真宗しんしゅう (そう)

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真宗しんしゅう ちょうひさし
きたそう
だい3だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きたそう
在位ざいい期間きかん いたりどう3ねん3月29にち - いぬいきょう元年がんねん2がつ19にち
997ねん5月8にち - 1022ねん3月23にち
都城みやこのじょう 開封かいふう
せいいみな ちょういさおあきら
ちょうもときゅう983ねん改名かいめい
ちょうもとただし986ねん改名かいめい
ちょうひさし立太子りったいしにより改名かいめい
諡号しごう おう稽古けいこ神功じんぐうゆずるとく文明ぶんめいたけじょうあきらきよしもとこう皇帝こうてい
びょうごう 真宗しんしゅう
生年せいねん いぬいいさお5ねん12月2にち
968ねん12月23にち
没年ぼつねん いぬいきょう元年がんねん2がつ19にち
1022ねん3月23にち[1]
ちち ふとしむね
はは もととく皇太后こうたいごう
后妃こうひ あきらきよし皇后こうごうかく
あきらけんじあきら皇后こうごうりゅう
陵墓りょうぼ えいじょうりょう
年号ねんごう 咸平 : 998ねん - 1003ねん
けいとく : 1004ねん - 1007ねん
大中おおなかさち : 1008ねん - 1016ねん
てん : 1017ねん - 1021ねん
いぬいきょう : 1022ねん
ちょうただし

真宗しんしゅう(しんそう)は、きたそうだい3だい皇帝こうてい在位ざいい997ねん5月8にち - 1022ねん3月23にち)。ちょうひさし(ちょうこう)[2]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ふとしむね方針ほうしんぎ、文治ぶんじ主義しゅぎ推進すいしんしたが、その結果けっかとして軍事ぐんじりょく弱体じゃくたいまねいた。咸平2ねん999ねん)に西にしなつむすんだちぎりひじりはじめによるみなみせいける[2]当初とうしょ小規模しょうきぼ軍事ぐんじ行動こうどうであったが、けいとく元年がんねん1004ねん)にせいしゅう摂政せっしょううけたまわてんふとしきさきおやせいおこない、20まんごうする大軍たいぐん南下なんかさせた[2]。このおやせい宋朝そうちょう動揺どうようおう欽若多数たすう官僚かんりょう江南えな遷都せんとする主張しゅちょうをするが、寇準断固だんこ抗戦こうせん主張しゅちょう、その意見いけんれた真宗しんしゅうちぎりたいするおやせい決意けついした[2]

そうちぎり両親りょうしんせいぐん澶州現在げんざい河北かほくしょう濮陽)で膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。そう西にしなつとの軍事ぐんじてき緊張きんちょうもあることからちぎりにのみ大軍たいぐんもちいることの不利ふり理解りかいし、真宗しんしゅうは寇準の反対はんたいってちぎり使者ししゃ派遣はけん和議わぎ成立せいりつした(澶淵のめい[3]和議わぎにより以降いこうそうちぎりたい毎年まいとしぎん10まんりょうきぬ20まんひきおくり、そうあにちぎりおとうとれいをもってうこととなった[3]としぬさ金額きんがくたずねられた使者ししゃゆび3ほんしたのをて、真宗しんしゅうは300まんかとおもっておどろいたが、30まんかされて安心あんしんしたというはなしのこっている。

この和議わぎ西にしなつとの関係かんけいにも影響えいきょうあたえる。それまでちぎり同盟どうめいむすそう対抗たいこうしていた西にしなつであるが、澶淵のめい成立せいりつしたのち独力どくりょくそう対抗たいこうすることの限界げんかい理解りかいし、そうとの和議わぎむすばれている。

その真宗しんしゅうは寇準をおう欽若の讒言ざんげん罷免ひめんした。また大中おおなかさち元年がんねん1008ねん)には泰山たいざんふうぜんおこない、さらに宮殿きゅうでん造営ぞうえいおこなうなどの国威こくい発揚はつよう目的もくてきとするかく事業じぎょうおこなうが、国費こくひ消耗しょうもうさせたことが後世こうせい非難ひなん対象たいしょうとなっている。

内政ないせいめんでは大中おおなかさち5ねん1012ねん)、福建ふっけん栽培さいばいされていたうらないじょういね江南こうなん各地かくちひろめたことが特筆とくひつされる。風水害ふうすいがいつよ短期間たんきかん栽培さいばい可能かのううらないじょういね普及ふきゅうは、江南こうなん以南いなん地域ちいきにおける二毛作にもうさく二期作にきさく可能かのうとし、農業のうぎょう生産せいさん飛躍ひやくてき増加ぞうかさせた。後世こうせいみずうみじゅくすれば天下てんかる」「つねじゅくすれば天下てんかる」としょうされる、江南こうなんたか農業のうぎょう生産せいさん基礎きそきずいためんでは一定いってい評価ひょうかがなされている。

いぬいきょう元年がんねん1022ねん)に崩御ほうぎょした。

道教どうきょうとの関係かんけい[編集へんしゅう]

大中おおなかさち元年がんねん(1008ねん)、おう欽若道士どうし画策かくさくしたてんしょ事件じけんにより、そのみずによって大中おおなかさち改元かいげんし、ふうぜん執行しっこうした。

また真宗しんしゅうは、ふとしむねだいから重用じゅうようされていたちょうまもるしんという道士どうし尊崇そんすうし、翊聖保徳やすのりしんくん称号しょうごうあたえ、大中おおなかさち7ねん1014ねん)には、そのぞうてた。

その真宗しんしゅう道教どうきょう尊崇そんすうし、道士どうしたいする免税めんぜいみちかんなどの建築けんちくおこない、みちぞう道教どうきょう経典きょうてん)の整理せいりおこなわせ、てん3ねん1019ねん)に完成かんせいすると、これを『だいそう天宮てんぐう宝蔵ほうぞう』とづけた。

在位ざいいちゅう宰相さいしょう[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 涑水』:このちょうたちはゆたかなり皇后こうごう2人ふたり叔母おばふうごう詳細しょうさい不明ふめいであるが、ひく身分みぶんだったという。じんむねとき1人ひとりゆたかなり皇后こうごう叔母おばとして典正のりまさみことふうされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 古松こまつ崇志たかし『シリーズ中国ちゅうごく歴史れきし3 草原そうげん制覇せいは -だいモンゴルまで-』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2020ねん3がつISBN 978-4-00-431806-4