春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい

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春秋しゅんじゅうひだりでんしゅうかい』 - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
春秋しゅんじゅうひだりでんしゅうかい』の安永やすなが6ねん1777ねん)のこくほん画像がぞう本書ほんしょ本文ほんぶん冒頭ぼうとう

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』(しゅんじゅうけいでんしっかい、きゅう字体じたい春秋しゅんじゅう經傳けいでんしゅうかい拼音: Chūnqiū jīngzhuàn jíjǐe)は、経書けいしょひとつである『春秋しゅんじゅうひだりでん』(以下いかひだりでん』と呼称こしょう)にたいする注釈ちゅうしゃくしょ西にしすすむ学者がくしゃであるもりあずか著作ちょさくで、たんに「ひだりでんちゅう」「もりちゅう」ともばれる。完全かんぜんかたち現存げんそんする最古さいこの『ひだりでん』の注釈ちゅうしゃくしょであり、現代げんだいひだりでん』を読解どっかいするさいにもよくもちいられるしょである。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

本書ほんしょ現代げんだいつたわるほんでは『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』とだいされているが、『すすむしょもりあずかつてでは『春秋しゅんじゅうひだり経伝けいでんしゅうかい』とつたえている[1]。「経伝けいでんしゅうかい」とだいされる由来ゆらいについて、とう学者がくしゃりく徳明のりあき以下いかのように説明せつめいしている。

もとは孔子こうしおさむじょうしたけいと、ひだりおかあきらつくったつてとは、それぞれべつ書物しょもつとしておこなわれていたのを、もりあずかわせて(しゅうめて)ちゅうかいしたからである。 — りく徳明のりあき、『経典きょうてんしゃくあや[1]

実際じっさい、『春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんとそのつてである『ひだりでん』とをいちねんごとに分割ぶんかつし、両者りょうしゃとしごとに整理せいりする形式けいしきったのは、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』が最初さいしょである[1]

成立せいりつ[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

経書けいしょひとつで、孔子こうし編纂へんさんしたとされる魯国歴史れきししょである『春秋しゅんじゅう』には、おもに『おおやけひつじでん』『こくりょうつたえ』『ひだりでん』のさん種類しゅるい解説かいせつしょ存在そんざいしていた。『おおやけひつじ』『こくはり』は前漢ぜんかんから公認こうにん官学かんがく地位ちいにあったが、ひだりおかあきら解釈かいしゃくとされる『ひだりでん』が重視じゅうしされるのは前漢ぜんかんまつりゅう以来いらいである。こうかんはいり、三伝さんでん解釈かいしゃく相違そういこんぶん古文こぶんあらそいをめぐって様々さまざま論争ろんそうわされた[2]

ひだりでん研究けんきゅうこうかんころおおきく進展しんてんし、りゅう歆の弟子でし賈徽の『ひだり条例じょうれい』、その賈逵の『春秋しゅんじゅうひだりかい詁』などがつくられ、もとよし・穎容といった学者がくしゃ[3]。こうした諸家しょか注釈ちゅうしゃく集大成しゅうたいせいしたのがふくけんの『春秋しゅんじゅうひだりでんかいよしみ』であり、この著作ちょさくはやくから名声めいせいあつめた[4][注釈ちゅうしゃく 1]

さらにたかし時代じだいには、おうの『春秋しゅんじゅうひだりでんちゅう』やただしぐうの『春秋しゅんじゅうひだりでん章句しょうく』がつくられた[4]。ただ、もりあずか以前いぜんの『ひだりでん』の注釈ちゅうしゃくはいずれも現代げんだいいたるまでに散佚さんいつしている。

もりあずか登場とうじょう[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』の作者さくしゃもりあずか222ねん - 284ねん)は、もと凱、おくりななりきょうちょういんもりりょうけんひとたかし西にしすすむつかえた学者がくしゃで、司馬しばあきらいもうと婿むこである[6]。その親族しんぞくには『ひだりでん』に見識けんしきのあるものおおく、祖父そふもりらくしょうという『ひだりでん学者がくしゃそだて、叔父おじもりひろし政界せいかいずに学問がくもんはげみ『春秋しゅんじゅうひだりでんかい』を制作せいさくした[7][8]もりあずからくしょうから『ひだりでん』のがくけたとするせつがある[9]。こうした環境かんきょうそだったもりあずかは、「ひだりでんへき」を自称じしょうするほどの『ひだりでん愛好あいこうとなり、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』を執筆しっぴつした[6]。『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』が完成かんせいしたのはもりあずか生涯しょうがい晩年ばんねんたり、ふとやすし5ねん284ねん)のもりあずかちかころであるとかんがえられている[10]

もりあずかつくった『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』は、先行せんこう注釈ちゅうしゃく訓詁くんこ集大成しゅうたいせいしつつ、『春秋しゅんじゅう経文きょうもんと『ひだりでん』を対応たいおうさせて両者りょうしゃ一体化いったいかさせるとともに、春秋しゅんじゅうれいせつ確立かくりつして「春秋しゅんじゅうがく」としての『ひだりでんがく樹立じゅりつした[11]もりあずかによって『ひだりでん』がおもてあきらされ、とくとうだい以降いこうは『春秋しゅんじゅう』といえば『ひだりでん』、『ひだりでん』といえばもりあずかちゅうという地位ちい獲得かくとくした[12]

汲冢しょとの関係かんけい[編集へんしゅう]

281ねん戦国せんごく時代じだいはかから古代こだい文字もじたけ出土しゅつどし、たば晳らによって整理せいりされた。これを汲冢しょぶ。汲冢しょ発見はっけんについて、もりあずか以下いかのようにべている[13]

ふとしかん元年がんねんさんがつ侵攻しんこうはじめて平定へいていされた。…そこでかねてからのかんがえを発揮はっきして『春秋しゅんじゅうしゃくれい』と『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』をきあげた。その仕事しごとわったころ、たまたま汲郡汲県できゅうはか発掘はっくつしたものがおり、古書こしょ大量たいりょうつかった。すべてたけ簡をへんつづりして文字もじしるされていた。…最初さいしょぞうされ、わたし晩年ばんねんにそれをにする機会きかいめぐまれた。 — もりあずか、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいじょ

もりあずかは、汲冢しょのうち『たけしょ紀年きねん』などを調査ちょうさし、『春秋しゅんじゅう経文きょうもんわせて、以下いか結論けつろんみちびいた[14]

  1. いちこく歴史れきししょ諸国しょこくからの報告ほうこくもとづいて事実じじつをありのままに記載きさいしたものであり、孔子こうしがこれにおさむあらためするさいによってぶん制作せいさくした[14]
  2. たけしょ紀年きねん』の内容ないようは『春秋しゅんじゅうひだりでん』と符合ふごうする場合ばあいおおく、これは『ひだりでん』が『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』『春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ』よりすぐれたものであることをしめしている[14][15]

ただ、もりあずかが汲冢しょたときにはすでに『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』と『春秋しゅんじゅうしゃくれい』は完成かんせいしており、その具体ぐたいてき内容ないようめたわけではない。

もりあずか執筆しっぴつ方法ほうほう[編集へんしゅう]

執筆しっぴつ態度たいど[編集へんしゅう]

もりあずかは、本書ほんしょ序文じょぶんもりあずか以前いぜん諸家しょか解釈かいしゃく以下いかのように評価ひょうかしている。

ふるからいままで、ひだり春秋しゅんじゅう義理ぎりくものはおおい。いまかれらののこした文献ぶんけんのうち、ることのできるものはじゅう余人よにん著作ちょさくがあるが、大体だいたいをいうと、たがいに祖述そじゅつするのみで、経文きょうもん前後ぜんご表現ひょうげん相違そうい比較ひかく検討けんとうし、そのわり具合ぐあい見極みきわめることをなさず、かといってひだりおかあきら解説かいせつ(『ひだりでん』)をまもることもない。……しかもまた、かわりに『おおやけひつじ』『こくはり』のせつ皮相ひそう引用いんようし、『ひだりでん』でつうじないところを説明せつめいする。これでは自分じぶんから混乱こんらんさせているとってよい[16][17] — もりあずか、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいじょ

つぎに、もりあずか自分じぶんあらたに注釈ちゅうしゃくつく意図いととその方法ほうほうについて、以下いかのようにべている。

わたしがいま、さき儒とことなるせつてる理由りゆうは、『ひだりでん』をせんいち研究けんきゅうし、それにもとづいて経文きょうもん解釈かいしゃくする立場たちばるからである。経文きょうもんつらぬくすじみちは、かならず『ひだりでん』からみちびす。そして『ひだりでん』にしめされるれいは、そうじて「凡例はんれい」に帰結きけつさせ、「へんれい」をおよぼして是非ぜひ善悪ぜんあく評価ひょうかただしくくだす。『おおやけひつじ』と『こくはり』のでんには選択せんたくくわえ、正統せいとうでないせつらない。おもうにこれがひだりおかあきらこころざしであろう。[16][18][注釈ちゅうしゃく 2] — もりあずか、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいじょ

もりあずか従来じゅうらいの『ひだりでん』の注釈ちゅうしゃくたいして不満ふまんおぼえており、みずからの一貫いっかんして『ひだりでん』にったあたらしい『春秋しゅんじゅう解釈かいしゃく作成さくせいしようとかんがえ、本書ほんしょ執筆しっぴつした[16]。ただ、実際じっさいにはもりあずかは賈逵・ふくけんらの以前いぜん注釈ちゅうしゃくや、『しかみやび』『せつぶんかい』などの古来こらい訓詁くんこ利用りようする箇所かしょ非常ひじょうおおく、従来じゅうらい研究けんきゅう蓄積ちくせき完全かんぜん無視むししたわけではない[注釈ちゅうしゃく 3]

もちいたテキスト[編集へんしゅう]

本書ほんしょ執筆しっぴつするさいもりあずかもちいた『ひだりでん』のテキストは、従来じゅうらいの賈逵ちゅうふくけんちゅうおう粛注・ただしぐうちゅうもちいられたテキストとはことなっているてんおお[19]加賀かが (1964, p. 316)は、これは荊州においてりゅうひょう作成さくせいした『てい章句しょうくほん』をもりあずか利用りようしたためではないか、と推測すいそくしている。

基礎きそ作業さぎょう[編集へんしゅう]

執筆しっぴつたって、もりあずか以下いか基礎きそ作業さぎょうおこなったうえで、『ひだりでん』を研究けんきゅうし、注釈ちゅうしゃく完成かんせいさせた[20]

  1. ひだりでん』にえる古代こだい地名ちめい現在げんざいではどこにたるのか比定ひていし、対照たいしょう地図ちず作成さくせいする。
  2. 人名じんめいせいによってまとめて、系図けいず作成さくせいする。
  3. 日食にっしょく月食げっしょくなどの自然しぜん現象げんしょうふくめた暦日れきじつ一覧いちらん作成さくせいする。

そしてもりあずかは、こうした検討けんとうもとづいて、『春秋しゅんじゅう』と『ひだりでん』がどのような規則きそくかれているかをしめす「春秋しゅんじゅう筆法ひっぽう」の原則げんそく抽出ちゅうしゅつし、そしてその原則げんそくもとづきいちしょ全体ぜんたいへと適用てきようし、解釈かいしゃくほどこした[20]川勝かわかつ (1973, pp. 90–91)は、こうしたもりあずか研究けんきゅうほう当時とうじとしてはおどろくべき精密せいみつさをそなえ、現代げんだいでも歴史れきし研究けんきゅうかせない手続てつづきをそなえていると評価ひょうかする。

本書ほんしょ体裁ていさい[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅうひだりでん』(所蔵しょぞう:大阪大学おおさかだいがく附属ふぞく図書館としょかん ふところとくどう文庫ぶんこデジタル) - しん日本にっぽん古典こてんせき総合そうごうデータベース
そうこう5ねん、6ねんぺーじ
そうこう5ねんの『ひだりでん』、そうこう6ねんの『春秋しゅんじゅう経文きょうもんそうこう6ねんの『ひだりでん』とならんでいることがかる。
経文きょうもんつてぶんあいだちいさいかれているのがもりあずかちゅう

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』の体裁ていさい特徴とくちょうとして、けいつて対応たいおうさせてしめてん経伝けいでんもりあずかちゅう密着みっちゃくさせてしめてん冒頭ぼうとう序文じょぶんてんさんてんげられる。

春秋しゅんじゅう経文きょうもんと『ひだりでん』の配置はいち[編集へんしゅう]

従来じゅうらい、『春秋しゅんじゅう経文きょうもんと『ひだりでん』はそれぞれべつ単行本たんこうぼんとして存在そんざいしていた。しかし本書ほんしょでは、「経伝けいでんしゅうかい」のしめとおり、『春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんと『ひだりでん』のつてぶんいちねんごとにけ、年次ねんじごとにまとめて掲示けいじされている(「経伝けいでんしょうづけがた[1]。つまり、以下いかのような形式けいしきである。

  1. かくれこう元年がんねんの『春秋しゅんじゅう経文きょうもん
  2. かくれこう元年がんねんの『ひだりでん
  3. かくれこう2ねんの『春秋しゅんじゅう経文きょうもん
  4. かくれこう2ねんの『ひだりでん』(以下いか同様どうよう

ふくけんちゅう段階だんかいでは、『春秋しゅんじゅう経文きょうもんは『ひだりでん』にたいするふくけんちゅうなか引用いんようされてしめされる形式けいしきっており、けいつて年次ねんじごとに対応たいおうしてしめされているわけではなかった。これにくらべて、もりあずかの「経伝けいでんしょうづけがたでは、経文きょうもん通読つうどく容易よういになるとともに、けいつて対応たいおうしてしめすことで『ひだりでん』によって経文きょうもん読解どっかいする立場たちばがより鮮明せんめいにされた[21]。こうした「経伝けいでんしょうづけがたのテキストは、もともとおうが『えきけい』のけいつてにおいてこころみており、これを発展はってんさせて確立かくりつしたのが『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』であった[1]現行げんこうほんの『ひだりでん』は「経伝けいでんしょうづけがた形式けいしきっているが、これはもりあずかがこの形式けいしき採用さいようして以来いらいのものである[22]

けいつてたいするもりあずかちゅう配置はいち[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんと『ひだりでん』のつてぶんたいするもりあずか自身じしん注釈ちゅうしゃくは、経文きょうもんつてぶんのテキストに密着みっちゃくするかたちほどこされた[23]具体ぐたいれいとして、『ひだりでんなりこう10ねんれいしめす。ぶんが『ひだりでん』の本文ほんぶんで、括弧かっこなかもりあずかちゅうである。

おおやけ曰、なに如。曰、しょくしん矣。(げんこうとく及食しんむぎ。)おおやけ疾病しっぺいもとめ于秦。はたはく使なるため。(なるめいためなお也。)いたりおおやけゆめやましため豎子じゅし、曰、かれりょう也、懼傷わが、焉逃。其一曰、きょ肓之じょうあぶらしたわかわがなに。(肓、鬲也。しんためあぶら。)[注釈ちゅうしゃく 4] — もりあずか、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいなりこう10ねん

このように、けいちゅうひとつのほんわせてかれるようになったのは、こうかんうまとおるからとされ、おういつすわえちゅうちょう孟子もうしちゅうこうさそえ淮南ワイナンちゅうなどのれいがある[24]

もりあずか序文じょぶん[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』の冒頭ぼうとうには、もりあずかによる序文じょぶんされている。ここには原著げんちょ(『春秋しゅんじゅう』と『ひだりでん』)がしるされた経緯けいい、その書名しょめいかんする説明せつめい伝承でんしょう注釈ちゅうしゃく歴史れきしへの言及げんきゅう自身じしんによる文献ぶんけん整理せいり記録きろく自身じしん注釈ちゅうしゃくしる動機どうき、といった事柄ことがらしるされている[25]

これらの要素ようそそなえたもりあずか序文じょぶん体裁ていさいは、こうかんからあずますすむにかけて成立せいりつした注釈ちゅうしゃくしょ序文じょぶん(『古文こぶん尚書しょうしょあな安国やすくにじょ、『国語こくご韋昭じょ、『孟子もうしちょうじょ、『りょ春秋しゅんじゅうこうさそえじょなど)のおおくと共通きょうつうする形式けいしきである[25]かち (2006, p. 48)は、このような形式けいしき注釈ちゅうしゃくしょまれた背景はいけいとして、『詩経しきょう』や『しょけい』の序文じょぶん、『史記しきふとしおおやけ自序じじょ影響えいきょうかんがえられるほか、りゅうむかいりゅう書物しょもつ整理せいりによってつくられた「じょろく」の影響えいきょうかんがえられるとべている。

春秋しゅんじゅうしゃくれい[編集へんしゅう]

もりあずか以上いじょうのように本書ほんしょ体裁ていさい工夫くふうくわえたうえで、同時どうじに『春秋しゅんじゅうしゃくれい』というしょあらわし、本書ほんしょおぎないとした。このしょについて、もりあずか以下いかのようにべている。

またべつに、けいつてなかえる多種たしゅれいおよ地名ちめい氏族しぞく系譜けいふこよみあつめて、それを問題もんだいごとにまとめて分類ぶんるいし、全部ぜんぶよんじゅうじゅうかん書物しょもつにした。……この書物しょもつに『しゃくれい』というだいをつける。『春秋しゅんじゅう』のけいつてまなひとが、ここにあつめられた問題もんだいとそれらの異同いどうについての説明せつめいとを、やすいようにしたものであって、「しゃくれいいわく」の見出みだしをつけたところでその説明せつめいくわしくべた[23] — もりあずか、『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかいじょ

春秋しゅんじゅうしゃくれい』は、『ひだりでん』から『春秋しゅんじゅう経文きょうもん解釈かいしゃく関係かんけいしている部分ぶぶんし、それらから帰納きのうして『春秋しゅんじゅう解釈かいしゃく原理げんりさだめ、その原理げんりについて説明せつめいくわえたものである。そしてこの原理げんりしたがって『春秋しゅんじゅう』および『ひだりでん』を統一とういつてき解釈かいしゃくしたのが『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』である[26]。『春秋しゅんじゅうしゃくれい』の前半ぜんはんは『春秋しゅんじゅう経文きょうもんと『ひだりでん』にえるよしれい具体ぐたいれいそくして論述ろんじゅつしたもので、後半こうはん土地とちめいぞく系譜けいふ暦日れきじつ考証こうしょう図解ずかいである[27]本書ほんしょ明代あきよほろび佚しており、現存げんそんするものは輯佚しょである[27]

特徴とくちょうてき学説がくせつ[編集へんしゅう]

もりあずかちゅう最大さいだい特徴とくちょうは、『ひだりでん』によって『春秋しゅんじゅう経文きょうもんするというつてぶん主義しゅぎったことにある。従来じゅうらい注釈ちゅうしゃくにおいては、『おおやけひつじ』や『こくはり』の春秋しゅんじゅうれいせつ(『春秋しゅんじゅう』をする法則ほうそく)をりており、『ひだりでん』にったよしれいせつてなかった。もりあずかは『春秋しゅんじゅうしゃくれい』をあらわして『ひだりでん』にもとづいたよしれいせつあきらかにし、そしてそのせつもとづいて『ひだりでん』の全体ぜんたい解釈かいしゃくした[28]。その結果けっか従来じゅうらい解釈かいしゃくとはことなるあらたな学説がくせつされた。

もりあずかれいせつ[編集へんしゅう]

もりあずかは『ひだりでん』の研究けんきゅうとおして、『ひだりでん』が『春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんたいして解説かいせつてる基本きほん原則げんそくは、以下いかみっつの場合ばあいがあることを見出みいだした[29]

凡例はんれい
およそ…」というしによってよしれいしめすもので、しゅうこう制定せいていして以来いらい基本きほんてき礼法れいほうあらわしている。孔子こうしはまずこの「旧例きゅうれい」にしたがって『春秋しゅんじゅう経文きょうもん修訂しゅうていした[29]合計ごうけいで50れいあるため、「じゅう凡」と総称そうしょうされる[30]
へんれい
およそ…」ではなく、「しょす」「しょせず」といった用語ようごれいしめすもの。これは孔子こうしが『春秋しゅんじゅう経文きょうもん修訂しゅうていするさいあらたにてたよしれいであり、孔子こうしの「しん」をしめしている[29]
れい
れいではなく、ただの事柄ことがら帰結きけつ説明せつめいしたもの。つまりしゅうこう孔子こうしによる是非ぜひ善悪ぜんあく判断はんだん毀誉きよ褒貶ほうへんふくまない、客観きゃっかんてき歴史れきしてき説明せつめいのこと[29]

このれいせつによって、もりあずか従来じゅうらいの『春秋しゅんじゅう研究けんきゅうとはことなる見解けんかい到達とうたつした。その特徴とくちょうとして以下いかさんてんげられる。

  1. 春秋しゅんじゅう』の経文きょうもんは、じつは「れい」つまり毀誉きよ褒貶ほうへんふくまない部分ぶぶんもっとおおい。このかんがえにより、「春秋しゅんじゅう」がそんするとされる部分ぶぶん減少げんしょうし、そのぶん春秋しゅんじゅう』は「史実しじつしるしたしょ」としての比重ひじゅうおおきくなる[31]
  2. 春秋しゅんじゅう』のれいしゅうこう以来いらいの「凡例はんれい」と孔子こうししんによる「へんれい」の新旧しんきゅうそうけてとらえ、しゅうこう孔子こうしという歴史れきしへだてた二人ふたり聖人せいじん意図いと把握はあくすることが必要ひつようとする[32]
  3. さらに、「凡例はんれい」と「へんれい」を解釈かいしゃくする場合ばあいも、もりあずか史官しかん記録きろくするさいのきまりとして解釈かいしゃくする傾向けいこうつよく、「春秋しゅんじゅう」を事実じじつうえしめそうとする態度たいどせる[33]

孔子こうしもとおうせつ否定ひてい[編集へんしゅう]

孔子こうしもとおうせつ」とは、孔子こうし現実げんじつには王者おうじゃ地位ちいることはなかったが、じつは「もとおうなき王者おうじゃ)」の地位ちいていたとする学説がくせつである。これにしたがえば、『春秋しゅんじゅう』は孔子こうししん帝王ていおうとして王道おうどう政治せいじ基準きじゅんしめしたものであるということになる[34]くわえて、『春秋しゅんじゅう』の最後さいごはなしわっていることについては、王者おうじゃ象徴しょうちょうである麟が、しんなる王者おうじゃである孔子こうしによる『春秋しゅんじゅう』の完成かんせいたいする瑞祥ずいしょうとして出現しゅつげんしたという解釈かいしゃくがなされる。この孔子こうしもとおうせつは、おおやけひつじ学者がくしゃによってとなえられて以来いらい通説つうせつとなっており、『ひだりでん』の解釈かいしゃくもこのかんがかた沿っておこなわれていた[34]

もりあずかはこうした孔子こうしもとおうせつ否定ひていした。もりあずかは、孔子こうし王者おうじゃではなく、うしなわれたしゅうだい制度せいど文化ぶんか復興ふっこう後世こうせいつたえるを意図いとした人物じんぶつであるとかんがえ、『春秋しゅんじゅう』もその意図いとからかれたしょであるとする[35]。そして、『春秋しゅんじゅう』の最後さいご麟については、瑞祥ずいしょうであるはずの麟が太平たいへいではないにもかかわらず出現しゅつげんしたことに孔子こうし慨嘆がいたんし、『春秋しゅんじゅう』を執筆しっぴつしたと解釈かいしゃくする[36]

川勝かわかつ (1973, p. 146)は、もりあずか孔子こうしもとおうせつ否定ひていは、孔子こうしたいする神秘しんぴてき権威けんいけを否定ひていし、『春秋しゅんじゅう』に付与ふよされた不合理ふごうり権威けんい剥奪はくだつ意味いみするものであったとし、これによって孔子こうしと『春秋しゅんじゅう』は人間にんげん文化ぶんか維持いじしゃ復興ふっこうしゃとしてとらえなおされたと評価ひょうかする。

諒闇りょうあんこころせつ[編集へんしゅう]

諒闇りょうあんこころとは、天子てんし父母ちちはは死去しきょしたさい天子てんしふくするが、葬送そうそうしたのちにはふくするのをめて、しんだけのふくすることを[37]本来ほんらいてき儒教じゅきょう制度せいどにおいては、父母ちちははにはさん年間ねんかんふくするのが規則きそくであるが、とく皇帝こうてい場合ばあいには皇太子こうたいしだけでなくすべての官僚かんりょうにもさんねん要求ようきゅうされた[38]。ただし、これでは政務せいむとどこおってしまうため、前漢ぜんかんぶんみかどによって期間きかん短縮たんしゅくされ、その実質じっしつてきにはたんおこなわれていた[38]

西にしすすむころたけみかどによってさんねん実際じっさい実施じっしすべきとする議論ぎろん提起ていきされ、これ以後いご再度さいどさんねんかんする議論ぎろんおこなわれるようになった[39]もりあずかは、期間きかんそのものをみじかくするぶんみかど方法ほうほう古制こせいのっとっていないと批判ひはんし、経書けいしょ由来ゆらいただしい制度せいどしたがうべきであると主張しゅちょうした。そして、『ひだりでん』の記述きじゅつや『尚書しょうしょ』のあらたな解釈かいしゃくもとづいて、諒闇りょうあんこころせつとなえた[40]。これにより、実質じっしつてき服喪ふくも葬儀そうぎまでとし皇太子こうたいし官僚かんりょうがすぐに政務せいむれるようにしつつも[41]、「しん」というかたち古来こらいさんねん継続けいぞくし、古典こてんもとづきながら調和ちょうわれた解釈かいしゃく実現じつげんした[37]

諒闇りょうあんこころ制度せいどは、中国ちゅうごく南北なんぼくあさ実際じっさいもちいられたほか、吐谷渾日本にっぽん醍醐天皇だいごてんのう冷泉れいせん天皇てんのうのもとでももちいられた[37]

後世こうせい伝来でんらい[編集へんしゅう]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』にさら注釈ちゅうしゃくくわえてつくられた『ひだりでん正義まさよし』(『五経ごきょう正義まさよし』のひとつ)の冒頭ぼうとう

春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』の完成かんせいによって、ながあいだひろげられた『春秋しゅんじゅう三伝さんでんあらそいに終止符しゅうしふたれ、『ひだりでん』が優位ゆういつこととなった[42]。『ひだりでん』のおもてしょうもっと功績こうせきがあったのは『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』であったとえる[28]

とうだいいたるまでのあいだ、『ひだりでん』の注釈ちゅうしゃくとしてはふくけんちゅうもりあずかちゅうがともにおもんじられ、あずますすむ南朝なんちょうひとしではふくちゅうもりちゅうならんでがくかんてられていた[4]ふくちゅうもりちゅう解釈かいしゃく相違そういについて議論ぎろんわされることもあり、きたたかしから南朝なんちょうはりうつったちぇれいおんみなみじんおそれそう中国語ちゅうごくごばん論争ろんそうはそのいちれいである[4]南北なんぼくあさ時代じだいには、北朝ほくちょうではふくけん南朝なんちょうではもりあずか注釈ちゅうしゃくもちいられる傾向けいこうにあった[4][43]

このころには、経書けいしょそれ自体じたいよりも注釈ちゅうしゃく権威けんい上回うわまわ本末転倒ほんまつてんとう現象げんしょうられ、りゅうともいくふみどおり』は以下いかのようにべている[43]

けいだんずるものふくもりの嗤い(ふくけんもりあずか嘲笑ちょうしょうすること)をくことをあくむ。 — りゅうともいく、『どおり

南北なんぼくあさ時代じだいには、注釈ちゅうしゃくをさらに敷衍ふえんするばれるてき注釈ちゅうしゃく大量たいりょうつくられた。とうふとしむね時期じきになると、『五経ごきょう正義まさよし』がまれ、五経ごきょうそれぞれひとつの注釈ちゅうしゃくしたがいつつ、旧来きゅうらい疏を取捨選択しゅしゃせんたくしながら公認こうにん統一とういつ見解けんかいしめした[43]。この『五経ごきょう正義まさよし』では、『春秋しゅんじゅう三伝さんでんからは『ひだりでん』がえらばれ、『ひだりでん』の注釈ちゅうしゃくなかからはもりあずかちゅうえらばれた[42]。そのやくせんねんほどは、もりあずかとおして『ひだりでん』そして『春秋しゅんじゅう』を理解りかいするのが常識じょうしきとなった[42]

日本にっぽんにおいては、大宝たいほう律令りつりょうによって『春秋しゅんじゅう』は『ひだりでん』にり、そのさいもちいられる注釈ちゅうしゃくふくちゅうまたはもりちゅうさだめられた[44]江戸えど時代じだいはいると、はたかなえ春秋しゅんじゅうひだりでん校本こうほん』や、安井やすい息軒そくけんひだり輯釈』など、もりちゅう基本きほんとしながら補正ほせいはかった『ひだりでん研究けんきゅうしょつくられるようになった[44]

原典げんてん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

きゅう抄本しょうほん巻子本かんすぼん春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい
宮内庁くないちょうしょりょう所蔵しょぞうされるほんで、現代げんだい完本かんぽんとしてつたわる『春秋しゅんじゅうひだりでんしゅうかい』のほんのなかで最古さいこのもの。もと金沢かなざわ文庫ぶんこ蔵書ぞうしょで、その創設そうせつしゃである北条ほうじょうみのるとき清原きよはらきょうたかしから『春秋しゅんじゅうひだりでんしゅうかい』の解釈かいしゃく秘伝ひでんされるさい清原きよはら由来ゆらいほん校正こうせいしたものを、北条ほうじょうあつしとききょうたかし清原きよはら直隆なおたか清原きよはら俊隆としたかから伝授でんじゅされるさい書写しょしゃしたほんである。本書ほんしょ遣唐使けんとうしによって将来しょうらいしたから写本しゃほんもとづいており、善本ぜんぽんとしてられている[45]しょりょう所蔵しょぞう資料しりょう目録もくろく画像がぞう公開こうかいシステムにて画像がぞう公開こうかいされている。
興国こうこく軍学ぐんがくほん春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい
宮内庁くないちょうしょりょう所蔵しょぞうされるほんで、もと金沢かなざわ文庫ぶんこ蔵書ぞうしょみなみそうよしみじょう9ねんに、興国こうこく軍学ぐんがく湖北こほくしょうたけあきら)にて刊行かんこうされた木版もくはんほんだが、一部いちぶ近世きんせい写本しゃほん修補しゅうほされている。興国こうこく軍学ぐんがくでは紹興しょうこう年間ねんかんからよしみ定年ていねんあいだ五経ごきょう刊行かんこうされたが、『春秋しゅんじゅう以外いがい残存ざんそんしていない。日本にっぽん南北なんぼく朝刊ちょうかん春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』はほんばん覆刻ふっこくほんとされる[46]しょりょう所蔵しょぞう資料しりょう目録もくろく画像がぞう公開こうかいシステムにて画像がぞう公開こうかいされている。
清原きよはらせんけんしゅてん春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい
京都きょうと大学だいがく附属ふぞく図書館としょかん清家きよいえ文庫ぶんこ所蔵しょぞうくびじゅうかんくが、一部いちぶ清原きよはらせんけん自筆じひつにかかり、日本にっぽん南北なんぼくあさ刊本かんぽんである[47]。『春秋しゅんじゅう経伝けいでんしゅうかい』 と清原きよはらせんけんの『春秋しゅんじゅうしょう』とを交互こうごはい閲覧えつらん便宜べんぎあたえたほんであり、各巻かくかん表紙ひょうしうらりとして、『そうしょう』や『春秋しゅんじゅうしょう』など清原きよはらせんけん自筆じひつ抄物しょうものもちいられている[48]京都きょうと大学だいがく貴重きちょう資料しりょうデジタルアーカイブにて画像がぞう公開こうかいされている。

研究けんきゅう近代きんだい以前いぜん[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅうひだりでん正義まさよし
とうふとしむね詔勅しょうちょくによってあな穎達らが編纂へんさんした『五経ごきょう正義まさよし』のひとつ。もりあずかちゅう原注げんちゅうとし、もりあずかちゅう固守こしゅしながらその敷衍ふえんつとめて解釈かいしゃくほどこしている。このしょはもともとずいりゅうの『春秋しゅんじゅうじゅつ』に依拠いきょしてつくられたものではあるが、こちらにはふくけんちゅうもとづいてもりあずかちゅう補正ほせいする箇所かしょなども見受みうけられる[45]
ひだりでんちゅう
あきらりくつばらせんで、もりあずかちゅう補正ほせいこころみている[45]
ひだりでんもりかい補正ほせい
きよし顧炎たけしせんで、もりあずかちゅう補正ほせいこころみている[45]
ひだりでんきゅう注疏ちゅうそしょう
きよしりゅうぶんとその子孫しそんせんで、清朝せいちょうしょ学者がくしゃ注釈ちゅうしゃくからすぐれたものをえらんだ注釈ちゅうしゃく[45]
春秋しゅんじゅうひだりでん校本こうほん
江戸えど時代じだい学者がくしゃであるはたかなえしるもりあずかちゅうと『経典きょうてんしゃくあや』をしたうえで、標注ひょうちゅうとして先人せんじんすぐれた解釈かいしゃくかかげている。のち、豊島としまあつしによるぞうていほんされ、こちらには『おおやけひつじ』『こくはり』のつてわせて掲示けいじされている[45]
ひだり輯釈』
江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだい学者がくしゃである安井やすい息軒そくけんしるもりあずかちゅう原注げんちゅうとしてかかげたうえで、かんとうからきよし儒にいたるまでの諸説しょせつあつめ、さら独自どくじ見解けんかいによってもりあずかちゅう補正ほせいする部分ぶぶんおお[45]
ひだりかい箋』
明治めいじ時代じだい学者がくしゃである竹添たけぞえ進一郎しんいちろうしるさき儒の解釈かいしゃくをくまなく収集しゅうしゅうし。もりあずかちゅう補正ほせいする箇所かしょおおい。『ひだりでん注解ちゅうかい集大成しゅうたいせいしょうするにるものである。しょりょう所蔵しょぞうきゅう抄本しょうほん巻子本かんすぼん底本ていほんとしている[45]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 賈逵・ふくけん注釈ちゅうしゃくは、じゅうさわ俊郎としおひだりでん賈服ちゅう攟逸』に輯佚されている[5]
  2. ^ 凡例はんれい」「よしれい」については、#もりあずかれいせつ参照さんしょう
  3. ^ もりあずか注釈ちゅうしゃく典拠てんきょについては、ひろし亮吉りょうきち春秋しゅんじゅうひだりでん詁』や鎌田かまた (1992)整理せいりされている[16]
  4. ^ ほんだん故事こじ成語せいごやめ膏肓こうこうはいる」の出典しゅってんである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 川勝かわかつ 1973, p. 138.
  2. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 84.
  3. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 136.
  4. ^ a b c d e 加賀かが 1964, p. 305.
  5. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 137.
  6. ^ a b 安本やすもと 1984, p. 339.
  7. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 86.
  8. ^ 加賀かが 1964, p. 312.
  9. ^ 加賀かが 1964, p. 313.
  10. ^ 加賀かが 1964, p. 307.
  11. ^ 鎌田かまた 2012, p. 18.
  12. ^ 鎌田かまた 2012, p. 19.
  13. ^ 吉川よしかわ 1999, p. 75.
  14. ^ a b c 吉川よしかわ 1999, p. 87.
  15. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 91–92.
  16. ^ a b c d 加賀かが 1964, pp. 318–320.
  17. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 128–9.
  18. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 129–130.
  19. ^ 加賀かが 1964, pp. 314–6.
  20. ^ a b 川勝かわかつ 1973, pp. 90–91.
  21. ^ 加賀かが 1964, pp. 340–347.
  22. ^ 野間のま 2014, p. 311-312.
  23. ^ a b 川勝かわかつ 1973, p. 139.
  24. ^ かち 2006, pp. 70–73.
  25. ^ a b かち 2006, pp. 39–47.
  26. ^ 久富木くぶき 1980, p. 92-93.
  27. ^ a b もり 1984, p. 200.
  28. ^ a b 鎌田かまた 1971, p. 19.
  29. ^ a b c d 川勝かわかつ 1973, p. 115.
  30. ^ 野間のま 2014, p. 287-288.
  31. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 131.
  32. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 131–132.
  33. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 132–133.
  34. ^ a b 川勝かわかつ 1973, pp. 142–144.
  35. ^ 川勝かわかつ 1973, pp. 145–146.
  36. ^ 川勝かわかつ 1973, p. 146.
  37. ^ a b c 藤川ふじかわ 1984, p. 434.
  38. ^ a b 渡邉わたなべ 2005, p. 64.
  39. ^ 渡邉わたなべ 2005, p. 65.
  40. ^ 渡邉わたなべ 2005, p. 66-67.
  41. ^ 渡邉わたなべ 2005, p. 63.
  42. ^ a b c 川勝かわかつ 1973, pp. 92–93.
  43. ^ a b c 吉川よしかわ 1983, pp. 222–223.
  44. ^ a b 竹内たけうち 1974, pp. 14–15.
  45. ^ a b c d e f g h 鎌田かまた 1971, pp. 22–23.
  46. ^ 阿部あべ 1985, pp. 325–329.
  47. ^ 阿部あべ 1985, p. 328.
  48. ^ かつ隆一りゅういち古書こしょ表紙ひょうし裏側うらがわ漢字かんじ情報じょうほう No.6」『漢字かんじ情報じょうほうだい6かん京都きょうと大学だいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ附属ふぞく漢字かんじ情報じょうほう研究けんきゅうセンター、6ぺーじ、2003ねんhttps://hdl.handle.net/2433/57066 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

  • 岩本いわもと憲司けんじ春秋しゅんじゅうひだりでんもりあずかあつまりかい うえ汲古書院しょいん、2001ねんISBN 4762926620 
  • 岩本いわもと憲司けんじ春秋しゅんじゅうひだりでんもりあずかあつまりかい した』汲古書院しょいん、2006ねんISBN 4762927686 
    春秋しゅんじゅうひだりでん』ともりあずかちゅうふくめた全訳ぜんやくとしては最初さいしょのもの。
  • 鎌田かまたただし春秋しゅんじゅうひだりでん』 1かん明治めいじ書院しょいん新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい〉、1971ねんISBN 4625570301 
  • 鎌田かまたただし春秋しゅんじゅうひだりでん明徳めいとく出版しゅっぱんしゃ中国ちゅうごく古典こてん新書しんしょ〉、2012ねんISBN 9784896192186 
  • 竹内たけうち照夫てるお春秋しゅんじゅうひだりでんうえ集英社しゅうえいしゃぜんしゃく漢文かんぶん大系たいけい〉、1974ねん 
  • 野間のまぶん春秋しゅんじゅうひだりでん正義まさよし譯注やくちゅう明徳めいとく出版しゅっぱんしゃ、2017ねんISBN 9784896190212 
    ひだり正義せいぎ』の全訳ぜんやく

研究けんきゅうしょ概説がいせつしょ[編集へんしゅう]

  • 阿部あべ隆一りゅういち しる慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく附属ふぞく研究所けんきゅうじょ斯道しどう文庫ぶんこ へん阿部あべ隆一りゅういち遺稿いこうしゅう』汲古書院しょいん、1985ねんISBN 4762911224 
  • 加賀かが栄治えいじ中国ちゅうごく古典こてん解釈かいしゃく すすむへん』勁草書房しょぼう、1964ねんISBN 4326100737 
  • 鎌田かまたただしひだりでん成立せいりつ展開てんかい大修館書店たいしゅうかんしょてん、1992ねんISBN 4469230820 
    • 原版げんばん大修館書店たいしゅうかんしょてん、1963
  • 川勝かわかつ義雄よしお史学しがく論集ろんしゅう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ中国ちゅうごく文明ぶんめいせん〉、1973ねんNCID BN00711977 
  • かつ隆一りゅういち中国ちゅうごく中古ちゅうこ学術がくじゅつけんぶん出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-87636-262-9 
  • 野間のまぶん春秋しゅんじゅうひだりでん : その構成こうせい基軸きじくけんぶん出版しゅっぱんけん文選ぶんせんしょ〉、2010ねんISBN 9784876363087 
  • 野間のまぶん五経ごきょう入門にゅうもん : 中国ちゅうごく古典こてん世界せかいけんぶん出版しゅっぱんけん文選ぶんせんしょ〉、2014ねんISBN 9784876363742 

論文ろんぶん記事きじ[編集へんしゅう]

辞書じしょ項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 吉川よしかわ忠夫ただお ちょ思想しそう2」、島田しまだけん へん『アジア歴史れきし研究けんきゅう入門にゅうもん』 3かん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん、1983ねん、219-247ぺーじISBN 4810403688 
  • 日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねんISBN 487636043X 
    • 藤川ふじかわただしすう ちょ諒闇りょうあんこころ」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん 
    • もり秀樹ひでき ちょ春秋しゅんじゅうしゃくれい」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん 
    • 安本やすもとひろし ちょもりあずか」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]