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春秋しゅんじゅう

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儒家じゅか経典きょうてん
五経ごきょう つて
きゅうけい
えき
しょ

れい儀礼ぎれい/しゅうあや
春秋しゅんじゅう
れい
春秋しゅんじゅうひだりでん
春秋しゅんじゅうこうひつじでん
春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ
ななけい じゅうけい
論語ろんご
こうけい
しかみやび
じゅうさんけい
孟子もうし

春秋しゅんじゅう』(しゅんじゅう)は、古代こだい中国ちゅうごくあずまあまね時代じだい前半ぜんはん(=春秋しゅんじゅう時代じだい)の歴史れきししるした、編年体へんねんたい歴史れきししょである。一方いっぽうで、儒教じゅきょうにおいてはたんなる歴史れきししょではなく、孔子こうし制作せいさく関与かんよした思想しそうしょであるとされ、儒教じゅきょう経典きょうてん五経ごきょうまたは六経りくけい)のひとつ『春秋しゅんじゅうけい』として重視じゅうしされる。『春秋しゅんじゅう』がまれるさいかならず、みっつの伝承でんしょう流派りゅうはによる注釈ちゅうしゃく春秋しゅんじゅうさんつて」のいずれかとともにまれる。『春秋しゅんじゅう』は、春秋しゅんじゅうがくばれる学問がくもん領域りょういき形成けいせいするほどに、伝統でんとうてき議論ぎろんまとになってきた。

概要がいよう

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春秋しゅんじゅう』があつか年代ねんだいであることから、「春秋しゅんじゅう時代じだい」という名称めいしょうまれた。

儒教じゅきょうにおいては、『春秋しゅんじゅう』は孔子こうしによって制作せいさくされた、もしくは原初げんしょの『春秋しゅんじゅう』があってそこにから孔子こうしくわえたとされる。しかしながら、孔子こうしくわえる以前いぜん原初げんしょの『春秋しゅんじゅう』はすで散佚さんいつしており、孔子こうしが『春秋しゅんじゅう』のどこにくわえて経書けいしょの『春秋しゅんじゅう』にしたのか、不明ふめいなところもおおい。

春秋しゅんじゅう』の内容ないようは、おう諸侯しょこう死亡しぼう記事きじ戦争せんそうかいめいといった外交がいこう記事きじ、およびわざわい異説いせつにもとづく日食にっしょく地震じしん洪水こうずいいなごがいといった災害さいがい記事きじしゅたる内容ないようで、その体裁ていさいは、年月日ねんがっぴごとに淡々たんたんかれた年表ねんぴょうあるいは官報かんぽうのような体裁ていさいである。そのような淡々たんたんとした記述きじゅつ背後はいごに、孔子こうし思想しそうかくされているとされる(#春秋しゅんじゅうがく)。

記事きじにされる出来事できごと魯国での出来事できごと中心ちゅうしんとしており、紀年きねんほうも魯国の君主くんしゅ在位ざいいとしもちいられている。あつかわれる時代じだいは、うえ魯のかくれこう元年がんねん紀元前きげんぜん722ねん)から、したあいこうじゅうよんねん紀元前きげんぜん481ねんの「」とばれる出来事できごと)までの242年間ねんかんにわたる。(ただし、後述こうじゅつの『ひだりでん』の春秋しゅんじゅうだけは、「麟」の2ねん孔子こうし死去しきょまであつかう。)

体裁ていさい

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春秋しゅんじゅう』は、「としぶし)・がつにち - 記事きじ」という体裁ていさいをとっている。

  • とし:魯国の君主くんしゅ、魯公の在位ざいいによる紀年きねん使つかわれている。
  • ときぶし。つまり四季しきの「はるなつあきふゆ」が使つかわれている。よんくびがつうえにのみかれ、くびがつ四季しきはじめのつきはる正月しょうがつなつよんがつあきなながつふゆじゅうがつ)に記事きじがない場合ばあいおなぶしつぎつきうえかれる。ひとつのぶしひとつも記事きじがない場合ばあいは、「はる正月しょうがつ」などとくびがつうえかれる。
  • つき:「正月しょうがつがつさんがつ…」が使つかわれる。
  • にち:「甲子きのえねおつうしへいとら…」といった干支えと使つかわれる。
  • 記事きじみじか構成こうせいされ、事実じじつ羅列られつ終始しゅうししている。主観しゅかんてきかたりすくない。
  • おうはる一番いちばんはやいつきいちだけかれる文字もじ。(春王はるおう正月しょうがつ春王はるおうがつ春王はるおうさんがつのどれかになる)これはしゅう王朝おうちょうこよみしたがっていることをしめしているとされる。

れいとして、かくれこう元年がんねんねんげる(ぶんは『ひだりでん』のものにしたがう)。

とし 四季しき つき 記事きじ
元年がんねん はる おう正月しょうがつ
さんがつ おおやけ及邾ちちめい于蔑 かくれこうは蔑で邾のちちめいわした)
なつ 五月ごがつ ていはくかつだん于鄢 ていはくが鄢でだん勝利しょうりした)
あき なながつ 天王てんのう使おさむ咺来かえりめぐみおおやけ仲子なかご しゅうおうおさむの咺を派遣はけんしてめぐみおおやけ仲子なかごへの葬儀そうぎおくものとどけさせた)
きゅうがつ 及宋じんめい于宿 宿やどそうひとめいわした)
ふゆ じゅうゆうがつ まつりはくらい まつりはく来訪らいほうした)
公子こうしえきそつ 公子こうしえきくなった)
ねん はる 公会こうかいえびす于潜 かくれこうせんえびす会合かいごうした)
なつ 五月ごがつ 莒人いれむこう (莒のひとむかいはいった)
駭帥にゅうきょく 駭が軍隊ぐんたいひきいてきょくはいった)
あき はちがつ かのえたつ おおやけ及戎めい于唐 かくれこうとうえびすめいわした)
きゅうがつ きのきれ繻来ぎゃくおんな きれ繻がおおやけおんなむかえに来訪らいほうした)
ふゆ じゅうがつ はくひめ于紀 はくひめとついだ)
紀子のりこ帛莒めい于密 帛と莒子がみつめいわした)
じゅうゆうがつ おつ 夫人ふじん 夫人ふじんくなった)
ていじんまもる ていひとまもるった)

書名しょめい由来ゆらい

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正確せいかくところ不明ふめいとされている。『ひだりでん』に注釈ちゅうしゃくほどこしたもりあずかによると、「春秋しゅんじゅう」とは春夏秋冬しゅんかしゅうとうなかの、はるあきとをって、「とし」をあらわしたものとされている。「春秋しゅんじゅう」の名称めいしょうは、(1)『ぼくあきらおにへんに「しゅうの『春秋しゅんじゅう』・つばめの『春秋しゅんじゅう』・そうの『春秋しゅんじゅう』・ひとしの『春秋しゅんじゅう』」または「ひゃくこく春秋しゅんじゅう」とあるように、春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい諸国しょこくでこの書名しょめいもちいていたとも、(2)『孟子もうしはなれ婁篇では「すすむの『じょう』・すわえの『檮杌』・魯の『春秋しゅんじゅう』」とあり、魯のくに特有とくゆう歴史れきししょであるとの見方みかたもあり、定説ていせつはない。

なお伝統でんとうてき儒学じゅがく思想しそうかんがえでは、西にしあまね時代じだい諸国しょこく歴史れきししょ勝手かって編纂へんさんすることはきんじられていたとする見解けんかいもある。この場合ばあいは、魯のくにに『春秋しゅんじゅう』なる書物しょもつがあること自体じたい罪悪ざいあくであるとみなされ、『春秋しゅんじゅう』であれほか名称めいしょうであれいずれも否定ひていてき理解りかいされる。これらはいずれも史料しりょうすくない時期じきのことであるから、かくろんとはなっていない。

テキストと注釈ちゅうしゃく

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春秋しゅんじゅう』という書物しょもつ単独たんどくでは現存げんそんしていない。一般いっぱんに『春秋しゅんじゅう』(春秋しゅんじゅうけい)とばれているものは、戦国せんごくから前漢ぜんかんにかけて製作せいさくされた「つて」とばれる注釈ちゅうしゃくしょ包括ほうかつされてつたえられたものである。現存げんそんしているつては『春秋しゅんじゅうひだりでん』『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』『春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ』の3つであり、あわせて春秋しゅんじゅうさんつて(しゅんじゅうさんでん)とばれる。

このさんでんつたえるそれぞれの『春秋しゅんじゅう』には若干じゃっかん異同いどうられる。あつか年代ねんだいも『おおやけひつじでん』『こくりょうつたえ』はあいこうじゅうよんねんはる麟)までであるのにたいして、『ひだりでん』の春秋しゅんじゅうけいあいこうじゅうろくねんなつ孔子こうしそつ)まで、つてあいこうじゅうななねんまである。いずれのつて選択せんたくするかによって主張しゅちょうことなるため、歴代れきだい王朝おうちょう論争ろんそうまととなった。とりわけ、かんだいこるこん文学ぶんがく文学ぶんがくあいだ論争ろんそう顕著けんちょである。

春秋しゅんじゅうがく

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春秋しゅんじゅう』はきわめて簡潔かんけつ年表ねんぴょうのような文体ぶんたいかれており、一見いっけんそこに特段とくだん思想しそうはいっていないかのようにえる。

しかし後世こうせい孔子こうし思想しそう本文ほんぶん様々さまざまところかくされているとする見方みかた一般いっぱんてきになった(春秋しゅんじゅう筆法ひっぽう)。たとえば、「そう子爵ししゃくじょうおおやけこと)が桓公かんこうびかけにおうかいめいにやってきた。」というような文章ぶんしょうがある。しかし実際じっさいそう公爵こうしゃくくにであった。これにたいして後世こうせい学者がくしゃは「じょうおおやけちち喪中もちゅうにもかかわらずかいめいにやってきた。不孝ふこうであるのでくらいげていたのだ。」と解釈かいしゃくしている。

このようなかんがかたによって、『春秋しゅんじゅう』から孔子こうし思想しそうみとろうとする春秋しゅんじゅうがくこった。それは実際じっさいには、『春秋しゅんじゅう』を素材そざいにしてみずからの社会しゃかい思想しそう展開てんかいする作業さぎょうになる[1]

前漢ぜんかんたけみかどときおおやけひつじでんにもとづく春秋しゅんじゅうがくかかげたただしなかて『春秋しゅんじゅう』を法家ほうか思想しそうわる統治とうち原理げんりしめしょとして顕彰けんしょうした。その五経ごきょう博士はかせ設置せっちされ、『おおやけひつじでん』『こくりょうつたえ』ががくかんてられていたが、しんではりゅうが『ひだりでん』をまなべかんてた。こうかんではひだりでんがくかんてられず、もっぱらおおやけひつじがくおこなわれたが、『ひだりでん』にふくけん訓詁くんこがくもとづいてちゅうをつくるなどして、やがておおやけひつじがく圧倒あっとうした。これに対抗たいこうしておおやけひつじでんにはなにきゅうちゅうをつけ『春秋しゅんじゅうこうひつじかい』をつくったが、西にしすすむもりあずかが『春秋しゅんじゅう経文きょうもんと『ひだりでん』とをひとつにして注釈ちゅうしゃくほどこした『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』をつくり、以後いご春秋しゅんじゅうがくのスタンダードとなった。とうだいには『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』にたいするあな穎達によるの『春秋しゅんじゅう正義まさよし』がつくられた。しかし、とうだい以降いこう三伝さんでんとくに『ひだりでん』)は『春秋しゅんじゅう』の注釈ちゅうしゃくとして否定ひていてきにとらえられるようになり、そうだいになるとさんでん排斥はいせきされてしんちゅうつくられた。

日本にっぽんでは明治めいじ時代じだい竹添たけぞえ進一郎しんいちろうによって『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』を底本ていほんとし、しんだい注釈ちゅうしゃく増補ぞうほした『ひだりかい箋』があらわされた。

春秋しゅんじゅう』の作者さくしゃなりしょ年代ねんだい

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伝統でんとう儒学じゅがくでは『春秋しゅんじゅう』の成立せいりつ孔子こうしかかわったとされる。ただし、歴史れきしてきにその解釈かいしゃく一様いちようではない。

最初さいしょ孔子こうしの『春秋しゅんじゅう制作せいさくとなえたのは孟子もうしである。孟子もうしから現在げんざいいたるまでの治乱ちらん歴史れきしべ、しゅう王朝おうちょう衰微すいびによる乱世らんせいおさめるために孔子こうしが『春秋しゅんじゅう』をつくり、そのぶん歴史れきしであるけれども、そこに孔子こうし理想りそうであるしめしたという(ただし、この孟子もうしの「さく春秋しゅんじゅう」にもいろいろな解釈かいしゃくがあり、「『春秋しゅんじゅう』を講説こうせつした」とする立場たちばもある)。

前漢ぜんかん司馬しば史記しき』にもたような記述きじゅつがあり、孔子こうしが「魯の史記しき」(はら春秋しゅんじゅう」)を筆削ひっさくして『春秋しゅんじゅう』をつくったという。このように前漢ぜんかん春秋しゅんじゅうがくではもっぱら『春秋しゅんじゅう』から孔子こうしほろげん大義たいぎ微妙びみょう言葉ことばづかいのなかかくされた大義たいぎ)をさぐろうとする『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』にもとづくおおやけひつじがく隆盛りゅうせいした。

しかし、こうかんになると、孔子こうししゅうこう祖述そじゅつしゃとする文学ぶんがく隆盛りゅうせいし、『春秋しゅんじゅう』には『春秋しゅんじゅうひだりでん』による解釈かいしゃくがくこった。『春秋しゅんじゅう』をしゅうこう伝統でんとういだ魯の史官しかんいた「魯の史記しき」そのものと孔子こうしは「べてつくらず」でそれを祖述そじゅつしたとする見方みかた一般いっぱんてきになった。

とうだいになるとりゅうともいくの『ふみどおり』惑経をはじめとして、『春秋しゅんじゅう』をけいとすることをうたが主張しゅちょうあらわれはじめた。きたそうおうやすしせきいたっては『春秋しゅんじゅう』を「だんただれちょうほう」(ばらばらの官報かんぽう)とし、その欠文けつぶん孔子こうししめされているようなものではなく、たんなる不備ふびだとるようになった。一方いっぽうで、春秋しゅんじゅうえびすでんのように孔子こうしいだそうとする立場たちばつづけられた。

きよしだいになるとつねしゅう学派がくはがふたたびかんだいおおやけひつじがくりあげ、『春秋しゅんじゅう』をふくめた六経りくけいあらためせいしゃとしての孔子こうし創作そうさくしたものとした。

中華民国ちゅうかみんこく初期しょきになると、雑誌ざっし古史こしべん』を主宰しゅさいする顧頡つよしうたぐいにしえあらわれ、孔子こうしと『春秋しゅんじゅう』との関係かんけい完全かんぜん否定ひていした。現在げんざいでは著作ちょさくというつよ主張しゅちょうはないもののなんらかの関係かんけいみとめるもの、まったく関係かんけいないとするもの両者りょうしゃがある。

近代きんだいになると、歴史れきしがく天文てんもん考古学こうこがく方法ほうほうれた中国ちゅうごく学者がくしゃによって議論ぎろん展開てんかいされる。1925ねん飯島いいじま忠夫ただおは『春秋しゅんじゅう』に記載きさいされる日食にっしょく紀元前きげんぜん300ねん前後ぜんご西洋せいようからはいったサロス周期しゅうきによってさかのぼってまれたものだと主張しゅちょうした[2]。これにたいして、新城しんじょう新蔵しんくらは『春秋しゅんじゅう』に記載きさいされる日食にっしょくは、かならずしもサロス周期しゅうきによっておらず西洋せいようからの暦法れきほう影響えいきょうはないと飯島いいじませつ批判ひはんした[3]

現代げんだいになると、斉藤さいとう国治くにはる小沢おざわ賢二けんじは『春秋しゅんじゅう』に記載きさいされる日食にっしょく数理すうりてき検証けんしょうし、歴代れきだい中国ちゅうごく史書ししょ日食にっしょく推算すいさん的中てきちゅうりつは70パーセントとひくいのにたいして魯の暦法れきほう実際じっさい観測かんそく記録きろくもとづく日食にっしょくであるため、日食にっしょく総数そうすう37れいのうち的中てきちゅうりつは95パーセント(37れい)であるとした[4]

ちょうつちかえ瑜も斉藤さいとう国治くにはる小沢おざわ賢二けんじ同様どうよう見解けんかいで『春秋しゅんじゅう』に記載きさいされる日食にっしょく観測かんそく実録じつろくであると断定だんていしている[5]

ちなみに、小嶋こじま政雄まさおは、中国ちゅうごく暦法れきほうが『もう』『尚書しょうしょ』などでは日月じつげつ惑星わくせい観察かんさつして日付ひづけめる素朴そぼく暦法れきほうしかられないのにたいし、『春秋しゅんじゅう』になると突然とつぜん高度こうどよんふんれき使つかわれているというてん指摘してきし、『春秋しゅんじゅう』は紀元前きげんぜん300ねん前後ぜんご西欧せいおうからはいったカリポス暦法れきほうによってさかのぼって改装かいそうされたものだとべた。だが、この見解けんかい飯島いいじませつ本質ほんしつてきおなじで真新まあたらしさはない。くわえて、小嶋こじま高度こうどよんふんれき使つかわれているとべているが具体ぐたいてき論拠ろんきょはなく、また『もう』『尚書しょうしょ』には惑星わくせいかんする記述きじゅつもない。

また近年きんねんでは新説しんせつ提出ていしゅつされているが、諸説しょせつ紛々ふんぷんとして定論ていろんをみないのが現状げんじょうである。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

  1. ^ 日原ひのはら利国としくにかんだい思想しそう研究けんきゅう』7ぺーじ
  2. ^ ささえ古代こだい史論しろん』1925ねんていばん1941ねん
  3. ^ 東洋とうよう天文学てんもんがく研究けんきゅうぜんきゅうへんほん1933ねん・『東洋とうよう天文学てんもんがく研究けんきゅうぜんじゅうへんほん 中国語ちゅうごくご増補ぞうほばん1936ねん
  4. ^ 中国ちゅうごく古代こだい天文てんもん記録きろく検証けんしょう』1992ねん
  5. ^ 中国ちゅうごく古代こだい暦法れきほう』2007ねん

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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