(Translated by https://www.hiragana.jp/)
温成皇后 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ゆたかなり皇后こうごう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ゆたかなり皇后こうごう(おんせいこうごう、てんきよし2ねん1024ねん) - すめらぎゆう6ねん1がつ8にち1054ねん2がつ18にち))は、きたそうだい4だい皇帝こうていじんむねちょう追贈ついぞう皇后こうごう)。せいちょう

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

河南かなん永安えいあんけんひと進士しんしちょう堯封とつまの曹氏のあいだのむすめ伯父おじちょう堯佐のむすめえいむね嬪のちょうおさむよう

容貌ようぼううつくしく、魅力みりょくてき性格せいかくっていた。8さいちち死去しきょし、伯父おじちょう堯佐には扶養ふよう拒否きょひされた。ははの曹氏はちょうり、あしなえ再婚さいこんした。ちょうひとし国大こくだいちょう公主こうしゅもと歌舞かぶおんなとなった。その宮中きゅうちゅうはいってじんむね見初みそめられ、もっとも寵愛ちょうあいけ、清河きよかわこおりくんふうぜられた。さらに才人さいじんいでおさむひめのぼった。女子じょしを3にんんだが、みな夭折ようせつした。

けいれき8ねん1048ねん)、宮中きゅうちゅうまもるそつらんこしたとき、皇后こうごうはたらきで鎮圧ちんあつされた。しかしじんむねは曹皇后こうごうたいしてうたがいをいだき、そのこうちょうかえして、ちょうすすんだ[1]。それから、ちょうはさらに寵愛ちょうあい独占どくせんするようになった。皇后こうごうおなあつかいをうけ、一族いちぞく官爵かんしゃくさづけられた。

すめらぎゆう6ねん(1054ねん正月しょうがつちょう死去しきょした。じんむねふかかなしんだ。ちょうたか皇后こうごう追贈ついぞうされて「ゆたかなり」とおくりなされ、えんりょう建立こんりゅうされ、宗廟そうびょうまつられた。ちょうの3せい先祖せんぞゆたかなり皇后こうごうりょうそうされた。

女子じょし

[編集へんしゅう]

逸話いつわ

[編集へんしゅう]
  • きたそう時代じだい翰林かんりん学士がくしたちは皇帝こうてい皇后こうごう嬪に「新春しんしゅん」(年賀ねんが)をけんじた。すめらぎゆう6ねん(1054ねん新春しんしゅんゆたかなり皇后こうごうくずれじたため、学士がくしたちの年賀ねんががなかったが、ひとしむねはそのことではらちをかんじた。おうおさむはすぐさまつくり、「むかし聞海じょうゆう仙山せんのやまけむりくさり楼台ろうだい日月じつげつあいだはなだまようちょう不老ふろうただおう春色しゅんしょくしょう人間にんげん」とうたって、ひとしむねよろこばせた。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 徽宗時代じだいまで、ちょうきたそう唯一ゆいいつとうとであった。たちは本人ほんにん死後しご追贈ついぞう、あるいは次代じだい皇帝こうていによるみことふうであった。

伝記でんき資料しりょう

[編集へんしゅう]
  • すめらぎそうじゅうあさ綱要こうよう
  • そうふみ
  • そうかいよう輯稿』