしくみちびくと[55]、これらを歴史れきしてき事象じしょう人物じんぶつ評価ひょうかする基準きじゅんもちいた[56]

そして司馬しば遷と孔子こうしあいだには、「もとめず、時流じりゅう迎合げいごうしない」という共通きょうつう性質せいしつれる。『史記しき』「孔子こうし」では、孔子こうしいちぎょう旅先たびさき苦難くなんにあったとき弟子でしみつぎがもっと妥協だきょうして仕官しかんされるようすべきと進言しんげんしたがこれをけ、もちいられないのは為政者いせいしゃであり、信念しんねんつらぬくべきというかおふち言葉ことばおおいに賛同さんどうする場面ばめんがある[57][58]司馬しば遷がつらぬいた信念しんねんとは「中立ちゅうりつてき立場たちばから歴史れきし必然ひつぜんる」[59] または「大所たいしょから鑑定かんてい選別せんべつ判断はんだんおこなう、いわゆる「識」を発揮はっきする」[60] てんにあったという意見いけんがある。りょうわざわいでは、かれ妥協だきょうしとせず、ばっみずからにおよ可能かのうせいがありながら、りょう評価ひょうかをこの視点してんからべた。『ほうにんしょうきょうしょ』も、たけみかど皇太子こうたいしあらそったさい中立ちゅうりつまもったにんやす共感きょうかんしてかれたとも[59]

孔子こうしたか評価ひょうかする司馬しば遷は、『史記しき』において本来ほんらい世襲せしゅうされた系譜けいふしるす「」のなかに、その原則げんそくはんして「孔子こうし」をいた。かれは、家系かけいてきつながりと同様どうよう思想しそうつながりを重視じゅうしし、孔子こうしを「」にふくめた[60]

しかし、かならずしもそのろん批判ひはんれたわけではない。『史記しき』は孔子こうしが『春秋しゅんじゅう』をいたさい基準きじゅんとした大義名分たいぎめいぶんのっとらず、事実じじつ重視じゅうしする態度たいどつらぬいている。「はくえびす列伝れつでん」のなかで、司馬しば遷は『春秋しゅんじゅう』にしるされていない人物じんぶつもとゆかりつとむこう実在じつざいしたとみとめている。また、餓死がししたはくえびす・叔斉についても孔子こうしが「うらみがなかった」とろんじたのにたいし、司馬しば遷は「うらみがあった」とことなる見解けんかいしるした[61]

」をこの[編集へんしゅう]

司馬しば遷から1世紀せいきほど文人ぶんじんあげゆうは、『ほうげん君子くんしへんにて「ちょう司馬しば遷の)はあいす」としるした。司馬しばさだも『史記しきさくかくれじょにて、「(司馬しば遷は)このむ」といた。ここでう「」とはめずらしいものやまれなものをすが、司馬しば遷はとく人物じんぶつなかにある「」、すなわちるいまれ才能さいのうおもきをいた[62]。この傾向けいこうは、思想しそうてきこのまない人物じんぶつ敗者はいしゃ悪評あくひょうけた人物じんぶつ評価ひょうかにもてはめられた。たとえば司馬しば遷の思想しそうとは相容あいいれない法家ほうかかんにも賞賛しょうさんくわえている。それどころか、非情ひじょう役人やくにんでありかれ自身じしんにもけいほどこした獄吏ごくりなかにさえ人物じんぶつ見出みいだし「酷吏こくり列伝れつでん」をしるした。ここには、司馬しば遷がっていた『史記しき』にかう私情しじょうはいした一貫いっかんする態度たいどあらわ[62]

司馬しば遷がもっとも「」を見出みいだした人物じんぶつ項羽こううひろであり、とく前者ぜんしゃ歴史れきしじょうにおいて敗者はいしゃでありながら、本来ほんらい皇帝こうてい伝記でんきである「本紀ほんぎ」のひとつとしてしるされている[63]才気さいきみなぎり、英雄えいゆうてき生涯しょうがいおくりながら最後さいご劉邦りゅうほうやぶみずかくびを刎ねた項羽こううたかげたてんは、司馬しば遷が浪漫ろうまんてき性質せいしつあらわれたいちめんともひょうされている[62]

なま没年ぼつねんせつ[編集へんしゅう]

生年せいねん[編集へんしゅう]

司馬しば遷の生年せいねんについては複数ふくすうせつがある。そのなかでも、けいみかど中元ちゅうげんねんぜん145ねん)とけんもとろくねんぜん135ねん)のせつ有力ゆうりょくであり、これらはいずれも『史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」14じょうの「そつ三歲而遷為太史令,(中略ちゅうりゃく)。ねん而當太初たいしょ元年がんねんちちから3ねんたいれいとなり、)」[30] という箇所かしょに、とうだいにつけられた註釈ちゅうしゃくもとになっている。司馬しばさだ史記しきさくかくれ』は「そつ三歲而遷為太史令」の箇所かしょに「司馬しばとし28、3ねん6がつおつ、600せきじょせられる」としるした。ちょうまもるぶし史記しき正義まさよし』は「ねん而當太初たいしょ元年がんねん」の箇所かしょに「あんずるに、司馬しば遷は、とし42さい也」としるした。司馬しばだんもとふう元年がんねんぜん110ねん)であるから、その3ねんに28さいという『さくかくれ』によれば、生年せいねんまえ135ねんとなる。一方いっぽう太初たいしょ元年がんねんまえ104ねんであり、42さいと註された『正義まさよし』によれば、生年せいねんまえ145ねんとなる[64]

ちょう以下いかてんしめして、ぜん135ねんせつ支持しじした。

  • 漢書かんしょ』「司馬しば遷傳」25じょうにあるにんやすへの返書へんしょにて、司馬しば遷は「のみしつおやわかくして両親りょうしんうしなう)」といている[47]ぜん145ねん生誕せいたんせつだとちち死去しきょさい司馬しば遷は36さいわかいとはえない。ぜん135ねん生誕せいたんせつならば26さいとなり辻褄つじつまう。
  • 漢書かんしょ』「司馬しば遷傳」23じょうにあるにんやすへの返書へんしょにて、司馬しば遷は「とくまちざい輦轂じゅうねん矣(天子てんしつかえること、20すうねん)」といている[65]。この手紙てがみふとしはじめよんねんぜん93ねん)にかれており、一方いっぽう司馬しば遷がろうちゅうになったのは20さいだい前半ぜんはんである。つまりこの手紙てがみは40さいだいかれたとかんがえるほう自然しぜんであり、50さいえてしまうまえ145ねん生誕せいたんせつでは無理むりがある。
  • 故事こじならったというあな安国やすくに博士はかせになった時期じきを、王国おうこくもとひかり - もとついたち年間ねんかんぜん134ねん - ぜん129ねん)と考証こうしょうした。司馬しば遷が10さいときあな安国やすくにおしえをけ「古文こぶんを誦んじた」[12] ならば、ぜん135ねん生誕せいたんせつほう可能かのうせいたかい。
  • 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」12じょう司馬しば遷は、20さいだい前半ぜんはんまでを年齢ねんれいだけでいている[12]。そしてじょうちちぜん110ねん)にれるが、ぜん145ねん生誕せいたんせつならばこのとき35さいであり、みずからについてかれないじゅうすうねん空白くうはくしょうじる。12じょうではろうちゅう任命にんめいからすぐたけみかど巡遊じゅんゆうしたがったようかれていること[12] からも、空白くうはくしょうじないぜん135ねん生誕せいたんせつ妥当だとうかんがえる。
  • 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」11じょう文章ぶんしょうは、司馬しばだんふとおおやけいたのち司馬しば遷をもうけたかのようにかれている[36]ぜん145/135ねんりょう生誕せいたんせつでは、後者こうしゃほう乖離かいりすくない。
  • 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」13じょう司馬しばだん息子むすこかた内容ないようおしえをれるものであり、36さいぜん145ねん生誕せいたんせつ)よりも26さいぜん135ねん生誕せいたんせつ)にたいする言葉ことばほうがふさわしい。
  • もとふう3ねんぜん108ねん)にたいれいとなった司馬しば遷は、摯峻らに出仕しゅっしすすめた。このような行動こうどうは、ぜん145ねん生誕せいたんせつによる38さいにしては血気けっきさかんである。
  • かくかいくに長安ながやすったことはなかった。かれ姿すがた司馬しば遷はたとべているが、二人ふたり接点せってんかくかいもとついたち2ねんぜん127ねん)に親族しんぞく司馬しば遷の生地きじなつよう退避たいひさせたときかんがえられる。一方いっぽう司馬しば遷は10さいには長安ながやすたとかんがえられ、ぜん145ねん生誕せいたんせつるとそれはまえ135ねんであり、なつ司馬しば遷はかくかいことはできない。
  • 司馬しば遷がかばったりょう友人ゆうじんであったが、かれ祖父そふひろもとかり4ねんぜん119ねん)にろくじゅうすうさいくなっている。そのまご親交しんこうがあるならば、27さいぜん145ねん生誕せいたんせつ)よりも17さいぜん135ねん生誕せいたんせつ)のほうがふさわしい。
  • 王国おうこく維は『さくかくれ』をだいいちきゅう史料しりょう評価ひょうかしつつも、「とし28」が「とし38」の誤植ごしょくとしており矛盾むじゅんする。『正義まさよし』の「42さい」という表記ひょうきについて、あるとししてそのとき人物じんぶつなんさいであるという註は非常ひじょうにまれであり、ちょうはこれを、ちょうまもるぶし司馬しば遷の生涯しょうがいが42さいまでであったことべていると主張しゅちょうした。

司馬しば遷の生地きじである陝西せんせいしょうかん城市じょうしでは紀元前きげんぜん145ねん生誕せいたんせつり、2010ねん民間みんかん伝承でんしょうつたわる誕生たんじょう旧暦きゅうれき2がつ9にちに、生誕せいたん2155ねん記念きねん行事ぎょうじおこなった[66]

没年ぼつねん[編集へんしゅう]

司馬しば遷の没年ぼつねん明瞭めいりょうではない。『史記しき』に記述きじゅつされたもっとおそ事件じけんころにはきていたとかんがえがちだが、どうには後年こうねん補筆ほひつおおい。ひとつの考察こうさつとしてたけみかどをどのようにあらわしているかというてんから検討けんとう可能かのうである。『ふうぜんしょ』で司馬しば遷はたけみかどを「いま皇帝こうてい」という意味いみの「今上きんじょう」と表記ひょうきしている。「たけみかど」としるされた『こう武本たけもとおさむ』はこの『ふうぜんしょ』のうつしであり、後年こうねんくわえられた可能かのうせい否定ひていできないが、『まもる將軍しょうぐん驃騎列傳れつでん』など補筆ほひつかんがえにくい箇所かしょでも「たけみかど」が使つかわれるてんから、司馬しば遷はたけみかど死後しご諡号しごうおくられたときにはきていたとかんがえられる[67]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 史記しき』「ゆう俠列でん」16にて、司馬しば遷はかくかいたとう。かくかいまえ126ねん母方ははかた家族かぞくなつ避難ひなんさせた。目撃もくげきはこのときこと推測すいそくされ、司馬しば遷がなつようにいた傍証ぼうしょうとなる。( (1988)、pp.136-137
  2. ^ 王国おうこくは『ふとしおおやけつなぎねんこうりゃく』にて、あな安国やすくにが臨淮の太守たいしゅとなった時期じき司馬しば遷との接点せってんったと考察こうさつしている。ただし王国おうこく維は司馬しば遷を紀元前きげんぜん145ねんまれの当時とうじ20さいいた。( (1988)、pp.69-70
  3. ^ 匈奴きょうど練兵れんぺいおこなった人物じんぶつりょうではなく、別人べつじんくだはたいとぐちであった。( (1988)、pp.227-228
  4. ^ この六芸りくげい具体ぐたいてきしるしたしょ六経りくけい(『詩経しきょう』・『しょけい』・『れいけい』・『らくけい』・『えきけい』・『春秋しゅんじゅうけい』)である。( (1988)、p.93

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 影山かげやま輝國てるくに史記しき』「しょうしょう年表ねんぴょうたおせしょこう」『東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きようだい149かん東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2006ねん3がつ、1-42ぺーじdoi:10.15083/00026981ISSN 05638089NAID 1200008724712022ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
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  5. ^ a b 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」2
  6. ^ (1988)、p.46
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  8. ^ 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」3
  9. ^ a b (1988)、pp.52-58、だいしょう 司馬しば遷のちち 3.批判ひはん精神せいしん道家どうか立場たちば
  10. ^ シャヴァンヌ(1975)、p.34、だいせつ 司馬しば遷、司馬しば遷の故郷こきょう
  11. ^ a b 鍾 (2005)、pp.159-161、18司馬しば苦悩くのう覚悟かくごによってまされた歴史れきしへの観察かんさつ
  12. ^ a b c d e f g h 史記しき』「ふとしおおやけ自序じじょ」12
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

読書どくしょ案内あんない[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ
  • 史記しき 司馬しば遷(きゅう邦題ほうだい司馬しば遷とかんたけみかど、1995ねん中国ちゅうごくえんじチョウ・ヨンリー

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]