ちゅうこうけい

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ちゅうこうけい』(ぎょちゅうこうきょう)は、とうげんむねによって撰述せんじゅつされた『こうけい』の注釈ちゅうしゃくしょぜん1かん

概要がいよう[編集へんしゅう]

ちゅうこうけい』は、とうげんむねによって撰述せんじゅつされた『こうけい』の注釈ちゅうしゃくしょである。ひらきもと10ねん722ねん)にあらわされたひらき元始げんしちゅうほんはつちゅうほん)と、天宝てんぽう2ねん743ねん)に改訂かいていし3ねん頒布はんぷした天宝てんぽうじゅうちゅうほんの2種類しゅるいがあり、後世こうせい、『こうけい』の注釈ちゅうしゃくとして天宝てんぽうじゅうちゅうほんひろもちいられることとなった。ひらき元始げんしちゅうほんは、中国ちゅうごくでは散佚さんいつし、日本にっぽんにおいてつたわった。

このとき同時どうじもとくだりおきによってされたが、のちにきたそう邢昺によって疏がつくられると、もとくだりおき疏は散佚さんいつした。

作成さくせい経緯けいい[編集へんしゅう]

作成さくせいにいたる背景はいけい[編集へんしゅう]

こうけい』は、焚書坑儒ふんしょこうじゅのち、「古文こぶん」・「こんぶん」とばれるしゅ系統けいとうのテキストにかれ、「古文こぶん」にはあな安国やすくにによるつて、「こんぶん」にはていげんによるちゅうけられた。南朝なんちょうでは、りょうあなでんていちゅうがともに国学こくがくてられたが、ほうけいらんあなでんほろび、そのひね、またきたひとしきたあまねではていちゅうのみがもちいられた[1]

ところが、古文こぶんこうけいあなでん)、いま文孝ふみたかけいていちゅう)ともに偽書ぎしょではないかという疑惑ぎわくかかえており、とくとうだいはいると、どちらを『こうけい』の正本しょうほんるべきかという論争ろんそうおこなわれるようになった。そこで、とうげんむねは、ひらくもと7ねん719ねん)に古文こぶんこんぶん両派りょうは儒学じゅがくしゃあつめて論争ろんそうおこなわせた。とくに、古文こぶんりゅうともいくていちゅう偽作ぎさくであるじゅう理由りゆうげて強力きょうりょく古文こぶんこうけいあなでんしたが、こんぶん司馬しばさだ古文こぶんこうけいあなでんほう偽作ぎさくとし,決着けっちゃくかず、両者りょうしゃともに行用ぎょうようすべしという結論けつろんになった。この結果けっかけ、学識がくしきすぐれたげんむねが、王朝おうちょうとしての統一とういつてき解釈かいしゃくしめすため、みずか公定こうてい注釈ちゅうしゃくしょ作成さくせいすることとなった[2][3]

なお、現代げんだいでは、あな安国やすくにでん偽作ぎさくとされる(偽作ぎさく時期じき偽作ぎさくしゃには諸説しょせつある[4])が、ていげんちゅう真偽しんぎはいまなお定論ていろんない[5]

作成さくせい方法ほうほう[編集へんしゅう]

当時とうじ宰相さいしょうであるそうこんぶん司馬しばさだ主張しゅちょう支持しじしていたことから、げんむねかれらの意見いけんしたがってこんぶん基本きほんとしながらも、あな安国やすくにていげん韋昭おうらの注釈ちゅうしゃくのうちすぐれたものを採用さいようし、これら諸説しょせつ斟酌しんしゃくしながら注釈ちゅうしゃくくわえ、さらさき論争ろんそう当事とうじしゃであるりゅうともいく司馬しばさだ諸王しょおう侍読じどくつとめる学者がくしゃらの意見いけんいたうえ修正しゅうせいくわえた。

ひらき元始げんしちゅうほん成立せいりつねんについては、もとくだりおき疏序(ひらき元始げんしちゅうほん)に「皇帝こうてい君臨くんりんじゅうさい也」とあり、げんむね即位そくいじゅうねんであること、またひらけもと9ねん721ねん)に死去しきょしたりゅうともいくがみえることから、ひらくもと9ねんであるとかんがえられる[6]

そのげんむね天宝てんぽう年間ねんかんになって宰相さいしょうはやしはじめらをあつめて再訂さいていおこない、あらためてみずか序文じょぶん作成さくせいした。

もとくだりおきによるせん[編集へんしゅう]

げんむねは、序文じょぶんちゅう簡略かんりゃくむねとし、不足ふそく部分ぶぶんは疏によっておぎなうとべている。この疏を編纂へんさんしたのがもとくだりおきである。よしみすずによれば、まずげんむね講義こうぎろくである『こうけいせいむね』がそんし、これを簡約かんやくにしてちゅうつくられ、そしてもとくだりおきせいむねけて疏を制作せいさくした[7]

そのきたそう真宗しんしゅういのちけた邢昺が『こうけい正義まさよし』を作成さくせいし、これが『じゅうさんけい注疏ちゅうそ』のひとつとして普及ふきゅうすると、もとくだりおき疏はすたれ、散佚さんいつした。

影響えいきょう[編集へんしゅう]

ちゅうこうけい』の頒布はんぷ以後いご公式こうしきでの『こうけい講義こうぎ解釈かいしゃくすべてこれにしたがうようになり、あなでんていちゅうはじめとする既存きそん注釈ちゅうしゃくおおくがすたれていくことになった。また、天宝てんぽう重訂じゅうていは、ひらきもとはじめていほん同様どうよう運命うんめいをたどった。

日本にっぽんへの伝来でんらい[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは、平安へいあん時代じだいさだかん2ねん10月16にち860ねん11月2にち)に、大学だいがく博士はかせだい春日しゅんじつゆうまましはたらきかけによって、今後こんごこうけい』の注釈ちゅうしゃくにはがくれいにおいて『こうけい』の注釈ちゅうしゃくしょとしてさだめられたあな安国やすくにていげんちゅうもちいずに『ちゅうこうけい』をもちいるみことのりされている。また、これに先立さきだって同年どうねん2がつから12がつにかけて、だい春日しゅんじつゆうつぎによって当時とうじ12さい清和せいわ天皇てんのうたいして『ちゅうこうけい』の講義こうぎおこなわれている。その背景はいけいについて、幼少ようしょう清和せいわ天皇てんのう母方ははかた祖父そふ藤原ふじわらりょうぼう政治せいじ権力けんりょくによって、異母いぼけいおもんみたかし親王しんのう世論せろんはんして擁立ようりつされたことに由来ゆらいする政治せいじ基盤きばん不安定ふあんていさを克服こくふくするために、おさな天皇てんのう君徳くんとく涵養かんようはかるとともに、天皇てんのうへの忠誠ちゅうせいかんじん教育きょういくつうじてつよ認識にんしきさせる目的もくてきによって、藤原ふじわらりょうぼうだい春日しゅんじつゆうつぎ導入どうにゅうはかったものとかんがえられている。なお、どうみことのりでは漢詩かんしなどの文学ぶんがく材料ざいりょうとしてももちいられていたあな安国やすくに注釈ちゅうしゃくかんしては、天皇てんのうおよ皇族こうぞく教育きょういく以外いがいではつづ使用しようみとめられており、この導入どうにゅうだい学寮がくりょう全体ぜんたい支持しじすらられていなかった政治せいじてきなものであったことを裏付うらづけている。

そのだい学寮がくりょうあかりけいどう世襲せしゅうした清原きよはらなどでは『ちゅうこうけい』が家学かがくのテキストとしてもちいられてきたが、中国ちゅうごく本土ほんどではすたれてしまったひらく元始げんしちゅうほんがそのままもちいられて、写本しゃほんなどの形式けいしきのこされていた[8]江戸えど時代じだい屋代やしろ弘賢ひろかた三条西さんじょうにし実隆さねたか書写しょしゃしたはじめちゅうほんもと刊行かんこうおこなった。明治めいじになって、きよし外交がいこうかんであった楊守けいがこれが中国ちゅうごく本土ほんどではほろんでしまったひらく元始げんしちゅうほんであることに気付きづき、刊行かんこうほん本国ほんごくかえり、はじむ庶昌編纂へんさんしていた『いっ叢書そうしょ』に所収しょしゅうさせたのである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ずいしょ経籍けいせきこころざし「遭秦焚書ふんしょため河間こうまじんがおしば所藏しょぞうかんはつしばさだ,凡じゅうはちしょう,而長まご博士はかせこうおうしょうきさきあお、諫議大夫たいふつばさたてまつあんあきらこうちょう禹,みなめい其學。またゆう古文こぶんこうけいあずか古文こぶん尚書しょうしょどう,…併前あいためじゅうしょうあな安國やすくに為之ためゆきでん。…またゆうていちゅう相傳そうでんあるうんていげん,其立あずかげんしょちゅうあまりしょ不同ふどううたぐこれはりだい安國やすくに及鄭いえ並立へいりつ國學こくがく,而安こくほんほろび於梁らんひね及周、ひとしただでんてい。」
  2. ^ かち 2006, p. 348-358.
  3. ^ 吉川よしかわ 1988, p. 430-433.
  4. ^ 佐野さの大介だいすけ (2000). “『古文こぶんこうけいあなでん偽作ぎさくせつについて”. 待兼山まちかねやま論叢ろんそう. 哲学てつがくへん 34. https://hdl.handle.net/11094/6616. 
  5. ^ 間嶋まじま潤一じゅんいち (1988). “『こうけいていちゅう』の真偽しんぎいて”. 香川大学かがわだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう報告ほうこく 73. 
  6. ^ かち 2006, p. 362.
  7. ^ 吉川よしかわ 1988, p. 433.
  8. ^ ひらき元始げんしちゅうほんもちいられた理由りゆうとして、天宝てんぽう重訂じゅうていほんとうがわ政治せいじてき理由りゆうなどによって国外こくがいへのしが制限せいげんもしくは禁止きんしされていた可能かのうせいがある。複数ふくすう版本はんぽん存在そんざいする場合ばあいにはそのむねしるされている寛平かんぺい年間ねんかん890年代ねんだい中国ちゅうごくとうまつ相当そうとう編纂へんさんの『日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』には『ちゅうこうけい』は1種類しゅるいひらき元始げんしちゅうほん)しか記載きさいされておらず、重訂じゅうていから150ねんちかくたっても日本にっぽんには天宝てんぽう重訂じゅうていほんつたわっていなかった可能かのうせいしめしている(榎本えのもと淳一じゅんいち遣唐使けんとうしによる漢籍かんせき将来しょうらい」(『から王朝おうちょう古代こだい日本にっぽん』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2008ねん ISBN 978-4-642-02469-3)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 吉川よしかわ忠夫ただおもとくだりおきとその「しゃくうたぐ」をめぐって』 47かん、3ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい、1988ねん、427-45ぺーじhttps://hdl.handle.net/2433/154261 
  • 久木ひさき幸男ゆきお日本にっぽん古代こだい学校がっこう研究けんきゅう』(1990ねん玉川大学たまがわだいがく出版しゅっぱんISBN 4-4720-7981-X
  • 近藤こんどう春雄はるお中国ちゅうごく学芸がくげいだい事典じてん』(1995ねん大修館書店たいしゅうかんしょてんISBN 4-469-03201-8
  • かつ隆一りゅういち中国ちゅうごく中古ちゅうこ学術がくじゅつけんぶん出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-87636-262-9