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郭皇后 (宋仁宗) - Wikipedia コンテンツにスキップ

かく皇后こうごう (そうひとしむね)

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かく皇后こうごう
きたそう皇后こうごう
在位ざいい てんきよし2ねん11月21にち[1] - 明道みょうどう2ねん12月23にち
1024ねん12月24にち - 1034ねん1がつ16にち

出生しゅっしょう 大中おおなかさち5ねん1012ねん
死去しきょ けいゆう2ねん11月8にち
1035ねん12月10にち
配偶はいぐうしゃ じんむね
父親ちちおや かくまこときょう
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かく皇后こうごう(かくこうごう)は、きたそうだい4だい皇帝こうていじんむね最初さいしょ皇后こうごう

経歴けいれき

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おうしゅう金城きんじょうけん出身しゅっしん曾祖父そうそふかくたかし祖父そふかくまもる璘。ちちかくまこときょうてんきよし2ねん(1024ねん)に立后りっこうされたが、ひとしむねはもっぱらちょう寵愛ちょうあいしており、かく皇后こうごう目通めどおりするのはまれであった。じんむねちょう皇后こうごうてたいとのぞんだが、ははりゅう皇太后こうたいごう反対はんたいしたため沙汰さたやみとなった。ちょう美人びじんくらいにとどまったまま死去しきょした。明道みょうどう2ねん1033ねん)3がつ皇太后こうたいごうりゅうくずれじたのちひとしむねはじめて自身じしん実母じつぼ宸妃であったことをり、ふかいたんだ。

そのなお美人びじん楊美じんがともに寵愛ちょうあいけるにいたって、かく皇后こうごうはたびたび嫉妬しっと忿怒ふんどしたという。なお美人びじんじんむね御前ごぜんにおいて、皇后こうごう言葉ことばさえぎってはなすという無礼ぶれいおかした。おこったかく皇后こうごうなお美人びじんほおたたこうとしたところ、めにはいったひとしむねかおあやまってたたいてしまい、また皇后こうごうつめじんむねほおきずつけた。激怒げきどしたひとしむねは、閻文おうりょえびすがおきずせ、はいきさき相談そうだんをした。りょえびす簡は皇后こうごうによって職務しょくむ罷免ひめんされたことでうらみをいており、「いにしえにもまた(はいきさきという)れいはございます」とったため、同年どうねん12がつ1034ねん1がつ)、かく皇后こうごうはいされた[2]なかすすむあなどう、諫官范仲淹だんしょうれんら10にんが「皇后こうごうあやまちはありません、はいしてはなりません」とうったえたが、かえってばっせられた。

はいきさきとなったかくとして出家しゅっけさせられ、「きよし」「たまきょうおきみょうせん」の称号しょうごうと「せいさとる」というみちめい下賜かしされたうえで、きょ長楽ながらみやうつされた。けいゆう元年がんねん(1034ねん)8がつかく身柄みがらようはなみやうつり、「きむにわ教主きょうしゅ」「おきしずもと」といった称号しょうごうたまわった。一方いっぽうなお美人びじんはいされてほら真宮しんぐうみちしゅうととして出家しゅっけ、楊美じん別宅べったくかれることとなった。翌月よくげつ曹氏皇后こうごうとして冊立さくりつされた。

翌年よくねんひとしむねは曹皇后こうごう夫婦ふうふなかわるく、かくおもうことはなはだしかった。そこで見舞みまいの使者ししゃつかわしたところ、返答へんとう大変たいへん沈痛ちんつうであったので、ひとしむねあわれにおもい、ひそかにした。は「もし、ふたたびおしをたまわるのなら、百官ひゃっかんつなかで(皇后こうごうに)冊立さくりつするであってください。」とったという。やがて、かくかるやまいわずらったので、ひとしむねは閻文おう使者ししゃて、てんつかわしたが、数日すうじつ(11月8にち西暦せいれきで12月10にち)にかく急死きゅうしした。宮中きゅうちゅうでも巷間こうかんでも、閻文おうどくったのではないかとうたがったが、真相しんそうからなかった。

じんむねかくふかいたみ、皇后こうごうくらいふくせしめたが、おくりなたまわることと宗廟そうびょうまつることはとまじた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ そうふみまき9, ひとしそうきの たかしせいねんじゅういちがつおつじょうによる。
  2. ^ そうまき10, ひとしそうおさむ 明道あけみちねんじゅうがつおつじょうによる。

関連かんれん項目こうもく

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