今こん文ぶん

今こん文ぶん（きんぶん）は、中国ちゅうごく漢かん代だいにおいて経書けいしょを書かき写うつすのに用もちいられた文字もじで、当時とうじ通行つうこうしていた隷書れいしょを指さす。古文こぶんと呼よばれた秦はた以前いぜんの古ふるい字体じたいで書かかれた経書けいしょに対たいして、今いまの文字もじという意味いみで今こん文ぶんと呼よばれた。経書けいしょは先さき秦はた時代ときよから伝つたえられたものであり、それを伝承でんしょうした今こん文ぶんと古文こぶんとの間あいだには文字もじの異同いどうや増減ぞうげんはあっても、書かき写うつした書体しょたいの相違そういに過すぎない。しかし、両者りょうしゃのどちらが経書けいしょの正当せいとう性せいを保持ほじしているかという点てんをめぐって、漢かん代だいと清きよし代だいとに論争ろんそうが起おこった。漢かん代だいの論争ろんそうは王朝おうちょう権力けんりょくとの関係かんけいを生うみ、清しん代だいの論争ろんそうは「西洋せいようの衝撃しょうげき」と関係かんけいし、各々おのおの複雑ふくざつな展開てんかいを辿たどった。

今こん文ぶん経学けいがく[編集へんしゅう]

発生はっせい[編集へんしゅう]

今こん文ぶんの発生はっせいについて、儒学じゅがく的てき伝統でんとうでは次つぎのように語かたられる。

孔子こうしによって纏まとめられた儒学じゅがくの聖書せいしょ（経書けいしょ）は、孔子こうしの没後ぼつご、戦国せんごく時代じだいを通つうじて弟子でしたちによって中国ちゅうごく各地かくちに伝播でんぱされた。また孔子こうしの意図いとを正ただしく理解りかいするため、孔子こうしの高弟こうていたちに連つらなる学者がくしゃたちによって解釈かいしゃくが施ほどこされた。（伝つてなどと呼よばれる）この時ときに各地かくちで写うつされた経書けいしょは、各地かくちの文字もじが使つかわれていたと考かんがえられる。

しかしこうして伝承でんしょうされた経書けいしょは、秦はたの始皇帝しこうていによる儒学じゅがく禁圧きんあつ（焚書坑儒ふんしょこうじゅ）によって一大いちだい変革へんかくを余儀よぎなくされた。特とくに儒学じゅがく系統けいとうの書物しょもつの所有しょゆうを禁きんじた挟はさみ書しょ律りつの存在そんざいは、経書けいしょの継承けいしょうに大おおきい障害しょうがいとなった。そのため、当時とうじ経書けいしょを伝つたえていた儒学じゅがくの徒とは、自身じしんの伝つたえる経書けいしょを暗記あんきすることで経書けいしょやその解釈かいしゃくの継承けいしょうを企くわだてった。

秦はたが亡ほろび漢かんが始はじまると、儒学じゅがくの禁圧きんあつは徐々じょじょに緩ゆるめられ、恵めぐみ帝みかどの時代じだいに挟はさみ書しょ律りつが除のぞかれた。そこで儒学じゅがくの徒とは、自分じぶん達たちの暗記あんきしていた経書けいしょやその解釈かいしゃくを文字もじに写うつして書物しょもつとして残のこそうとした。その時ときに利用りようされた文字もじは、旧来きゅうらい使つかわれていた各地かくちの文字もじではなく、漢かん王朝おうちょう公認こうにんの文字もじである隷書れいしょ体たいであった。こうして秦はたの焚書ふんしょ以前いぜんに継承けいしょうされていた経書けいしょは、漢かん代だい通用つうようの隷書れいしょ体たいとなって再ふたたび世よに現あらわれることになった。

一方いっぽう、秦はたの儒学じゅがく禁圧きんあつの折おり、儒学じゅがく者しゃの中なかに各々おのおのの所持しょじする経書けいしょを壁かべの中なかや地面じめんに埋うめ込こんでその保存ほぞんを図はかるものがいた。こうした書物しょもつは時代じだいと共ともに所在しょざいを忘わすれられたが、漢かん代だいに儒学じゅがくが発展はってんするとともに再ふたたび注目ちゅうもくされ、各地かくちから隠かくされていた儒学じゅがく文献ぶんけん（今いまでいう出土しゅつど文献ぶんけん）を献上けんじょうするものが現あらわれた。これらは先さき秦しん時代じだいの書物しょもつであるため、その字体じたいは漢かん代だい通用つうようの隷書れいしょ体たいではなく、先さき秦しん時代じだいの古ふるい文字もじ（一部いちぶはおたまじゃくしのような形かたちをしていたので科か斗と文字もじとも呼よばれた）で書かかれた文字もじであったため古文こぶんと呼よばれた。この古文こぶんが現あらわれると、漢かん代だい通用つうようの隷書れいしょ体たいで書かかれた経書けいしょは、今いまの文字もじで書かかれた経書けいしょという意味いみから今こん文ぶんと呼よばれるようになった。

ここに先さき秦しん時代じだいの書物しょもつである古文こぶんと、先さき秦しん時代じだいの書物しょもつを暗誦あんしょうによって伝承でんしょうし、且かつ漢かん代だい通用つうようの文字もじに写うつした今こん文ぶんという二ふたつの経書けいしょが生うみ出だされることになった。なお先さき秦しん時代じだいの文字もじで書かかれた古文こぶんはそのままでは読よめないため、今こん文ぶんの経書けいしょを参考さんこうにして、漢かん代だい通用つうようの隷書れいしょ体たいに写うつし直なおされた。そのため古文こぶんの経書けいしょといっても、先さき秦しん時代じだいの文字もじがそのまま通用つうようしていたのではなく、結局けっきょくは漢かん代だい通用つうようの隷書れいしょ体たいで書かかれた。よって前漢ぜんかんにおいて今こん文ぶんと古文こぶんは、文字もじの違ちがいよりも、テキストの違ちがい、逸書いっしょの有無うむが重要じゅうよう視しされた。しかし、後こう漢かんになると、一転いってんして再ふたたび文字もじが重視じゅうしされるようになった。

漢かん代だいの展開てんかい[編集へんしゅう]

漢かん代だいに儒学じゅがくが隆盛りゅうせいしたとき力りょくをもっていたのは、先さき秦しん以来いらいの師承ししょう（伝承でんしょう）を持もつ人々ひとびとであった。そしてその人々ひとびとの使用しようした経書けいしょは、暗誦あんしょうによって継承けいしょうされていた今こん文ぶんであった。彼等かれらは自みずからの経書けいしょ（今こん文ぶん）を用もちいて漢かん王朝おうちょう（前漢ぜんかん）に仕つかえ、積極せっきょく的てきに儒学じゅがくの奨励しょうれいを推おし進すすめた。儒学じゅがくは文ぶん帝みかど、景けい帝みかどの時代じだいを経へて着実ちゃくじつに社会しゃかい的てき勢力せいりょくを加くわえていった。こうしたものの最もっとも重要じゅうような機転きてんと考かんがえられたのが、董ただし仲なか舒の建言けんげんによる武たけ帝みかどの五経ごきょう博士はかせ設置せっちであった。その後ご、新あたらしく発見はっけんされた古文こぶん経伝けいでんと文字もじや内容ないように異同いどうがあったので、経書けいしょ解釈かいしゃくを巡めぐって論争ろんそうが起おこった。

今こん文ぶん経伝けいでんを奉ほうじる学問がくもんを今こん文学ぶんがく（きんぶんがく）あるいは今こん文ぶん経学けいがく（きんぶんけいがく）と言いう。前漢ぜんかん末まつ、劉りゅう歆が古文こぶん経伝けいでんを学まなべ官かんに立たてようとしたが今いま文学ぶんがく者しゃたちは激はげしく反対はんたいした。新しん朝あさの時とき、古文こぶん経伝けいでんが学がく官かんに立たてられたが、後こう漢かんになって再ふたたび学がく官かんの地位ちいを守まもり、後こう漢かんを通つうじて十じゅう四よん博士はかせが立たてられた。

しかし、その後ご、官学かんがくの世界せかいから締しめ出だされた古こ文学ぶんがく者ものたちは民間みんかんにおいて、それまでのように師承ししょうによらずとも、書かかれている1字じ1字じを検討けんとうする訓詁くんこ学がくにもとづいた経典きょうてん解釈かいしゃくの方法ほうほう論ろんを確立かくりつさせた。そこで重視じゅうしされたのが今こん文ぶんと古文こぶんの字体じたいの違ちがいである。古ふるい字じであってこそその字源じげんを探さぐることができるのであり、漢かん代だいに生うまれた隷書れいしょでは真しんに聖人せいじんたちが伝つたえようとしたことを解釈かいしゃくすることはできないとした。その成果せいかとなるものが、漢字かんじを篆書てんしょや古文こぶんで語源ごげんを探さぐろうとした許もと慎まきの『説せつ文ぶん解かい字じ』である。また新しん末すえ後ご漢かん初はつの混乱こんらん期き、杜もり林りんという人物じんぶつが西にし州しゅうにおいて漆うるしで書かかれた古文こぶん尚書しょうしょを得えて、鄭てい玄げんなど著名ちょめいな古文こぶん学者がくしゃたちがこの古文こぶん尚書しょうしょに注釈ちゅうしゃくを施ほどこしたと言いわれている。

このように、在野ざいやで力ちからをつけた古こ文学ぶんがくが隆盛りゅうせいするようになって、今こん文学ぶんがくは衰退すいたいし、永えい嘉よしみの乱らんで多おおくの伝承でんしょうが絶たえた。こうして今こん文学ぶんがくの歴史れきしは漢かん代だいとともに事実じじつ上じょう消滅しょうめつし、清しん代だいに至いたるまで学界がっかいの話題わだいとなることはなかった。

なお、このとき古文こぶん尚書しょうしょなどの書物しょもつも亡ほろび佚していたのであるが、乱らんが収束しゅうそくした後のち、新出にいでの25篇へんを備そなえた58篇へんの古文こぶん尚書しょうしょが梅うめ賾によって奏上そうじょうされた。これは後のちにこの新出にいで部分ぶぶんが偽書ぎしょであることが証明しょうめいされたので、偽にせ古文こぶん尚書しょうしょと呼よばれている。この尚書しょうしょは古文こぶんらしさを出だすために古文こぶんに擬ぎした隷書れいしょ体たい、いわゆる隷古定じょうという書体しょたいで書かき写うつされた。

清しん代だいの展開てんかい[編集へんしゅう]

清しん代だいになると、常つね州しゅう学派がくはによってふたたび今いま文学ぶんがくが注目ちゅうもくされるようになり、清きよし末すえの政治せいじ思潮しちょうや学問がくもんに大おおきな影響えいきょうを与あたえることになった。