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えきけい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
えきから転送てんそう
儒家じゅか経典きょうてん
五経ごきょう つて
きゅうけい
えき
しょ

れい儀礼ぎれい/しゅうあや
春秋しゅんじゅう
れい
春秋しゅんじゅうひだりでん
春秋しゅんじゅうこうひつじでん
春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ
ななけい じゅうけい
論語ろんご
こうけい
しかみやび
じゅうさんけい
孟子もうし

えきけい』(えききょう、せい字体じたいえきけい拼音: Yì Jīng)は、古代こだい中国ちゅうごく書物しょもつ五経ごきょうひとつ。著者ちょしゃ厳密げんみつには不明ふめいだが、『しゅうえき正義まさよしとうせる伝説でんせつではろくじゅうよんつくったのがふく本文ほんぶん爻辞)をつくったのがしゅうこうだんとされている[注釈ちゅうしゃく 1]中心ちゅうしん思想しそうは、陰陽いんようふたつの元素げんそ対立たいりつ統合とうごうにより、森羅万象しんらばんしょう変化へんか法則ほうそくき、人間にんげん処世しょせいじょう指針ししん教訓きょうくんしょとされる。語句ごく簡潔かんけつで、含蓄がんちくるとされる。[1]

げんがく」の立場たちばからは『老子ろうし道徳どうとくけい』・『そう』とわせて「さんげん(のしょ)」とばれる。 また、中国ちゅうごくでは『みかどないけい』・『山海さんかいけい』とわせて「上古じょうこさんだい奇書きしょ」ともぶ。

しゅうえき記事きじ参考さんこうのこと。

概要がいよう

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儒教じゅきょう基本きほん書籍しょせきである五経ごきょう筆頭ひっとうげられる経典きょうてんであり、『しゅうえき』(しゅうえき、Zhōu Yì)またはたんに『えき』(えき)ともぶ。通常つうじょうは、基本きほんの「けい」の部分ぶぶんである『しゅうえき』に儒教じゅきょうてき解釈かいしゃくによるぶんじゅうつばさまたはつて)をくわえたものをひとつのしょとすることがおおく、一般いっぱんに『えきけい』という場合ばあいそれをすことがおおいが、本来ほんらいてきには『えきけい』は・爻辞部分ぶぶん上下じょうげへんのみをす。

さんえきひとつであり、太古たいこよりのうらないの知恵ちえ体系たいけい組織そしきし、深遠しんえん宇宙うちゅうかんにまで昇華しょうかさせている。

古来こらいうらないを重視じゅうしするぞうすうえき哲理てつり重視じゅうしする義理ぎりえきがあり、ぞうすうえきかんだいに、義理ぎりえきそうだい流行りゅうこうした。

史記しきにちしゃ列伝れつでん長安ながやすひがし売卜ばいぼくをしていたすわえじん司馬しばぬし博士はかせ賈誼との議論ぎろんにおいて、えきは「先王せんおう聖人せいじん道術どうじゅつ」であるという記述きじゅつがある。[2]

書名しょめい

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この書物しょもつ本来ほんらい書名しょめいは『えき』または『しゅうえき』である。『えきけい』というのはそう以降いこう名称めいしょうで、儒教じゅきょう経書けいしょげられたためにこうばれる。

なぜ『えき』というなのか、古来こらいから様々さまざませつとなえられてきた。ただし、「えき」というかたりがもっぱら「変化へんか」を意味いみし、またうらないというもの自体じたい過去かこ現在げんざい未来みらいへと変化へんか流転るてんしていくものをとらえようとするものであることから、なんらかのてんで “変化へんか” と関連かんれんするとかんがえるひとおおい。

有名ゆうめいなものに「えき」という蜥蜴とかげ由来ゆらいするという “蜥蜴とかげせつ” があり、蜥蜴とかげはだいろ変化へんかさせることに由来ゆらいするという。

また、「えき」のが「」と「つき」から構成こうせいされるとする “日月じつげつせつ” があり、太陽たいよう太陰たいいんつき)で陰陽いんよう代表だいひょうさせているとするせつもあり、太陽たいようつきほし運行うんこうから運命うんめいみとる占星術せんせいじゅつ由来ゆらいするとかんがえるひともいる。

伝統でんとうてき儒教じゅきょうかんがえでは、『しゅうえき正義まさよし』がく『えきぬきいぬい鑿度』の「えきいちめいにしてさんふくむ」という「へんえき」「不易ふえき」「えき簡(簡易かんい)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “さんえきせつ” をっている。

また、『しゅうえき』の「しゅう」は中国ちゅうごく王朝おうちょうしゅうだいえきであるとわれることがおおいが、ていげんなどは「しゅう」は「あまねく」の意味いみであるとかいしている。しかし、『史記しきにちしゃ列伝れつでんには、「しゅうだいにおいてもっとさかんであった」という記述きじゅつがある。[2]

えきけい』の構成こうせい

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現行げんこうえきけい』は、本体ほんたい部分ぶぶんともうべき(1)「けい」(狭義きょうぎの「えきけい」。「うえけい」と「しもけい」にかれる)と、これを注釈ちゅうしゃく解説かいせつする10の(2)「つて」(「えきでん」または「じゅうつばさ(じゅうよく)」ともいう)からなる。

けい爻辞)

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けい」には、ろくじゅうよんのそれぞれについて、図像ずぞうである画像がぞうと、全体ぜんたいてき意味いみについて記述きじゅつすると、さらに構成こうせいしている6ほんくらい(こうい)の意味いみ説明せつめいする384の爻辞(いぬいひつじさるにのみある「もちいきゅう」「もちいろく」をくわえてかぞえるときは386)とが、整理せいりされ箇条書かじょうがきにおさめられ、うえけい(30収録しゅうろく)・しもけい(34収録しゅうろく)の2かんかれる。別名べつめいを「爻辞」ともいう。[3]中国ちゅうごく思想しそう研究けんきゅう浅野あさの裕一ひろいちは、最古さいこほんである「上海しゃんはい簡本」を解読かいどくし、本来ほんらいえきけいのみで、ちゅうはなく、易者えきしゃまえろくじゅうよん一覧いちらんできるたけ簡をき、それをうらなっていたのだろうと推定すいていしている。[4]

つてじゅうつばさえきでん

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つて」(「えきでん」、「じゅうつばさ」)は、「彖伝(たんでん)じょうした」、「ぞうでん(しょうでん)じょうした」、「繋辞けいじでん(けいじでん)じょうした」、「文言もんごんでん(ぶんげんでん)」、「せつでん(せっかでん)」、「じょでん(じょかでん)」、「ざつでん(ざっかでん)」のけい10である。これらのなか繋辞けいじでんには小成しょうせい八卦はっけ記述きじゅつはあるものの、大成たいせい解説かいせつでは大成たいせい小成しょうせい八卦はっけわせとしてはかいしておらず、繋辞けいじでん最初さいしょつくられた「つて」と推測すいそくされる。

  • 「彖伝じょうした」には、「しゅうえきじょうしもけい」それぞれの注釈ちゅうしゃくおさめられている。
  • ぞうでんじょうした」には、かく象形しょうけい意味いみについてのみじか解説かいせつと、その爻辞の注釈ちゅうしゃくおさめられている。えきうらないあいだでは、前者ぜんしゃ部分ぶぶんを「だいぞう」、後者こうしゃ部分ぶぶんを「爻伝」、というふうに呼称こしょう区別くべつしていることがある。
  • 文言もんごんでん」では、ろくじゅうよんのうちもっと重要じゅうようかつ基本きほん位置いちづけにあるである、いぬい(けん)およびひつじさる(こん)について、くわしい訓詁くんこてき解説かいせつがなされる。
  • 繋辞けいじでんじょうした」には、えきち、えき思想しそううらないの方式ほうしき、など、『えき』にかんする包括ほうかつてき説明せつめいおさめられている。
  • せつでん」では、大成たいせいろくじゅうよんのもととなる小成しょうせい八卦はっけ概念がいねん森羅万象しんらばんしょうをこのはちしゅぞう分類ぶんるいするその分類ぶんるいのされかたが、詳説しょうせつされる。
  • じょでん」には、現行げんこうの「しゅうえきじょうしもけい」でのろくじゅうよんならかた理由りゆう説明せつめいされている。
  • ざつでん」では、うらないにあたってぞうさいの、ちょっとしたヒントが、かくごとにみじか言葉ことばべられる。着目ちゃくもくヒントしゅうである。

じゅうつばさ」はすべて孔子こうしさくという伝承でんしょうがあったが、後述こうじゅつのようにきたそうおうおさむが「『文言もんごん』・『せつ』のしたは、みな聖人せいじん孔子こうし)のさくず。しかしてしゅうせつ淆乱し、また一人ひとりげんにあらざる也。」と否定ひていしたものがほぼ定説ていせつしており、現在げんざいでは「繋辞けいじでんじょうした」をのぞくと孔子こうしさくではなく、戦国せんごくからはたかん無名むめいひと儒家じゅかにひもづけたものであるとされている。[5] 1973ねんうま王堆漢おうたいかん発見はっけんされた帛書『しゅうえき写本しゃほんに「じゅうつばさ」はく、付属ふぞく文書ぶんしょさんとい繋辞けいじえきよしかなめ・繆和・あきらりょくろくへん構成こうせいされていた。中国ちゅうごく思想しそう研究けんきゅう浅野あさの裕一ひろいちは、「本来ほんらいえき儒教じゅきょうとは関係かんけいがなかったはずだが、戦国せんごく時代じだいにはえき難解なんかい内容ないよう儒教じゅきょうてき解釈かいしゃくする注釈ちゅうしゃくがいくつかあり、強引ごういんかつ牽強付会けんきょうふかいせつおおとなえられた。」「現在げんざいえきけい版本はんぽんでは彖、ぞう本文ほんぶんんでいるが、最古さいこほんである「上海しゃんはい簡本」ではそれがなく、けい爻辞)のみである。前漢ぜんかんじきが彖、ぞう本文ほんぶんくわえるかたちにしたのだ」としている。[6]

現代げんだい

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現代げんだい出版しゅっぱんされているえきけいでは、ひとつのたいして、やめ、彖、ぞう、爻辞のじゅんでそれぞれがならべられていることがおおく、「けい」、「彖」、「ぞう」を一体いったいのものとしてあつかっている。たとえば「えき中国ちゅうごく古典こてんせん10」[7]では、ひとつのは、おう弼・ほど頤にならい以下いかのように編集へんしゅうされている。

  • :(けい)のシンボルイメージ。ふく羲作とされる。
  • :(けい)名前なまえ説明せつめいぶんおうさくとされる。
    • 彖伝:(つて注釈ちゅうしゃく
    • だいぞう:(つてぞうでんちゅう説明せつめい部分ぶぶん
  • 爻辞:(けい)はつ爻の説明せつめいしゅうおおやけさくとされる。
    • しょうぞう:(つてはつ爻にかんする、ぞうでんちゅうの爻の説明せつめい部分ぶぶん

(のこり5爻の爻辞・しょうぞう

  • 文言もんごんでん:(つて乾坤けんこんのみ。

えき版本はんぽんについて

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ふるくはさんえき連山れんざんえきかえりぞうえきしゅうえき)が存在そんざいしたとされ、「連山れんざん」「かえりぞう」をていげんはそれぞれ夏代なつよいんだいえきかいしている。「連山れんざん」「かえりぞう」は後世こうせいつたわっていない。ただし、王家おうけだいしん発見はっけんされたたけ簡が「かえりぞう」である可能かのうせいがある[8]王家おうけだいしん記事きじ参考さんこうのこと。しゅうえきおも版本はんぽんよっつある。じゅうさんけい注疏ちゅうそほん・帛書ほん上海しゃんはい簡本・阜陽ほんよっつである。

  • もっともよく使つかわれるのはきよし阮元校訂こうていしたじゅうさんけい注疏ちゅうそほんである。これはこうかんまつ以来いらい石経いしきょう系統けいとうつたえるもので、とうだい開成かいせい石経いしきょうさら校訂こうていしたものである。現在げんざい日本にっぽんえきけい訳本やくほんでは、岩波いわなみ文庫ぶんこばん徳間とくま文庫ぶんこばんじゅうさんけい注疏ちゅうそほんっている。なお、この系統けいとう異本いほんしゅうえき折中せっちゅうほんっているのが朝日新聞社あさひしんぶんしゃ中国ちゅうごく古典こてんせんばんである。
  • うま王堆漢おうたいかん帛書ほんは、『ろくじゅうよん』と『えきでんろくへん(繆和へん・衷篇・さんといへんあきらりょくへんようへん・繫辭へん)からる。通行つうこうほんおおきくことなるてんとして、ろくじゅうよん順番じゅんばんじゅうつばさ有無うむげられる。うまおううずたか帛書記事きじ参考さんこうのこと。これによった訳本やくほん東方とうほう書店しょてんのものがあり、うま王堆漢おうたいかん帛書ほん通行つうこうほんだけでなく、上海しゃんはいひろしほん・阜陽ほんなど近年きんねんほか出土しゅつど資料しりょう研究けんきゅう成果せいかまえたうえ訳出やくしゅつされている。
  • 1994ねん香港ほんこん骨董こっとう発見はっけんされたたけ簡本は炭素たんそ年代ねんだい測定そくてい戦国せんごく時代じだいのものだとかっており、現存げんそん最古さいこのものであるが、けい本文ほんぶん部分ぶぶんてきにしかのこっていない。のちにこのたけ簡は上海しゃんはい博物館はくぶつかん購入こうにゅうしたために「うえひろしすわえ」「上海しゃんはい簡」とばれる。かくてんいちごうはかから盗掘とうくつされたものらしい[9]。なお、上海しゃんはいひろしすわえ簡『しゅうえき』にはろくじゅうよんがあるのみで、「えきでん」はない[10]
  • 阜陽かんしゅうえき』。通行つうこうほんには存在そんざいしない「ぼく」がいている(げんいさむじゅん『『しゅうえき』の儒教じゅきょう経典きょうてん研究けんきゅう : 出土しゅつど資料しりょうしゅうえき』を中心ちゅうしんに』)。

なお、清華せいかの『べつ』も参考さんこうのこと。

伝説でんせつ論争ろんそう

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八卦はっけ生成せいせい

伝説でんせつ

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えきけい繋辞けいじうえでんには「えき聖人せいじん著作ちょさくである」ということがかれている。古来こらい伝承でんしょう(『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざし)によれば、えき成立せいりつ以下いかのようなものであったという。 まずふく八卦はっけつくり、さらにそれをかさねてろくじゅうよんとした。[11]しゅうぶんおうがとしゅうこうだん・爻辞をつくったという。この『えき作成さくせいかかわるふく羲・ぶんおうしゅうこう)・孔子こうしを「さんひじり」という(ぶんおうしゅうこうける場合ばあいでも親子おやこなので一人ひとりとしてかぞえる)。[12]

漢学かんがくしゃ高田たかだ眞治しんじは、東洋とうよう学者がくしゃ白鳥しらとりきよしせつフレーザー金枝きんしへん』、甲骨文字こうこつもじ研究けんきゅうをもとに、この伝説でんせつ下記かきのように考察こうさつしている。[13]

  • 春秋しゅんじゅうひだりでん史記しきによれば、古代こだい中国ちゅうごくには豢竜りゅう・蓄竜などのあめかみりゅうまつシャーマニズムがあり、かれらは爬虫類はちゅうるいりゅうつうじる能力のうりょくると飼育しいくしていた。
  • おそらくふく羲というのはシャーマンで、一種いっしゅ呪術じゅじゅつてきうらないをつくった古代こだい酋長しゅうちょうのひとりであろう。
  • いんから出土しゅつどした甲骨文字こうこつもじうらないの記録きろくには、えきとの関係かんけいられず、いんかめ甲羅こうらうらなうらないうらない(ぼくせん)というべつうらないをしていた。『春秋しゅんじゅうひだりでん』ではぼくうらないえき別物べつものとされており、えきしゅうだい出来できたものだろう。
  • えきしゅうだいになってからさかんにおこなわれるようになったため、それでしゅうぶんおうむすけられたのだが、えき本文ほんぶんにはぶんおう没後ぼつごはなしがしばしばてくるので、ぶんおうとは無関係むかんけいであろう。えきにはいんしゅう革命かくめいはなしおおいのでしゅうぶんおうされたのではないか。
  • しゅうこうだん詩人しじん文人ぶんじんとしてもたか能力のうりょくがあり、えき・爻辞をまとめるのにふさわしい人物じんぶつだろう。しゅうこうだんおよびその幕下まくした賢人けんじん哲人てつじん・爻辞の作者さくしゃだと推定すいていできる。

そして、孔子こうしが「つて」をいてしょう(しょうく)へとつたえ、それ以降いこう儒家じゅかである荀子学派がくはによって儒家じゅか経典きょうてんとしてまれた。荀子をかんだいなに(でんか)にいたったものとされる。

じゅうつばさ伝説でんせつについての論争ろんそう

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孔子こうし晩年ばんねんえきこのんでつて注釈ちゅうしゃく、いわゆる「じゅうつばさ」といわれる彖伝・繋辞けいじでんぞうでんせつでん文言もんごんでん)をいたというのはとく有名ゆうめいであり、『論語ろんごじゅつ而篇にも

いわく、「すうねんくわえ、じゅうにしてもっえきまねべばもっ大過たいかなかるべし」[14] — 孔子こうし、『論語ろんごじゅつ而篇

という孔子こうし述懐じゅっかいえており、そのへんけんといへんでもえきぶん引用いんようして孔子こうし発言はつげんしたところがあり、孔子こうしえき関係かんけいがあったことは事実じじつであろうと高田たかだ眞治しんじかんがえている。[15]史記しき孔子こうしには「孔子こうし晩年ばんねんえき愛読あいどくし、彖・つなぎぞうせつ文言もんごんいた。えきんでたけ簡のとじひもがさんれてしまった」とかれており[16]、「韋編さんぜっ」の故事こじとして名高なだかい。

しかしながら、この伝説でんせつふるくから疑問ぎもんされていた。えき文言もんごん伝承でんしょう相違そういしているてんおおいためである。その嚆矢こうしとなったのはそうおうおさむである。かれ著書ちょしょえき童子どうじとい』において「じゅうつばさ孔子こうし著作ちょさくではない。複数ふくすう人間にんげん著作ちょさくぶつだろう。内容ないよう混乱こんらんしており、1人ひとりさくとはおもえない」と疑問ぎもんていした。

童子どうじうていわく。「『繫辞』はこれ聖人せいじんさくざるか。」いわく。「ひとり繫辞のみならんや。『文言もんごん』・『せつ』のしたは、みな聖人せいじんさくず。しかしてしゅうせつ淆乱し、また一人ひとりげんにあらざる也。」 — おうおさむ、『おうおさむしゅうまきななじゅうはちえき童子どうじといウィキソース おうおさむしゅう まきななじゅうはち·えき童子どうじといまきさん

そうだい以降いこうえきけい成立せいりつかんする研究けんきゅうすすめばすすむほど、伝説でんせつしんじがたく、おうおさむせつただしいことがあきらかになっていった。内藤ないとう湖南こなん論文ろんぶんえきうたぐ』で

ことおうおさむじゅうつばさもっ一人ひとりなりつたものでないとしたのは卓見たっけんしょうすべきである。」 — 内藤ないとう湖南こなん、『えきうたぐ内藤ないとう湖南こなん全集ぜんしゅう だいななかんえきうたぐ』(青空あおぞら文庫ぶんこばん

おうおさむせつ評価ひょうかし、さら

しょう以來いらい傳授でんじゅしんぜられぬことのそとすなわなにはじめて竹帛ちくはくちょはしたといふことは、おそらく事實じじつとするをべく、すくなくとも其時まではえき内容ないようにも變化へんかおこることが容易よういなものとかんがへられるのである。それ筮の起原きげんあるいとおいんだいみこりとし、れいうん孔子こうしいんどうんとほっしてそうこれひつじさるいぬいたりとあるのが、多少たしょうりどころがあるものとしても、それが今日きょうしゅうえきになるには、えず變化へんかし、而かも文化ぶんか急激きゅうげき發達はったつした戰國せんごく時代じだいおいて、もっとおお變化へんかけたものとかんがえふべきではあるまいか。」 — 内藤ないとう湖南こなん、『えきうたぐ内藤ないとう湖南こなん全集ぜんしゅう だいななかんえきうたぐ』(青空あおぞら文庫ぶんこばん

べ、えきけい孔子こうしかかわってはいるだろうが、戦国せんごく時代じだい相当そうとう変更へんこうがあっただろうとかんがえた。

また高田たかだ眞治しんじも、

孔子こうしえきとの関係かんけいがあったことは窺(うかが)うことができるけれども、しかしながら孔子こうしじゅうつばさつくったということについては、そうおうおさむ以来いらいこれをうたがものおおく、じゅうつばさ孔子こうしさくにあらずということは、そのおおくの学者がくしゃによって容認ようにんされている。 — 高田たかだ眞治しんじ、『えきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、P24、1969。

べ、おう内藤ないとうせつ定説ていせつであることをみとめている。

なお、じゅうつばさについてはきん現代げんだい学者がくしゃたちのあいだでもだれ作者さくしゃかは様々さまざませつがある。しんだいから現代げんだい日本にっぽんにかけての学者がくしゃたちのせつ以下いか要約ようやくする。

前述ぜんじゅつおうおさむせつ発展はってんさせたもの。根拠こんきょとしては、もりあずかすすむだい出土しゅつどの『えきけい』にはじゅうつばさまったかったこと、『論語ろんご』などさきしん儒家じゅかせつえきについてのはなしがほとんどないこと。浅野あさの裕一ひろいちもこれにちかいが、出土しゅつどした最古さいこのテキスト「上海しゃんはい簡本」の研究けんきゅうにより、はたかんではなく、それ以前いぜん戦国せんごく時代じだい儒家じゅか徐々じょじょつくったのだろう、武内たけうちらは年代ねんだいげてかんがえすぎているとしている[17]。ただしもといさみじゅんは、浅野あさの裕一ひろいち見解けんかいにたいして、「かくてんすわえなりしょ年代ねんだい戦国せんごく中期ちゅうきせつ批判ひはんてきしたがっており、『しゅうえき』にたいしても思想しそうてき検討けんとうおこなっていない」(げんいさむじゅん『『しゅうえき』の儒教じゅきょう経典きょうてん研究けんきゅう : 出土しゅつど資料しりょうしゅうえき』を中心ちゅうしんに』)と指摘してきしている。なお本田ほんだわたるは、「孔子こうしじゅうつばさつくったということだけではない、孔子こうしえきんだことすらがうたがわしい」[18]べている。ただし高田たかだ眞治しんじは、「たとえじゅうつばさ孔子こうしみずかひつくだしてつくったものでないとしてもじゅうつばさ孔子こうし門流もんりゅうとくおもえ孟子もうし学派がくはによってり、そのなかには孔子こうし思想しそう含有がんゆうせられているものとみてさしつかえないであろう」[19]べている。

この論者ろんしゃたちは、かんだい記録きろく重視じゅうしする。記録きろくにはしばしば「孔子こうし繋辞けいじでんつくった」という記載きさいがあるため、孔子こうしさくとする。すなわちうま王堆漢おうたいかん帛書ほんのように・爻辞・繋辞けいじでんのみが原型げんけいだったというのである。郭沫若かくまつじゃくは荀子のせつが「繋辞けいじでん」にはいっていることを指摘してきしたが、荀子は孔子こうし正当せいとう学問がくもん(いわゆるひとし魯のまなべこんぶん経学けいがく、『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』)をいでおり、[20]伝承でんしょう系統けいとうあきらかである。ぎゃくに『えきけい』のじゅうつばさのうちせつでんじょでんざつでんさんでんかんまつ無名むめい人物じんぶつ発見はっけんしたという記録きろく重視じゅうしした。りゅう歆はこのころ経書けいしょ(いわゆるおおやけひつじでん否定ひていする古文こぶん経学けいがく)の偽造ぎぞうさかんにっていたうたがいがある人物じんぶつで、『しゅうあや』・『春秋しゅんじゅうひだりでん』などもかれ偽造ぎぞうというせつ存在そんざいする。これらはりゅう歆がかついでいたおうのおいえりの理論りろん武装ぶそうもちいられた。[21]

前述ぜんじゅつせつ異説いせつである。もうよわいは「そう儒のきょう妄なる、おうおさむやからごとき、ややもすれば輒ち夫子ふうしさくずとするは、忌憚きたんきのはなはだしきものうべし(そうだい儒者じゅしゃとくおうおさむのようなやからが、すぐに孔子こうしさくではないといいすのは、あまりにもひどすぎるのではないか)」とべている。清朝せいちょう考証こうしょうがくでは「彖伝・ぞうでん」は孔子こうし言葉ことばだとしんじてうたがわない学者がくしゃおおかった[22]。なお、本田ほんだわたるは、「(きよしだい考証こうしょうがくについて)それは一見いっけん近代きんだいてき科学かがく精神せいしんつらぬかれた学問がくもんのようではあるが、なお経書けいしょ宗教しゅうきょうてき権威けんい無視むししていないのである」「しかしその科学かがくてき批判ひはんのメスのおよ範囲はんい限界げんかいがある。経典きょうてん自体じたい神聖しんせいせいにまではおよぼさないのである」と批判ひはんしている[23]

春秋しゅんじゅうひだりでん』について

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古代こだい中国ちゅうごくいんだいには、亀甲きっこうき、そこにあらわれる亀裂きれつかたちぼくちょう)で、国家こっかてき行事ぎょうじ吉凶きっきょううらなう「かめぼく」が、神事しんじとしてさかんにおこなわれていたことが、いんにおける多量たりょうかぶとこつぶん発見はっけんなどによりられている。西にしあまね以降いこうぶんの、「めどぎかめ」や「かめさく」(さく筮竹ぜいちく)などのかたりられるように、そのかめぼくと筮占が併用へいようされた時代じだいがあったらしい。両者りょうしゃ比較ひかくについては、『春秋しゅんじゅうひだりでん』僖公4ねんに、かめぼくでは不吉ふきつ占筮せんぜいではきちと、結果けっかちがったことについてぼくじんが、「筮はたんにしてぼくかめぼく)はちょうなり。ぼくしたがうにかず(占筮せんぜい短期たんき視点してんからしめし、かめぼく長期ちょうき視点してんからしめします。かめぼくしたがうほうがよいでしょう)」とべた、という記事きじられる。『春秋しゅんじゅうひだりでん』にはかめぼく占筮せんぜいかんするエピソードがおお存在そんざいするが、それらの記事きじでは、(かめぼくの)ぼくちょうと、(占筮せんぜいの)、また、ぼくちょうかたちにつけられたうらないの言葉ことばである繇辞(ちゅうじ)と、爻につけられたうらないの言葉ことばである・爻辞が、それぞれ対比的たいひてき関係かんけいせている。

なお、げんいさむじゅんは、『春秋しゅんじゅうひだりでん』におけるうらないの記事きじは、春秋しゅんじゅう時代じだいにじっさいにおこなわれたうらないの記録きろくではない、とべている(げんいさむじゅん『『しゅうえき』の儒教じゅきょう経典きょうてん研究けんきゅう : 出土しゅつど資料しりょうしゅうえき』を中心ちゅうしんに』)。つつみやますわえなどのうらないの記録きろくとの比較ひかくから、春秋しゅんじゅう時代じだいにはまだしゅうえきは「代表だいひょうてきうらない」として確立かくりつしていなかった可能かのうせいたかいにもかかわらず、『春秋しゅんじゅうひだりでん』では「権威けんいあるしょ」としてしゅうえき引用いんようしているからである。

えき注釈ちゅうしゃく

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えき』にはこれまでさまざまな解釈かいしゃくおこなわれてきたが、大別たいべつするとぞうすうえき(しょうすうえき)と義理ぎりえき(ぎりえき)にけられる。「ぞうすうえき」とは象形しょうけいえき数理すうりから天地てんち自然しぜん法則ほうそくこうとする立場たちばであり、「義理ぎりえき」とは経文きょうもんから聖人せいじん人々ひとびとしめそうとした義理ぎり倫理りんり哲学てつがく)をあきらかにしようという立場たちばである。

かんだいには天象てんしょう人事じんじ影響えいきょうし、君主くんしゅ行動こうどうてん影響えいきょうしてわざわいことこるとする天人てんにん相関そうかんせつがあり、これにもとづいてえきぞうすうから未来みらいこるわざわいこと予測よそくする神秘しんぴ主義しゅぎてきぞうすうえきかんだい易学えきがく)が隆盛りゅうせいした。ここで『えき』はもっぱら政治せいじもちいられ、預言よげんしょてき性格せいかくをもった。とくはじめきょうぼうらは戦国せんごく時代じだい以来いらいぎょうばれる循環じゅんかん思想しそうみ、じゅう消息しょうそくなど天文てんもんりつこよみえきぞうすうとを結合けつごうさせたせつばれる理論りろん体系たいけい構築こうちくした。前漢ぜんかんすえりゅうはこのようなぞうすうもとづくりつれき思想しそう影響えいきょうのもとかんちょうかんれき太初たいしょれき補正ほせいしたさんすべれきつくっており、またりゅう歆からはじまる文学ぶんがくで『えき』は五経ごきょうのトップとされた。

一方いっぽうたかしおうぞう解釈かいしゃく拘泥こうでいする「かんえき」のありかた反対はんたいし、経文きょうもんかたろうとしている真意しんいをくみろうとする「義理ぎりえき」をてた。かれ注釈ちゅうしゃくでは『えき』をもっぱら人事じんじあつかうものとし、ろうそう思想しそうもとづきつつ、さまざまな人間にんげん関係かんけいのなかにおいて個人こじんるべき処世しょせい知恵ちえいだそうとした。かれの『えきちゅう』は南朝なんちょうにおいてがくかんてられ、とうだいには『五経ごきょう正義まさよし』のひとつとして『しゅうえき正義まさよし』がつくられた。

こうしておう弼注が国家こっか権威けんいとして認定にんていされてゆくなかで「かんえき」の系譜けいふ途絶とだえた。そのなかにあってかなえかんえきしょちゅうあつめて『しゅうえきしゅうかい』をのこし、後代こうだいかんえき一端いったんつたえている。

そうだいになると、従来じゅうらいつてならびにかんから訓詁くんこがくしょちゅう否定ひていするあたらしい経学けいがくおこった。えきでもさまざまな注釈ちゅうしゃくしょつくられたが、「義理ぎりえき」においておう弼注と双璧そうへきしょうされるほどの『ほどえきでん』がある。また「ぞうすうえき」では数理すうりえき生成せいせい原理げんりこうとする『すめらぎごく経世けいせいしょ』や太極たいきょく陰陽いんようぎょうによるしゅうあつしの『つうしょ』、ちょうの『せいこうむ』などがある。ここで太極たいきょく先天せんてんかわらくしょといった図像ずぞうをがもちいられ、図書としょ先天せんてんがくというえき図学ずがくおこった。みなみそうになると、義理ぎりえきぞうすうえき統合とうごうしようとするうごきがあらわれ、しゅしんの『かんじょうえきでん』、しゅの『しゅうえき本義ほんぎ』がある。

しゅうあつし頤からほど朱子学しゅしがくつらなる儒教じゅきょう形而上学けいじじょうがくてき基礎きそは、『えきけい』にもとめられる。

主要しゅよう概念がいねん

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八卦はっけ

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筮竹ぜいちく操作そうさした結果けっかられる記号きごうであるは6ほんの「」とばれるよこぼう(─か- -の2種類しゅるいがある)によって構成こうせいされているが、これは3爻ずつのものが上下じょうげに2つかさねてつくられているとされる。この3爻のわせによってできる8つの基本きほん図像ずぞうは「八卦はっけ」とばれる。

えきけい』は従来じゅうらいうらないのしょであるが、えきでんにおいては象形しょうけい天地てんち自然しぜん由来ゆらいするとされ、社会しゃかい事象じしょうにまで適用てきようされた。八卦はっけぞうはさまざまな事物じぶつ事象じしょうあらわすが、とくせつでんにおいて整理せいりしてしめされており、自然しぜん現象げんしょう配当はいとうして、いぬい=てんひつじさる=しん=かみなりたつみ=ふう、坎=みずはなれ=うしとら=やま、兌=さわとしたり(せつでん3)、人間にんげん社会しゃかい家族かぞく成員せいいん)に類推るいすいしていぬい=ちちひつじさる=ははしん=長男ちょうなんたつみ=長女ちょうじょ、坎=ちゅうおとこはなれ=ちゅうおんなうしとら=しょうおとこ、兌=少女しょうじょとしたり(せつでん10)した。一方いっぽう、爻については陰陽いんよう思想しそうにより─を、--をかげとし、万物ばんぶつ相反あいはんする性質せいしつについて説明せつめいした。このように戦国せんごく時代じだい以降いこう儒家じゅか陰陽いんよう思想しそうろう思想しそうれつつ天地てんち万物ばんぶつ生成せいせい変化へんか説明せつめいするえきでん作成さくせいすることで『えき』の経典きょうてんとしての位置いち確立かくりつさせた。

なお八卦はっけ順序じゅんじょには繋辞けいじうえでん生成せいせいろん太極たいきょく-りょう-よんぞう-八卦はっけ)による「いぬい・兌・はなれしんたつみ・坎・うしとらひつじさる」とせつでん5の生成せいせいろんによる「いぬいひつじさるしんたつみ・坎・はなれうしとら・兌」の2とおりがある。前者ぜんしゃふく先天せんてん八卦はっけ後者こうしゃぶんおう後天こうてん八卦はっけび、前者ぜんしゃによって八卦はっけ配置はいちしたを「先天せんてん」、後者こうしゃによるものを「後天こうてん」という。しかし、実際じっさいは11世紀せいききたそう邵雍著作ちょさくすめらぎごく経世けいせいしょ中国語ちゅうごくごばん』においてはじめてふく先天せんてん八卦はっけぶんおう後天こうてん八卦はっけとしてむすびつけられたのであり、先天せんてんしょは邵雍の創作そうさく推測すいそくされている。

ろくじゅうよん

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けい」におけるろくじゅうよんならかたがどのように決定けっていされたのかは現代げんだいでは不明ふめいである。またろくじゅうよんや爻辞を調しらべる場合ばあい、「けい」におけるろくじゅうよんならかたそのままでは不便ふべんであり、ろくじゅうよん上下じょうげにわけることで、インデックスとなる小成しょうせい八卦はっけわせによってろくじゅうよん整理せいりされた。その小成こなり八卦はっけ自体じたい世界せかい構成こうせい要素ようそ象徴しょうちょうとなって、様々さまざま意味いみ付与ふよされることとなった。

具体ぐたいれいをしめすと、いぬい以下いかのとおりである。

げんとおる利貞としさだはつきゅう潜竜せんりゅう勿用。きゅう、…。九三くぞう、…。きゅうよん、…。きゅう、…。うえきゅう、…。ようきゅう、…。

陰陽いんようしめ横線おうせん(爻)が6ほんかさねられたのシンボルがある。つぎつづ名前なまえいぬい)と全体ぜんたい内容ないよう様々さまざま象徴しょうちょうてき言葉ことば説明せつめいする。 つぎはつきゅうきゅう九三くぞうきゅうよんきゅううえきゅう(、もちいきゅう)ではじまる爻辞があり、シンボルちゅうかく爻について説明せつめいする。6ほんせん(爻)の位置いちしたからうえに、はつさんよんじょうというかたりあらわし、きゅう)をあらわしている。(かげ)はろくあらわす。) 爻辞はているが、はつからうえへと状況じょうきょう遷移せんいする変化へんかをとらえた説明せつめいがされる。象徴しょうちょうてきなストーリーと一貫いっかんした主題しゅだい説明せつめいされることもおおい。いぬいでは、象徴しょうちょうであるりゅう地中ちちゅうからてんのぼるプロセスをえが判断はんだんくわえている。

占筮せんぜい定義ていぎ

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一般いっぱんに「占筮せんぜい」といえば、『えきけい』にもとづいて筮竹ぜいちくもちいてうらないをすることをう(太古たいこには「めどぎ」という植物しょくぶつくき乾燥かんそうさせたものを使つかっていた。「めどぎ」とはキク多年草たねんそうであるノコギリソウのこと。なお、日本語にほんごで「めどぎ」(和名わみょう「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギというまめべつ植物しょくぶつ)。このうらないにおいては、50ほん筮竹ぜいちく操作そうさしてえらさだめ、それによって吉凶きっきょうそのうらなう。「卜筮ぼくぜい」と同義どうぎ

うらないほう

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筮竹ぜいちく使つかってうらなおとこ(1907ねん日本にっぽんハーバート・ポンティング撮影さつえい

えき』の経文きょうもんにはうらないほうかんする記述きじゅつがなく、繋辞けいじうえでん簡単かんたん記述きじゅつされているのみである。繋辞けいじうえでんをもとにとうあな穎達しゅうえき正義まさよし』やみなみそうしゅしゅうえき本義ほんぎ』筮儀[24]によって復元ふくげんこころみがなされ、現在げんざいうらないはもっぱらしゅ熹にっている。

えきうらなうためにえらぶことをたてといい、筮竹ぜいちくをつかう、正式せいしきほん筮法、煩雑はんざつけたなか筮法、りゃく筮法(さんへん筮法)や、コイン(擲銭ほう)、サイコロなどを利用りようする簡略かんりゃくした方法ほうほうもちいられる。これらによってうらないを企図きとした時点じてん偶然ぐうぜん選択せんたくされ、大別たいべつするとえらばれた1爻を6かいかさねる方法ほうほうほん筮法、ちゅう筮法など)と、えらばれた八卦はっけを2かいかさねる方法ほうほうりゃく筮法など)がある。さらにかく方法ほうほうにはへん爻(きわまって陰陽いんよう反転はんてんしようとしている爻)の有無うむ位置いちえら操作そうさがあり状況じょうきょう変化へんか表現ひょうげんする。このときえらばれたもとほん変化へんかしたこれという。こうしてられたのちへん爻についてえきけい判断はんだん参照さんしょう当面とうめんする課題かだい状態じょうたいをみて解釈かいしゃくうらないだんをおこなう[25]

ほん筮法

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しゅ熹のほん筮法を筮竹ぜいちくあるいはめどぎ使用しようかぎって説明せつめいすれば以下いかのようである。

繋辞けいじうえでんには「よん営してえきし、じゅうゆうはちへんしてす」とあり、これをよっつのいとなみによって一変いっぺんができ、さんへんで1爻がられ、それを6かいかえした18へんで1られるとした。さらに4営はつてぶんにある「かちてもっりょうかたどる」をだい1営、「いちもっさんかたどる」をだい2営、「これを(かぞ)うるによんもってしもっよんかたどる」をだい3営、「かえもっうるうかたどる(「」は残余ざんよ、「」はゆびあいだ解釈かいしゃくされる)」をだい4営とした。

  • だい1へん
    • 50ほん筮竹ぜいちくなかから1ほんり、筮筒にもどす。この1ほん使用しようせず、49ほんもちいる。この1ほん太極たいきょくかたどる。
    • だい1営 - のこりの筮竹ぜいちく無心むしん左手ひだりて右手みぎてで2つにける。これはてんかたどる。
    • だい2営 - 右手みぎてなかから1ほんき、左手ひだりて小指こゆび薬指くすりゆびあいだはさむ。この1ほんひとかたどり、あわせて天地人てんちじんさんさいかたどる。
    • だい3営(1) - ひだり手分てわけてんさく)の本数ほんすう右手みぎてで4ほんずつかぞえる。これはよんかたどる。
    • だい4営(1) - そのあまり(れる場合ばあいには4ほん)を薬指くすりゆび中指なかゆびあいだはさむ。これは閏月じゅんげつかたどる。
    • だい3営(2) - みぎ手分てわけさく)の本数ほんすう左手ひだりてで4ほんずつかぞえる。
    • だい4営(2) - のこったあまり(れる場合ばあいは4ほん)を中指なかゆび人差ひとさゆびあいだはさむ。だい2営からここまでの5操作そうさのうちに閏月じゅんげつかたど残余ざんよはさ操作そうさが2あることはさいうるう(5ねんやく2かい閏月じゅんげつがあること)にかたどる。
    • 左手ひだりてゆびあいだはさみこんだ残余ざんよ筮竹ぜいちく総和そうわもとめる。かならず9ほんか5ほんになる。(なお、だいへんでは後述こうじゅつのように陰陽いんようおおきなかたよりがるためうらないに使つかうのは適当てきとうではない。かたよりをけるため、占筮せんぜいには簡略かんりゃくしたなか筮法・りゃく筮法・擲銭ほう使つかうべきである。ただし、うらないの結果けっか均等きんとうであるべきとのまりがあるわけではない。結果けっかかたよりもふくめて、それが本来ほんらいの筮法であると解釈かいしゃくすること可能かのうである。)
  • だい2へん - 49ほんからだい1へん結果けっかの9ほんか5ほんいた44ほんまたは40ほん筮竹ぜいちくよん営をおこなう。すると左手ひだりてゆびはさみこまれた筮竹ぜいちく総和そうわは8ほんか4ほんになる。
  • だい3へん - だい2へん結果けっかの8ほんか4ほんいた40ほんか、36ほんか、32ほん筮竹ぜいちくよん営をおこなう。すると左手ひだりてゆびはさみこまれた筮竹ぜいちく総和そうわは8ほんか4ほんになる。
  • - ここでだい1へんだい2へんだい3へんざんすうによりはつ爻がまり、それを記録きろくする作業さぎょうおこなわれる。これはふでいたに4種類しゅるい記号きごうむが、算木さんぎ)であらわすこともできる。残余ざんよかずは9ほんか5ほん、8ほんか4ほんであり、これをおおいかすくないかによって区別くべつすると、3へんともおおい「さん」、2へんすくなく1へんおおい「しょういち」、2へんおおく1へんすくない「いちしょう」、3へんともすくない「さんしょう」となる。これらの総和そうわをそれぞれ最初さいしょの49ほんからくとかぞえた筮竹ぜいちく総数そうすうたるが、これはよんの4と陰陽いんようかずあいじょうじることによってられるとされる。すなわちろうの9、しょうかげの8、しょうの7、ろうかげの6である。ここでみちびかれた陰陽いんよう属性ぞくせいあらわ記号きごうしげるおりたん・交)をはつ爻の位置いち記録きろくする。ここでしょうろう爻であるが、しょう不変ふへん爻であるのにたいし、ろうかげへの変化へんか可能かのうせいをもったへん爻である。またしょうかげろうかげかげ爻であるが、しょうかげ不変ふへん爻であるのにたいし、ろうかげへの変化へんか可能かのうせいをもったへん爻である。
筮竹ぜいちく
残余ざんよ多少たしょう かず意味いみ 属性ぞくせい かず 記号きごう
さんすくな 5+4+4=13
49-13=36=4*9
ろう 9
じゅう
しょういち 5+4+8または5+8+4または9+4+4=17
49-17=32=4*8
しょうかげ 8 - -
おり
いちすくな 9+4+8または9+8+4または5+8+8=21
49-21=28=4*7
しょう 7
たん
さん 9+8+8=25
49-25=24=4*6
ろうかげ 6 ×
(交)
  • だい4へんだい18へん - 上記じょうき同様どうよう操作そうさつづけ、はつ爻のうえしたからうえへのじゅんだい2爻からうえ爻までを記録きろくし、6爻1さだまる。
  • うらないだん - 以上いじょう操作そうささだまったを「ほん(ほんか)」といい、さらにほんへん爻(ろうかげろう)を相対あいたいする属性ぞくせい変化へんかさせたもとめ、これを「これ(しか)」という。ここではじめて『えきけい』によるうらないだんがなされる。うらないの結果けっかほんこれまえたうえで、ほんへん爻の爻辞にもとめられる。なお2つ以上いじょうへん爻がある場合ばあいにはほんによれ(『春秋しゅんじゅうひだりでん』)あるいは2へん爻であればほんのその2爻辞(上位じょういおもとする)により、3爻辞であればほんこれかくによれ(しゅ熹『易学えきがく啓蒙けいもう』)とされる。
    たとえば、左手ひだりてゆびはさんだざんすうだい3へんまでで9・8・4、だい6へんまでで9・4・8、だい9へんまでで5・8・8、だい12へんまでで9・8・8、だい15へんまでで9・4・4、だい18へんまでで5・8・4であったとすると、¦¦×||| と記録きろくされ、ほんは¦¦¦|||やすしこれは¦¦||||だいたけしとなる。これを「たいだいたけしこれ(ゆ)く」といい、うらないだんやすしだいたけし参考さんこうにしつつたいへん爻、ろくよんの爻辞によっておこなわれる。

ちゅう筮法

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上記じょうきほん筮法は18へん必要ひつようとし、しかもだい1へん陰陽いんようかたよりがあるため、かたよりのい筮法として、6へん筮法であるなか筮法がある。これはだい1へんだい3営においててんさくを8ほんずつかぞえその残余ざんよれる場合ばあいは0ほん)にひとさくの1ほんくわえた1〜8ほんによってつぎのようにはつ爻を決定けっていする。

  • 1ほんならばいぬい  → ろう(□)
  • 2ほんならば兌  → しょうかげ(- -)
  • 3ほんならばはなれ  → しょうかげ(- -)
  • 4ほんならばふるえ  → しょう(─)
  • 5ほんならばたつみ  → しょうかげ(- -)
  • 6ほんならば坎  → しょう(─)
  • 7ほんならばうしとら  → しょう(─)
  • 8ほんならばひつじさる  → ろうかげ(×)

同様どうようのことを6かいかえしてほんる。

りゃく筮法

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さらに簡略かんりゃくした3へんりゃく筮法もある。これはちゅう筮法のだい1へん結果けっかをそのままないはつ爻からだい3爻)とし、同様どうようだい2へんそとだい4爻からだい6爻)をもとめてほんのちだい3へんは6ほんずつかぞえてひとさくくわえた残余ざんよの1〜6ほんによってへん爻の位置いち(1→はつ爻〜6→だい6爻)を決定けっていするという方法ほうほうである。

その

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また筮竹ぜいちくもちいずにてるうらないほうもあり、3まい硬貨こうか同時どうじげて、3まいうらろう(□)、2まいうら・1まいひょうしょうかげ(- -)、2まいひょう・1まいうらしょう(─)、3まいひょうろうかげ(×)とする擲銭ほうとう公彦きみひこ儀礼ぎれい正義まさよし』にしるされている。これは、硬貨こうか表裏ひょうりほん筮法の残余ざんよ多少たしょうあらわすとするものであり、に、硬貨こうか表裏ひょうりもっちゅう筮法のいぬい兌離ふるえたつみ坎艮ひつじさるあらわすとしてよんぞうめる方法ほうほうひょう枚数まいすう多少たしょうをそのままよんぞう反映はんえいする方法ほうほう、6まい硬貨こうか表裏ひょうりをそのまま陰陽いんようとしてべてほんにする方法ほうほうもある。

せんたかしうし (初代しょだい)は、「なぜしたからげていくのか」といういにたいして、ばかりかたとの関係かんけい示唆しさしている[26]

数学すうがくとの関連かんれんせい

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えき二進法にしんほうかずあらわしていると解釈かいしゃくでき、つぎのようにかずてはめることができる。右側みぎがわ二進法にしんほう表示ひょうじであり、えきまったおなならびになることが理解りかいできる。

  •  0   000
  •  1   001
  •  2   010
  •  3   011
  •  4   100
  •  5   101
  •  6   110
  •  7   111

ほん筮法のだいへんにおいては49ほん筮竹ぜいちくてんさく(xほん)とさく(49-xほん)にけ、さくから1ほんひとさくとしてける。よってさくは48-xほんとなる。だい4営後に9ほんのこるのはてんさくさくともに4ほんずつのこ場合ばあいのみであり、これはxが4の倍数ばいすうときかぎられる。だいへんだいへんでは4ほんのこる(天地人てんちじん1−2−1または2−1−1)か8ほんのこる(どう3−4−1または4−3−1)かは半々はんはんとなりかたよりはない。(なお、50ほんから太極たいきょくとして1ほんのぞいた49ほん使つかうのではなく、最初さいしょに7×7=49ほんから太極たいきょくとして1ほんのぞいた48ほん使つかうとするならだいへんかたよりはなくなる。)

ゴットフリート・ライプニッツ先天せんてん八卦はっけ記事きじ参考さんこうのこと。

その

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参考さんこう文献ぶんけん

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現代げんだい

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近代きんだい

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古代こだいから近世きんせい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 高田たかだ眞治しんじえきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、1969による。高田たかだによれば本文ほんぶんしゅうぶんおうさくとするせつなど、古来こらいから複数ふくすう異説いせつがある。

出典しゅってん

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  1. ^ 諸橋もろはし轍次てつじ中国ちゅうごく古典こてん名言めいげん事典じてん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、P220
  2. ^ a b 野口のぐち定男さだお (1971,1.6). 中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい 史記しき. 中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい. 平凡社へいぼんしゃ 
  3. ^ 丸山まるやままつみゆきえきけい徳間書店とくましょてん
  4. ^ 浅野あさの裕一ひろいち戦国せんごくすわえ簡『しゅうえき』について」中国ちゅうごく研究けんきゅうしゅうかん = Bulletin of Chinese studies / 大阪大学おおさかだいがく中国ちゅうごく学会がっかい へん (29) 2001.12
  5. ^ 後述こうじゅつ武内たけうちひとし研究けんきゅう参照さんしょう
  6. ^ 浅野あさの2010
  7. ^ 本田ほんだわたるえき朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997ねんISBN 978-4022590107 
  8. ^ 連山れんざんかえりぞう”. 2024ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  9. ^ 浅野あさの2010
  10. ^ 「『しゅうえき』における「なか」の意味いみとその変容へんよう」『人文じんぶん科学かがくじゅうさん 
  11. ^ 高田たかだによればろくじゅうよん作者さくしゃ諸説しょせつがありよくわからないが、とうあな穎達は『しゅうえき正義まさよし』で異説いせつ比較ひかくして、最終さいしゅうてきふく羲がろくじゅうよんつくったのだとしているという。高田たかだ眞治しんじえきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、P19、1969
  12. ^ 高田たかだ眞治しんじえきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、P24-25、1969
  13. ^ 高田たかだ眞治しんじえきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、P16-22、1969
  14. ^ しゅ熹の『論語ろんごしゅう註』による原文げんぶんでは「曰:「すうねんじゅう以學えき以無大過たいか矣。」
  15. ^ 高田たかだ眞治しんじえきけいうえ)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、P24-25、1969。これはしゅ熹『論語ろんごしゅう註』のせついだものだが、高田たかだけんといへんについてはぞうでんいていることからたしてえき由来ゆらいかどうかは疑問ぎもん余地よちがあるとしており、じゅつ而編・へんのみをえき由来ゆらいている。
  16. ^ 史記しき孔子こうし - 中國ちゅうごく哲學てつがくしょ電子でんしけい
  17. ^ 浅野あさの2010
  18. ^ 本田ほんだわたる易学えきがく 成立せいりつ展開てんかい講談社こうだんしゃ、29ぺーじ 
  19. ^ 高田たかだ真治しんじ後藤ごとうはじめえきけいうえ)』岩波書店いわなみしょてん、25ぺーじ 
  20. ^ 武内たけうち善雄よしお中国ちゅうごく思想しそうおよ内山うちやま俊彦としひこただしなか舒における歴史れきし意識いしき問題もんだい京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつリポジトリによる。前漢ぜんかん初期しょきは荀子系統けいとう経学けいがく伝承でんしょうおもであり、詩経しきょうしょけいえきけいおおやけひつじでんおもんじられていた。
  21. ^ 康有為こうゆういしんがくにせけいこうおよび顧頡つよし中国ちゅうごく史学しがく入門にゅうもんけんぶん出版しゅっぱん
  22. ^ 高田たかだ1969、P24-25
  23. ^ 本田ほんだわたる易学えきがく 成立せいりつ展開てんかい講談社こうだんしゃ、235ぺーじ 
  24. ^ 原本げんぽんしゅうえき本義ほんぎ巻末かんまつ Chinese Text Project
  25. ^ えきはなしISBN 4061596160
  26. ^ せんたかしうし『すぐに役立やくだぜにりゅうえきけい』棋苑図書としょ、388ぺーじ 
  27. ^ エドレッド・トーソン『ルーンのおしえ ──ルーンの魔法まほう歴史れきし、そしてかくされたコード──』株式会社かぶしきがいしゃフォーテュナ、279ぺーじ 
  28. ^ ヘイズ中村なかむら増補ぞうほ改訂かいてい 決定けっていばん トート・タロット入門にゅうもん』ワン・パブリッシング、11ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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