古文こぶん

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漢字かんじ
魏の三体石経(拓本)上から、古文・篆書・隷書
書体しょたい
篆刻てんこく毛筆もうひつ
かぶとこつぶん 金文きんぶん 篆書てんしょ
古文こぶん
隷書れいしょ 楷書かいしょ
行書ぎょうしょ
草書そうしょ
木版もくはん活版かっぱん
宋朝そうちょうたい 明朝体みんちょうたい 楷書かいしょたい
字体じたい
構成こうせい要素ようそ
筆画ひっかく 筆順ひつじゅん 偏旁へんぼう 六書りくしょ 部首ぶしゅ
標準ひょうじゅん字体じたい
せつぶんかい篆書てんしょたい
さましょ 石経いしきょう
かん字典じてんたいきゅう字体じたい
しん字体じたい しん字形じけい
国字こくじ標準ひょうじゅん字体じたい つね用字ようじ字形じけいひょう
漢文かんぶん教育きょういくよう基礎きそ漢字かんじ
通用つうよう規範きはん漢字かんじひょう
国字こくじ問題もんだい
当用とうよう常用漢字じょうようかんじ
同音どうおん漢字かんじによるきかえ
繁体字はんたいじ正体しょうたい - 簡体字かんたいじ
漢字かんじ廃止はいし復活ふっかつ
漢字かんじ文化ぶんかけん
なかあさこしだいしん
派生はせい文字もじ
国字こくじ 方言ほうげん のりてん文字もじ
仮名かめい たけし おんなしょ
ちぎり文字もじ おんな文字もじ 西にしなつ文字もじ
字音じおん

古文こぶん(こぶん)は、漢字かんじ書体しょたい一種いっしゅひろ意味いみでの篆書てんしょ系統けいとう文字もじである。

広義こうぎにははた篆書てんしょたい以前いぜん使つかわれていた文字もじすが、狭義きょうぎにはこうかんもとまきによる字書じしょせつぶんかい』やたかしの「さんたい石経いしきょう」に「古文こぶん」として使つかわれている文字もじ、さらに出土しゅつど文物ぶんぶつであるろくこく青銅器せいどうき陶磁器とうじき貨幣かへい璽印ちょうすな仰天ぎょうてんすわえはかちく簡・しんすわえはかちく簡・すわえ帛書といった文書ぶんしょ使つかわれている文字もじす。

文字もじとしての「古文こぶん[編集へんしゅう]

前漢ぜんかんだいはた焚書ふんしょ政策せいさくまぬかれて孔子こうし旧宅きゅうたくかべちゅう民間みんかんから発見はっけんされたはた以前いぜん儒家じゅか経書けいしょテキスト使つかわれていた文字もじであり、当時とうじ経書けいしょ一般いっぱんてき使用しようされていた書体しょたいであるこんぶん隷書れいしょたい)にたいして古文こぶんという(テキストについては下記かき古文こぶん経学けいがく参照さんしょう)。

古文こぶん」とは本来ほんらいふる時代じだい文字もじ」という意味いみでしかなく、その定義ていぎきわめて曖昧あいまいなものである。しかし、こうかん時代じだい古文こぶん経学けいがくしゃであるもとまき著書ちょしょせつぶんかい』に479古文こぶんせつぶん古文こぶん)を異体いたいとして収録しゅうろくし、またさんこく時代じだいたかしさんたい石経いしきょう古文こぶん使つかっていたおかげで、その一端いったんうかがることができた。

現在げんざいせつぶんかい』や「さんたい石経いしきょう」に収録しゅうろくされている「古文こぶん」の字形じけいると、さきするどとがっており、金文きんぶんきわめてよく似通にかよっている。字形じけいどう時代じだいすでにある程度ていど部首ぶしゅけが可能かのうかたちとなっていた大篆だいてん小篆しょうてん原型げんけい)にくらべると整備せいび部分ぶぶんおおい。

近代きんだいになり、王国おうこくは「戦国せんごくしんよう籀文ろくこくよう古文こぶんせつ」(1916ねん)において古文こぶん戦国せんごく時代じだいはた以外いがいろくこくひとしすわえつばめかんちょうたかし)で使用しようされていた文字もじ推定すいていし、東方とうほう各国かっこく発展はってんした文字もじかんがえた。西方せいほうの籀文にたいし、東方とうほう古文こぶん系統けいとう想定そうていしたものである。せつぶん古文こぶんは『せつぶんかい』の2000ねんにもおよ伝写でんしゃ過程かていでその書風しょふうおおきくわっている可能かのうせいがあり、当時とうじのものを反映はんえいしているとはがたい。しかし、その字体じたい構造こうぞうについては、その陸続りくぞく発見はっけんされた出土しゅつど文字もじ資料しりょうとくすわえ簡が中心ちゅうしんとなる)との共通きょうつうせいたしかめられ、ろくこく文字もじろくこく古文こぶん(りっこくこぶん)とばれている。

またとうだい末期まっきにはみだれた漢字かんじ字体じたい整理せいりするために典拠てんきょのある規範きはん漢字かんじもとめようとする文字もじ校勘こうかんがくさましょ興起こうきした。そのさい古文こぶん収集しゅうしゅうおこなわれてじゅうすうしゅ文集ぶんしゅう字書じしょあらわされたとされ、その成果せいかきたそうはつかく忠恕ただひろの『あせ簡』やなつ竦の『古文こぶん四声しせいいん』におさめられた。これらの書物しょもつ従来じゅうらいあまりかえりみられなかったが、出土しゅつどする戦国せんごくちく簡の読解どっかい有用ゆうようであることがかり、古文こぶん知識ちしきからそう時代じだいにものこっていたことがられた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

古文こぶん経学けいがく[編集へんしゅう]

古文こぶんかれた経書けいしょのテキストを古文こぶんけい(こぶんけい)、つて注釈ちゅうしゃく)をふくめて古文こぶん経伝けいでん(こぶんけいでん)という。当時とうじ一般いっぱんてき通行つうこうしていたこんぶんかれたテキスト(こんぶん経伝けいでん)と文字もじ内容ないよう異同いどうがあったため、経書けいしょ解釈かいしゃくめぐって論争ろんそうこった。古文こぶん経伝けいでん当時とうじ通行つうこう書体しょたいあらためられたので、ここでいういま古文こぶんは、由来ゆらいするテキストちがいを言葉ことばであった。

展開てんかい[編集へんしゅう]

古文こぶん経伝けいでんほうずる学問がくもん文学ぶんがく(こぶんがく)または古文こぶん経学けいがく(こぶんけいがく)という。前漢ぜんかんまつりゅう提唱ていしょうしたもので、当初とうしょこんぶん普通ふつうであったため主流しゅりゅうではなかったが、おうしんあさがくかんてられるなど徐々じょじょ頭角とうかくあらわした。

こうかんではおう政権せいけん否定ひていするため、古文こぶん経伝けいでんまなべかんてられることはなかった。そのため、文学ぶんがく在野ざいやおこなわれ、経文きょうもんいちいち解釈かいしゃくする訓詁くんこがく発展はってんさせた。五経ごきょう博士はかせ主体しゅたいとしたこんぶん経学けいがくいちけいせんもん家法かほう伝授でんじゅ墨守ぼくしゅし、けいにまでつうずることがなかったのにたいし、文学ぶんがく博学はくがくでさまざまな理論りろんれつつ、六経りくけい全般ぜんぱん貫通かんつうする解釈かいしゃくがく構築こうちく目指めざした。そのなかでこんぶん古文こぶん字体じたい差異さい還元かんげんし、字形じけいにもとづく解釈かいしゃくがく発展はってんさせたもとまきの『せつぶんかい』もまれている。またていげんさんれい中心ちゅうしん六経りくけいつうずる理論りろん体系たいけいし、こうかん経学けいがく集大成しゅうたいせいしたのである。この結果けっか完全かんぜんこんぶん経学けいがく伝承でんしょう途絶とだえ、儒学じゅがく文学ぶんがく独擅場どくせんじょうとなった。

しかしこのように一本いっぽんされたことによって、ぎゃくとうだいになるといまぶん古文こぶん差異さい重視じゅうしされなくなり、その存在そんざいかんかげはじめる。そうだいになるといちいちにこだわる訓詁くんこがくたいして異議いぎとなえられ、字義じぎよりも思想しそう内容ないよう重視じゅうしした朱子学しゅしがくなどのあたらしい経学けいがくまれた。

しかし、きよしだいになると朱子学しゅしがく解釈かいしゃくがく主観しゅかんてきすぎるとの批判ひはんがおこり、いぬいよしみがく考証こうしょうがく)では、文学ぶんがくをもとに漢学かんがく復興ふっこうがはかられた。そのつねしゅう学派がくはこんぶん重視じゅうしし、古文こぶん経伝けいでんりゅう偽作ぎさく主張しゅちょうされた。

古文こぶん経伝けいでん[編集へんしゅう]

文学ぶんがくでは六経りくけい順序じゅんじょを『えき』『しょ』『』『れい』『らく』『春秋しゅんじゅう』とする。かんだい古文こぶん経伝けいでんにはつぎのようなものがある。

  • 古文こぶんえき」 - こんぶんえき大差たいさはないが、前漢ぜんかんすえりゅうむかいこんぶんさんいええき宮中きゅうちゅう古文こぶんえき校合きょうごうしたところいまぶんえきけいには「とがめ悔亡」が脱去だっきょしており、民間みんかんただしつたえた「えき」だけが古文こぶんえきおなじであったという。現行げんこうほんえきけい』のテキストは、ほんをもとにしたたかしおうの『しゅうえきちゅう』である。
  • 古文こぶん尚書しょうしょ」57へん - 孔子こうし旧宅きゅうたくかべちゅうから発見はっけんされあな安国やすくにつたえたものなどをいう。「こんぶん尚書しょうしょ」より16へんおおい「逸書いっしょ」が存在そんざいした。西にしすすむ末期まっきえいよしみらん散佚さんいつ現行げんこうほんしょけい』のテキストは、あずますすむうめ賾(ばいさく)が献上けんじょうした「にせ古文こぶん尚書しょうしょ」である。
  • もう」29かん - 前漢ぜんかんもうとおるもう萇がつたえた。現行げんこうほん詩経しきょう』のテキスト。
  • しゅうかん」6へん - 現行げんこうほんしゅうあや』のテキスト。
  • れいけい」56へん - 『儀礼ぎれい』の古文こぶんけい現行げんこうほん儀礼ぎれい』のテキストは、ていげんこんぶん高堂こうどうほんれいけい校合きょうごうしてできたものという。ただし、れいけいは56へんであり、高堂こうどうせいつたえたこんぶんけい17へんより39へんおおいが、この39へん散佚さんいつし『いっれい』といわれる。
  • 春秋しゅんじゅうけい」12へん - 単独たんどくでは現在げんざいつたえられておらず、『春秋しゅんじゅうひだりでん』に付随ふずいしてつたえられている。「春秋しゅんじゅうけい」と「春秋しゅんじゅうひだりでん」を配合はいごうしたのは西にしすすむもりあずかとされる。でんつたえる『春秋しゅんじゅう』よりも2ねんぶんおおあいこうじゅうろくねんまで記載きさいされている。
  • 春秋しゅんじゅうひだりでん」30かん - 現行げんこうほん春秋しゅんじゅうひだりでん』のテキスト。
  • いにしえろん」21へん - 古文こぶんの『論語ろんご』。孔子こうし旧宅きゅうたくかべちゅうから発見はっけんされた。そしてこれは現存げんそんしない。現行げんこうほん論語ろんご』のテキストは、こうかんちょうこんぶんの「魯論」を中心ちゅうしんおなじくこんぶんの「ひとしろん」と校合きょうごうしてつくった「ちょうこうろん」をもとに、ていげんが「いにしえろん」と校合きょうごうしてつくったという『論語ろんごちゅう』である。
  • 古文こぶんこうけい」1へん - 孔子こうし旧宅きゅうたくかべちゅうから古文こぶん尚書しょうしょとともに発見はっけんされ、あな安国やすくにつてつくった。りょうだい散佚さんいつずいだいさい発見はっけんされたものは偽書ぎしょうたがいがたかいという。これも中国ちゅうごくではとうだい散佚さんいつした。日本にっぽんとうだい輸入ゆにゅうされたものがあるが偽書ぎしょとされる。